懺悔 後
夜はみんなで彗星を見るらしい。羨ましいなと私は思った。
だけど私は願わなかった。
夕方、午後四時五十五分、家に帰るとリビングをこそこそと素通りしようとする私を父が呼び止めた。そして、服にところどころ土がついている私を見て言う。
「何度言ったらわかるんだ‼」と。私はもう何度目になるかもわからない父の叱責を受けた。天体観察のことなんて言い出せるはずがなかった。
それから一時間と少し経った頃のこと。ようやく叱責から解放された私は自室で反省文を原稿用紙五枚にめいいっぱい書くよう命じられた。
本でいっぱいだった学習机の表面を乱雑に払い、木材の硬い椅子にどかっと座る。普段はそれから鬼のようなスピードで筆を進めるのだが、なんだか今日はペンが思うように動かず、気付けば別のことばかり考えてしまっていた。
羨ましい。そればかりが頭にめぐる。
みんなが羨ましい。夜に外出できるなんて羨ましい。親と仲良くできていて羨ましい。優しそうな両親で羨ましい。欲しいものがもらえて羨ましい。どこかに連れて行ってもらえて羨ましい。褒めてもらえていて羨ましい。いろんなことを体験できているようで羨ましい。好きなことばかりできて羨ましい。我が儘が言えているようで羨ましい。願い事が言えているようで羨ましい。みんなの全部が羨ましい。
「今日、彗星なんか見えなければいいのに」
そう一人呟いた願い事は誰に反応されるわけでもなく本色の部屋に消えた。
午後七時、夕飯のためリビングに呼び出された。なかなか進まなかった反省文は一文字も書けずに白紙のままで止まっている。
ご飯はいつも静かだ。父も母も私も無言で食べる。しゃべらないなら別々に食べればいいのにといつも思うけれど、あくまで三人一緒に食事するのが我が家のルールらしい。心底、どうでもいいと思った。
「ごちそうさまでした」
私はいつも食べ終わるのが一番早い。私はこの食卓に座らなければならない時間がとても嫌いだった。だから私は速く食べる技術を磨いた。マナーが悪くなく、かつ、一秒でも早くこの空間から脱出できる技術を。
「待ちなさい」
食器をキッチンで洗い終え、まさにリビングを出ようと歩を進めた瞬間、箸をおいた父からのストップがかかった。私は悪い予感がしながらも歩を止め、父の方を向いた。
すると黙っている私に対していつも通り一方的に話をぶつける。
「反省文はどうした、いつもは夕食後には書き上げてくるはずだが…」
「…ごめんなさい、お父さん。今日はあんまり筆が進まなくて全然」
ダンッと机が強く叩かれた。食器が一度浮き、慣性に従ってまた落ちる。一つの茶碗にひびが入った。
「私は理由なんて聞いていない。反省文を速く出せと言っているんだ」
父の声は荒げていない。ひどく淡々としかし、重みがある言葉でこちらの心を威圧している。私はそんな父の声が嫌いだった。
「…ごめんなさい」
「‥‥‥まあいい。八時までには出すようにしろ。今日は仕事がないからリビングにいる」
「…」
「返事は?」
「‥‥‥わかり、ました」
私は求められると呼吸するように返事をした。人形のようだと心の中で自嘲する。自分の意見さえろくに言えず、我が儘一つろくに通せず、ただ言われた通りしかれたレールを通るだけ。そんな自分が嫌だった。
私はゆっくりとリビングに出ると一直線に自分の部屋へと向かった。八つ当たりするように足音をどんどんと響かせ、鍵の無いドアをばたんと思い切って閉めた。誰も見ていない空間が発生すると私はすぐにベッドへと顔から突っ込み、理不尽に対する苛立ちを隠すように枕にかをうずめた。
なんで私だけ…と思う。体が弱かったのも昔の頃の話だ。別に体に異常はないし、あんなに叱責されるほど心配をかけるようなこともしていないはずだ。
一度だけ、一度だけだが父に願ったことがあった。もう体もだいぶ強くなったし、危険なことは絶対にしないので、私がみんなと同じようになって遊ぶことを許してください、叱らないでくださいと願ったことがあった。
そしたら父はこう言った。「私を納得できる文書が書けたらいい」とそうしたら許すといった。私は原稿用紙20枚にわたって文書を書いた。その嘆願書は何度何度も読みなおし、書き直し、二週間ほどかけて作った自信作だった。
そして私の願いが詰まった文書を父は私から受け取ると父は、一度も読みもせずに引き裂いた。
バラバラにされていく原稿用紙とともに私の心が引き裂かれていく気がした。
願い事から連想してか嫌なことを思い出した。私は枕に向かって鬱憤を叫ぶ。その声はくぐもって誰にも聞こえなかった。
午後七時五十分。私はリビングの前で深呼吸していた。スーハ―スーハ―とゆっくりと深く息を吸う。
