彗星
夢宮と別れた後、共感できるという話の『夜空にかけるあなたと彗星』をなけなしのお金で買い、水たまりが広がる道路を数分歩いたところにあるごく普通のマンションに帰宅した。帰り道では不思議とあの独特な雨の匂いはしなかったことをなんとなく覚えている。
期待に反してベランダに干していた洗濯物たちがあられもない姿になっていたことは想像に難くないだろう。
一人暮らしはこれだから困るとベランダから夕暮れ時となっていた空を見上げる。確認できた雲は空全体の二割程度にしか満たない、よって快晴。そのままこの濡れた洗濯物をベランダに放置することが決定した。カーテンを閉めその惨事から目を背ける。
最優先事項であった洗濯物の安否確認が終わった今、足は自然とリビングへと向かった。
こじんまりとしたリビングに入ってすぐ右のスペース。そこを陣取っている小さなお仏壇、その手前においてあった座布団に腰を下ろし正座して軽く一礼。リンと呼ばれるあの軽くたたいたら鈴のような音が鳴る仏具を使用した。コーンと小気味よい音が響く。最後に合掌。
習慣づいたその手早い作業。それは仏壇に飾られている写真の中で笑顔を見せる女性が天へ旅立ってから随分とたったことを暗示していた。
「ただいま。母さん」
クラスのやつも夢宮もおそらく現在交流がある者で誰一人として知らない穏やかな声で誰にも届かない挨拶をした。
それからリビングを出て冷蔵庫の中をあさり適当な食材を取り出して僕の少ないレパートリーで作れるものを頭の中で浮かべてからキッチンへと向かう。
一人分の軽い料理を作ってから一人寂しく食べ終わった後、風呂を軽く洗って沸かす。
風呂が沸くまで手持ち無沙汰になった僕はなんとなくスマホを開いた。
LINEのアプリの右上で強調された赤が目立った。数件、メッセージが届いているようだ。
届いていたのは松本・山下、あとは所属している複数のグループからだ。グループは俺に関係ない話だったから既読だけつける。松本・山下から来たメッセージの内容はどちらも吉田からの依頼についての詮索だった。流石に馬鹿正直に話すわけにもいかないので適当に誤魔化す。
吉田からは何か来ているかと思ったが…特に何も来ていない。あいつ面倒だからって全然LINE開かねえもんな。通知もoffにしてるって聞いた気がするし。
吉田の行き過ぎた面倒くさがり加減に呆れを感じつつLINEのサービスであるニュースの項目を開いた。トップ、ランキングと次々とそれっぽいものを開いていくが彗星の文字は一つも見つからない。
大まかに探したがそれを見る影もなかったのでLINEを閉じて大手検索エンジンへと移行する。
『今日 彗星 見える?』と慣れた手つきで素早く入力して検索するが出てくるのはヒントにもならないような記事ばかり、その後も入力内容を変えたり検索エンジンを変えたりとネットサーフィンに興じたがいずれも収穫は0。
15分ほどの格闘の末、お風呂が沸いたことを知らせる音楽が鳴りそれが試合終了のゴングとなった。
僕はため息を吐きたい気持ちを抑えながらスマホを閉じ、筋肉を動かす感触に浸りながら立ち上がり、風呂場へと向かった。
脱衣所についてふと気づく。替えの下着やバスタオルの生存確認を忘れていた。今生きている数だけも把握しておかなければならない。そう思いながら脱衣所に並べてあるいくつものプラスチック製の棚からタオルと下着が入っている棚で安否確認をとった。
結果、バスタオル2枚生存、下着全滅。制服の下とかに着るシャツはどうとでもなるがパンツがないのはマズイ。一人暮らしだからノーパンや全裸で部屋を駆け巡ろうが特に問題はないのだが、人としての大切な何かを失いそうで怖い。
これはビチャビチャ度がまだましなパンツをドライヤーで全力で乾かす作戦を決行するしかないのだろう。そう決心して僕は脱衣所を出てリビングから出ることができるベランダへと向かった。
カーテンの隙間から見える吸い込まれそうな黒からもう日は落ちて夜になったのだと知らされた。僕はカーテンを開け、洗濯物を拝見しビチャビチャ度が比較的少ないものを取った。
そして何気なく彼女の話を思い出し、一心に広がる夜空を見上げた。
―見つけた。
大きく広がる暗闇に尾を引いて駆ける彗星を見つけた。ほかのどの星々よりも輝きを主張していたその光は近くに浮かぶ満月よりも明るかった。青白くたなびく尾はその通り道にダイヤモンドの粒のような光を散らして流れていく。
その美しい夜空に言葉すら忘れて目に焼き付けるように天をかける彗星に見入った。瞬きをする一瞬すら惜しいとでもいうように。一心不乱にただ夜空を見上げていた。
散らばる星を数える中、彗星よりは輝きが薄く大きさも小さいがそれよりも何倍も早く走り抜ける星を認知した。
「流れ星」
誰に聞かせるわけもなくただつぶやいた。
それから連想するのは願い事。たしか流れている間に三回願い事を唱えると願いが叶う、そんな可愛らしい迷信だった。
かちりと頭の中でパズルのピースがはまる音。
急激に今日、思い浮かぶ限りの願い事が頭の中で再生される。
『そのふざけた話し方、やめてもらっていいかしら』
『本当にあなたが思っていることを言ってくれるかしら』
『見えるといいわね。彗星』
彼女の三つの願いがどれも叶っていることに気が付いた。
「夢宮の願い事はすべて叶う…?」
いや、それだけじゃない。魚の骨が喉に引っかかているような違和感にとらわれる。パズルは残り1ピース。その亡くした1ピースを頭の中で必死に探し出す。何かが欠けているそんな気がしてならない。
もっと思考を深めようとしたその時。
滴る水滴の声がした。
抱えてた頭を持ち上げ音のなる方へと視線を向ける。そこには濡れた洗濯物が涙を流すようにポタポタと水滴を落としていた。
「雨…」
『嫌い、なのかもしれないわ。少なくとも好きではないわね』
『どうしてって言われたら困るけど…しいて言うなら匂い、かしら』
彼女も雨は好きではなかった。僕と同じで雨の匂いが苦手だといった。そして今日の帰り道は梅雨にしては珍しく、雨の匂いがしなかった。
『雨、止んだみたいよ』
ほんの数秒前までは雨音を奏でていたそれが合図をしたようにピタリと止んでいた。
パズルにはまった。点と点が結ばれあう。つっかえていた違和感は嘘だったかのように取り払われた。
その完成したパズルが一つの仮説を導き出す。
『夢宮鏡華の放った言葉はすべて現実になる』
彗星は「正解」とでもいうように一際強く輝いた。
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