3-5

 泉と会う約束が出来たことを電話で夏花に伝えた所、「ありがとうございます」という彼女の声が、電話越しに伝わった。あとは、何日の何時に、どこで待ち合わせの約束をしたのかを伝え、ならその時間に間に合うよう、僕と夏花は何時にどこで待ち合わせるかを決めて通話を終えた。

 そうして眠って、起きて、約束の日までの間、僕は何か特別なことをするわけでもなく、やはりいつものように、いや、泉と会うというのも影響してか、いつもよりも長く、昔のことを思い出して時間を過ごした。夏休みの課題をしつつ、適当にテレビを眺めて、エアコンの風で鈍った体を起こす様にベランダに出て、軒を連ねる家と、電線と、ショッピングモール何かで埋め尽くされた日常の光景の上に、覆いかぶさるように広がる青い空をモクモクと泳ぐ遠くの入道雲をぼんやりと眺めながら、遥か遠くの、まだ夏葉が生きていた時のことを思い出した。それから、卒業アルバムを見返して、クラスの集合写真には夏葉がいないのに、所々日常を収めた写真には彼女の姿があるのが、なんだかこの夏の、どこか物寂しい様子に当てはまるようで、僕はベッドの上で目を瞑り、それから目を覚ませばもう一日は終わりを迎えるのだった。

 下らぬ日々を積み重ね、取り返しがつかないことに対し、やはり虚しい思いを積み重ね、泉は今何をして、どんな日々を積み重ねているのかを考えると、僕は少しばかり怖くなる。泉の中に、確かにいたであろう夏葉は、今どうなっているのかを考えると、僕は怖い。手紙を渡しにはいくが、泉がその手紙を何の抵抗もなく読み上げたのだとしたら、それは何だか、あれだけ夏葉が亡くなって取り乱していた泉の面影がなくなってしまったかのように思える。

泉の中で、夏葉の死は整理され過去のこととして落ち着いてしまっていることが、それだけが僕は怖い。それはまるで、あの泉ですら、夏葉を置いて行ってしまったかのようだ。死人は先へはいけないのだということを明確に言い付けられているようで、僕はたまらなくベランダに出て、星空を眺めては昔の記憶にしがみついて、そうして泉と会う約束をした日を迎えた。

 蓮華公園の最寄り駅までは、今僕が住んでいる場所から鈍行列車と特急列車を使って二時間と少しかかる。

 ひとまず、夏葉のお墓に行った時と同じ駅で夏花と待ち合わせをし、それから一緒に蓮華公園に向かうことにした。夏花が蓮華公園というのはどういう場所なのかと僕に尋ねて来たものだから、僕は金魚の形をした池がある自然公園だよ、と簡単に答え、それから、蓮華公園に行った時のことを夏花に話した。その話をした後、夏花がどこか遠くの、それこそ夏葉を思い浮かべるような視線を車窓の外に向けて、「お姉ちゃん。きっと楽しかったと思います」と、そう言った。島に来る前は、ほとんど病院で時間を過ごすことが多く、友だちも思うように作れなかったから、そういう、同い年の友達と一緒にどこかへ遊びに行く、という在り来たりな日常に憧れ以上の思いを抱いていたのだと言う。もしも、本当にあの時間を夏葉が心のそこから楽しんでくれたのなら、それはとても良かったことだと思う。ふと、あの遊びに行った帰り道、夕焼け色に染め上げられた電車で、口元を緩ませ、微笑むように僕の肩にもたれ掛かって眠りについていた夏葉のことを、僕は思い出した。

「きっと、それだけではないと思います。あの島で過ごした二年と少し、お姉ちゃんはきっと、楽しくて、幸せな時間を過ごすことが出来たのだと思います」

「そうかな」

「そうですよ」

 今はもう、夏葉から直接あの島での日々のことをどう思っていたのか聞くことは出来ない。確かなことは、少なくとも僕の中で、あの島で夏葉と過ごした約二年半という月日は、どうしようもなく眩しい時間として、今なお僕の胸の内に残っているということだろう。仮に、夏花の言う通り、夏葉にとってもあの日々が幸せな日々であったのなら、僕が夏葉の幸せな時間の一部になれたのというのなら、それはとても良い事なのだと思う。