私はあの後、反省文を慣れた手つきで仕上げ、外出願を作成した。これが私の最大限のわがままだった。結果は分かってる。分かってるつもりだ。でも、やっぱり何もしないで諦めたくはなかった。
覚悟を決めた私はリビングに入り父のもとへと向かった。
「お父さん」
「…ん。たしかに」
父は私から原稿用紙を受け取ると一通り目を通す。流し見してものの数十秒もせずに読まれた文章は私の本心のひとかけらも載ってはいないただの薄っぺらい偽られた言葉の羅列だった。
そんなものを見て父は少し満足そうにするとぐしゃっと原稿用紙を握りつぶし、少し先にあるごみ箱にぽいと捨てた。ゴミ箱の中にはいくつもの似たような紙が重なっていた。
その最早日常の一部となったその光景を見て思う。それは私が書いた反省文をすぐさま捨てることへの怒りでもなく、乱雑に扱うその姿に苛立ちを覚えたわけでもなかった。ただ単純に紙がもったいないな…と思った。
「お、お父さん」
「なんだ?まだ何か用があるのか?」
「実は今日…お父さんにお願いがあるの」
私は作成した外出届を渡した。
「お願い?」
受け取った父は私が丹精込めて作ったその届を反省文と変わらぬ速度で目を通す。
「今日の夜、彗星が見えるらしいの。だからいこいの森で天体観測をしようって話になって、送り迎えはほかの保護者さんに頼むから、お父さんは何も、」
何も心配しなくていいから。そう続けようと思っていた言葉は、ビリビリッと願いを載せた届が無情にも引き裂かれた音で失った。
そうやってひらひらと空気に舞う届だったものを見て、不覚にも私は傷ついていた。散々、私の願いは叶わないと自分で言ってきただろうにこうやって現実を思い知らされるとやっぱり思っていたより衝撃は大きかった。
「こんな無駄なこと…お前には必要ない」
無駄なこと。無駄なことって何?大して読まれない上っ面だけの反省文を書くのは無駄じゃないのか、そう思考が錯乱する。
「彗星をみんなで見るのは…無駄?」
「ああ。そんなことせずに勉強をした方がよっぽど有意義だ」
私にはそうは思えなかった。いろんな経験をして、色んな人と出会って、色んなことを学んで、失敗して、成功して、泣いて、笑って、怒って、はしゃいで、感動して、そんな読書や勉強だけでは得られないことがあるのだと思った。
「私だって‥‥私だって、みんなと同じことをしたい。みんなと同じことをしてそれで…」
バンッとテーブルが叩かれ、父は私を威嚇する。
「我が儘を言うな‼お前は体が弱い、何があってからでは遅いんだぞ」
だけど私も負けじと怒鳴る。生まれてきて初めて父に反発した。
「もう体は弱くない!こんなとこに引きこもってた方が体は悪くなるわ!」
「だから、あの忌々しい小娘と外に出かけるのを許してやってるだろう!」
そう主張すると父は大きく舌打ちし、こう吐き捨てる。
「やはりお前はあの娘とあってからおかしくなった、それまで、お前はこの生活に文句の一つもなかっただろ⁉」
「霞さんは悪くないわ!それまでの私が、お前が!異常だったのよ。霞さんは私を正常にしてくれた、寂しいって感情を教えてくれた‼」
「お前とはなんだ、父親に向かって‼言葉遣いが悪くなったのもあの小娘が原因か⁉」
「だから、霞さんは関係ないって言ってるでしょ‼」
「ふ、二人とも落ち着いて…」
初の親子喧嘩に戸惑ったお母さんが私たちを宥めて間を保とうとするが憤怒を身にまとっている状態の父はどう考えても正常じゃなかった。
父は近づいてきた母をに「うるさい!」と手を振りかざす、その手は母の頬にぱちんと当たって、母は倒れこんだ。
「大丈夫⁉お母さん‼」
倒れこんだ母を見て私はすぐさま駆け付けた。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう鏡華」
そして諸悪の権現である父をキッと親の仇でも見るかのように睨みつける。
「暴力だなんて…最低よ。見損なったわ」
根はやさしくいつも私たちのことを一番に考えていて頑固だけど愛情のある父、そう思っていたのに。今、目の前にいるのは逆らう人間を暴力で黙らせて従わせるただの暴君だった。
「うるさい!うるさい!誰がお前らを養っていると思っているんだ⁉ここでは私がルールだ。私に逆らう奴はこの家にはいらない‼」
ここまで父親が典型的なくそ野郎だとは思っていなかった私は、お母さんを庇いながら、冷たく、反抗する意思のある眼差しを父へと向けた。
「…っ。なんだその目はぁ!なんだその目はぁ!なんだその目はぁ!」
近くにあった本で父は私を殴った。私が頭を腕で防いでいるのをいいことに何度も、何度も、何度も、殴る。
私は痛みで気が動転しそうだった。それでも倒れてやる者かと我慢していると痛みを受けた分、憎しみが比例するように増大したのがわかる。父が私の腕を殴り疲れてやめたころには私の憎しみは頂点へと達していた。
