2-7
バスを降りて、霊園へと足を踏み入れる。そこには数多くのお墓が静かに並んでおり、僕はただ黙って夏花の後をついて行く。
「ここです」
そして、『戸部夏葉』と名前が彫られた墓石の前に辿り着いた。
夏花は「お水を取ってきます」と言い残し、霊園のさらに奥の方へと向かっていき、僕は一人、お墓を前にして取り残された。
「…………」
この墓石の下に、夏葉が眠っている。確かに夏葉の名前は刻まれている。それは果たして、夏葉はもう死んだのだという現実を刻みつけているのか、それとも夏葉という人間は確かにいたのだという現実を刻みつけているのか僕には良く分からない。
唯一つ、確かに言えることは、やはり夏葉の墓を見たところで僕の中にいる夏葉は死んではくれないようだった。もしかしたらという期待はあった。夏葉の墓石を前にすれば、僕は夏葉とのかつての日々を、それこそ走馬燈の如く思い出し、ああ、あの頃は本当に、などと感傷に浸って涙を流すかもしれないと、そう考えもした。しかし、実際に夏葉が眠る墓を前にしても、墓石はどこまでも石で、涙は一滴も外に流れる気配もない。
ジッと墓石に刻まれた『戸部夏葉』という文字を目にしていると、その文字が段々と遠ざかって行くような心地になる。それは、ちょうど空を長い時間眺めている時の心地に似ていた。意識が遠くへ引き込まれていくようで、そのうちプツリと途切れてしまうのではないのかと、不安になる。
「信じられないですよね」
ふと、そんな声がして、意識が自分の体に戻って来る。左に目を向けると、そこには夏花が、水が入った手桶を持って立っていた。
「私、本当に信じられないんです。病室でお姉ちゃんの最期を見た時も、お葬式の時も、こうしてお墓を前にしている時も、全部、信じられないんです」
夏花は、そう言ってお墓の上で柄杓を傾け、ゆっくりと水を流す。墓石は、水が流れた跡を残すように色を変えて行く。
「どうぞ」
「うん」
夏花から柄杓を受け取る。柄杓を傾け、水を流すと、雨が降る前の匂いと似た匂いが立ち昇った。
「信じられない、じゃあなくて、信じたくないんだと僕は思うよ」
祖父母の死は、僕の中ですでに整理が付けられている。つまり、祖父母は僕の中でも、もう死んでいるのだ。それは、きっと祖父母は僕よりも長く生きていて、死というものがイメージしやすかったというのもあるかもしれない。自分よりも年上の人間は、確実に自分よりも早く死ぬのだという意識があったからかもしれない。祖父母が死んだのは、確かに悲しい出来事であった。でも、僕よりも祖父母は早く死んでしまうということを僕は無意識のうちに考えていたのだろう。祖父母がいない現実というものが、日常になるまで、そう時間はかからなかった。
でも、夏葉の死はやはり違う。僕にとって、夏葉はとても近しい所に居たはずだった。年齢という意味でも、心の距離という意味でも、彼女は近くに居た。彼女が死ぬなんて、一度だって想像することなどなかった。そんな人間にも、死というものはやって来るのだと言うことが、純粋に信じられないし、信じたくもない。
受け取った柄杓を夏花に返し、その代わりに買って来た線香を取り出し、一本を夏花に手渡す。ライターの火を線香につけると、小さく優しい、だけれど確かに熱い火が付く。
線香の煙は、ユラユラと揺らめきながら昇り、風によってかき消され、あの、独特な線香の匂いが夏の空気に溶け込んでいく。
「僕、この匂いが苦手なんだ」
「線香の匂い、ですか?」
「そう。昔から苦手で、でもどうして苦手なのか分からない」
「私も、あまり好きではありません。その、どうしても思い出してしまうから」
思い出すと言うのは、おそらく夏葉の葬儀のことなのだろう。僕は、それ以上深く何かを言うことも出来ず、「そっか」と短く返事をすることしか出来ず、夏花の方も、「はい」と小さく頷くだけだった。線香から昇る白い線を眺め、墓石に刻まれた『戸部夏葉』という文字を見つめていると、思い出したかのように蝉の鳴き声が遠くから耳に届く。
「君は、夏葉が島でどんなふうに過ごしていたかを知りたいんだったよね」
「はい」
「約束通り話すよ。でも、すべてを分かりやすく君に説明できる自信が無いし、あの島での日々のことを全て話そうとすると、とてもじゃあないけれど、それなりに時間がかかると思う。僕が覚えていることで、特に印象に残っていることを話そうと思うけれど、それで大丈夫?」
「大丈夫です」
「分かった。それと、話す前に三つ聞かせて欲しいことがあるんだ」
一つ目は、なぜ夏花は夏葉が残した手紙を読みたいのか。二つ目は、見つかった手紙は数通あったと聞いているが、夏花と僕、それ以外に夏葉は誰に手紙を残していたのか。そして三つ目は、夏葉が島に一人でやって来た理由。
