2-6

 空が朝を迎える前に目が覚めた。部屋はまだ暗く、時計を見ると、時刻は午前五時であった。体を起き上がらせて、カーテンの隙間から空の様子を眺めてみると、空の、遠くの方は微かに白んでおり、朝の気配が漂い始めていた。

 昨日行ったあの島の海辺で見た、早朝を迎える空と比べ、このアパートの一室から眺める白んだ空は、どこか濁っているように見える。それは、もしかしたら僕と白んだ空とを隔てる、この窓ガラスという透明で薄い、少しばかり頑丈な膜の所為なのかもしれない。そして、その窓ガラスにうっすらと浮かんでいる僕と目が合い、僕はしばらくの間、自身の目を視界に収めつつ、空が朝を迎える様をジッと眺めた。空が完全に青々としたところで、窓ガラスに浮かび上がっていた僕の姿は溶けて消え去り、今日の空は悲しいほどに澄んだ青に染まっているなと、そう思った。今日と言う日は、いっそのこと一日中土砂降りの雨であったら良かったのに、生憎これ以上にないほど快晴であった。

「…………」

 顔を洗い、服を着替え、食パンでも食べて出かけようかと思ったが、そう言えば食パンは既に食べきってしまっていて、何なら冷蔵庫の中にも、使いかけの醤油だとか、ケチャップだとか、そういう調味料以外何も無くなっていることを思い出した。それが少しばかり虚しさを伴いながら、可笑しいなと薄く短い笑いを引き起こすのだった。

 結局、水道の水を一杯飲んで、僕は部屋を出た。部屋を出てみると、まさしく夏という空気の匂いがして、ムワッとした空気に体が浸かったようで、それこそ、そんなジメジメと重い空気を泳ぐような心地で、僕は待ち合わせ場所へ向かった。

 頭の中が空っぽなのは、きっとこの暑さの所為だ。数メートル先が、ユラユラと揺らいでいて、アスファルトの丸みを帯びた線の先に、青い空が見える。

 線香を買っていこうと、コンビニに寄って、線香とライター、水のペットボトルを買い外に出ると、いつの間にか出入り口には楽しそうに談笑している小学生くらいの少年少女が汗を流していた。そんな少年少女をちらりと見て、視線を落とし、駅へと向かう。改札を通って、ひとまず夏花と待ち合わせをしている、三駅先を目指した。

 電車のドア付近にもたれ掛かるように立ち、車内を見渡してみると、いつも通りの光景が広がっている。皆、どこかへ向かう場所があるようで、とりわけ目に付いたのは、母親の手を握ったまま、ドアに張り付き外を眺めている小さな男の子の後ろ姿だった。もしも、僕も両親と一緒に暮らしていたとしたら、あんな風に母親の手を握り、どこかへ出かけたりしたのだろうかと、そんなことを考えてしまう。僕の幼少期は、あの島と共にあり、祖父母と、学校の図書室と、本と、海辺で出来上がっている。いずれにせよ、あの少年が今まさに得ているものを、僕は持ってはいないのだ。

 両親とは、一年ほど前にあった祖母の葬式以来会っていない。これまでに両親と会ったのは、僕が覚えている範囲で、本当に片手で足りるほどの回数しかない。そして、両親と会ったいずれの時も、僕は両親のことを両親と思うことが難しかった。人と関わって行くことが不器用なのは、きっとそこから来ているのかもしれない。初めて自分以外の人間と密に関わるのは、言ってしまえば両親だ。でも、僕はその両親とすら上手く関わることが出来ていない。ならば、それ以降、他人と関わることが上手くいかないのも、仕方がないことのような気がする。

「…………」

 男の子は、次の駅で母親に手を引かれ電車を降りて行く。その背中から、僕は目を離すことが出来ない。一瞬、ちらりと男の子が振り返る。その時見た男の子の顔は、笑顔と笑顔の、ほんの一瞬に垣間見られる素顔であった。その素顔こそ、本当の彼がいるように、僕には思えた。

 それから数駅。夏花と待ち合わせをしている駅に電車は停まる。忘れていた夏の熱気が、ホームに降り立った僕をもう一度包み込む。

 蝉の鳴き声を聞きながら、ホームから階段を上り、改札を通る。東口の方に行ってみると、ちょうど街路樹の影の下で、ぼうっと遠くを見ている夏花の姿があった。彼女の姿は、昨日島で会った時と同じ白いワンピース姿で、唯一違うところは、今日はその黒く長い髪を一つに束ねて左肩から垂らしているだけだ。僕が夏花の姿を捉えても、夏花の方はまだ僕に気が付くことなく道路の先を眺めていた。

