第四章
4-1
「目を瞑って、その人のことを思う。あなたの中でその人と会うことが出来たのなら、あなた自身がその人が生きていた証拠になる。時々思い出してくれるのなら、きっとその人はそれだけで報われると思う」
この言葉を夏葉から言われたのは、祖父の葬式が終わってから、すぐの時であった。
祖父が亡くなったのは、僕が中学二年生で、中学生活が始まって一年が経ち、僕も何ら抵抗なく、学校へ通うことが出来るようになっていた時期の話で、あの時のことは、今でもすぐに思い出すことが出来る。
もうじき夏休みだという七月中旬の頃だ。ちょうどその頃、「今年こそは一緒に島の夏祭りに行こう」なんて話を毎日のように泉を交えて夏葉と話をしていたのを覚えている。一年前、中学一年の時は、急遽夏葉が実家に帰らなければならない用事が出来て、夏祭りには行けなかったため、余計に夏葉は「今年こそは」と意気込んでいた。
その日も、同じように学校で、そんな話を夏葉や泉として、いつものように放課後を向かえ、夏葉と帰路を共にした。今日受けた授業の話だとか、間近に迫った期末テスト、夏休みは何をするかだとか、そんな話をしながら「また明日」と言い合って、すっかり日常となった日々を過ごし、家に帰ったのだ。
ただ、日常はそこで一度プツリと途切れた。家に帰り玄関の戸を開けた時、リビングの方から「あなた、あなた!」という祖母の声が聞こえたと思ったら、すぐに祖父の低い唸り声が聞こえて来たのだ。
後はもう、僕の足は勝手に動いて、リビングの方に行くと、急迫とした空気が満ちていた。祖父は胸を押さえ低く唸り、祖母はそんな祖父の肩を持ち、何度も声をかけていた。
よく覚えている、と言いながらも、正直この時だけはあまり上手く思い出せない。どういう軽を辿ったのかは、今となっては分からないが、僕と祖母は気が付けば島を離れ、祖母の服装はそのままに、僕も制服のまま街の大きな病院の待合室にいた。
随分と長い時間を、その待合室で過ごしたと思う。祖母はずっとハンカチで口元を隠していて、僕はずっと、そんな祖母にどんな声をかければいいのか分からずに、リノリウムの床にぼんやりと映った自分の輪郭に視線を落としていることしか出来なかった。
次に祖父と会ったのは個室の病室で、今日の朝まではいつも通り、元気に笑っていた祖父が、病室のベッドの上で、なんだかよく分からないチューブを体の穴という穴に繋がれて、目を閉じて静かに眠っていた。
病室にいた医者が、祖母だけを連れて行き、僕は一人、祖父のベッドの横で、パイプイスを広げて座っていた。
白いベッドの上に目を閉じて横たわる祖父の姿が、やけに弱々しく、小さく見えた。死相、とでもいうのだろうか、あれは、本当にあるのだと思う。その時見た祖父の顔は、いつも見ている祖父の顔とは全く以て違うもののであるようで、ちょうど真夜中の道を歩いている途中、外灯が途切れて先が何も見えなくなった時と同じような心地になった。それまでは平気であったのに、外灯が途切れた途端、急に立ち止まってしまったことが何度かあったが、あの時胸の内側に溢れたあの独特な不気味さと恐怖が、目を閉じ横たわる祖父の顔を見た時に溢れ出たのだ。
日常という名の糸が、唐突にプツリと途切れた様だった。数時間前までは学校で夏葉や泉と話をして、授業を受け、夏葉と話をしながら一緒に帰ったはずなのに、それが嘘であるかのように感じられたのだ。
「また明日」と、あの日夏葉と何気ない約束をしたのだが、結局その日、夜遅くまで病院にいたため島へ帰る手段も無くなり、翌日学校へ行くことは出来なかった。祖父が横たわる病室で、僕はその日は祖母と共に一晩を明かしたのだ。
そして翌朝、祖母に「おじいちゃんが、目を覚ましたよ」と肩を揺すられ僕は起きた。祖父の眠るベッドの上に目を向けると、確かに祖父は目を開けていた。その瞳は力強くて、僕と祖母を交互に見て、それから祖父は祖母に対して「今まで、ありがとう」と告げ、僕には「本当に、ごめんな」と、擦れた声でそう言い放った。そして、それが、祖父の最期の言葉になった。
後はもう、なんだか悲しむ余地すら与えないかのように物事が進んで行き、気が付けば祖父は島の山の麓にある墓地で眠りにつき、僕の日常から祖父が去って行った。
祖父の、一連の出来事が落ち着いたのは、日曜日のすでに日が暮れた頃であった。家に着くなり祖母が「ご飯、すぐに作るから」と、疲れた顔で言うものだから、僕はそんな祖母を見ていられなくて、「僕も手伝うよ」と、一緒に夕飯の支度をしたのをよく覚えている。なんだかやけに家の中が静かで、祖母も同じことを思ったのか、「なんだか、家が静かになってしまったね」と、物寂しく笑っていた。
