罪人の子
「判決を言い渡します。被告、
その日から僕の人生は一変した。
「なんで学校来てるの?刑務所行かなくていいの?」
ぎゃはははっと不潔な笑い声が轟く。クスクスと追随するように女子の皮を被った笑い声。それら全部が僕には化け物のように見えた。
誰も助けてくれない。誰も援けてくれない。誰も救けてくれない。
その時、小さな僕は「なんで…?」と疑問に思った。
教師は遠くから無関心を極めるだけ。
保護者は腫物でも見るかのように冷ややかな視線を浴びせるだけ。
仲の良かった同級生は遠くから見て同情の目を向けるだけ。
助け合いなんて嘘だ。人はみな平等なんて嘘だ。生きることは美しいなんて嘘だ。皆は一人のためになんて嘘だ。一人はみんなのためになんて嘘だ。必要ない人間なんていないなんて嘘だ。
この世は全部嘘だらけだ。
「兄ちゃん」
一瞬、彼の肩がピクリと震えたが、彼は反応せずに歩みを止めない。
「兄ちゃん?」
彼は何かに怯えるように歩を早める。こちらがどれだけ声をかけても振り替える様子はない。
おかしいな、先週までは周囲の目も気にせず話してくれたのに。
さっき誰も助けてくれないとは言ったけどまだ兄ちゃんだけは助けてくれると思ってる。
だって兄ちゃんは僕の…
「兄ちゃん!」
ピタと彼は止まった。ゆっくりと彼は振り向く。
振り向いた彼の顔は何だか疲れていてクマができていた。目も充血している気がする。顔は誰が見てもわかるくらいやつれていた。
でも無知で愚かで幼い僕はそんなことなど気にしない。気にしてやれなかった。彼の異常に気付かなかった。
「その名前で呼ぶな…」
「…え?」
「その名前で呼ぶなって言ってんだよ‼」
彼の怒号は意味も分からずただただ僕を怯えさせる。
それが気に食わなかったのか、彼は荒げた声で続けた。
「俺はお前の兄でもなんでもねえ。なのにお前が『兄ちゃん兄ちゃん』って呼ぶから、周りから家族だって思われるだろうが‼」
いや、助けてくれなくたってよかった。ただ、たった一人時々でいいから話してくれるだけでよかった。でも、できれば助けて欲しかった。
淡い期待はシャボン玉みたいに爆ぜた。
それでも…一人にはしてほしくなかった。
「で、でも…」
怯え切った声は泣く前のように震える。その逞しく見えた腕に背中に伸ばす手も恐怖で怯えて震える。
「⁉…さわんじゃねえ‼」
それでも伸ばした手は彼からあっけなく払われる。もっと痛いこともあったはずなのに、今まで生きてきた中でその瞬間が一番脳が痛みを訴えた。
小学四年生の秋、僕は身の程と身の丈を知った。
そのレッテルは僕の心が壊れきるまで続いた。
僕は独りで中学校から下校していた。殴られた腕や足が軋む。中には明らかに跡が残っているところもあった。ランドセルには汚い言葉が色んな筆記で殴り書きされ、靴は濡れていて気持ち悪い。
僕とすれ違った大人がひそひそとこちらを指さし話をしている。それがこちらを見る目は決して心配するような目ではない。逆に汚物を見るような目をしていた。
少し歩くと今度は仲良くしてくれていた兄ちゃんが友達と談笑していた。兄ちゃんと目が合う。だけど兄ちゃんは前みたいにこちらに声をかけず友達に「行こうぜ」って言ってどこかへ去ってしまった。
大丈夫。もうこの数か月間同じことが続いた。もう流石に慣れた、そう自分に言い聞かせる。
家につくと玄関とかポストの中とかいろんなところに張り紙がくっついていた。「死ね」とか「出ていけ」とか「犯罪者」とか。それはもういろいろ。おかしい。犯罪者は父だけなのに、いつから僕と母さんは犯罪者になったのだろうか。そう鼻を無理やり笑わせて、張り紙を全部取ってぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。
「ただいまー」
わざといつもより明るく言って鍵を使ってドアを開けた。「おかえりー」って返事はなかった。当然だ。母は父の分も頑張って三日三晩ろくに休まず働いているのだから。
だから僕は弱音を吐いたらいけない。いじめも大事にならないようにしなければならないのだ。「寂しい」なんて「辛い」なんて「苦しい」なんて「助けて」なんて思うことすら許されない。泣くことなんてもってのほかだ。
