第5章 花一匁

5-1 夢うつつ

 あの子は、いつも一人ぼっちだった。

 教室は皆の声で賑やかなのに、あの子の周りだけは嘘みたいに静かだった。

 それが私には不思議で仕方なかったから、あの子の席に近づいた。


 ねえ。

 どうして、そんなに静かなの?


 そう訊いてみたら、あの子はびくっと震えてから、私の顔をじっと見た。

 長い前髪。切ればいいのに。カーテンみたいに瞼にかかった前髪は、私のものとは違うのに、私は何だか自分の目元が気になって、ぱっと手で払う仕草をした。


 ねえ。

 どうして、そんなに静かなの?

 私、あなたの声も知らないんだ。

 だから、何か喋ってみて。

 **さんの声、聞いてみたいの。


 あの子と何を話したのかは、覚えていない。私はとても馬鹿だから、人の話はすぐに忘れてしまう。国語も算数も理科も社会も、あんまりよく分からない。テスト勉強を頑張っても、惜しいところで度忘れして、百点はなかなか取れなかった。お母さんとお父さんに怒られるかもしれないけれど、二人とも私に優しいから、きっと許してくれると思う。

 ええと。

 何の話、してたんだっけ。

 ああ、そうだった。あの子の話だった。

 私と話すようになってからも、あの子は生き辛そうだった。人の目を見ないようにしていたから、私は時々「こっちを見てよお」と言って笑いかけた。笑っているほうがいいと思う。そのほうがまだ、少しは可愛いと思うから。

 あの子に元気がないのは、友達が少ない所為かな。

 そう考えた私は、あの子を教室からたくさん連れ出した。

 日陰の教室に引きこもっているから、気持ちが暗く塞ぐのだ。友達と遊ぶ楽しさを知れば、**ちゃんは元気になるはずだ。

 でもね、あの子は全く笑わないわけじゃないんだよ。

 **ちゃんは、笑ってくれた。私が話しかけると、顔を上げて、前髪の毛先が刺さりそうな目を細めて、ちょっとだけでも笑ってくれた。クラスの皆は、誰も知らない。私はもったいないなと思ってしまった。

 ええと。

 やっぱり、何の話だったか忘れちゃったみたい。

 えへへ、もうすぐ受験なんだけど、こんな調子で……受験する高校も、県内で順位が下の方。でも、どこに行っても新しい友達が出来るから、想像すると楽しいんだ。

 ……。

 私、誰と話しているんだろう?

 先生?

 違う。でも。白い服を着た人と、話をしていたような。

 でも、本当に、そうなのかな? 本当に、誰かと話していたのかな?

 今までの言葉は、全部、私の、妄想なんじゃないのかな?

 頭の中が、玩具箱をひっくり返したみたいにごちゃごちゃしてきて、くらっとした。これは、夢だ。ううん、今はまだ、夢の途中。私は、薄く目を開けた。

 ――ここは、私の部屋。私は毛布に包まって、ベッドに横たわっている。レースのカーテンの隙間には、紺青の空と丸い月。射し込む月光が真っ青な、空気の冴えた夜だった。

 話し相手なんて、誰もいない。どうして私は、自分自身に思い出を語り聞かせていたのだろう。探し物をしているみたいだった。頬を伝った涙が、耳のほうへ流れていった。

 ……どうして、私は泣くのだろう。

 罰を、与えてほしいからだろうか。

 ねえ、怒って。誰も私を叱ってくれないなら、もう誰だって構わないから。早く、私に罰を下さい。

 でも、私。

 悪いことなんて、したかなあ?