現実感がまるでなかったのだ。頭では祖父が亡くなったというのは理解していたのだが、一方で食器を並べている時、ふと、祖父の分の食器まで並べようとしてしまい、ああ、祖父の分はいらないのだと気が付いて、きっと、理解することと受け入れることの違いというのは、そういうことなのだと思う。
それから食事を終えて、お風呂に入り、布団の中に入った後も、地に足が着いていないフワフワとした浮遊感は無くならずに、その日は上手く寝付けなかった。
明日からまた学校へ向かう。島の様子は変わらずに、家にはまだ祖父が使っていた日用品や、衣服もそのままだ。祖父は最後、僕に対して「ごめんな」と謝っていた。でも、僕は祖父に何も感謝を伝えていない。感謝を伝えようにも、もう祖父に僕の声は届かない。
そんな、色々な思いが、潮の満ち引きの様に頭の中で行ったり来たりして、夜というのは、こんなにも長いものであったのだろうかと、そう感じたのを覚えている。
違和感があったのだ。そして、その違和感の正体を、当時の僕は既に知っていた。同時に、その違和感を解消する術などないのも分かっていた。だって、祖父はもういないのだから。祖父がいないことに対して違和感を覚えているのは、もうどうしようもないだろう。
その日の夜、時刻は何時頃であったかは覚えていない。もう、随分と夜も深かったように思う。眠れずにいた僕は、布団から出て、夜の海に向かったのだ。家を出る途中、祖母の寝室から泣き声が聞こえたものだから、僕は逃げるように家を後にして、あの海に向かった。
海辺まで駆けて行って、そのまま砂浜の上に立ち、膝に手を当てて乱れた息を必死に落ち着かせようとした時だ。その時、「遙生君?」という声がして、僕は息が切れたまま、顔を上げた。そこに居たのが夏葉で、祖父の一件があってから夏葉に会うのは初めてだった。
どうしてこんな時間に夏葉がここにいるのかと、そういうことを思いはした。多分、あの時夏葉も僕に対して同様のことを思っていただろう。でも、そんな疑問も、祖父に対する混濁とした思いも、祖母に対する虚しさも、夏葉を目にした途端、全て暖かな日差しのような温もりが包み込んで行った。あれが、安堵するということなのだと思う。それまで地面に着いていなかった足は、確かにあの時、しっかりと砂浜に着いて、足跡を残していた。
地に足が着いて、その時、ようやく祖父に対する後悔と、感謝と、それに伴う申し訳ない思いが、しっかりとした色を持ったのだ。
「僕は、本当に、酷い人間だと思う」
酷い人間だ。とても、酷い人間なのだ。僕は、どれほど祖父から大切にされてきたのだろう。僕は、どれほど祖父から優しさを注がれてきたのだろう。そして、僕は与えられたものに対し、何一つ祖父に返すことが出来なかった。
「何があったの?」
夏葉は僕の前で屈んで、そうして僕の目をジッと見る。夏の、あの夜の中で、夏葉の瞳は微かな光と、穏やかな優しさを持って、僕の目を映し込んでいた。
「おじいちゃんが、死んだんだ。もう、会えない。僕は、何一つ感謝の言葉を言うことが出来なかった。与えられたものは数えきれないのに、僕は、何一つ、返すこともできなくて、本当に」
きっと、僕はこのまま泣いてしまうだろう。あの時確かにそう思った。実際夏葉が何も言わず、目を見たまま僕の手を握ってくれた直後に、僕は涙を流した。それから、夏葉は僕の隣に腰を下ろして、僕もそんな夏葉の隣に座って、何もかもを、泣きながら話したのだ。
両親のこと。僕がどうしてこの島に来たのか。どうして、祖父母の家で過ごしているのか。学校に行けなくなった理由だとか、祖父母から受けた優しさだとか、そういう、当時まだ誰にも話したことがなかったことを、全て夏葉に話した。これまで堰き止めていたものが、祖父の死をきっかけに、瓦解したのだ。言葉は止まることなく溢れ出た。でも、その間夏葉はずっと「うん」「うん」と僕の話を聞いてくれた。
両親は、僕のことが邪魔であったのだ。両親は、いつも仕事が忙しいと言い、僕のことよりも、大切なことがあるようであった。だから、僕は祖父母のいるこの島に送られた。大人も子供も関係ない。僕は、結局のところ人が怖くて仕方がない。両親でさえ、僕のことを邪魔者扱いしたのだ。両親というものが、人間にとって初めて他者と強い繋がりを持つ相手なのだとしたら、そんな両親とですら上手く繋がりを持つことが出来なかった僕が、果たしてどうやって人と上手く接していけると言うのだろう。学校に行けなくなったのも、祖父母と上手く接することが出来ず、祖父に何も感謝の言葉を伝えることが出来なかったのも、すべてはこれが根本にあるからだろう。
