別れ

まだやむ様子の無い雨音を僕らは静かに聞いていた。

 夢宮が「けじめをつける」と宣言してから数分、父には退席してもらい屋根の下で僕は彼女が何かを言い出すのを待っていた。

 でもいつまで待っても彼女が何かを言い出す様子はない。屋根から滴る雨粒の数を数えているころには僕の思考はさっき起こった出来事へと移っていた。


 先ほどの場面、心が澄んでいて綺麗な人間ならきっと慈愛に満ちた表情で「お疲れ様」と父をねぎらえるのだろう。そこまで澄んでいなくても普通の人なら口に出したい罵詈雑言ぐっと噛みしめることができるのだろう。

 それが僕にはできなかった。言いたいことを、全部言い切って、傷つけて、掛けるべき言葉も、掛けたい言葉も、掛けようと考えていた言葉も、全部頭からかなぐり捨てて、汚い言葉をぶつけてしまった。

 それが今、途轍もなく恥ずかしく惨めだった。自分も結局あいつらと同じで、自分のことしか考えていないただの化け物だった。そう思い知らされた。


 罪だの、罰だの、言っていたけど。結局はただの自己愛者。自分がかわいいだけのガキだった。ただ少しみんよりちょっと不幸なだけの。僕も立場が違ったならば彼らと同じことをしただろう。

 見て見ぬふりを。無関心を。同情の目を。蔑む言葉を。突き放す言葉を。

 きっと彼らと同じ間違いを、それを間違いだとも気づかずに、同じことをしただろう。それはきっとシナリオのように決まっていることなのだろう。

 その事実がただただ僕は嫌だった。

 

「少しは落ち着いたかしら」


 僕の思考がちょうどひと段落着いたとき、夢宮のその凛とした声が聞こえて意識がはっきりしてきた。

 どうやら僕が落ち着いて話せる状態になるのを待っていてくれたらしい。

 その気遣いは申し訳なく思えたけど、やっぱりありがたかった。


「ああ、色々と悪いな。迷惑をかけた」


 それは多くの気遣いや僕を外道の一歩手前で止めてくれたことへの感謝の気持ちを込めた謝罪だった。


「…夕暮さんが言っていたわ」


 突然出てきた夕暮の話題。何の脈絡があるのか純粋に気になった。


「謝罪されるより『ありがとう』と素直にお礼を言われたほうが何倍もうれしいって」


 とても夕暮らしい言葉に、錆びれた心に少しゆとりが生じた。僕は少し笑いながら言った。


「たしかに言いそうだな」


 じっと夢宮は俺を見つめる。どうやらお礼の言葉を待っているようだ。そんなに迫られたら逆に照れ臭くなってしばらく言葉は出なかった。

 雫が三回ほど滴ってからやっと僕は声を出す。


「その…止めてくれて、ビンタしてくれて、ありがとうな。すごく…その助かった」


 僕の誠心誠意、気持ちのこもったお礼の言葉を聞くと夢宮は「ぷっ」と吹き出し、口を手に当てながら腹を抱えて下を向いた。どうやら爆笑しているようだ。かすかに笑い声が指の間から漏れている。ちゃんとした防音設備が成ってない。手抜き工事だろうか。

 

「そんなに僕の誠心誠意のお礼の言葉は面白いか?」


「だ、だって、あなたビンタしてくれてありがとうって…フフッ。あー、おなかが痛いわ」


…僕は気付かない間に上流階級の扉に片足を突っ込んでいたらしい。もちろん、僕は当面そっち方面の新たな扉は開くつもりがないから安心してほしい。


 一通り笑った夢宮は笑いすぎて出てきた涙をこすりながら「あー。久しぶりにこんなに笑ったわ」と気になることを言いながら話を戻す。


「いいのよ別に。お礼なんて」


「じゃあなんで言わせたんだ。とは言わないで置いてやる」


「もう言ってるじゃない」


 ハハハと笑う。夢宮はフフッと笑った。冗談も挟めるようになってきたし、だんだん調子が戻ってきた。やっぱり小難しいことばかり考えていたら気分が暗くなってしまう。楽しいことだけ考えていよう。そんな気分になってしまう。でも現実はそうはいかなかった。

 

「本当にいいのよ。お礼なんて…私は自分でまいた種を自分で刈り取っただけだから」


「―それはどういう」


 また彼女は思わせぶりなことを言った。それがどういう意味か、僕はついに理解もできずに終わることになる。


「卯月君」


 鬼気迫った表情で、彼女は言った。


「私たち、別れましょ」



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