「…ばいいのに」
「―ぁ?」
「お前なんか、死んでしまえばいいのに」
確かに、私はそう願った。神様にも聞こえるようはっきりと口に出してそう願った。
「ーっ!貴様ぁっ!⁉」
「やめてください!!」
聞いたこともない母の怒声にピタと父も私も止まる。
「―鏡華。」
「っはい」
その強い怒気に心が怯えるように震え、さっきまでの憎しみは溜飲が下がるようにどこかへと消え去った。
「今、あなたとお父さんは冷静ではありません。あとで迎えに行かせます。今は、出ていきなさい」
「…‥‥はい」
私は早足でその場を去った。そして逃げ出すように靴を履き八時と少し回った夜空の下を駆けた。
このべちゃべちゃした不快感を、どろどろになった感情を、ぐちゃぐちゃになった心を、置いていけるようにと私は駆けた。
さっきまで我慢していた涙を流しながら、震える声で嗚咽を叫びながら私はよくわからないこの感情たちを声にしたくて叫びながら駆けた。
もう誰もいない夜空の下で叫ぶ私はこれ以上ないほどに自由に思えた。
その親子喧嘩は私にとって最初で最後の喧嘩となった。
そして父は私を庇って轢かれて死んだ。
業界では一人の人気作家が死んだことに多くのファンが嘆いたという。テレビや雑誌の取材が親族である私たちのもとへと来ていたらしいが母がすべて断ったらしい。もちろんしつこいマスコミもいるにはいたが父の友人にそれの対処を専門としている方がいるらしく、最終的にはその方に対処してもらったみたいだ。
父の葬式はあっさりと終わり、私は別段、父が死ぬ前までと変わらない日々を過ごしていた。
当初は罪悪感に駆られたり、自分を責めたりもしたが、それも解き流れが解決してくれること。その負の感情たちは決して消えてくれたりはしないが、徐々に徐々に負の心は薄れていって、最近では、もうすっかり立ち直り始めてきた。
母は私の心が折れないか心配だったらしいが、立ち直ってきた私を見てすっかり安心したと言っていた。父がいるときはこうして母とゆっくり話す機会も少なかったが父がいなくなってからというもの、だんだん話す機会が増えて、今ではすっかり仲のいい親子だという感じだった。
でも、それが父の死によって与えられたものだと思ったら、やっぱり気分はよくなく薄れていた罪悪感がちくりと痛んだ。
そんな変わらない日常を過ごしていた私に罪を思い出させる出来事があった。
それは小学五年生の秋だった。
それは霞さんが最近元気がないことに私が気付いたことから始まる。
「霞さん、最近何かあった?」
もうすっかりと父の死から立ち直った私は久しぶりに霞さんを自らの部屋に招いていた。
「うん…ちょっと学校でね」
「学校で何かあったの?」
私と霞さんの通う学校は違う。私は私立の小学校、霞さんは近所の市立の小学校だった。だから私たちはお互いの学校の事情をよく知らなかった。
「…竜輝がね、最近、人が変わったみたいなの」
「浜津さんが…どんなふうに?」
「ぱっと見たら何にも変わってなくて前と同じ竜輝なんだけど。時々、少し怖いときがあって…」
「怖いってどんな風に?」
「…なんだか遠い目をしたと思ったら、急に何かブツブツ言い始めたりして」
確かにそれは怖いけど、私はそれの知識が全くないわけでもなかった。むしろそういうことは父が死んですぐの頃、私によくあったことだったから。
「霞さん。それ、私なら解決できるかもしれない」
「…ほ、ほんと?」
「うん」
私は、自分もそんな症状になったこと。でも母の献身的な介護があったおかげで、今ではこの通りなんともなくなったということ。を霞さんに話した。
「なるほど…でも、それならやっぱり解決するのは難しいと思う」
「どうして?」
「それは…鏡華ちゃんには言えない」
意味が分からなかった。それから霞さんに言えない理由を何度尋ねても答えてくれることはなかった。
それから季節が一つ回り、小学校六年生の冬。それまでというもの一度たりとも霞さんの顔が晴れていることはなかった。どうやら私の忠告通り、浜津さんのケアには献身的に行っているらしいが、どうやら状態は良くならないらしい。
私は春になったらここを離れて少し遠くの私立学校へと移ってしまう予定だった。だからここを離れる前に、少し気がかりだった浜津さんの状態を霞さんには内緒で見に行くことを決心した。
その日の学校は新入生たちを先発する受験日だったので、私が通っている私立の学校は休みだった。
私は母に友人と遊びに行ってくると断ってから霞さんたちが通う中学校へと向かった。
その道中で私は見つけてしまった。背負っているランドセルも体も水びだしで、傷だらけで歩く、見覚えのある少年を。
これは
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