「戸部さん」

 僕がそう声をかけると、ゆっくりと夏花は顔をこちらに向け、小さく頭を下げる。その頬には、やや汗が滲み出ていて、なんだかその様子は、空っぽな青い夏空そのもののようだった。

「おはよう、ございます」

「おはよう」

「霊園までは、今から四、五分後に来るバスに乗って、それからほんの少し歩きます」

「分かった」

 バス停でバスを待っている人間は、僕と夏花だけだった。夏花と会話はせずに、人一人分距離を開けて呆然と立ち尽くし、バスを待つほど五分。夏花の言う通りバスがやって来る。そのやって来たバスにも、人は三人ほどしか乗車していなかった。夏花が先にバスに乗り、その後を追うように僕もバスに乗る。夏花が座った座席の隣は空いていたが、どうにもまだ、僕は夏花との距離の取り方が分かららない。だから、結局夏花の座席の隣には座らずに、ちょうど通路を挟んで反対側にある座席に座った。

 座席に座り、息を吐きながら窓ガラスの外に目をやると、バスはプシュゥと気の抜けるような音を出しドアを閉め、次のバス停を目指し走り始める。

 バスが動き始めた所で、ちらりと何となく夏花の方に目を向けると、彼女はどこか遠い目をして窓ガラスの外を眺めていた。その憂いが滲む表情を、僕はどこかで見たことがあるような気がしたが、ちょうどガラス越しに映る僕の表情に似ているのだと、すぐに思い当たった。

 夏花ほど今の僕と同じ境遇に陥っている人間はいないのだと思う。少し考えれば明白だ。夏花にとって、姉の夏葉という存在がどれほど大きなものであったのかは知らないが、それでも昨日交わしたやりとりで、夏花にとって夏葉は大切な姉であったのだということは分かる。大切な人間を無くすということはどういうことか、僕はそれをこれまでに三度経験している。一度目は祖父、二度目は夏葉、三度目は祖母。別れを繰り返すだけ、別れに慣れるわけもなく、悲しみにだって慣れるわけでは無かった。ただ、別れと言うのはどのようなものなのかをより知っていくだけで、悲しみが意味することをより知っていくだけだった。

 これから先の出会いと喜びに期待しろと言うのなら、それは同様に、これから先の別れと悲しみに涙しろと言っている。でも、誰だって悲しいことは嫌いだろう。嫌いな事はしたくはない。出会いと別れを移り変わる季節の様に繰り返し、美しく咲き誇る桜が散って行く様を見届けることが酷く虚しい。そんなことを繰り返すことでしか桜を眺めることが出来ないのだと言うのは、重大な欠陥であるような気がしてならなくて、何だか期待を寄せることすら馬鹿々々しく思えて来る。

「…………」

 バスは停まり、一人が降りて、二人が新たにバスに乗って来て、そしてバスはまた走り出す。着々と夏葉が眠っている霊園に近づいているはずなのに、全く以て実感が湧いてこない。それは昨日、夏葉が残した手紙を見た時も同じだった。結局のところ、僕の中ではまだ夏葉は死んでくれてなどいないのだと思う。なのに、現実の何もかもは、夏葉などという人間などいなかったように進んで行く。

 夏花はどう思っているのだろうか。夏花の中では、夏葉は死んでいるのだろうか。ならば、どうして夏花の中にいる夏葉は死んでしまったのかを教えて欲しい。出来る事ならば、どのように夏葉は最期を迎えたのかも教えて欲しい。でも、果たしてそれで、僕の中の夏葉が死んでくれるのかは分からない。何より、僕がそれを拒んでいるのだから、どうしようもないだろう。

「…………」

 きっと、僕達は二度、死別をしなければならないのだ。一度目は死んだその人自身と、そして二度目は胸の内に巣食う死んだ人と。大抵の場合、二度目の死別の方が厄介で、僕も、そしておそらく夏葉も、まだ二度目の別れを迎えることが出来てはいないのだ。

 あの憂いが滲む表情は、そういう表情なのだと思う。

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