3-6

 泉が言っていた「この後喫茶店に行くつもり」という言葉通り、僕と夏花は、泉に連れられる形で喫茶店へと向かった。その喫茶店があるのは、どうやらこの蓮華公園の敷地内らしく、「中学生の時にここに来た時には、喫茶店なんてなかったよね?」と僕が尋ねると、泉は「そうね。去年の秋くらいにオープンしたのよ。私、学校が休みの時は、その喫茶店をよく利用しているの。とてもコーヒーが美味しいのよ」と、振り返ることなく、まっすぐ前を向いて歩きながらそう答えてくれた。

 なんだか、普段からよくこの蓮華公園に足を運んでいるような口振りであったから、そのまま泉に「じゃあ、蓮華公園にはよく来ているってこと?」と続けて聞くと、「そうよ。私、この辺りの女子高に通っているの。で、その学校の女子寮で今は独り暮らしをしているわ。遠坂には話していなかったかしら?」なんて、そう言うのだ。

「知らなかった」

「そう。それもそうね。思えば、私も遠坂がどこの高校に通っていて、今どこで暮らしているのかなんて知らないもの」

「知りたい?」と僕が泉に言うよりも、泉が「ここよ」と言って立ち止まる方が早かった。目の前には、一軒のこげ茶色のログハウスがあり、出入り口の前には『徒然喫茶』『本日のおすすめ』という言葉と、いくつかのメニュー名が記載された、喫茶店でよく見かける小さな看板がログハウスと同じ色をした木製の椅子に立てかけられている。

 喫茶店に入って見ると、店内には落ち着いたピアノの曲が流れていて、お店の中もそれなりの人が思い思いに談笑していた。

 テーブル席に案内され、それから泉は慣れたようにアイスコーヒーを注文する。「あなた達は?」と聞かれたから、僕は「泉と同じものでいい」と言い、夏花は「カフェラテを、お願いします」と注文をする。それを聞いた泉は、「夏葉みたいね」なんて、微笑を浮かべるのだった。

 そして、注文を終えてすぐに、僕の目の前に座っている泉は、僕の隣に座っている夏花の方を見て、話を進めるのであった。

「夏花さん、でいいのよね。色々とお話したいことがあるけれど、まずはあなたの話を聞かせてほしい」

 一瞬、僕は夏花の顔を盗み見る。窓ガラスを背景に、長い髪を降ろした夏花は、しっかりと泉の方を見つめている。

「今日は、お姉ちゃんが残した泉さん宛ての手紙を渡しに来ました」

「手紙?」

「はい」

夏花は持っていた手さげの鞄から一通の手紙を取り出し、テーブルの上に置く。そして、一度深呼吸をして目を伏せる。

 ちょうど店内で流れている曲が終わり、周りのお客さんの笑い声だとか、そういうものが遠ざかって、周囲の空気が少しだけ強張ったような気がした。

 それから、夏花は目を開けて顔を上げる。その顔つきを、僕は知っていた。

「これはお姉ちゃん、戸部夏葉からの手紙です。あなたは読みますか?」

 あの時と同じだ。僕が夏花から手紙を渡された時と同じ。あの時、僕は泉の立場に居た。泉の立場に居た僕は、夏葉が残したという手紙を目の前にして、怖かった。なんだか、その手紙には夏葉のすべてが詰まっているように感じたからだ。結局、僕は夏葉のことを知らなくて、どうして何も言わずに島からいなくなり、遠くへ旅立っていったのか、その時夏葉が何を考えていたのかも分からない。それが、この手紙には書かれているような気がしてならなかった。あるいは、あの島で過ごした日々に対し、夏葉がどのような思いを抱いていたのかが事細かに書き止められているような気がしてならない。

どちらにせよ、この手紙は僕に何かしらを与えるのは間違いない。その何かしら、というものが、果たして僕の中にいる夏葉の死を招くのかどうかは分からない。ただ、あの頃のまま、ずっと大事に抱え続けて来たものの一部、もしくはその全てを粉々にしてしまうような気がしてならなくて、それが僕には怖くて仕方がないのだ。

 泉は、この夏葉からの手紙をどうするのか。過去から届いた手紙の封を、開けるのだろうか。

「夏葉の字。本当に、夏葉が残した手紙なのね」

 泉は『泉菜月さんへ』と封筒に書かれた宛名の字に目を落とし、そっと、机に置かれた手紙に手を伸ばして両手で優しく持つ。一連の動作の中で、泉の表情は何一つ変わることなく無表情で、でも、なんだかその何も変わらない表情が僕にはとても物寂しく見えた。

「遠坂宛ての手紙もあったの?」

 ここで、泉が僕の顔を見る。声を出すことなく小さく頷くと、泉はそれ以上何も言わずに「そう」と、視線を手紙に再び落とすのだった。

「色々と、思い出してしまうわね。一年と半分。そう言ってしまうと、それほど長い時間が経っているような気がしないけれど、でも、私の中では、もう、ずっと昔のことになってしまっているわ」

