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正直な所、僕はあまり立花先生と話をしたことがない。立花先生はあくまで僕が属していたクラスの担任の先生であり、国語の先生であった。それこそ、僕と立花先生との間には、一般的な生徒と教師以外の関係など何もなかった。ただ、立花先生は僕が小学生の頃学校に行くことが出来ていなかったというのを知っていたようで、中学二年の夏休み前、面談か何かの時に、「遠坂君が楽しそうに学校に来てくれて、私は本当に嬉しいです」と、そんな事を言われたのを覚えている。今思い返せば、僕が小学生から中学生になる前、祖母が一人で二、三度学校へ行ったことがあったのだが、きっと、その時に祖母は立花先生と話をしたのだろう。その時、実際にどんな話をしたのかは分からないが、立花先生から僕に、「学校に来ませんか?」という主旨の話が来ることは一度もなかった。
立花先生がどんな先生であったのかと問われれば、別段、特別なこともなく、ごくごく普通の先生であったように思う。少なくとも僕の目にはそう映っていた。国語の授業では、僕達に国語を教えて、生徒から何か質問が出れば、丁寧に教えてくれる。何度か夏葉が僕と泉を引き連れて「ここ、教えてください!」なんて職員室を尋ねたことがあったが、その時も立花先生は「いいですよ」と、柔らかく笑って僕達に国語を教えてくれた。僕は本を読むのが好きであったから、例えば他の数学だとか、理科だとか、そういう教科よりも国語の方が好きで、他の学校の教師と立花先生との違いと言えば、担任の先生であることと、僕が好きな教科を教えてくれる先生、という認識でしかなかった。
だから、特別立花先生について覚えていることはあまりないのだ。あるとしたら、本当に夏葉が何かしらの形で関わって立花先生と話をした時くらいのもので、最も覚えているのは、やはり立花先生が、夏葉が亡くなったことを僕達に伝えた時のことだった。
だから、僕は夏葉が立花先生に手紙を残したと知った時、その理由が全く分からなかった。憶測は出来る。夏葉は自分がもうじき死ぬことを知っていて、そのうえであの島の、あの学校に転校してきたのなら、担任となる立花先生もそれを把握して、それなりの対応をするのは当たり前なのだろうと。
でも、実際に夏葉と立花先生の間で、どんなやり取りが行われていたのか、あの二人がどんな会話をしていたのかを、僕は全く思い浮かべることが出来なかった。それが、なんだか無性に気持ちが悪くて、家に帰ってから、立花先生がまだ島にいるのか学校に電話をして確認をする前に、立花先生のことを思い出そうと思った。
押し入れの、一番奥。そこには一つの大きな段ボール箱がある。それを、僕は引っ張り出した。
この段ボール箱には、卒業アルバムだとか、写真、体育祭、音楽発表会、修学旅行のしおりや、夏葉からもらったものまで、島からこちらに引っ越す時、本当に必要だと思ったものだけが詰め込まれている。つまり、今はもう、僕があの島で過ごした日々を目に見える形で証拠付けるものは、この段ボール箱一つに収まるものしかないのだ。
これまでにこの段ボール箱を開けたことは、この部屋に引っ越してきた初日と、去年の夏、それこそ立花先生から夏葉が死んだことを聞いた日くらいだった。
そんな段ボール箱を一年ぶりに押し入れの奥から取り出すと、枯葉のような匂いがした。ダンボール箱の上に薄く張った埃を拭いた後、ダンボール箱を開けて中に仕舞ってあったものを一つ一つ取り出しては床に置く。途中、夏葉からもらった、四葉のクローバーが閉じ込められた栞だとか、修学旅行や体育祭、何でもない日常の日々を収めた写真、一時期夏葉と泉の間で、授業中に手紙のやり取りをするのがブームになった時があって、その時期に夏葉から送られてきた、A 4サイズの用紙が小さな長方形に折り畳まれた何でもない言葉が残った手紙が出てくる。本当、こんな些細なものを、捨てることも出来ずに今もまだこうして大切に残しておいてあるのだから、自分でも女々しいと思う。
そんな、段ボール箱に仕舞い込んだものの一つに、予定帳、というものがある。これは中学生の頃、毎日翌日の授業日程を書き止めていたもので、またその予定帳には学校であった一日のことを振り返る、日記のような欄もあった。
家に帰れば毎日その日記のような欄に一日の振り返りを記入して、毎朝学校に行けばそれを提出し、学校が終わる頃になると、その日記のような欄に立花先生の一言が記入されて戻って来る。
それを、三年間、毎日繰り返していたと思うと、毎日何かしら書き止めるだけの出来事があった自分自身に驚いてしまうし、毎日欠かさずにコメントを返してくれた立花先生に対しても目を見張るものがある。
三年間。毎日欠かさず書き記してきたその予定帳の冊数は十冊。一学期ごとに一冊書き終えるくらいの調子で積み重なって行ったそれを、僕はまだ一冊も捨てることなく残してある。十冊のうち、無作為に手に取って開いた予定帳のページには、僕が中学一年生であった年と、十月十六日という日付が書かれていた。
一時間目、数学。二時間目、国語。三時間目、体育。四時間目、英語。五時間目、理科。持ち物の欄には体育着、それと、当時図書室で借りていたのだろう、「女生徒」という文字か書かれている。この日、数学や国語、英語だとか理科ではどんな授業を受け、体育では何をしたのかだなんて思い出すことは出来ない。でも、僕は確かに四年前の十月十六日、あの島で、あの学校で、こんな日々を過ごしていたのだ。問題の日記の欄に目を落とすと、そこにはこう書かれている。
