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「私は、戸部夏花と言います」

 戸部夏花。少女はそう名乗った。二年前に死んだ戸部夏葉の双子の妹だという。双子だというだけあって、確かに少女は夏葉によく似ていた。顔つきだとか、目つきだとか、背格好だって夏葉によく似ている。でも、少女は決して夏葉ではなかった。夏葉よりも弱々しく見える。声色も夏葉を彷彿とさせるものであるのに、夏花の声は夏葉の声と比べて随分と細々としていた。夏葉が太陽であったのなら、この少女は月のようなもので、表面上はこんなにも似ているのに、内面の違いはこうも人に与える印象を変えるものなのかと、そんな事を思いながら、僕は気が付けば夏花と名乗る少女と共に島にある喫茶店で向かい合っていた。

「素敵な喫茶店ですね」

「ならよかった」

 中学生の頃、ある日の放課後夏葉に「良いお店を見つけたの」と手を引かれてたどり着いたのがこの喫茶店だった。初めて夏葉とこの喫茶店に来て以来、度々放課後はここで甘いものを食べながら、取り留めの無い話をして時間を過ごす様になった。数年経った今もこの喫茶店は変わらずに残っているようで、マスターの様子も昔と変わらず物静かな様子であることに安心しつつ、だからこそ、夏葉がいないことが余計に際立った。

ひとまず、僕はアイスコーヒーを注文する。一方で夏花はカフェラテを注文する。注文したものが届き、アイスコーヒーを一口飲むと、ああ、懐かしい味だなと、コーヒーの苦味が奥底に眠る古ぼけた記憶を呼び覚ますようだった。

「美味しい」

 カフェラテを飲んで、少しだけ頬を緩ませる夏花の様子は、双子というだけあって夏葉にそっくりで、見ていたくはないけれど、どうしたってぼんやりと眺めてしまう。

「戸部さ、お姉さんもよく、そんな風にここでカフェラテを飲んでいたよ」

 そう言葉にしてみると、なんだかあの日々が随分と遠いところに行ってしまったような心地になる。

「そう、ですか」

 夏花はカフェラテを置き、それからテーブルをジッと見つめて動かなくなる。何となく、この子は僕と同じタイプの人間なのだなと、そんな事を思った。おそらく、僕と同じで人付き合いが苦手なタイプの人間で、今も視線を忙しなく動かし、肩が小刻みに揺れている。

 そんな人間が、自ら会おうとする相手など本当に限られている。人付き合いが苦手なのは、傷つきたくはないからだし、どうしてもこの空気に馴染むことが出来ないからだし、あらゆるものを遠くから眺めているような心地で、自分がここにいるのが場違いなのではないのかと思えるからだ。あるいは、そもそも人間に興味がないかもしれない。

 ともかく、少なくとも僕はそうなのだと思う。

 だから、夏花が僕と同じような人間であったのなら、彼女が僕を探し出したという事実を無下にしてはいけないと思った。それに、彼女は夏葉の妹なのだと言う。だからといって何かを期待している訳でもないが、それでも話くらいは聞かなければならないと、そう思った。

