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「あなたは…」


 この場所で夢宮を見た瞬間、形容しがたい負の感情に襲われた。

 今すぐここを立ち去らねば。そう思うだけで足は全くいうことを聞かず動かない。


「卯月君?」


 夢宮と目を合わせられない。合わせたくない。さっきまで逃げてはいけないと叱責していた心がすぐにここを立ち去れと警報を鳴らしている。

 震える足に鞭を打ち、がむしゃらに立ち上がり背負っていたリュックが落ちていくのも構わずにここから一刻でも早くここから逃げ出そうと試みる。

 でも足に力がうまくはいらず二歩三歩とのところで盛大に倒れる。


「卯月君⁉」


 すぐに夢宮は盛大にこけた僕のもとに駆け寄ってくる。

 僕はというとこけた反動で顔面を打ち鼻血で顔を赤く濡らしていた。顔面蒼白だったうえにそこに血を流せば、速攻救急車を呼ばれてもおかしくないレベルの病人の完成である。


「顔色が悪いわ。すぐに救急車を…」


「やめろ‼」


 スマホを取り出して救急車を呼ぼうとする夢宮の手を掴んで止める。いきなりの反応に驚いたのか、夢宮は掴まえれた手を振りほどこうともせずに固まっている。


「やめてくれ…」


 僕はそんな夢宮を見ることもせず、むせび泣きそうな勢いで懇願した。

 トラウマをえぐるどころの騒ぎではない。こんな日に、これだけのけがで…僕にとっては自らの首を絞めるようなものだった。

 そんな僕の思いが届いたのか、夢宮は僕の手をそっと糸をほどくように離した。



 そうやけに優しい声音でいうと「立てる?」と膝立ちの状態のこちらに手を差し出してきた。僕は差し伸べられた手を見て先ほど無理やりつかんでいたことを思い出し罪悪感を覚え、「自分で立てる」とその厚意を無視して立ち上がる。

 立ち眩みがして気分がすぐれない、当然のごとく足取りは変になる。頭痛を抑えるように頭を抱えながら、水を得るために重い足取りで落ちているリュックのもとへと向かう。


「リュックは私が持っていくから


 足は『言霊』の言うとおりに橋のすぐそばにある木の陰へと歩き出す。僕の気分やトラウマ、意思などは関係なしに一直線に夢宮の夢宮が指さした木陰へと向かう。僕は木陰へとたどり着くと電池が切れたかのように足が動かなくなり、仕方なくバタンと大の字に寝ころんだ。


「はい」


 ほどなくして目の前に一本の天然水とラベルが貼られたペットボトルが現れた。僕はそれを無遠慮に受け取り、味など味わわずに口に流し込んだ。その時の水はやけに美味しかった。一時休憩しているとオアシスはこんな感じなのだろうと全く関係のないことが頭に浮かんだ。

 それぐらい冷静になった僕は、さっきの無礼な言動に羞恥と後悔を覚えていた。端的に換言すると…「クソだせえ。何やってんだろ…僕」と。


「どう…少しは落ち着いたかしら?」


「ああ。お前には迷惑をかけた…悪かったな」


「いいわよ別に…それよりこんな山の中に何の用?」


 ここから僕の家はとてもじゃないけれど自転車で来るには時間がかかる場所となっている。それも特にこれといった名物もない山の中、目的が何かを聞くのはそれは当然の流れだといっていいだろう。


 だが、それは正直答えたくない質問だった。その質問を返してしまえば今まで積み上げてきたものが瓦解するような気がした。いや気がしたではない。現に僕は似たような質問に馬鹿正直に答えていろんなものを失ったことがあった。

 だからここでの僕が選んだ選択は沈黙だった。

 押し黙る僕を夢宮は見計らうように見る。そして「さっき」と話し始めた。


「水を取るためにあなたのリュックを漁った」


 血液が温かみを忘れたかのように体温が一気に下がったのが感じられた。この炎天下の中、寒気すら覚えた。何かを恐れたかのように僕はゾッとした。

 「そしたら」と無慈悲な彼女は平々凡々と続ける。


「花が出てきたのよ」


 手に持ったリュックのチャックを開き、そこの中にめいいっぱい詰まった白い菊をこちらに見せびらかす。


「これ」


 この時の彼女はどこか残忍で冷酷で冷淡だった。冷たい声は僕の罪を意識させるかのように良く響く。


「私の父へのお供えでしょ」


 まるで興味がないと表すような声音で彼女は言った。冷えた音は何かを隠す霧みたいに感情が読めない。機械みたいに抑揚のない声だといったらわかりやすいだろうか。 

 その冷気を感じ取ったように体は寒気を全身に回し震え上がらせる。対照的に胸が燃えるように熱く痛い。まるで業火にあぶられたごとく。罪悪感は体を蝕み、呪いのように纏わりつく。

 これが罰だというのなら神というものはとても趣味が悪い、そう確信した。だが、相応の罰だとも思った。だって…


 だって彼女の父を殺したのは―




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