「何となく分かるよ」

「本当、不思議ね。遠坂は、夏葉からの手紙をもう読んだの?」

「まだ、読めてないよ。夏葉の言葉がこの小さな手紙に刻まれていると思ったら、怖くなった」

僕は、純粋に気になった。「泉は怖くないの?」と。僕がそう尋ねると、泉は手紙を片手で持って見せて、「見て、震えているでしょ。これが答えよ」なんて、そんな事を言うのだ。

「怖くない、だなんて嘘。でも、全部怖いから震えている訳でもない。だから、この気持ちが、感情が何なのかも、どうすれば解消されるのかも、私は分からない。それは、昔からずっとよ。ずっと、あの日からずっと、夏葉が亡くなったって担任から聞いた時から、ずっと分からなかった」

 泉は手紙を両手で持ったまま、ゆっくりと瞼を閉じて、それから短く口から息を吐く。短く息を吐いた時、何かを呟くように泉の口が動いたようにも見えた。でも、泉の声は聞こえなかった。それが、決心を意味する言葉を呟いたのかもしれないし、あるいは決別を意味する言葉を呟いたのかもしれない。いずれにせよ、次に瞼を開けた時の泉の瞳は、決して揺らいでなどいなかった。

「私は読むわ。それも、今読ませてほしい」

 この瞳だ。泉は昔からそうだ。眠たそうな目をしているのに、その奥にある瞳はしっかりと見るべきものを見据えている。こういうところは、やはり変わらぬまま、僕の知っている泉のままだ。泉のこの瞳を見る度に、僕はどうしてそんなにも力強くいられるのだろうかと、不思議に思い続けて来た。そして、それは今も思う。なぜ泉はそんなにも、力強くいられるのだろう。泉も、夏葉からの手紙を受けて、単なる恐怖だけではなく、もっと大きな、全貌すら分からぬほど、巨大な壁を見上げているような心地で、それはたぶん、僕が夏葉からの手紙を前にした時に感じたものと大差ないと思う。

「どうして、」と、自分自身、何が知りたいのかも明確にならないまま、僕は泉に言っていた。「どうして、読もうと思えるのか」と。

 僕の問いに対し、泉は「だって、夏葉が最後に残した私へのメッセージだもの」と、笑って見せる。

 ああ、全く以てその通りだ。この手紙は、あの夏葉が最期を目の前にした上で、僕や夏花、泉に書き残したものなのだ。でも、だからこそ僕はその手紙の封を開けることを躊躇ってしまう。

「自分の中でまだ生きている夏葉が、変わってしまうんじゃあないかって、そうは思わない?」

「手紙を読むことで、ということ?」

「そう。あの島で夏葉と一緒に過ごした時間はどんどん遠ざかってしまうけれど、でも確かにまだ僕の中にある。それは泉も一緒だと思う。その過ごした時間が、思い出が、僕の中にいる夏葉が、この手紙を通じて変わってしまうような気がするんだ。それが、僕はやっぱり怖いよ」

 思い出は思い出のままに。もう二度と繰り返すことは叶わないのだから、大切に、傷つけることなく、忘れぬよう抱え続けていたい。でも、それは感傷に浸るということで、ずっと過去を思い続けるということなのだ。だって、もうこの先に夏葉はいないのだから。

「そうね。遠坂の言う通りだと思うわ。私は、まだ夏葉が死んでしまったなんて思いたくはなくて、きっとそれは遠坂もそうでしょう? 夏葉が死んでしまったなんて思いたくないし、受け入れることもまだ出来ていないの。むしろ、受け入れたくないと言ってしまった方がいいのかもしれない。だって、まだまだ沢山あったもの。夏葉としたいことが、沢山あったもの。ちゃんと言葉にして、伝えたいことがあった。でも、それも出来なくなってしまった。急に、出来なくなってしまったの。遠坂の言う通り、今抱いている恐怖というのは、私の中にいる夏葉が揺らいでしまうかもしれない、という危惧からかもしれない」

 泉は、「でも、夏葉からの手紙を私は読みたい。それも本当の気持ち。だからこそ今読むの。そこに付随する恐怖を受け入れるためにも、手紙を読んだ後に、夏葉の話をあなた達としたい」と、僕と夏花を交互に見ながらそう言った。

「夏葉はいなくなってしまったけれど、夏葉を知ってくれている人はいるもの。だから、遠坂から夏葉の話をしよう、というメールが来た時、実は私、嬉しかったのよ」

「その言い方は、なんだかズルいよ」

「ふふ、そうかしら?」

 ズルい。反則だ。今の僕には、その言葉はズルすぎる。夏葉がいなくなってしまった事を受け入れながら、それでもなお、悲しみに暮れずに先へ行こうとする人の言葉だ。

 泉のその言葉を聞いて、僕は海風に頬を撫でられたような感覚が這い上がって来て、この気持ちは、ちょうどあの島で一人浜辺に座り水平線を眺めていた時の気持ちに似ている。泉は「少し時間を頂戴」と、手紙の封を開けて、中に入っているものを取り出すのだが、もう、僕にはその声も遠くへ行き、ただただ静かに泉が夏葉からの手紙を読んでいる様子と、それを見守るようにひっそりとしている夏花の様子だけが、音も無く飛び込んで来るだけであった。