だから僕は気を紛らすためにも家事をした。少しでも母の助力となるために、掃除、洗濯、料理、家から帰ったら全部すました。そうしていると時々、家の前でなる罵詈騒音なんて気にならなくなるから良かった。
やらなきゃいけないことが全部終わると家の中が静かで、不気味に思えてきて途端に不安になった。でもさっさと寝るわけにはいかなかった。母は今も休まず一生懸命に働いている。そう思うと体が休まるわけもなかった。
夕飯をラップで包み、母の帰りを独り椅子に座って待つ。その間は本を読んで待っていた。家にある本は最近全部読みつくしてしまったので、僕はずぶ濡れの国語の教科書のまだ習っていないところを一文字一文字ゆっくり丁寧に読んだ。最初は図書室で借りていたが僕が借りた本はいつもずぶ濡れになってしまうので申し訳なくなり借りるのをやめた。
優しい司書の先生は「借りて行っていいんだよ」と言ってくれたけど丁重にお断りした。だって前、先生が難しい顔をして濡れた本を眺めていたのが見えたから、なんて言えるわけがなかった。
でも教科書に載っている作品はどれも好きではなかった。なんだか全部綺麗なことだけが載っているような気がして。その中で唯一好きだった作品が「ごんぎつね」だった。報われないゴンに何だか現実味があって、不謹慎な理由だなと自分でも思ったけど「ごんぎつね」は暇になったら何度も読み返すほど好きな作品だった。
そう母に言うと母は「そんなことない」って言ってくれた。他にも母は僕が家事をすましたら「ありがとう」とか「すごいね」とかいっぱい誉めてくれた。中学生にになったら普通の子は反抗期を迎えるらしいんだけど。僕にはそんなものは来るはずないと思った。だって母に褒められ、撫でられ、励まされるのが、唯一の生きがいだったから。
椅子に座って待ち始めて何分経ったんだろう。僕はハッと目を開けて時計を見た。時間がだいぶ経っている。どうやらうたた寝していたようだ。ピンポーンとチャイムが鳴る。
「お母さん…?」
母が帰ってきたと寝ぼけた頭で思った。目をこすりながら軽い足取りで向かう。なぜかこの時、僕は無性に母に会いたかった。お母さん、お母さん、お母さん、と心の中で呟きながら玄関のカギを開けようとする。多分、その時僕は家の前で鳴る騒音に気づかなかったほど正常ではなかったのだろう。
早く会いたい一心で思い切ってドアを開けた。
「おかあさ」
無数のシャッター音が鳴り響いた。いくつものフラッシュが僕を照らす。見渡す限りマイクやカメラなどの機材を持った人、人、人‥‥‥
「ぇ?」
理解が追い付かなかった。なんでまた今頃マスコミが…?と恐怖とトラウマと不安が心を埋めていく。
「卯月一実くんですか、お話をお伺いしたいのですが!?」
お話ってなんだ。もう事故のことは散々ネタにしたろと沸々と苛立ちが湧いてくる。でもマスコミには絶対に反応するなとお母さんからきつく言い付けられていたのを思い出す。ぐっと堪えて何も言わずにドアを閉めようとしたが、次にマスコミの一人が叫んだ言葉でその手は止まった。
「お母様を亡くされて今、どういったご心境ですか!?」
…‥‥‥‥は?
「多大な労働を強いたA社に何か言いたいことはありますか?」
「刑務所で暴れられたという卯月容疑者に何か一言お願いします!」
「亡くなられたお母様はどういった人だったんでしょうか?」
一斉に浴びせかけられた質問はどれも頭の中に入ってこない。ただ、お母さんが死んだという事実だけが僕の中で木霊した。喪失感が一気に押し寄せてくる。心に大きな穴が空いたような気がした。
押し寄せる質問が途絶え、反対にシャッターを切る音が増えた。
なんで?と単純に疑問を持ったがすぐにそれは解決された。
自分の目頭が燃えるように熱いことに気が付いたからだ。
僕はろくに質問の応対をせず、空っぽになった空虚な瞳から、嗚咽も漏らさずただただ涙だけを流していた。
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