第三章

3-1


 僕と夏葉がどのように出会ったかのかまで話をしたから、次に、僕が夏葉と出会ってから学校に行くことが出来るようになるまでの話をしようと思う。

 僕が学校に行くことが出来なかったのは、一言で言ってしまえば学校に居場所がなかったからだ。他人と関わることが苦手であった僕は、必然的にいつも一人だった。その、いつも一人なのだという事実が、僕を優しく締め上げて行き、そして、風邪をひき一週間ほど休むという些細なきっかけで、到頭僕の足は学校へ向かって歩いてはくれなくなった。

 居場所がなかったから学校へ行きたくない。逆を言えば、居場所が出来れば学校に行くことが出来るようになる。そして、その居場所を作ってくれたのが夏葉だった。ようは、僕は夏葉と少しでも長く話がしたいな、などという、どこか間抜けな理由から、学校に足を向けるようになったというわけだ。今改めてそう一言で言ってしまうと、なんだか随分僕はくだらない理由から学校を休み続けていたような気さえするけれど、今振り返ってそんな風に思うことが出来ると言うのは、存外悪いことでもないだろう。

 四月。その月は、僕は学校に行くことは出来なかった。正確に言うと、数回学校へ行ってはいるのだが、どれも所謂保健室登校というもので、教室へは行かず、一人保健室で自習をしつつ、時折保健室の窓ガラス越しに、休み時間外で楽しそうに話している同級生か、あるいは先輩の様子を眺めていた。

 その数回の保健室登校のうち、一度だけ誰かが保健室にやって来たことがある。その時、ちょうど先生がいなかったものだから、僕はカーテンを閉め切って、一人息を潜め、ジッとやって来た誰かがいなくなるのを待っていた。その誰かが保健室にいたのは、昼休みの間だけで、もうじき昼休みが終わることを告げる予鈴が鳴ると共に、その保健室にやって来た子は去って行った。昼休みに保健室に来る子だなんて、そうはいない。少なくとも、僕が保健室登校をしている間、昼休みに誰かがやって来たのはそれが最初で最後のことであった。保健室に入ってくる時に聞いた「失礼します」という声に僕は聞き覚えがあったのだが、その時すぐにその声の主が誰なのか僕には分からなかった。声の主が誰であるのか分かったのは翌日のことで、一人夕暮れ時までいつものように海辺にいると、「こんにちは~って、もうこんばんは、かな?」なんてやって来た夏葉の声を聞いて、ああ、あの時保健室で聞いた声は、夏葉の声だったと、気が付いたのだ。

 ただ、気が付いたからと言って、夏葉が保健室に来たことに関する話題を夏葉にした訳ではない。体調くらい皆度々悪くなるだろうと、その程度しか考えていなかった。もしかしたら、当時もしも夏葉がもうじき死んでしまうのだと知っていたら、もっと違うことを考えていたのかもしれない。

 ともかく、僕はその時、夏葉は確かに学校で日常を過ごしているのだと、そんな当たり前のことに気が付いた。そのことに気が付いた途端、僕の内側には、夏葉が一体学校ではどんな風に時間を過ごしているのか、という純粋な興味が沸々と湧きあがったのだ。

ただ、夕暮れ時に海辺で夏葉と話をしている時、一度だって彼女は学校の話を持ち出さなかったし、一度だって僕に「学校に来なよ」なんて話もしてはこなかった。夏葉が学校に関する話を一切持ち出さなかったのは、学校に行くことが出来ていない僕に気を遣っていたからなのかは分からない。いずれにせよ、僕は放課後海辺で夏葉と話すだけでは、夏葉が日中どんな風に過ごしているのか知ることなど出来なかった。加え、彼女と話をしていくうちに、僕は彼女自身に惹かれ初め、より一層学校で夏葉がどんな風に過ごしているのか気になって行った。

