最終章

これはお姉ちゃん、戸部夏葉からの手紙です。あなたは読みますか?

「お互いに手紙を読む前に、一つだけ私から遠坂さんにお伝えしなければいけないことがあります」

 夏花は、ジッと僕の目を見つめたまま、そう切り出した。

 立花先生に手紙を渡しに行った翌日。こうして、この夏にこのファミリーレストランでこんな風に夏花と向かい合うのは何度目だろうか。気が付けば、もう八月も終わりかけていて、蝉の鳴き声も、いつしか物寂しいものに変わっていた。

 テーブルに置かれた二通の手紙。それは、夏葉が僕と夏花に宛てて書いた手紙だ。

 夏花は、テーブルの上に置かれた手紙に目を落とし、それから僕に、「この夏、どうして私は遠坂さんと会うことが出来たのだと思いますか?」と、一つの問いを投げてくる。

「そう言われると、なんだかこの夏に夏花さんと出会えたのには理由があるみたいに聞こえるよ」

 僕はこの夏のあの日、夏花と出会えたのは本当に偶然だったと思っている。本当に、あの出会いは偶然で、あの時僕は、どれほど驚いたことだろう。夏葉のことを考えて、もう最後にしようとあの島を訪れて、そうして夏葉にそっくりな子に出会ったのだ。驚くなと言う方が無理な話だろう。

「前に言いましたよね。私が、お姉ちゃんが残した手紙を全て届けようと思ったのは、整理をつけたかったからだと。整理をつける、という言い方が悪いのかもしれません。つまり、私も同じなのです。私もあなたと同じで、お姉ちゃんに関する何もかもを終えた後、死んでしまおうと思っていたんです」

「死んでしまおうと思っていた」その言葉よりも、僕は「あなたと同じ」という方に注意が向く。

「知ってたんだ」

「はい。あの時、あの島で、あなたの顔を見た人なら、誰でもわかると思います」

 そうだ。僕は死のうと思っていた。あの時、あの島で、あの海に身を放り投げて、朝日が綺麗だな、だとか、ああ、僕はこんな島で夏葉と過ごしたのか、だとか、そういうことを考えて、小さな泡が一つ一つ、海面に上がっては弾けて消えて、そんな風に死んでしまうつもりだった。

「そうだよ。死んでしまうつもりだった。死ぬのなら、この夏のあの日だと、ずっと考えていた。もう疲れたんだよ。喉の奥に出来た瘡蓋を、何度剥がして叫び散らしたか。もう、苦しいばかりで、ここには夏葉もいない。なら、もういいかなって、そう思った。それを、君に邪魔されたんだ」

 僕が、「君が死のうと思った理由は?」と尋ねると、「おおよそ、あなたと同じです」と、夏花はそう言う。

「私も、何度も泣きました。そうして疲れてしまったんです。どうして病気になったのは、あんなに元気で人当たりの良い姉なのだと、何度も思いました。何度も、どうして私ではないのかと、そう思いました」

 夏花の苦悩が分かるとは言わない。でも、最終的に死を選び取るという心情は分かる。

「僕と夏花さん、結構似ているような気がするよ」

 僕は、夏葉と初めて出会った時、僕と似ているなと思った。言動は僕と真逆だけれど、それでも奥底にある性分というか、そういうものはそっくりで、一緒にいて落ち着いた。

 それは夏花も同じだ。むしろ、言動が僕と似ている分、夏葉よりも僕に近しいのかもしれない。

「似ていますかね?」

「似ているよ。夏葉にも同じ話をしたことがあって、その時夏葉は「うん。私もそう思っていた」って、そう言っていた。だから、きっと似ていると思う」

 夏花は、この日初めて、「そう、ですね」と微笑む。それから徐に、「私、実はあなたのことが嫌いでした」と、そう切り出すのだった。

「お姉ちゃんがあの島に行くと言い出した時、本当は私、お姉ちゃんから聞いていたんです。どうしてあの島の、あの学校に行かなければいけないのか。その理由を聞いた時、真っ先に思いました。ああ、お姉ちゃんは私じゃあなくて、その遠坂遙生という男の子を取るんだと。最後の時間を過ごすのは、私じゃあなくて、その子を選ぶのだと」

