ほとばしる憎悪

「ひとみ?ひとみ、だよな…」


 野太くけれどどこか弱弱しく泣きそうな声で父が僕の名前を呼ぶ。僕はその姿を声を認めるが、反応はしなかった。


「卯月君?あの人、呼んでるわよ…」


 そんな僕を怪訝に思ったのか、夢宮がそう伝える。

 一瞬、どうして夢宮が何の反応もしないのかと疑問に思ったが、法廷にも来ていて週刊誌にも載った僕の顔も知らない時点で、夢宮は父を轢き殺した犯人一家にはあまり興味がないと気付くべきだった。

 恨むどころか、自分の父を轢き殺した罪人の顔すら知らない。その事実は、どうしてか少し哀れに思えた。


「ひとみ。もしかして父さんの顔、忘れちゃったのか?」


 悲しそうな顔。今にも泣きそうな顔。そんな顔を見て怒りの沸点を通り越し憎悪ともいえる感情になる。

 ギリと歯と歯を嚙み合わせる。よく抜け抜けとそんな顔ができたものだ!とぶん殴って怒声を浴びさせたくなった。

 忘れるわけもない。何度、なぜ酒など飲んで運転したと問うたことだろう。何度、刑務所に殴りこみたい衝動を抑えたことだろう。何度、お前のせいだと恨んだことだろう。…何度、××したことだろう。


「知らない」


「…嘘だ。覚えているはずだ、お前の父親の卯月和美だ」


「…」


 知らないと言い切る僕を見て父は必死に弁明しようとする。


「わかった。怒っているのか?悪かった、お前を独りにして…でもこれからは二人で」


 そこまで聞いて我慢していたヘイトが最高潮に達した。言葉が暴発する。そばに夢宮がいることなんて気にしなかった。罪を背負った自分が、犯罪者の子供である自分が、周囲にばれるリスクなんて頭から消え去る。ただ目の前に突っ立ている男が憎くて憎くて仕方がなかった。


「あんたみたいな奴、知らない!」


 叫んで言い放つ。それは、今更のうのうと出てきてがやっと作り上げてきた生活を踏みにじろうとしていることへの警告であり、たちを散々苦しめてきたことの復讐でもあった。


「あんたのせいで…あんたのせいで母さんは死んだ!」


 わざと「お父さん」とは呼ばなかった。自分の罪を自覚させるために。重荷を、負い目を、もっと重くさせるために。傷に塩を塗るように父の罪を叫んだ。


「母さんだけじゃない。僕もここまで治るのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!殴られたのなんて数えきれないぞ。『死ね』なんて言葉聞き慣れるぐらい聞いた。僕は何もしてないのに。犯罪者の子供だからって。なあ、笑えるだろ。笑えよ、なあ」


 醜い自分をさらけ出す。汚い言葉を羅列する。これで父が罪を自覚してくれるなら、もっと負い目を負えるなら安いもんだと思った。


「あんたが飲んだたった一杯で。あんたの軽率な判断で。どれだけ、母さんを傷つけたと思ってんだ。苦しめたと思ってるんだ。それが母さんの訃報を聞いたら暴れただって。―ふざけるのも大概にしろ!もっとしなければいけないことがあっただろ!そんなことをする奴は僕の…僕たちの家族にはいなかった!」


 かつてないほど声を張る。喉が煮え切るように掠れて痛い。それでも重い唇を動かした。饒舌に、脳から吐き出すように言葉を選ばず直球でぶつける。

 そして言い切る。親子の縁を切る最後の一手を落とすために。


「僕たちに!父親なんかいな」


―パァン、と景気のいい音がした。


 それは僕の頬がビンタされた音だった。横目で見ると手を振り抜いて

いる夢宮に、驚いた表情をしている父が見えた。


「夢宮、何を―」


「その一言だけは言ったらダメ…父親にそんなこと言ったらダメ」


 それは彼女だからこそ、父親を亡くした彼女だからこそ言える切実な思いで。


「とりあえず謝る、そう教えてくれたのはあなた。あと―」



 そう偉そうに夢宮に教えていたのは僕だった。その一言で暴走気味だった思考回路が冷却され、少し冷静になる。 

 僕が父親に浴びせた怒りは確かに僕の本心だった、だから夢宮は止めなかった。でも最後の一言は明らかに僕の本心からは逸脱していた。父を傷つける為だけに放った言葉のナイフだった。

 それに気づいたからこそ夢宮は最後の一言だけ止めた。

 言葉は武器だ。その鋭利な武器は誰の心にでもいともたやすく突き刺さり、切り裂く。それをただ人を傷つけることだけに使えば、僕はあの日僕を蔑み、嘲笑した化け物たちと一緒になってしまう。それはちょっと嫌だった。


 僕の頭が冷えたことによってさっきまでは無音に思えた雨音がよく聞こえるまでに静かになった。

 その束の間の沈黙を夢宮は破った。


「卯月和美さん。彼は今、冷静に話せる状況ではないようです」


「…ああ、そうみたいだな」


 僕の八つ当たりとも受け取れる汚い文字の羅列にだいぶ堪えたらしい。父の顔は僕らに声をかけてくる前よりもやつれていた。

 ざまあみろと思っている自分もいるし、罪悪感を感じている自分もいた。感情がぐちゃぐちゃに混ざっていてまだ自分が完璧に冷静じゃないことがわかる。


「夢宮…君が夢宮鏡華さんか‥‥」


「はい…そうですが、何か?」


「私が言うのもなんだが…いいのかい君は?」


 当然、父はこう言いたいのだろう。君の父を殺した犯罪者とその息子が目の前にいるぞ?殴るなり、蹴るなり、怒鳴るなり、しなくていいのか?と…


 そう父は知らない。夢宮が自分の親を轢き殺した犯人に一滴の興味もない。まるで憎しみという感情を知らない無垢な人形のようであるということを。


 この時、僕はそう勝手に思い違いをしていた。


「…大丈夫です。


 わかっていると彼女の口からそう聞こえたような気がした。いや、気のせいではない、確かにそう聞こえた。

 

 そう。彼女は全部わかっていたのだ。


「今度は私がけじめをつけます」


 雨はまだやまない。



 

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