今と昔

「瞳」


 あったかい陽だまりのような声でそう呼ばれた。

 子供のころは女の子につけられがちなその名前をよくからかわれ、あまり好きではなかったけれど、小学一年生の時、その名前の由来を聞いてからはそんなことどうでもよくなって、母からそう呼ばれるのが大好きだった。

 だから、僕はあの日、あの時、あの場所で。あんなに泣きじゃくっていたのかもしれない。


 あの場所は、とにかく何もなく真っ白で、息がつまりそうな監獄みたいな場所だったから。だからあの時の僕は悲しくて泣いてしまったのかもしれない。


「ひとみ」


 今となっては昔の自分の気持ちなんて何もわからない。昔の頃の思い出なんてぐちゃぐちゃに混ざって、正確には覚えていないけれど、あの人に何か言葉をかけれらたことだけは覚えている。ただ一つ確かなのは…


「-せいいっぱい■きなさい。ひとみ」


 僕はそれを心に宿して■きている。









 朝起きたら涙を流していた。


「なんで、今更…」


 涙をぬぐいながら夢の内容を思い出す。朧げな記憶をつかもうとするが涙が止まったころにはほとんど夢の内容を忘れていた。

 ただその記憶復元作業の最中で昨日見た夕暮の背中があの人の背中に重なるようなイメージが頭の中に浮かんできた。それをきっかけに昔の頃のことを思い出した…そんなところだろう。


 ふと、布団の横においてある目覚まし時計を見る。安物のデジタル時計は今の時間を午前八時十五分と示していた。

 思考が固まる。寝ぼけ気味だった頭が氷に当てられたかのようにスッとクリアになる。


「ま、まさかな…」


 よくあることである。そこのおんぼろデジタル時計は中古ショップで偶々安く売っているのを見かけて購入したものなので時間がずれるのはいつものことなのだ。

 その可能性を信じてそばにあった高校生の神器、正確無比であるスマートフォンを取り、時間を確認する。表示されていたのは…6月26日 金曜日 8:35。

 涙は冷や汗へと変わり果て、俺は日課であるニュースの視聴や朝食を中止して全速力で駆け抜けた。





「卯月が遅刻なんて珍しいな」


 雨と汗でびしょ濡れになった体を念のためにと鞄の中に入れておいたタオルで軽く拭いていると前の席の山下からそうはやし立てられる。


「ちなみに理由は?風邪でも引いたのか?」

 

「ふつーに寝坊。朝起きたらもうHRの時間だった」


 俺は家が近いので、なんとか一時間目の授業の途中には着いたが担任には明日までに反省文を提出しろと言われた。明日からはあのおんぼろ時計でアラームをセットしないと心に誓う。


「それで昨日の作戦はどうだったんだ?」


 昨日の作戦…というのも、夕暮のあの反応からわかる通り夕暮が昨日、屋上のドアの前で盗み聞きしていたのはもちろん偶然ではない。あれは俺が山下に頼んで夕暮を誘導してもらったのだ。そして夕暮が屋上ドア前にいることを山下に合図してもらい、俺の足音が聞こえないよう夕暮のスマホに連絡して着信音を鳴らす。夕暮がそちらに気を取られているうちにドアを開け、夢宮と鉢合わせる…そんな作戦だった。

 なお、山下は吉田からの依頼の件を話したら快く手伝ってくれた。さすがさわやかイケメンといったところだろうか。

 

「分の悪い賭けだったがなんとかなった。お前の協力のおかげだ。サンキュー」


「ならよかった。これで二年三組のギスギスした空気も万事解決…ともいかないよな」


 あの子が仲良くなったからみんなも仲良く…そう簡単に行かないのが思春期だ。増してや夢宮は一度二年三組のほぼ全員をバッサリと斬った身だ。少数だろうが「お高くとまっちゃって」と嫉妬に身を焦がすものもいるだろう。


「ゆっくり改善していくしかないだろ」


 これに関しては事を急いでも仕方がない。人間関係というものはとても面倒くさいものだということは学校に何年も通っていれば嫌でも学ばなければならないことである。


「でも案外大丈夫なんじゃないか」


 山下は親指を窓側のほうに向ける。「見てみろ」そう言いたいらしい。お望み通り、俺はそちらの方を向くと夢宮と夕暮が二人で何か話している様子が映った。



「夢宮さん、さっきの授業のノート見せてくれない?」


「…夕暮さん、さっき授業中寝ていたでしょう」


「だ、だって授業の内容全然わからないからノートとってもあんまり成績変わらないし…」


 呆れたのか夢宮は小さなため息をつく。意外と心が繊細な夕暮はその反応にビクッとおびえた様子を見せる。


「夢宮さん」


「は、はいっ」


「わからなくてもノートは取った方がいいわよ。寝ているよりはマシだわ」


 ド正論を言われて言葉が出ない様子の夕暮。そのしゅんとうなだれたのを見てちょっと罪悪感が芽生えたのか、夢宮は一度バツの悪そうな顔をした。そしてもう一度ため息をついて言う。


「ノートを丸写しは駄目だけど…勉強なら見てあげてもいいわ」


 その言葉に夕暮はぱあっと目を輝かせた。もし彼女にしっぽがついているなら嬉しさを表現するためにぶんぶんと楽し気に振っていることだろう。


「じゃあ早速、明日勉強会しよう!」


「…ごめんなさい。明日はどうしても外せない用事があるの」


「えっ…」


 石像のようにショックで固まる夕暮。


「だから明後日…でもいいかしら」


「…うんっ!」


 ぱあっと嬉しさがにじみ出て満面の笑みを浮かべる夕暮。情緒不安定かと心配になるぐらいに感情が動いている。



 そんな二人の楽しそうな談笑を一通り閲覧して山下は「なっ」とこちらに同意を求めてきた。「そうだな」と肯定する。

 人間関係は複雑で面倒くさいものなのだけれど変えられないものではないと、その時は本当に…そう思っていた。

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