『今日は、夏葉と泉と一緒に、昼休みの時間に図書室へ本を借りにいった。そこで、ちょうどもうじき返却日が近づいている本があること思い出した。明日は、忘れずに持ってこないといけない』
そんな、僕の他愛ない言葉に対し、赤字で立花先生はこう答えてくれている。
『戸部さんと、泉さん、遠坂さんは本当に二人と仲がいいですね』
また、次のページをめくって日記の欄を見てみると、赤字で『先生も、貨幣は好きです』と、国語教師と言うべきか、僕が日記の欄に書いた女生徒を読んだ感想に対し、そんな一言を添えていた。ああ、そういえば、僕はこんな風に、読んだ本の感想をこの日記の欄に書いていた。毎日夏葉や泉と共に、何でもないような日常が繰り返されるばかりで、時々何を書けばいいのか迷った時に、こんな風に読んだ本の感想を書いていたのだ。
パラパラとページをめくっては、次の一冊を手に取って、かつて積み重ねて来た一日一日を、一分も満たない速さでめくって行く。
夏葉、泉、この二人の名前が出てくる時が多くて、立花先生のコメントの中には『夏葉さんも、同じことを言っていましたよ』だとか、そんな事も書き残されていた。
こんなにも、この予定帳をしっかりと見返したのは初めてかもしれない。この言葉の数々を、いつかの僕が書き残していたいただなんて信じられなかった。何ともまあ、呑気なことをつらつらと書いているもので、数年後、夏葉が遠くへ行ってしまって、どうすればいいのかも分からずに、ただただ毎日毎日、ここに書き残していたような日々を、大切に思い出し続ける日が来るのだなんて、微塵も思っていないような言葉の羅列が続くばかりだ。
七月十九日。この日の日記の欄に、僕の言葉は無かった。ただその代わりに、立花先生からの赤字で書かれた言葉が日記欄の一面を埋めていて、ページの端には丸い染みがいくつか出来ている。
『謝っても無意味だと思います。でも、これが夏葉さんの望みでした。夏葉さんと一番仲良くしていた遙生さんは、きっと苦しいと思います。不甲斐ないことですが、今の私が遙生さんに何を言っても薄っぺらなものになってしまうでしょう。私は、遙生さんに酷いことをしてしまったかもしれません。でも、思い出して欲しいです。これまで遙生さんが夏葉さんや菜月さんと過ごした日々は、決して嘘ではなく、揺らがないものであるはずです。それだけは、絶対になくなることは無いはずです』
このページを最後に、僕は中学を卒業するまでの間、この日記の欄に夏葉という言葉記載されることは、僕が書き記した言葉の中にも、立花先生が返してくれた赤字のコメントの中にも、二度となかった。
夏葉が亡くなったということを知った後も、まるで夏葉なんて人間が初めからあの島にはいなかったかのように日々は過ぎ去って行った。
それは、祖父の時と同じであった。誰かがいなくなったとしても、明日は変わらずにやって来る。当たり前すぎて、こう言葉にしてみると随分と間抜けなような気がするけれど、そんな間抜けなことにすら、僕は失うまで気が付くことが出来なかったし、何度繰り返しても毎回そんな間抜けなことを思ってしまう。
『私は、遙生さんに酷いことをしてしまったかもしれません』
この箇所が、今も昔も目に留まる。僕は、立花先生というか、大人全般に対して苦手意識があるけれど、それを除けば、対して立花先生に対しては何も思ってはいない。むしろ、苦手な大人の中でも、立花先生は比較的接しやすい人であったほどなのだ。
立花先生は、夏葉がもうじき死んでしまうことを知っていた。まだ直接立花先生の口から聞いてはいないけれど、おそらくそうだったのだろう。だとしたら、この『遙生さんには酷いことをしてしまったのかもしれません』という言葉が意味することは、『夏葉さんがもう長くないということを知っていながら、夏葉さんと一番仲が良かった遙生さんに、何も言うことが出来なくて申し訳ありません』というものなのだと、今になって思う。
そんなこと、立花先生が謝る必要もないのに。悪いのは、結局当時の僕が夏葉の病気に、夏葉が置かれていた状況に気が付くことが出来なかったのが悪い。もしも僕が何か気が付くことが出来たのなら、何かが変わっていたのかもしれない。夏葉と、しっかりと別れの言葉を交わすことが出来たのかもしれないし、あるいは、あの言葉に対する答えも聞けたのかもしれないし、むしろ、そのことに気が付けたのなら、あんな愚かなことを、夏葉が学校に来なくなった直前に、僕は夏葉に言わずに済んだのかもしれない。
いずれにせよ、悪いのは僕なのだ。愚かで身勝手な僕なのだ。であれば、もしも立花先生がまだ後悔を拭い去ることが出来ずにいるのなら、それは違うのだと僕は言わなければならない。それは立花先生が悔いることでは無くて僕がいけないのだと、言わなければならない。
会って、言うべきことが僕にもあるではないか。まだ、やらなくてはいけないことがあったらしい。
「…………」
床に置いて行ったものを、再び段ボール箱に入れて行く。そして押し入れの奥に仕舞いこむ。次はいつ、この段ボール箱を開けるのだろうか。空ける日が来るのだろうかと、そんな事を思いながら、僕は押入れを固く閉じた。
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