4-5
両親、という存在に対してあまり良い思いを抱かないのは、僕が幼い頃、両親の下で日々を過ごしてきたわけでは無くて、祖父母の下で毎日を過ごしてきたからなのだと思う。
物心ついた頃には、すでに僕はあの島にいて、謂わば僕は、両親ではなく祖父母に育てられて来た。僕が覚えている範囲でこれまでに両親に会った回数も両手で足りてしまうほどで、今もなお、僕は両親とどう接すればいいのかも分からずにいる。現に、高校生になってから一度も両親に会っていない。
別に、両親が嫌いなのだという訳ではない。ただ分からないのだ。どう接すればいいのか分からない。会ったところで何を話せばいいのか分からない。今更両親に会ったところで、僕はきっとぎこちなく笑って見せるのが精いっぱいだと思う。
一度、小学校三年生くらいの時、どうして僕は父や母ではなく、祖父母と一緒に暮らしているのか疑問に思って、「僕のお母さんとお父さんは、どうして傍にいないの?」と、純粋な疑問を祖父母に投げかけたことがあるのだが、僕のそんな疑問を聞いた祖母は「ごめんね、本当に」と、涙を流して僕を抱きしめるばかりで、祖父もどこか悲しそうな表情で「寂しいよな」と、そう言葉を呟いていた。その時僕は、祖母を泣かせてしまった事と、祖父を悲しませてしまったことが、子供ながらに酷く申し訳ないことのように感じられて、以降僕から両親に関して何か祖父母に聞くことはしなくなった。
そんな僕が、両親に関して知っていることと言えば、仕事が忙しいというくらいのものであった。仕事が忙しくて、僕を育てることが難しいから、両親は仕方なく僕を祖父母に託したのだと、唯一祖父母からそう聞いている。でも、僕は未だに両親が何の仕事をしているのか知らない。
とはいえ、別段両親がしている仕事を知ろうとも思っていなくて、今も昔も、僕にとって重要なことは、両親がどんな仕事をしているのかではなく、両親が僕のことをどう思っているのか、なのだと思う。子供の頃は、よくふとした時に「どうしてお母さんとお父さんは僕をこんな所にやったのだろう」なんて、そんな事を考えていたし、今も夜眠る時に「母さんも父さんも、僕のことなんてどうでもいいのだろうか」と、そんなことをふと考えてしまう。
あの島の、あの海辺に座って水平線を眺めていると、なんだか僕は、両親に捨てられたのではないのかと、そんな気さえしていた。それが何だか無性に物寂しくて、虚しくて、広い砂浜に、声も上げることが出来ずに、子供の頃はよく夕暮れ時の海辺で一人小さく蹲っていた。
ともかく、そんな風に、僕にとって両親と言う存在は、ある種僕の人付き合いに対するコンプレックスの核のようなもので、だから、夏花から「私の両親が、遠坂さんに会って話したいと、そう言っています」とメッセージが送られて来た時、頭の中に満ちていた何かしらが、唐突に地表に出来た穴に吸い込まれていくような心地になった。
夏花の両親ということは、つまり夏葉の両親ということになる。その夏葉の両親が、一体僕に会って何を話したがっているというのだろう。
夏葉の両親が、一体どういう人なのか僕は何も知らない。島にいた時、夏葉とあれほど言葉を交わしたというのに、夏葉の家族について僕は何一つ知らなかった。単に僕が、両親だとか、家族だとか、そういうものに対していい思いを抱いていなかったから、僕から進んで夏葉にその類の話題を一度も振らなかったということもあったのだが、思い返せば、夏葉の家族に関して、彼女から何か話をしてくれたこともなかった。
あの島に来た時には、すでに自分の命が残りわずかだということを夏葉が知っていたのだとしたら、当然それは夏花や、その両親も知っていたのだろう。夏葉の両親は、その上で夏葉を一人あの島のあの学校に通うことを許したのだ。
親、というのが何を考えているのか、やはり僕にはよく分かりそうにはなかった。夏葉の両親は、不安では無かったのだろうか。心配ではなかったのだろうか。どうして一人島で暮らすことを許したのだろう。
考えた所で分かるはずもなかった。自分の親が考えていることすら分からないのだから、他人の親が考えていることなど僕に分かるはずもない。