 だから死ぬ前に、一度でいいからその遠坂遙生という男の子に会っておきたかったのだと、夏花は言う。夏葉が死んでから、一体どんな風にその男の子は生きているのかその目で確かめて、もしも平気な顔をして、楽しそうに毎日を送っているのだとしたら、殴ってやろうかと、そんな事を思っていたらしい。

「遠坂遙生さん。この夏、あの日にあの島へ行けば、あなたに会えると私は知っていました」

「そっか」

 僕がこの夏、あの日にあの島へ行ったのには理由がある。その理由を、夏花は知っていたのだ。

「何となく予想はつくけれど、その話は誰から聞いたの?」

「もちろん、お姉ちゃんからです。お姉ちゃんが最後、こう言っていました。「一つだけ、心残りがあるの。約束、果たせなさそうだなって」と」

 そう。僕がこの夏、あの島へ行った理由は、夏葉とある約束を交わしたからだ。

 その約束を交わした時、どうして夏葉はそんな約束をしたのか、どうしてあの時、あんなにも苦しそうな表情をしていたのか分からなかったけれど、夏葉が死んだと聞いた時、すべてが分かった。

「初めて誰かを好きになった」それが、夏葉と交わした最期の言葉になった。その言葉を交わしたのは、夏葉がいなくなる前日の、夜のことだ。ようは、僕は告白をしたのだ。そして、僕はその日、夏葉にこう返された。「今は、返事は出来ないの。本当にごめんなさい。でも、もしも、もしも叶ったら、三年後の夏の、八月四日。この島で会おう。もしもその時に会うことが出来たら、しっかりと返事をさせて」

 あの時見せた夏葉の顔は、今でも覚えている。夏葉が泣いているところなんて、結局あの時しか見たことがない。「もしも叶ったら」という言葉に込められた夏葉の思いを考えると、どうしようもなく辛くなる。

「八月四日。ちょうど、お姉ちゃんが初めて病院に入院した日です。遠坂遙生さんに会えるのだとしたら、その日だと思いました。仮に、もしもその日にあの島へ行って会えなかったのだとしたら、それはそれでいいと思っていました。遠坂遙生という人間は、そういう人間なのだと分かりますから。でも、そうではありませんでした。あの日、海へ進んで行くあなたを見た時、何を考えたと思いますか?」

 僕が「分からない」と答えると、夏花はこう言った。「死んでほしくない、です」と。

「可笑しな話ですよね。私も死のうとしていたのに、そんな事を思うだなんて」

「そんなことは無いよ。僕だって今、夏花さんが死のうとしていたと話を聞いた時、死んでほしくないなと、そんな事を思ったから」

 それに、夏葉に対しても、「どうして死んでしまったのだろう」と、今考えてみれば何とも身勝手なことを思っていた。自分が死ぬのは良くて、誰かが死ぬのは悪いだなんて、本当に可笑しな話だと思う。

「結局、約束は叶わなかった」

 僕は、夏葉に会うことは出来なかった。誰かが死んでしまうというのは、こういうことなのだと思った。

「今は、遠坂さんは死のうと思っていますか?」

「どうだろう。でも、夏花さんと出会う前よりも、死にたいとは思っていないのは確かだよ」

 僕が「夏花さんは?」と尋ねると、夏花は「私も同じです」と、そう答えるのだった。

「手紙を全て渡し終えて、それから死ぬつもりでした。でも、そうですね。私、お母さんとお父さんがあんな風に考えていたなんて知りませんでした。泉さんという、お姉ちゃんのことを思ってくれている友達が居ることも、立花先生という、お姉ちゃんを必死に支えてくれた先生が居たことも、知りませんでした。また会って話をしましょうと、約束もしてしまいました」

「うん」

「そして、遠坂さん。あなたがどれほどお姉ちゃんを大切に思ってくれていたのか、この夏、あなたと過ごして良く分かりました。今なら、お姉ちゃんが最期にどうしてあんなにも満足げに笑っていたのか、わかります」

 それから夏花は、「これで、ようやくお姉ちゃんが残した手紙を読むことが出来ます」と笑う。

 ああ、本当にこれで終わる。夏が終わると共に、終わる。

 僕は夏葉に、さようならと、言わなければならない。

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