一つ目について尋ねると、夏花はやや言葉を濁しながら、「整理をつけたいから」と、その一言だけ答えた。
二つ目については、手紙は全部で五通見つかったという話だ。その五通の手紙の内、二通は僕と夏花宛ての手紙、一通は両親宛ての手紙、そして残りの二通のうち、一通は僕以外の、あの島の学校に通っていた同級生に宛てられたものだということは分かっているらしい。ともかく、夏花はその残りの二通も渡しに行くつもりでいるらしいが、全く以てその二人がどこに居るのか見当もつかないという。
そして三つ目については、「きっと、お姉ちゃんは自分のことを知っている人がいない場所なら、どこだって良かったんだと思います」と、夏花はまず口にした。
「お姉ちゃん、小学生の頃は病気でほとんど入院しっぱなしで、学校にもあまり行けていなかったんです。それで、小学校卒業間近で、」
「いいよ。そこまで言わなくて」
そこまで言ってくれれば、僕にも分かる。今更彼女がどんな病気に苦しめられていたのかを知ったところで、どうしようもないだろう。
「じゃあ、結局夏葉はあの島にやって来た時、すでに自分はもう長くは生きられないことを知っていたんだね?」
「はい」
それだけで充分だった。やはり夏葉は、自分が近々死ぬことを知った上で、あの島で日々を過ごしていたのだ。島で夏葉と一緒に日々を過ごしていた時、どうしてあんなにも明るい彼女が、時々僕なんかよりも遥か遠い場所を眺めるような顔つきになっていたのか僕は不思議で仕方がなかったのだが、その理由が今はっきりとした。死が迫った人間の心境など、僕には想像すら出来ないけれど、時折見せていた、夏葉のあの表情の裏側には、死の意識、というのがあったのだ。中学三年生になって急に夏葉が姿を消したのも、夏葉の病気が悪化し、病院に入院し治療を受けなければならなくなったからなのだろう。
夏葉は、自分がもうじき死ぬのだということを、結局島の誰にも話すことなく消えて行った。それは、彼女はもうじき死んでしまう女の子としてではなく、世に言う普通の女の子として、最期まで過ごしたかったからなのだと思う。いうなれば、普通の女の子としての、在り来りな青春と言うものを感じ、生きたかったのだ。
夏葉が何も言わずに死んでいったことについて、僕は受け入れたくないし、納得もしたくはないけれど、それでも分かってしまう。夏葉の心境は、分かってしまう。なんだかそれが、虚しくやり切れない。
島で日々を過ごし、僕や他の島の同級生と仲良くなり、その上で何も言わずに去って行くことに夏葉は罪悪感を抱いたからあの手紙を残したというのなら、それは何とも夏葉らしい。いかにも夏葉がしそうなことであるし、また、その手紙を隠す様にしまっていたというのも、夏葉らしいなと思ってしまう。
そこまで考えて、自然と、目頭が熱くなるのが分かった。泣かないだろうなと、そう思っていたはずなのに、なぜか、じんわりと目頭が熱くなって、線香から昇る白い線を追うように顔を上げ、空を仰いだ。
夏葉は、そういう子だった。少なくとも、僕のなかで未だに生きている夏葉という女の子は、そういう子なのだ。そんな子が、一人で悩んで、一人で死と向き合って、あの島で明るく僕なんかと関わって、そうして最期に行き着いたのが、あの手紙だ。
ならば、そんな手紙を無下に出来るわけもない。あの手紙は、夏葉の最期に一番近い場所にある。夏葉が最期まで死と向き合って、そうして言葉として伝えたいと思ったものが、あの小さな封に仕舞われた手紙に書き残されている。そんな手紙を見つけてしまったら、宛てられた人に届けなければならないと思うのは、仕方のないことなのかもしれない。
「手紙、まだ渡しに行かなければならない人がいるんだよね」
「はい」
「僕も、手伝うよ。この夏の間だけなら、という条件付きになってしまうけれど」
ジッと青い空を見上げて、僕は本当に何をしているんだろうなと、そう思う。何もかもを放り投げてしまおうと決めたのに、そもそも怖いからと言う理由で、僕はまだ夏葉からの手紙を読むことが出来ていないのに、本当に可笑しな話だろう。
可笑しくて、本当に、何が可笑しいのか分からなくなって、涙だけが不意に零れてしまいそうだった。
少し間が開いて、「ありがとうございます」と夏花の声を聞いた時、僕は決めた。
渡るべき人に、手紙を渡しに行こう。そうして、その間に、僕は夏花に島で夏葉がどのような日々を過ごしていたのかを語り、もう一度、一から夏葉のことを思い出すのだ。そうして、整理と言うか区切りをつけて、怖さと共に、夏葉からの手紙を読むのだ。
そうやって、この夏を終えようと思った。
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