では、夕暮れ時の海辺で僕が夏葉とどのような話をしていたのかというと、大抵はこの島に関する話題で、「この島って、お祭りとかあったりするの?」だとか、「おすすめの絶景スポットは?」だとか、「私、甘いものが好きなんだけど、どこか美味しいスイーツが食べられるお店ってあるかな?」のように、単に、この島に来て間もない夏葉は、島のことを知るために、そんな話を僕に投げかけた。ただ、情けないことに、当時、僕はあまり島に何があるのかだとか、そういうことはあまり知らなくて、答えられたことと言えば、八月の上旬に行われる夏祭りの話くらいだった。絶景スポットに関しては、「まさしくこの海辺だと思う」なんて、夏葉はどこか遠い目をして水平線を眺めながら話していたし、甘いものが食べられるお店というのも、ある日夏葉が見つけ出して、僕の手を引いて連れて行ってくれた。そのお店と言うのが、夏花とも言ったあの喫茶店だ。

その他にも、「私、海に入ったことって一度もないんだよね」なんて夏葉が呟いたかと思ったら、彼女は立ち上がり、濡れた砂浜まで行ったかと思ったら、「何か、思っていたよりも冷たくない」なんて満ち引きを繰り返す海水を蹴飛ばすのだった。その時見た、夕日に照らされ輝きながら宙を舞う海の雫と、夏葉のどこか憂いを帯びた、それでいて楽しそうに笑う顔を僕は良く覚えている。また、星空を眺めていた時、「プラネタリウムの方がとても綺麗に星が見えたんだけど、ただ綺麗なだけだったんだよね」という呟きの後に、「こっちの方が、私は好き」と夏葉が話したのも、僕は覚えている。僕は、当時プラネタリウムというものを見たことは無かったから、「ただ綺麗なだけ」という夏葉の言葉の意味が分からなかったけれど、高校生になって、その「ただ綺麗なだけ」という言葉が意味するところを知るために一度だけプラネタリウムに行った。そうして僕も、「ああ、確かにこれは、綺麗なだけなのだ」と、そう思った。あれは写真の美しさに似ている。僕がそう感じたことを、夏葉に伝えたいと思ったが、ああ、もう夏葉に何かを言うことは出来ないのだと、本当にそんな事を思ってしまって、一人可笑しくなって笑ったのだ。

島のこと以外に話をしたことと言えば、後は本に関する話だった。意外だなんて言っては失礼かもしれないが、夏葉は本を読む人間だった。確か、「読書するの?」と話しかけたのは夏葉の方であった。僕が「どうして分かったの?」と尋ねると、夏葉は鞄から一冊の本を出し、「ここに君の名前が書いてあったから」と、裏表紙の裏側につけられたポケットから貸出履歴を抜き出して見せて来たのだ。どうやら夏葉が取り出した本は学校の図書室の本らしく、貸出履歴には一年前の一月十五日という日付と共に、確かに僕の名前が残っていた。

「ここの学校の図書室って、小学生と共同で使っているんだね」だとか、「他の本の貸出履歴をみたら、所々で遙生君の名前が書かれていたから、きっと読書好きなんだなぁって」というような事を夏葉から言われたのだが、そんな夏葉から言われた言葉の中で特に印象に残っているのは「私が気になった大概の本の貸出履歴に遙生君の名前があったから、本の好み似てるのかも」という言葉だった。

本の好みは、その人自身を良く映していると僕は思う。その人が好きな本の内容を知れば、その人がどんな事を考え、何を大切だと感じるのかという価値観も分かるような気がしている。だから、その本の好みが似ているというのは、つまり物事に対する考え方や捉え方が似通っているということで、何だか僕と夏葉は、もしかしたら性格の根っこの所が似通っているのかもしれないと、そう思えたのだ。

そして、実際に共通の好きな本の話を通して夏葉という人間はどんな人間で、同じように僕と言う人間はどんな人間なのかを、互いに知ることが出来たように思う。だからこそ、人付き合いが苦手であった僕が夏葉となら上手く話すことが出来たし、短い時間で彼女との距離を縮めることが出来たのだと思う。

