2-5

 止まれと、本気でそう思っていた春休みというあの宙ぶらりんな期間は思いやりもなく過ぎ去って行った。僕もついに中学生にならなければなくなったのだが、しかし、やはり当時の僕が学校に行けるわけもなかった。入学式くらいは出席しようと、僕なりに頑張ろうとしたが、結局学校には行けても体育館や教室へ行くことは出来ず、保健室で同じように外を眺めていることしか出来なかった。

 せめて入学式くらいは学校に行って、教室にも行かなければと思ったのは、春休みに海辺で出会った夏葉が言った「同じクラスだといいね」という言葉が頭の中に残っていたからだ。夏葉はどう見ても今年になってこの島にやって来た子だった。島にある学校は一つだけ。おまけに生徒数も少ないから、一学年にクラスは一つしかなかった。だから、夏葉という子と同じクラスになるのは明白で、その時に僕がいなかったとしたら、「同じクラスだといいね」と微笑む夏葉を裏切ってしまうような気がしていた。

でも、結局僕は教室に行くことは出来なかったのだ。制服を着た自分の姿がどこか現実離れしている様に見えた。教室にも同じような制服に身を包んだ、小学生の頃から知っている同級生がいると思うと、どうにも足が動かなくなってしまって、教室に行くことは出来なかった。校舎の一階にある保健室の窓から、楽しそうに談笑している見知った同級生の後ろ姿を眺めていた。次第に人がいなくなって、校門を通って行く人がいなくなった頃、僕は一人で学校を後にした。家に帰って見ると、祖父母が「入学式はどうだった?」と優しく笑いながら尋ねてくるもので、僕はそんな祖父母に何と答えたら良いのか分からずに、そのまま素直に「良く分からない」と答えることしか出来なかった。

 中学生になって一週間。その期間、僕は一度も学校へ行くことが出来ずに、自室で本を読むか、夕暮れ時に海を眺めるために外へ出て時間を過ごしていた。中学生になったって、実際に何かが変わる訳もなく、僕は僕のまま、相変わらず良く分からないものに怯え、隠れて身を潜めていた。一方で、このままではいけない、というのを僕は分かっていた。夜寝る前、布団に入ると必ず、明日は学校へ行こうかとも考えたものだけれど、朝になると体が重く、そんな僕自身が嫌で仕方がなくて、布団を頭から被っているうちに時間は過ぎ去って行った。

 ズルズルと、それこそ延長戦のような心地で日々を過ごしていたのだ。一体いつから終わっていて、いつまでこんな日々を続けるのかと、内心では叫び散らしていたものであるけれど、現実は歩調を合わせてはくれない。

 一週間が経ち、月曜日。家を出たのは良いが、行先は学校では無くて海。そこで、何をするわけでもなく砂浜に座り込み、ジッと海の向こうを眺めて過ごしていた。中学生になったからと言ってやっていることは変わらないなと、どこか乾いた笑いを漏らしながら、眠っては目を覚まし、それを繰り返しているうちに、いつしか僕は砂浜に横になって眠っていた。

 その眠りから僕を覚ましたのが、夏葉であった。

「学校で会えないなぁって思ってたら、やっぱりここにいた。なに? サボりなの?」

 そんな声を聞いて、目を開けてみると、そこには夏葉の顔があったのだ。真っ赤に燃えた空が、夏葉の奥に広がっていて、綺麗だなと、夢心地にそんな事を思った。

「私も隣に座ってもいい?」

 夏葉はそう僕に尋ねつつも、僕の返事を待たずに僕の隣に座り込んで、「綺麗な景色だよね」なんて、ニシシと笑った。

「こんな綺麗な景色、私この島に来て初めて知った」

 夏葉はジッと、空を赤く燃やす巨大な陽の球に目をやって、「同じ夕日なのに、どうしてこんなに綺麗なんだろうな」と、どこかぼんやりとした口調で言葉を漏らすのだった。

そして、それ以降、夏葉は何も言わずに、ただ黙って夜の訪れを待っていた。それが僕には不思議だった。「やっぱりここにいた」という言葉からして、彼女は僕を探しにこの場所に来たのだろが、それにしては、彼女は何も僕に話しかけては来なかった。ただ黙って夕日が沈んでいくのを眺めているだけで、「どうして学校に来ないの?」だとか、そういう類の質問を投げては来なかった。