 ……した、よね。

 頭の中から、聞こえてくる歌があった。

 それは、〝アソビ〟の歌だった。

 子供の〝アソビ〟の歌だった。


 ――かごめかごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面 だあれ


 歌が、終わる。

 その〝アソビ〟が終わった時、**ちゃんは、どうしていたっけ。

 私は、ぼんやりと考える。ああ、とすぐに思い出した。

 手を繋いだ女の子達の輪の中で、うずくまり続けた鬼のあの子。**ちゃんの周りでくるくる回っていた私達が止まると、**ちゃんは『後ろの正面』の名を告げた。

 でも、その答えが正解でも不正解でも、結果はいつも同じだった。

 私達のかごめかごめは、ほとんど**ちゃんが鬼だった。

 理由は、他の子が鬼になると、〝アソビ〟がすぐに終わるから。『後ろの正面』が誰なのか、私達は目を瞑っていても、話し声や笑い声で分かってしまう。

 でも、**ちゃんが鬼の時は、辺りが静まり返っていた。私達は、そういう〝アソビ〟をしていたのだ。

 歌に飽きた私達は、次に『鬼ごっこをしよう』と言い出した。

 その〝アソビ〟が終わった時、**ちゃんは、どうしていたっけ。

 私は、ぼんやりと考える。ああ、とすぐに思い出した。

 今度はじゃんけんで鬼を決めたけれど、結末はかごめかごめの時と同じなのだ。

 だって、最初の鬼が**ちゃんじゃなくても、どうせ足の遅い**ちゃんが、すぐに捕まって鬼になるんだもん。あの子がいる鬼ごっこは、運動が苦手な私でも、逃げやすくて楽だった。

 鬼ごっこにも飽きると、『次はかくれんぼをしよう』と誰かが言った。

 その〝アソビ〟が終わった時、**ちゃんは、どうしていたっけ。

 私は、ぼんやりと考える。ああ、とすぐに思い出した。

 この〝アソビ〟の鬼も、じゃんけんで決めたけれど――思えばこの時が、一番哀れな結末を迎えていた。

 **ちゃんは、鬼にはならなかった。

 私と同じように走って逃げて、どこかに隠れていたと思う。

 鬼になった女の子が、〝アソビ〟に参加した女の子達を見つけていく。小学校のグラウンドを照らした陽光が、橙色に変わり始めた。かくれんぼの参加者は九人で、鬼の子を抜いたら八人だった。鬼の子が七人目の女の子を見つけたところで、放課後の〝アソビ〟はお開きになった。別れの言葉を掛け合った皆は、ランドセルを背負って帰ってしまった。

 たった一人、まだ〝アソンデ〟いる女の子がいることに、誰も気づかないまま。

 私も、帰りかけていた。でも、寸前でちゃんと思い出した。

「**ちゃん」

 私は、あの子を呼んだ。一度目で返事がなかったので、「**ちゃーん、出てきてよお」と二度目は大きな声で呼びかけた。〝アソビ〟疲れていたから、探し回るのはしんどかった。しばらく待っていると、背後から足音が聞こえてきた。

 ――これは、本当に記憶の回想?

 私は、自問する。分からない。でも、リアルだった。茜色の斜光が、剥き出しの腕に熱を伝える。十一歳の夏の記憶そのままの、土と草と汗の匂い。パジャマを着た十五歳の私は、いつの間にか眠っていて、昔の夢を見ているのだろうか。

 どこまでが現実で、どこからが夢なのか。馬鹿な私には分からないけれど、何でもいいと思ってしまった。

 ここなら、あの子に会えるから。一緒に〝アソンデ〟いられるから。まだ青さを残した空の下で、終わらない〝アソビ〟に取り残された私たちの夏景色は、血のように鮮やかな、赤い夕焼けの色をしていた。