「それで、僕のことを探していたというのは、どういうこと?」

「遠坂さんは、お姉ちゃんのことをまだ覚えていますよね」

 それは、当たり前だった。忘れることなど出来るわけがない。

「お姉ちゃん、最期まで遠坂さんの話をしていて、最初に会って渡すのだとしたら、やっぱり遠坂さんだと思っていました」

 夏花は一通の白い封筒をテーブルの上に置く。

「今年になって、ようやくお姉ちゃんの部屋を片付けたんです。それで、何通か手紙が出て来て、私はこれを渡さなきゃいけないって、そう思って」

 夏花は、一度深呼吸をし、そして伏せていた目を僕に向ける。

「これはお姉ちゃん、戸部夏葉からの手紙です。あなたは読みますか?」

 一瞬だ。一瞬、色が戻ったような気がした。海中深くから、空気の泡が急浮上するように、息すら忘れ引き戻されるようだった。

 でも、結局途中で泡は弾けて、何事もなかったかのように消え去った。

 何もかも、今更のような気がした。もう、僕の心は決まっていて、今更こんなものを目の前に晒して、僕にどうしろと言うのだろう。

 夏葉は勝手にいなくなった。ある日、唐突に、誰にも言うことなく学校に来なくなり、連絡も取れなくなって、気が付けば担任が、「夏葉さんは亡くなりました」と、重々しくそう口にした。僕はあの時のことを忘れない。葬式すらも親族だけで済ませ、本当に彼女が死んだ事実を知ったのは、何もかもが終わった後だった。僕が夏葉の死を現実として受け止めることが出来ていない節があるのは、その所為だ。ふと、その元凶がこの今目の前にいる少女なのではないのかと、そんな心地さえしてきて、「あなた達の所為だ」と、無責任な言葉を吐き出してしまいそうになって飲みこむ。そうして、ジッと机の上に置かれた一通の手紙に目をやって、でもそれを手に取ることは出来そうにない。

「無理だ」

 机の上の、真っ白な封筒を見つめ、口から出たのはそんな拒絶の言葉だった。

 僕には読むことが出来そうにない。理由なんて沢山ある。ありすぎて、よく分からない。なんだか現実味がない。現実味がないなんて、もうずっと昔からだ。昔から夢の中にいる様な心地なのだ。フッと足元に暗い穴が開いて、どこまでも落ちて行くような心地で、この感覚は、昔担任が「夏葉さんは亡くなりました」と言った時と同じものだ。

 机の上に静かに置かれたあの手紙に、一体何が書いてあるのか考えると怖い。出来る事なら夏葉ともう一度話がしたいと思い続けていたのは確かだ。あの手紙を開けば彼女の言葉に触れることが出来るのだろう。それは僕が望んできたことだ。しかし、やはり怖いのだ。

「怖い、ですよね」

 そんな声が聞こえ、視線を机の上の手紙から夏花の方へ向けると、彼女はなんだか困ったような表情で微笑を浮かべている。

「私も、とても怖いんです。実は、私宛ての手紙もあって、でも、私はまだその手紙を読むことが出来ないんです。お姉ちゃんのことは大好きでした。本当に、大好きでした。でも、どうしてでしょう。私にもわからないのですが、数通の手紙を見つけ出した時、こう、見つけてはいけないものを見つけてしまったという罪悪感と、恐怖が混ざり合って、どうすればいいのか分からなくなりました」

 夏花は視線を横にずらしたまま、それこそ、その時のことを思い出しているかのように、ゆっくりとした口調でそう話す。

「どうすればいいのか分からなくなって、最終的に僕を探してその手紙を渡そうとしたの?」

「はい。手紙というのは、渡したい相手がいて、伝えたいことがあるから書くのだと思います。でも、お姉ちゃんのことだから、色々と考えて、結局書いた手紙をそのまま隠すように仕舞っていたのだと思います。だったら、せめてその手紙を、届けるべきだと思ったんです」

 その言葉の後、「それが、せめてもの罪滅ぼしになればと、思います」と夏花が小声で言ったのを、僕は聞き洩らさなかった。

「…………」

 夏葉から僕宛ての手紙はテーブルの上に置かれたまま、行き場所を失った。夏花の方も、これからどうすればいいのか分からないと、ジッと視線を下の方に固定して、キュっと唇を引き締めて身動き一つしない。喫茶店に流れる名も知らないピアノの曲が、いやに大きく聞こえて来る。

 アイスコーヒーに数度口をつけて、それから、ようやくと言った様子で夏花が声を出す。

「どうして、怖いんでしょう」

「手紙を読むことが?」

「はい」

「それは、」

 それは、僕にも分からならい。

「私、お姉ちゃんがこの島でどんな生活を送っていたのか知らないんです。だからかもしれません。ずっと昔から一緒にいたのに、私の知らない期間があるんです」

 彼女の言うことは、何となく僕にも分かる。僕も、夏葉がこの島に来るまでどんな日々を送っていて、この学校に来なくなった後、どう過ごして遠くへ旅立って行ったのかを知らない。知らないから怖い、というのはとても分かりやすい。僕は、結局夏葉のことが分からない。何を思ってこの学校を、島を離れ、旅立って行ったのか知らない。

