第二章
2-1
初めて戸部夏葉と出会ったのは、僕がちょうど中学生になる直前、三月下旬のことであった。小学生でもなく、かといって中学生でもない。あの、三月中旬から三月下旬までの、何者でもない期間に僕は彼女と初めて出会ったのだ。いや、もしかしたら出会ったというよりは、遭遇したという方が正しいのかもしれない。
良く晴れた日の事だった。その日に起きた出来事は、今でも未だに鮮明に思い出すことの出来る出来事の一つだった。あの日、僕は朝から海へ向かい、冬から春へと変わる風を呆然と受け止めながら、砂浜にジッと座り、海の向こう、水平線の先を目指す様に海と空の間を眺めていた。
経った二週間程度で僕は小学生から中学生にならなければいけない。中学生というと、なんだかとても大きな存在に思えてならなくて、でも、そんな大きな存在になれる自信など当時の僕にある訳もなかった。小学生の時ですら碌に学校に通うことが出来ずにいて、そんな僕が中学生になったからと言って学校に通えるようになるはずもないだろう。そもそも、同級生は小学生の頃と変わらずに、校舎だって西棟から東棟に移るだけだ。変わることと言えば、小学生という肩書が中学生という肩書に移り変わるのと、皆同じ制服に身を包むようになるということだけで、僕自身は何も変わらない。それなのに、周囲だけが目まぐるしく変わって行く。それが僕の胸の奥に新たな恐怖の種を植え付けて行くようだった。時間に対する憤りか、あるいは焦燥のような感情は当時すでに抱いていたと思う。時間というのはいつだって思いやりの欠片もなく、ただ残酷に、あらゆるものを置き去りにしていく。そのことが嫌で仕方がなかった。小学生でもなく、中学生でもない。なんだか、あの宙ぶらりんな期間こそ、本当に自分でいられたのではないのかと、今になってそんなことを思う。ならば、当時の僕は何を思っていたかと思うと、ただ単純に中学生になんてなりたくはないなと、そればかりを思っていた。時間が進むからいけないのだ。時間が歩みを止めたらいい。そんな事を思いつつ、でも実際に時間が止まる訳もないのだから、ただただジッと居座るように砂浜に座り込み、移り行く空と海の色彩を名残惜しみながら一日中水平線の向こうを眺め、その宙ぶらりんな期間を過ごしていた。
そんな宙ぶらりんな期間に僕は戸部夏葉と初めて出会った。正確な日付は思い出せない。彼女はある日、本当に前触れもなく僕の目の前に現れた。
「この島で初めての出会いだ」
その声は、僕の後ろから吹いて海へと飛んで行った。声がした方に顔を向けると、そこには左手を腰に当てて、ずっと遠くの水平線を眺める女の子がいた。まだ少し肌寒いと言うのに、半袖の白いシャツに、ハーフパンツという、随分と身軽そうな出で立ちで、でも、そんな出で立ちは女の子にしては少し短い髪とその明るい表情にはよく似合っているなと思ったのを覚えている。
何の前触れもなく現れた見ず知らずの同い年位の女の子を前に、どう声を返せばいいのか考えていると、彼女の方から「君はなんでこんな所にいるの?」「君、もしかしてこの島の中学校に通ってたりする?」「名前は?」なんて、質問攻めにあった。でも、僕はどれ一つとしてまともに答えることが出来なかった。ただただ僕は、「えっと……」なんて小声で呟くばかりだった。そのことが、とても彼女に申し訳なく、だから余計に彼女のことが頭に残った。
この時、唯一僕から夏葉に尋ねることが出来たのは、「さっきの、初めての出会いってどういうこと?」というもので、僕がそう彼女に聞くと、彼女は嬉しそうに「よくぞ聞いてくれました」と笑った。
「私、今日からこの島に一人で暮らすことになったの。それで、色々見て回ってて、この島で初めて出会った同い年位の子が君、ってこと」
夏葉は「私十二歳。今度中学生になるんだ。君は?」と僕に尋ねて来る。僕はその言葉に対し、「僕も、ちょうど今度中学生になる」と答えると、座り込んだままの僕の手を無理やり取って、握って、本当に嬉しそうにブンブンと振りまわし、「じゃあ、もしかして同じ学校かな? この島って学校一つしかないからきっとそうだよね」「楽しみだな。同じクラスだといいね」「中学生って、なんか大人って感じだよね」と、言葉を返す余裕を与えることなく話し始め、それから「私は戸部夏葉。よろしく」と、一方的に名前を言って、季節外れの夏のような笑みを浮かべ、そうして彼女は手を振って颯爽と走り去って行った。
これが、夏葉との出会いだった。同い年で、同じように小学生から中学生に変わるというのに、僕と彼女とではまるで違っていた。その時は、どうしてこんなにも心の底から楽しそうにしていられるのだろうかと、不思議で仕方がなかった。ただ、今思い返すと、あの時彼女は一体どんな思いでこの島にやって来て、どんな思いで僕に話しかけて来たのだろうかと考えてしまう。一体あの笑顔の裏で何を考えていたのか、それを考え始めると辛く、胸が詰まる。でも、あの時彼女はどんな思いであの笑顔を振りまいていたのか考えた所で、その答えを知ることはもう出来ない。
あの時の僕は、数年後に彼女との日々を傷跡として残し、こうして独りでこの場所に戻ってくるなど想像すらしていなかった。
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