結局、立花先生に夏葉が残した手紙を渡すために、僕は夏葉の両親に会うしかなかった。夏花から送られてきたメールに「分かった」と返事をし、それから立花先生に会いに行く前日に、僕は夏葉の実家で夏葉の両親と話をすることになった。
夏葉の両親に会うことに対し、何も不安がないと言ったら嘘になる。夏葉の両親は一体僕とどんな話をしたがっているのか、考えた所で分からないとは言え、想像くらいはしてしまう。夏葉が亡くなった事に対して責め立てられるのか、あるいは夏葉は、島を離れて病院で生活をするようになった中で、僕について何か両親に話をしていて、その夏葉が話した内容というのが、僕には上手く考えることは出来なかったが、そのことについて僕は尋ねられるのではないのかだとか、そんなことを考えているうちに、やはり時間は過ぎ去るもので、夏葉の両親に会う日がやって来た。
「こんにちは。急なお願いを聞いてくれて、本当にありがとうございます」
いつもの最寄り駅で夏花と落合、それから、夏葉のお墓参りをしに行った時と同じように、僕は夏花の後を追った。
これから僕が行く場所は夏花の家、つまり夏葉の実家で、何だが、言葉には言い難い心地になる。夏花の後ろ姿を眺めつつ、その先の、暑さで揺らぐアスファルトの道の先を見据えて、この道の先に、夏葉の実家があるのだと言うのだ。それは、確かに僕が知らない夏葉の一面で、夏葉はもうどこにもいないのに、夏葉の家は変わらずにこの先にあるというのが、なんだか僕の首を優しい力を以て締め付けて行くようだった。
「夏葉の部屋は、もう片付けてしまったって話だよね」
「はい。そうです。お姉ちゃんの私物は、もうほとんど残っていません」
夏花は僕の質問に対して、「何か気になることでもあるんですか?」と、尋ねて来るが、僕はその問いかけに「ただ確認しただけ。何でもないよ」とそう返した。
夏葉が島で暮らしていた時は、彼女は確か、島に唯一あった小さなアパートの一室で暮らしていたはずだ。思えば、実際に夏葉の住んでいたアパートに行ったことは無かった。だから、僕は未だに、夏葉が日ごろ家ではどんな風に時間を過ごしていたのかを知らない。それが、僕は少しばかり気になっていて、もしもまだ夏葉の部屋が残っているのだと言うのなら、それも知ることが出来るのかもしれないなと、そんな事を思ったのだが、もう夏葉の部屋はないのだからそれももう、この先ずっとわからないままなのだろう。
「ここです」
辿り着いた先は、ごくごく普通の住宅街。アスファルトの道なりに似たような形をした住宅がズラリと並ぶ中、その軒を連ねる住宅のうち、ちょうど朝日が昇る直前の夜空のような、そんな色をした二階建ての家を夏花は指さす。その夏花が指さした家の表札には、確かに『戸部』という文字が刻まれていた。
当然だが、夏花は何一つ顔色を変えることなく家の敷地に入って玄関を開ける。それから僕の方を振り返って、「どうぞ、上がってください」と、僕を促す。「お邪魔します」と、緊張するなという方が酷な話で、自分でも良く分かるほど鼓動が早くなっていた。こうやって誰かの家に上がるのは、そういえば初めてのことなのだ。それだけでも、どうにも落ち着かないのに、これから僕は夏葉の両親と話をするのだから、緊張してしまうのも当たり前であった。
靴を揃えて、それから立ち上がって玄関口から広がる廊下の先の扉に目を向けようとしたところで、ちょうど扉が開いたかと思ったら、「あなたが遠坂遙生さん、ですね」と、そんな言葉と共に一人の女性が現れる。それからすぐに、「いらっしゃい。待っていたよ」と、その女性の後に続くように、一人の男性が姿を現した。
夏花が短く、「私の両親です」と言うと、その女性と男性は小さく頭を下げ、「今日は、本当に来てくれてありがとうございます。お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ」と、僕を扉の先に案内する。
あれが、夏葉の両親。女性の方、つまり夏葉の母親は、当たり前だが夏葉にそっくりだ。髪が夏葉と同じ位で、少し茶色が混ざっている所為か、夏花を見た時よりも、余計に夏葉の影が色濃い。でも、言葉遣いというか、表情というか、そういう雰囲気はどちらかといえば夏花に似ている。一方で男性の方、つまり夏葉の父親は、顔と言うよりも、その雰囲気が夏葉にそっくりだった。僕を出迎えてくれた時、クシャリと笑って見せてくれたが、その笑い方が夏葉の笑い方そのものだった。