 そのまま夏葉は何も言うことなく口を閉ざしたままで、夕日は沈んで夜が来る。夜空に星が浮かび始めると、「星も、こんなに沢山。それも綺麗」と、勢いよく立ち上がって顔を上げ、手を大きく広げる。それから、その大きく広げた手を下げ、僕の方に顔を向けた。そして、夜の空気を吸って、口を開く。僕はてっきり、「学校においでよ」だとか、そういうことをこの子は言ってくるのかと思ったが、夏葉が実際に口にした言葉は、全く違うものであった。

「明日もまた、ここに来る?」

 彼女は僕にそう問いかけた。予想外の問いかけに、僕は一瞬言葉を見失った。夏葉は間を空けることなく「来るならさ、私も明日、ここに来ていい?」と言ってくるものだから、僕はその勢いに流され、「うん」と、そう答えてしまったのだ。

 僕が「うん」と答えると、夏葉は「やっと話せた!」「明日も来ていいんだね! ありがとう!」と、夜空の下で満面の笑みを浮かべたのだった。

 そんな夏葉が、とにかく僕には不思議に思えて仕方がなかった。

翌日、本当に夏葉は来るのだろうかと、同じ海辺で一人座っていると、「遠坂君!」なんて僕に手を振りながら、本当に彼女はやって来たのだった。手を振って僕の方に駆け寄って来る彼女を見て、どうして彼女は僕と関わりを持ちたいのかだとか、彼女はそもそもどこから来て、なぜこんな島に来たのかだとか、他の人間の様に、どうして僕に「学校に来い」といった類の言葉を言わないのかだとか、様々な疑問が渦巻いた。その疑問が、夏葉という人間に対する興味を僕に植え付けたのだろう。その興味が僕の背中を押し出し、僕は自然と夏葉に「どうして名前を知っているのか」と、尋ねたのだ。そして、夏葉は何でもないように「学校で聞いたんだ」と、答えた。今思えば、それが初めて僕が誰かに自分から話しかけた瞬間であった。

それから少しの期間、僕は放課後、夕暮れ時に海辺で夏葉と話をするようになったのだ。

その中で、僕はある日、どうして海辺にいた僕に声をかけたのかと、夏葉に尋ねたことがあった。その時彼女は「何となく、私と同じ匂いがしたからかな」と、そう言った。改めて思い返すと、僕にしてみれば、「同じ匂い」というよりは、「同じものを眺めていた」のだと思う。「ここ」では無くて、「ここではないどこか」を、僕も夏葉も眺めていたような気がする。ただ、夏葉は僕とは違い、目の前にあるものを見ながら、それでいて「ここではないどこか」を眺めていた。だから、夏葉は僕なんかよりも人付き合いは上手だった。そのため、表面上、夏葉は他の同級生と変わらない女子中学生だった。でも、時折僕なんかよりもずっと遠い場所を眺めていて、それがとても不安定だと僕は感じていた。その不安定さがある意味で僕と夏葉を繋いでくれたのかもしれない。ただ、どうして夏葉がそんなにも不安定で、目の前にある物を捉えながら、僕なんかよりも遥か遠くを眺めていたのか、当時の僕には良く分からなかった。でも、夏葉が死んで、彼女の双子の妹だという夏花と出会って話をすることで、ストンと、綺麗に何かが嵌まったような気がした。

 もしも、だ。もしも夏葉は自分がいつ死ぬのか分かっていた上で日々を過ごしていたのだとしたらどうだろう。死、というものを現実として受け入れた上で、普通の女子中学生であることを望んでいたのだとしたらどうだろう。

 それは、夏葉であるのなら十分に想像できる話だ。

確実に迫る死を意識しながら、それでもなお、平凡な日常を望む。そんな女の子が不安定なのは当たり前の話だった。

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