 僕は夏葉と本の話だとか、他愛もない話をしていくことで、少しずつ夏葉に惹かれていった。そうして、そんな夏葉が学校ではどんな風に過ごしているのかが気になると共に、もっと話がしたいな、などと思うようになり、僕の足は学校の教室に向かうようになったのだ。

 中学生になり、初めて教室に入った時のことは良く覚えている。夏葉に会いたいと、そうは思っても、実際に学校に行き、教室の扉を前に、奥から聞こえる談笑を耳にした途端、フッと足元に暗い穴が開いたような心地になった。でも、その談笑の中に、確かに夏葉の声が聞こえ、夏葉が楽しそうにクラスメイトと話すことが出来ているのなら、僕も楽しくクラスメイトと話をすることも出来るのではないのかと、そんな事を思ったら、次の瞬間には僕の手は扉に触れていて、僕はその扉を開き、教室に入ったのだ。

 教室に入った瞬間、教室が静まり返った。静まり返って、そうして最初に声を上げたのがやはり夏葉で、「遙生君! こっちこっち!」と僕に手招きしてくれた。

 後のことは、正直あまり覚えていない。印象に残っていることといえば、皆あまり僕がこれまで学校に来ていなかったことについてあまり触れてはこなかったということと、夏葉は教室の隅の方に、一人の女子の友人と共に話をしていたという点だ。夏葉は明るく社交的な雰囲気であったから、彼女はすでにクラスメイトの皆と仲良くなっていて、クラスの中心人物になっているのか僕は勝手に想像していたのだが、実際はそうではなかった。

 そして、その日の放課後、僕は夏葉と一緒に帰ることになった。ただ、そのまま家に帰るのもつまらないから、いつものように海辺に行って夜が来るまで話をしようということになり、それから放課後は夏葉と一緒に海辺へ行き、日が暮れるまで他愛もない話をする、というのが日常になったのだ。

ちなみに、海辺に向かう道中、「てっきりクラスの中心にいるのかと思ってた」と実際に尋ねてみたら、夏葉は「私、転校生だよ?」なんて頬を掻きながら微笑を浮かべていたのをよく覚えている。その一言で、夏葉という人間像は僕の胸の内にストンと確かな形を以て落ち着いたのだ。

 それから、夏葉は学校で一緒にいた女の子について話をし始めた。その女の子とは図書室で知り合ったらしい。放課後は図書室で図書当番をやっていて、時々夕暮れ時に海辺に夏葉が来なかったのは、ちょうど図書室に行ってその女の子と話をしていたからなのだそうだ。

 その女の子というのは当然小学生からそのまま中学生に上がった、僕も昔から知っている同級生だ。小学生の頃、僕は誰一人として同級生とは関わりを持つことはなかったから、その夏葉の友達だという女の子とも、別段これまでに話したこともなかったし、関わったこともなかった。だから、顔と名前位は知っていても、あの女の子も読書好きだったという事実など、僕は知らなかった。中学になり、教室に入って久しぶりにその女の子の顔を見たのだが、小学生の頃と変わらずに、少し長い髪を後ろで一つに結んでいて、どこか眠たそうな目をしているなと、思った事はその程度だった。

 その後、その女の子とは夏葉を通じて少しばかり話をするくらいにはなった。しかし、夏葉がいなくなって、中学を卒業してからは、かつて何度か話をしたことなど無かったかのように、関わりはなくなっている。今どこで何をしているのかも、どこの高校に進学したのかも、僕は知らない。

 だから、僕は夏葉が残したという手紙に書かれた宛名を見て、「ああ、懐かしい名前がある」と、あの時のことを思い出した。

泉菜月。

 彼女もまた、僕や夏花と似たような、深く暗い穴の中に落ちたままでいるのだろうか。

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