扉の先、リビングに行くと、ちょうど僕が島で暮らしていた祖父母の家のリビングと同じ位の広さで、大きなテレビと、本が隙間なく仕舞われた大きな本棚があって、それから木製の四人分の椅子と、大きなテーブルがある。
必要以上にモノがないリビングの中で、有り余るほどの本の冊数に、自然と僕の目は運ばれる。夏葉の本好きの原点を、なんだか目の当たりにしたような気がした。
それから、ふと何気なく向けた視線の先、テーブルのすぐ近くにある木製の棚の上。そこに夏葉が写った複数の写真が、薄い青色の写真立てに収められ、飾られていた。思わず、ジッとその
写真立ての中にいる夏葉を見てしまう。僕が知らない場所で、まだ僕が知らない、おそらく小学生の頃の夏葉や、それから島で時折夏葉が撮っていた写真だと思われるもの、それから病室のベッドの上で笑っている夏葉が、そこには並んでいた。
「この写真は、夏葉が小学二年生の、秋頃の写真。この頃はまだ、学校に通っていたわ。この写真は、家族でピクニックに行った時の写真ね」
気が付けば、紅茶が入ったコップを四つトレーに乗せてやって来た夏葉の母親が、どこか遠い目をして夏葉の写真に視線を送っていた。
それから、すでに椅子に座っていた夏葉の父親は「この時、勝手に夏葉がどこかに行ってしまって、いやぁ、本当に焦ったよなぁ」なんて、後ろ頭を掻きながら笑った。
「そうだったわね。ああ、遠坂さん、ごめんなさい。さあ、遠慮なさらずに座ってください」
僕は、夏葉の母親に促され、夏花の隣の椅子に座る。正面には夏葉の母親、そうして左に目を動かすと、夏葉の父親がどこか暖かいような、それでいて物寂しい、細い視線を僕に向けている。
「ああ、いや。ごめんごめん。そんなに身構えないで欲しい。俺達はただ、遠坂君のことがずっと気がかりで、いつかこうやって話がしたいって思っていただけなんだ」
夏葉の父親は、顔の前で両手を振って、ハハハ、と笑う。その笑い方は、少しばかり気まずい雰囲気が流れた時、耐えきれずに夏葉が溢していた笑みによく似ている。
ただ、夏葉の父親が言う、「僕のことが気になっていた」というのは一体どういうことなのだろう。その疑問が僕の顔に現れていたのか、続けて夏葉の母親がこう言った。
「夏葉が島で日々を過ごしている間、本当に遠坂さんには夏葉と仲良くしてくれたと、立花先生から聞いています。夏葉はあまり島でのことを、こちらに戻って来てから話したがらなかったから、直接夏葉の口から聞いたわけではないけれど、でも、遠坂君が夏葉ととても仲良くしてくれたというのは、良く知っています。だからこそ、一度こうしてあって、話をして、しっかりと謝らなければいけないと、そう思っていました」
それから夏葉の母親は、「遠坂さんには辛い思いをさせてしまったと思います。夏葉に変わり、お詫びします。本当に、ごめんなさい」と、頭を深く下げて、それに続けて夏葉の父親も、「申し訳ない」と、そう頭を下げる。
僕は、一体何が何だかわからずに、「どうしたんですか、急に。僕は別に、謝られるようなことは」なんて、動転しているのが自分でも分かるような声を出し、頭を下げる夏葉の両親と、隣に座っている夏花を交互に見ることしか出来ずに、最後には夏花も、「私も、改めて謝らせてください。それと、本当にありがとうございます」だなんて、そんなことを言い始めるものだから、余計に僕は分からなくなってしまって、「やめてください。むしろ、僕の方が謝るべきで、感謝するべきで」なんて、そんな事を言うのが精一杯だった。
夏葉の母親と、父親、それから夏花が顔を上げる。それから夏葉の母親が、「夏葉は何も言わずに、あの島を去ることになりました。夏葉が島を去ってからのことを、立花先生から良く聞いています。クラスの皆さん、特に遠坂さんが、酷くショックを受けていたと。その話を聞いて、私は思ってしまいました。ああ、そんなにも夏葉のことを思ってくれる同年代の友達が夏葉に出来たのだと、それが純粋に嬉しかった。でも、同時にとても酷いことをしてしまったと、私は思いました。夏葉があの島の、あの学校に行きたいと言った時、最終的にそれを許したのは私たちです。あの頃には、もう夏葉は高校生にはなれないだろうと、そう言われていました」