 ブランコと雲梯の間から、一人の女の子が歩いてくる。私は、にっこりと笑った。やっと、声に応えてくれた。

「**ちゃん、見ぃつけた!」

 **ちゃんの表情が、ぴくりと動く。夕日を浴びた赤い顔が、すっと斜めに背けられた。日差しが眩しかったのだろう。私は弾む足取りで、**ちゃんに近づいた。

「ねえ、どこにいたの?」

「……そこの、木の陰」

「そっか、すごいね! 全然わかんなかった!」

「……」

 **ちゃんは、スカートに付いた泥を払っている。俯いたままの**ちゃんに、私は元気に話しかけた。

「ね、みんな帰っちゃった。私達も帰ろうよ」

「……みいちゃんは、なんで帰らなかったの」

 何故そんなことを訊くのだろう。私は首を傾げた。

「だって、**ちゃんが残ってるでしょ? だから、遊びはまだ終わりじゃないよ。私が今見つけたから、これでやっと終わったの」

「……みいちゃんが見つけたんじゃなくて、私、自分で出てきたよ」

「えへへ、そうだっけ」

 私は、へらっと笑った。私が笑えば、**ちゃんも笑ってくれると思ったのだ。

 けれど、その予想は外れた。

 **ちゃんが、泣き出してしまったからだ。

「……どうしたの? どこか痛い?」

 **ちゃんは、かぶりを振る。前髪で瞳は隠せても、頬の涙は隠せない。「痛いの痛いの飛んでいけー」と笑いながら慰めた私は、**ちゃんの髪を撫でた。短い黒髪。おかっぱ頭。お母さんが切っているのかなあ。ちょっと変な髪型だった。

 **ちゃんが、顔を上げた。何となく、真剣な顔つきだった。

「みいちゃん。みいちゃんは、私の友達だよね」

「うん、そうだよ。友達!」

「これからも、私の友達でいてくれる?」

「もちろん!」

 私が胸を張ると、**ちゃんの表情が微かに動いた。

 私は、少し嬉しくなる。やっと、笑ってくれるのだ。

 そんな予感を肯定するように、私の目をじっと見た**ちゃんは――ほんの少しだけ、笑ってくれた。

「……みいちゃん。お願いが、あるんだ。……聞いて、くれる?」

 私は頷き、満面の笑みを返した。


「うん。何でも言って、紺野こんのちゃん!」


 ――ああ、と私は思い出す。

 そっか、そうだ。そうだった。

 私は……あの子の名前を、忘れていたのだ。

 可笑しいよね。変だよね。今日はずっと、あの子のことばかり考えていたのに。許してほしくて、罰が欲しくて、ずっと泣いていたはずなのに。

 なのに、私はあの子の名前を、また忘れてしまっていた。

 だから、許してもらえないのかなあ。賢くないと、罰ももらえないのかなあ。

 ねえ、紺野ちゃん。


 明日は、どんな〝アソビ〟をしようか?


 まだまだ、いっぱいあるんだよ。学校の皆で出来る遊び。『かごめかごめ』に『鬼ごっこ』に『かくれんぼ』。ほら、おうたが聞こえてくる。次の遊びは、何にする?


 私が、決めていいのなら――『はないちもんめ』で、遊ぼうか。


 名案だと思ったけれど、すぐに私は、ああ、駄目だと落胆した。

 これはもしかしたら、最も残酷な〝アソビ〟かもしれない。紺野ちゃんはただの『かくれんぼ』でさえ、存在を忘れ去られた女の子。『かごめかごめ』の永遠の鬼。そんな紺野ちゃんがこの〝アソビ〟に参加したら、また可哀想なことになっちゃうかなあ。

 でも、仕方ないよね。

 周りの子は、別の子が欲しいんだもん。

 紺野ちゃん。大丈夫だよね?

 なかなか選んでもらえなくても、大丈夫だよね?

『はないちもんめ』で最後の一人になっても、大丈夫だよね?

 平気だよ、紺野ちゃん。あなたが最後の一人になっても、私は絶対に忘れないよ。一人ぼっちのあなたを思い出して、また髪を撫でてあげる。

 だから、笑ってね。私にしか見せない顔で、昔みたいに〝アソンデ〟よ。紺野ちゃんは弱いから、私がいないと駄目なんだから。怒ってないって、笑ってよ。罪滅ぼしを、私にさせて。

 ねえ、お願い。お願いだから――。

 紺野ちゃん。笑ってよ。

 紺野ちゃん。返事をして。

 紺野ちゃん。怒ってるの?

 紺野ちゃん。忘れないよ。

 紺野ちゃん。嘘じゃないよ。

 紺野ちゃん。信じてよ。

 紺野ちゃん。どうして。

 紺野ちゃん。忘れたいの。

 紺野ちゃん。違う。私は。何もしていない。

 紺野ちゃん。罰が欲しいの。

 紺野ちゃん。許して。

 紺野ちゃん。紺野ちゃん。紺野ちゃん……。

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