そんな僕が、少しずつ人と関わることが出来るようになったのは、僕がこの島にやって来てからずっと、僕のことを優しく見守ってくれた祖父母が居たからだろう。それだけは、確かに言うことが出来る。学校に行くことが出来なくなってからも、祖父母はずっと、僕のことを優しく見守り続けてくれた。ああ、この人たちは、本当に僕のことを見てくれているのだと、本当にそう思えた。祖父は、度々僕を釣りに誘ってくれた。あの皺くちゃな手で、僕の頭を少し乱暴だったけれど、撫でてくれた。その手は温かかった。
でも、もうその祖父には会うことが出来ない。一緒に釣りをすることも出来ない。頭を撫でてくれることもない。もう、出来ないのだ。二度と、出来ないのだ。
夏葉に話をしながら、涙は収まるどころか勢いを増していった。あの時の僕は、随分と醜かっただろう。ワンワン泣いて、情けなく、弱々しいことを涙声で、波の音にすら勝てぬほど、小さな声で訴えていた。
「もう、おじいちゃんと話すことは出来ない。言いたいこと、言わなくちゃあいけない事が沢山あった。でも、もう言えない。こんなにも、唐突に別れと言うのが来るなんて、思ってなかった」
僕がそう言った時、それまで静かに頷いてくれた板夏葉が、微かに息を呑んだのを覚えている。当時、僕は夏葉がもうじきいなくなってしまうというのは知らなかった。だから、僕がその時言った言葉に対して息を呑んだその理由を、深くは考えなかったけれど、今にして思えば、僕は何とも、夏葉には酷なことを言ってしまったのだろうか。
息を呑んで、次に夏葉は、僕の頭を優しく撫でた。そうして、あの言葉を言ったのだ。
「目を瞑って、その人のことを思う。あなたの中でその人と会うことが出来たのなら、あなた自身がその人が生きていた証拠になる。時々思い出してくれるのなら、きっとその人はそれだけで報われると思う」
僕は、夏葉のあの手の温もりを感じながら、目を瞑って祖父のことを思った。あの時僕の中に現れた祖父は、笑っていた。いつか見た微笑みを携え、笑っていた。そのことが救いで、僕が出来る事は、祖父のことを忘れずにいることなのではないのかと、あの時思った。
今思い返すと、当時夏葉は何を思ってあの言葉を口にしていたのか、僕は思わずにはいられない。死を目前にした夏葉が言った言葉だ。僕なんかよりも、死に近い彼女があの言葉を言った。
唯一つ、あの時良かったことは、祖父のように言いたくても言えなくなってしまう時が来るかもしれないからと、僕はそのまま夏葉に感謝の言葉を伝えたことだろう。
「ありがとう。僕が学校に行けるようになったのは、きっと夏葉のおかげだと思う」「夏葉と話をしていると、落ち着く」「出来る事なら、これからも友達でいて欲しい」「こうやって、話をしてほしい」
同様に、僕は翌朝、祖母にも感謝の言葉を伝えた。祖母は僕が高校一年生の時に亡くなったが、最期に立ち会うことが出来なかったから、本当にあの時、素直な気持ちを伝えることが出来て良かったと思う。
僕のその感謝の言葉を聞いた祖母は、祖父がいなくなって夜中泣き続けて赤くなった目を、さらに赤くしてしまったが、それでも祖母は、泣きながらいつものように、僕の知っている暖かな微笑みをその顔に宿してくれたのだ。
一方で、夏葉はというと、どこか悲しそうに時折見せる遠くを眺めるような瞳をもって、僕のことをジッと見つめていた。
その夏葉の瞳には、微かに涙が浮かんでいるようにも見えたけれど、夏葉の頬にそれが伝うことはなかったはずだ。
夏葉はただ一言、「私も、ずっと、こうやって話をしていたい」と、短く言った。その声は、僕と同じように夜の海の音にかき消されてしまいそうなほど、彼女には珍しく、弱々しい声であった。
僕は、嬉しかった。夏葉も僕と同じことを思ってくれている。他者と同じ感情を抱くことが出来ることが、こんなにも満ち足りることなのだと、そう思った。
しかし、今思えば、一体夏葉はあの時どんな気持ちで、その言葉を僕に伝えたのだろう。
それを思うと胸が苦しくなる。何も知らなかったとはいえ、夏葉にとても辛い思いをさせてしまった。
やはり僕は、酷い人間だ。昔も今も変わらずに、酷い人間なのだ。
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