夏葉の体に暗雲が立ち込めたのは、彼女が小学三年生だった頃だと言う。それからというもの入退院を繰り返す様になり、そんな調子であるものだから、少しずつ小学校の友達も見舞いには訪れなくなっていったと、夏葉の母親は語る。
「今でも覚えています。忘れられる訳もありません。夏葉の命の終わる頃が分かった時、夏葉はこう言ったんです。『どうせ死んじゃうなら、もう一度だけ一からやり直して、ごくごく普通な学生生活をして、一生一緒に居たいって、そう思える友達を作りたい』と、そう言ったんですよ」
去らなければいけない事を知っていて、終わりが見えていることを知っていて、それでも一緒に居たいと思える相手を見つけて、在り来りな日々を送りたいと、夏葉はそう願ったのだ。もしもこの話を泉が聞いたら、きっと泉はまた泣いてしまうだろう。泉の泣き顔が、簡単に浮かび上がって来る。
「俺達は迷ったよ。もちろん、夏葉の体が心配だったのもある。それに、仮に許したとして、行った先で友達が出来たとして、そうなったら、きっとその友達を悲しませてしまうだろうし、自分自身も深い悲しみを抱くことになる。こんなこと、少し考えればわかることだ。当然夏葉も分かっていた。俺達も、しっかりと夏葉にそう話をした。きっと、夏葉自身も、出来た友達も、深く悲しむかもしれない。でもな、夏葉はこう言ったんだ。「悲しむことすら忘れるほどに、楽しい日々を過ごすって約束する」ってさ」
父親は、「きっと、夏葉が島から戻って来てから、頑なに俺達に島での日々のことを話さなかったのは、夏葉なりのケジメのつけ方だったんだろう」と、目を細める。
「でも、それでも分かった。夏葉はあの島で、本当に幸せな日々を過ごすことが出来たんだって。それは、遠坂君のおかげだ。本当に、本当にありがとう。そして、本当に申し訳なかった。遠坂君を、深く悲しませることになってしまった。夏葉も、口には出さなかったが、実の所酷く悲しんでいたと思う。病室に誰もいない時間を見計らって、一人でよく泣いていたから」
頭を下げる夏葉の父親と、そして母親に、僕はなんといえばいいのか分からない。
夏葉が何もいなくなってしまったことが、僕は酷く悲しかった。悲しかったなんて、そんな一言で片づけてしまうことにすら嫌悪してしまうほどだった。
でも、そんなこと夏葉も同じに決まっているのだ。それこそ、少し考えれば分かることではないか。どうして今まで気が付かなかったのだろう。
病室のベッドの上で、一人窓ガラスの向こうを眺めながら涙を流している夏葉を思い浮かべるだけで、自然と手に力がこもってしまう。でも、夏葉が泣いているところを上手く想像することが出来なくて、自分でも嫌になる。実際に夏葉が涙を流したところを見たのは一度切りで、僕が知っている夏葉は常に笑っていた。楽しくて仕方がないと、そう言うようにいつも笑っていた。その事実がさらに胸を締め付ける。
「悲しむことすら忘れるほどに、楽しい日々を過ごすって約束する。確かに、島で一緒に過ごした夏葉はいつだって楽しそうにしていて、いつも笑っていて」
思えば思うほど、ダメなのだ。こんな気持ちにもう二度となりたくはなかったから、僕はありとあらゆる繋がりを絶とうとしたのではないか。忘れたくはない。でも、もうこの先に夏葉はいないから、思い出すのも辛い。こんな風に左右から引っ張られ、引きちぎられるような苦痛に襲われたくはないから、すべてを絶って、放り投げてしまおうと思ったのだ。
でも、昔ほど息苦しくはなくて、今はただ、どうしようもなく悲しい。
「遠坂さん。本当に辛い思いをさせてしまいました。我慢なさらないでください」
夏葉の母親の、その一言で、これまで夏葉と過ごしてきた日々が、ポツポツと浮かんでは消えて、それがとてつもない速さで駆け巡っていった。
やっぱり、忘れることなど出来るはずがないではないか。どうしたって、僕は思い出してしまうのだ。夏葉だってそうだったのだろう。悲しみを忘れるほど、楽しい日々を過ごすと誓って、実際にそんな日々を過ごして、でもやはり、時には悲しみに溺れて、涙を流したというのだ。あの、いつも笑っていた夏葉でさえ、そんな風に涙を流したのだ。