「僕も、夏葉がこの島に来る前はどんな風に過ごして、そしてどんな風に死んでいったのか知らない。多分、その所為もあるんだと思う。未だに夏葉が死んだって信じられないんだ。今もまだどこかで生きていて、あの時みたいに、前触れもなく僕の前に現れるような気がしている」

 ずっとだ。結局のところ、僕はまだ彼女の死を受け入れることが出来ていない。でも、彼女は死んでしまっている。彼女と会うことはもう叶わない。唯一心を許すことが出来た相手は、僕の知らぬところでいつの間にか死んでいった。

 夏葉の死を受け入れることが出来れば、僕も少しは前を向くことが出来るようになるかもしれないと、そう考えたこともある。でも、一方で僕は夏葉が死んでしまったという事実を受け入れたくはなかった。その矛盾が、毎晩毎晩、僕の体を縦に引き裂くように真逆に引っ張り合うのだ。そんな引き裂かれる痛みに耐えるように、毎日毎日この島で夏葉と過ごした日々を思い浮かべてきたが、それももう限界だった。夏葉と過ごした日々を思い浮かべ、ふと現実に戻った時、僕の隣に夏葉はもういないのだという事実が余計に虚しくなった。

 こんなにも痛いのは、抵抗しているからだ。そして、抵抗から生まれる痛みに耐えることで虚しくなるのなら、もういっそのこと痛みの元ごと無くしてしまえばいい。つまり、抵抗するのを辞めてしまえばいい。前を向くか、後ろを向くかで悩むことが馬鹿々々しく思えた。どうでもよくなったのだ。

前を向くか、後ろを向くか。後ろには夏葉がいる。しかし、前にはもう夏葉はいない。前を向いたところで、その先に夏葉が現れることは無い。そのことに自覚することが出来たのは、つい最近のことで、気が付いてからすべてがどうでも良くなるまでに時間はそうかからなかった。

投げやりになって。体を後ろに放り投げることに決めた。一度決めてしまうと、これまでの苦悩が嘘のように引き、その代り生きている心地というのはさらに遠のいて行った。しかし、それでも苦痛で喘ぐよりは過去に喘ぐ方が僕には楽であった。

 そうして、最後に行くのなら、やはり夏葉と出会ったこの島の、あの海だろうと思って、朝日が昇る頃に向かったのだ。そして、そこで僕はこの夏葉の妹と言う夏花に引き戻された。

「君は、夏葉がこの島でどんなふうに過ごしてきたのか知りたいの?」

「知りたい、です」

「なら、教えてあげようか?」

 夏葉の妹である彼女に、この島で夏葉がどのように過ごしたかを話すというのは、過去を振り返り整理するにはうってつけな方法だと思った。

「いいんですか?」

「いいよ」

 僕がそう答えると、夏花は「ありがとう、ございます」と静かに頭を下げるのだった。

「…………」

 こんな事をして、果たしてこの机の上に置かれたままになった夏葉からの手紙を読むことが出来るようになるかは分からない。同様に、この夏花も僕からの話を聞いて、夏葉からの手紙を読むことが出来るようになるのか分からない。ただ、夏花もまた夏葉を失ったことに対し、後悔というか、心残りというか、今もまだそういったものを抱え続けているのではないのかと、この短いやり取りで思った。夏葉を失ったのは、僕も彼女も同じなのだ。境遇は似通っている。おそらく、これは傷の舐め合いなのだ。痛かったねと、傷を治さず感傷に浸るだけの行為なのだと思う。みっともないと誰かは言うかもしれないが、もう僕は何もかもがどうでも良くなっていた。だって、この先で夏葉と会うことは二度と出来ないのだから、それを思うと、今後のことなどすべてどうでも良くなる。

 だから、次に夏花が僕にしてきた提案に対し、僕は「いいよ」と、そう答えてしまった。

「お姉ちゃんのお墓参り、一緒に行きますか?」

夏花は顔を上げる。どこか寂しそうな顔でそう言った。

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