 手紙の枚数は三枚。一枚目を読み進め、それから二枚目に入る。時々小さく息を吸い込んで、それから顔を伏せ、再び手紙を読み進めて行く。それを何度か繰り返していくうちに、段々と泉は顔を歪めて行くものだから、それだけでもう、この夏葉からの手紙の内容が泉にとってどういうものなのか分かってしまう。

 三枚目に差し掛かって、泉は溜息を溢す。それでも最後まで、手紙から目を逸らすことなく読み進める。

最後に、泉は顔をクシャクシャにして、それでも心なしか、その顔は柔らかく笑っているようでもあった。

「本当、夏葉らしい。せっかく書いたこの手紙を隠していたなんて」

 泉は「本当、私の知っている夏葉だわ」と、遠い目をする。それからは、音も無く静かに涙を流すのだった。

そしてポツリとこう言うのだ。「そうね、もう、この手紙に返事をすることも、夏葉に今の気持ちを伝えることも出来ないものね」と。

「いなくなるって、そういうことなのよ」

 そのことを、僕は夏葉が亡くなる前に知っていた。祖父が死んだ時、まさしくそうであった。こんな僕を、優しく迎え入れてくれた祖父が亡くなったのは、僕が中学生二年生で夏の頃であった。あの時、僕はやはり泣いたと思う。祖父に言いたいことが沢山あった。ありがとうと、その一言では言い表すことが出来ないほどの感謝を僕は祖父に伝えることが出来ずに、僕は永遠に祖父と分かればなれになった。

 あの時、夏葉が僕に言ってくれた言葉がある。残してくれた言葉があった。

「目を瞑って、その人のことを思う。あなたの中でその人と会うことが出来たのなら、あなた自身がその人が生きていた証拠になる。時々思い出してくれるのなら、きっとその人はそれだけで報われると思う。いつの日か、夏葉が言っていた言葉だよ」

 当時、僕は夏葉がもうじき死んでしまうなんて知らなかった。だから、あの時夏葉がどういう思いでこの言葉を言ったのかなんて分からなかった。

「そう。そういえば、夏葉は時々、遠くを見ながら影を落とすようなことを話すことがあったわね。私が覚えているものだと、夏葉はこんなことを言っていたわ。毎日が楽しい。夜、ベッドに入って今日一日あった事を思い出すと、自然と笑ってしまうって。中学校の教室で、何でもない休み時間に、ふと夏葉がそんな事を言っていた時のことを、この手紙を読んで思い出したわ」

「そうなんだ」

 もう、あの日々は遠ざかって行くばかりなのだ。夏葉を置いて、遠ざかって行くばかり。

「他にも、お姉ちゃんとどんな話をしたのか、教えてくれませんか?」

「ええ。いいわよ。私も、夏花さんから色々と話を聞かせてほしい」

 それからは、時間の許す限り夏葉の話をした。この世界には存在しない人について話をしているなんて、そう思うとなんだかとても不思議で仕方がない。

 でも、僕や夏花、泉は確かに知っている。夏葉という女の子がこの世界に居たことを、確かに知っている。

 この日の最後、僕と夏花は、泉から「また、会いましょう」とそう言われて彼女と別れた。また会おう。そうして夏葉の話をしようと、泉はそう言ったのだ。

 泉はきっと、明確な区切りをつけるつもりもなくて、自身の中に残っている夏葉と死別する気もないのだろう。別れ間際、泉は夏葉からの手紙を大事そうに胸に抱えていた姿を見て、僕はそう思った。

 一方で、僕はこの夏で区切りをつけようと思った。区切りをつけて、終えてしまおうと思った。夏葉が残したという手紙を渡し終えた後、僕自身も夏葉からの手紙に目を通し、区切りをつけてしまおうと思っていた。僕はもう、耐えることが出来そうになかったから、この先に進もうとも、夏葉に出会うことなど出来ないのだから。

 でも、今日泉と話をして、もしかしたら、明確な区切りなどつけることなんて出来ないのではないのかと、そんな事を考えてしまう。

 果たして僕は、夏葉からの手紙を読むことが出来るのだろうか。仮に読めたとして、僕は何を思うのだろう。泉のような涙を流し、夏葉のことについて誰かと話をしたくなるのだろうか。

「目を瞑って、その人のことを思う。あなたの中でその人と会うことが出来たのなら、あなた自身がその人が生きていた証拠になる。時々思い出してくれるのなら、きっとその人はそれだけで報われると思う」

 自分で思い出して、泉に言ったことであるけれど、夏葉がかつて僕に言ってくれたこの言葉が、また違った意味を持って僕の奥底に染み込んでくる。

「また、会いましょう」

 そして、泉が別れ際に言ったこの言葉を受け、また泉と夏葉の話がしたいだなんて思っている自分がいることに、なんだか可笑しいなと、そう思った。

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