 それから蓮華公園に着くまでの二時間ちょっと、僕は夏花に夏葉と過ごした日々のことを話して時間を過ごした。それは断片的で、水中深くに沈んだ空気が、ゆっくりと浮上して水面で爆ぜるかのような話し方であっただろうが、それでも夏花はずっと話を聞いてくれた。

 学校の休み時間に交わした他愛もない話をしたこと、放課後には海辺に行って話をして、時々一緒に海水を蹴飛ばして遊んだこと、夏休み、島中を歩いて回りたいと夏葉が言い出したものだから、泉も連れて、三人で一日かけて島を一周した時のこと。かつて、確かに過ごし、瞬く間に過ぎ去って行った時のことを、僕はなぞるように思い出し話をした。

ただ、話をしていると、果たしてそれらが本当にかつて実際にあった出来事であったのか、不思議と自信が持てなくなっていくのだ。あの日々は、今僕が話を思い出話は、本当は現実には怒っていないのではないのか。夏葉なんて女の子は、この世界にはいなかったのではないのか。眠る前、ベッドの上で昔のことを考えている時、よくそんな心地になったものであるけれど、なんだか最近、こうして夏花に夏葉の話をしている時も、眠る前に夏葉と過ごした日々を思い起こしている時と同じ位か、もしくはそれ以上に僕は不安になる。

僕は、きっと強くはないから。夏葉の死を、僕は受け入れることが出来ずに、僕の内側に残っている、この残り火のようなものを、吹き荒む雨風から、それこそ縋りつくように守っている。だけれど、日に日にその残り火が小さく、弱々しくなっていくのが、やはり僕には分かるのだ。そして、その残り火が消えるということが、一体どういう意味をもたらすのか僕には分からない。夏葉からの手紙が読めないのもその所為で、手紙を読むことが、残り火を消し去る最後の一風になるのかもしれないし、あるいは残り火を大きくしてくれるものになってくれるのかもしれない。

こうして夏花に夏葉のことを話すという行為は、果たしてどちらになるのだろう。そして、これから泉と会って話をするというのも、どちらの行為に当てはまるのだろうか。

どちらにせよ、何かが変わるのは残り火であることに変わりない。もう、そうやって、自然と薄れて行く思い出だとか、色褪せて行く卒業アルバムだとか、擦れて行く日記だとか、そういう、穏やかに消えてゆくものに頼ることしか出来ない。

ふと、隣に座る夏花が、それこそ夏葉のように見えてしまって、それまで話していた言葉が不自然に止まったものだから、夏花の顔が僕の方に向けられ、視線があった。

「その、遠坂さん、大丈夫ですか?」

「え?」

 夏花に指摘されて、僕は初めて自分の頬に熱いものが伝うのが分かった。

「ああ、うん、ごめん」

 なんだか最近、訳もなく泣いてばかりだ。これは、決して悲しいから泣いているわけではない。虚しいから泣いているのでもない。かといって嬉しいから泣いている訳でもない。涙が、僕の知らない所から落ちてくるのだ。この夏の、雲一つない晴れ晴れとした様相の中、音も無く水滴が落ちてくる。

 目を擦って、それから夏花の顔に目を向ける。その夏花の目にも涙が浮かび上がっていて、「戸部さんも、大丈夫?」とそう言うと、夏花も僕に指摘されて涙が流れていることに気が付いたのか、笑いながら「可笑しいですね」なんて目を擦るのだった。

 車窓の外に目を向けて、後方に流れて行く町並みと、変わらない青い空を見て、季節が巡るだけだなんて嘘だと思った。とても、夏葉と泉と一緒に蓮華公園に行った時と同じ季節を今過ごしているなんて思えない。同じ季節であると言うには、余りにも変わって過ぎさっていったものが多すぎる。

 会話が途切れ、電車が進む、ガタガタという音が耳に張り付く。電車は音を立て、僕を揺らし、目的地へと連れて行く。

 もうじき乗り換えをしなければならない駅に辿り着く。時期に、僕はこの電車を下りなければならない。

 これまでどんな名前の駅を過ぎ去って行ったのだろう。どうにも思い出すことが出来そうになくて、電車を降車していった人のことも、新たに乗車した人のことも、僕は知らなかった。

この夏に、僕はあと何駅通り過ぎて、こんな涙を何度落とすのかと、そんな事を思う。

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