「夏葉は、病室で時折泣いていたんですよね? だったら、やっぱり島に行かずに、僕とも出会わなかった方が良かったんじゃあないんですか?」
涙が、止まらない。きっと、今の僕は醜い。
そんな僕の問いかけに、夏葉の母親は、ゆっくりと顔を横に振って「そんなことはありません」と、はっきりとそう言った。
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「簡単ですよ。夏葉が最期、どんな顔をしていたと思います? それはもう、本当に幸せそうに笑っていました。幸せそうに、満ち足りた表情をしていました。理由なんて、それだけで充分です。夏葉は最期、確かに悲しみを越えていったと、断言します。私は本当に嬉しかった。最期にあの子のあんな表情を見ることが出来て、本当に良かったと、心から思えました。娘の命が残りわずかだと聞いた時、本当に悲しかった。でも私は、最期は良かったと、そう思えました。だって、あんなにも夏葉は満ち足りた表情をしていたんですから。そんな夏葉の表情を作ったのは遠坂さんです。遠坂さんが娘と一緒に時間を過ごしてくれたからなのだと思います」
「だからありがとう」と、夏葉の母親は涙を浮かべて笑って見せる。
「…………」
感謝の言葉を言われる筋合いなど、僕には無いと思っていた。むしろ僕は感謝をする側で、頭を下げて謝る側だと、そう思っていた。
救われたのは僕の方だ。どれだけ夏葉に救われただろう。あの日、初めて夏葉と出会った時、僕は救われたよ。予感があったのだ。微かな予感が。在り来りだけれど、真っ暗なトンネルに、一筋の光が射しこんだような気さえした。それからは、本当に幸せな時間が続いた。ただ一つ、自信を持って言えることはそれくらいで、確かに僕は、あの島で夏葉と出会って、昔よりも自然に笑うことが出来るようになった。
もしも、夏葉も同じように僕と出会ってあんな笑顔を浮かべることが出来るようになったのだとしたら、もう、それだけで充分のような気さえしてしまう。今まで僕は、間違った事をしたのではないのかと、そう思うこともあった。夏葉と出会って、春夏秋冬と、あの島で一緒の時間を過ごして、笑い合って過ごしていた日々が、間違いだったのではないのかと、何度も考えた。でも、もしも夏葉が最期、満ち足りた微笑みを持って遠くへ行けたのだとしたら、夏葉の母親の言う通り、悲しみを越えて旅立ったというのなら、彼女が叶えたがっていた夢を、思いを叶える手助けを、僕はしていたのだと言うのなら、もう、何も言うことは無いような気さえする。
簡単に思い出せる。忘れようと思っていても、もうどこにもいなくても、君は容赦なく僕の目の前に現れる。僕がどれほど悲しいと思う? どれほど君に会いたいと願っていると思う? どれほど泣き叫んでしまいたいと、僕の気持ちが分かるだろうか。
君のその笑い方が好きだった。僕は、やっぱりどうしようもなく、君のことが好きだった。
ずっと後悔していた。最後、君があの島を誰にも言わずに去って行った前日に、君にこの思いを告げたことを。だって、君はあの時涙を流していたから。初めて君の泣いている姿を目にしたから。僕は、大変な間違いを犯してしまったと、そう思った。君がずっと遠くへ旅立ったと聞いた時、僕があんな馬鹿げたことを言ったからだと、そんなことも思った。やはり僕は、人と関わって生きて行くなど無理なのだと、そんなことも思った。一生返事を聞くことも出来ず、膿んで腐って行くだけの、一生治ることのない傷を君に負わせてしまったのではないのだろうかと、そう思った。だから、これまでずっと、あの時あんなことを言ってしまったことを、ずっと後悔していた。
でも、夏葉が最期、本当に笑っていたのだと言うのなら、僕のあの時の言動は、間違いでは無かったのかもしれないと、そう思う。何層もある硬い殻を取り去って、柔く、脆い、血の通った心を他人に見せたのは、あれが最初で最後だった。
あの時、そうして本心を君に伝えたことを、今は少し、良かったと思える。
思い浮かぶのは、泣きながら笑う夏葉と、満天の星と、それを映すあの島の海。
「僕は、初めて誰かを好きになった」
それが、夏葉と交わした最期の言葉だ。
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