4-50 ソフィヤ
父が死んだあの日、なぜ
惨劇前夜に、
温厚な
イズミはその日の午前中に、杏花の見舞いの為に呉野家を訪れたが――どうやらあの時には既に、國徳はイズミの目の届かない所で拘束されていて、しかも伊槻は一家心中に必要な道具の調達に出掛けていたという。
だから、
「惨劇前夜の、
当時は制御できない己の異能に圧倒されて、まともに思考など出来なかった。イズミが二人の会話の
――『君は、氷花だろう! もういい加減に
――『お父様は、私と遊んでくれると言いました! 今日は、私と二人で遊んでくれるって、お母様が! なのに、どうして嘘をつくのですか! 氷花ではありません! 杏花です! 今の私は、杏花です!』
「……。御父様。貴方を殴ったのは、誰なのか。
全てが、計画的だった。父、イヴァンの来日に合わせて、
無事とは言い難かったが、生きていてくれて良かったと思う。
「貴方は、貞枝さんに利用された事に腹を立てて、同時に不甲斐なく思いながら、氷花さんの魂を誤解した事を謝っている。御父様が見たもう一人は
イズミは、國徳の目を
強い眼差しと、見つめ合う。初めて出会った少年の頃も、先月の再会の瞬間も、瞳には強さが宿っていた。今は不意を打たれたような驚きの所為か、ほんの少しだけ優しい目つきだ。
「僕は、貴方と出会えました。貴方と出会えて、父と子の関係になりました。それ以前に祖父と孫の関係ですが、僕はこの絆、結構気に入っているのですよ。……御父様、どうか長生きしてください。僕は貴方が好きなようなのです。もっと、貴方が何を考えているか知りたいのです。一緒にいたいのです」
一息に、
國徳は妙に強張った顔つきで、イズミの言葉を聞いている。怒りの表情に近いが、
「御父様、約束してください」
「僕は、いずれ貴方が死ぬ時に、その死を必ずや
「いよいよ気でも違ったか」
「口が悪いですよ、御父様。しかもその台詞、僕達の間では禁句では?」
イズミは溜息を吐いて、結局笑った。酷い言葉だったが、今日くらいは目をつぶろうと思ったのだ。
「僕が、
最後まで、言わせてもらえなかった。
視界が、深い草色で塞がったからだ。
大股で戻ってきた國徳が、イズミの顔に向けて、またしても何かを突き出したのだ。古書の匂いが、ふわりと香った。
「御父様、何も見えません」
イズミは手鏡を膝の上に置きながら、抗議を込めて國徳に言った。だが、返ってきた言葉は「つべこべ
孫の言葉がよほど照れ臭かったのだろうが、イズミとしては不満がある。
何にせよ、目の前の
イズミは憮然とした表情で、
「……家族の事を、話す」
國徳が、言った。抑揚の薄い声は、幼子へ物語を伝える
「私は
イズミは、顔を上げられない。声が、雨のように降ってくる。國徳は、ただ話し続けた。悲しい家族の物語を、粛々と
「貞枝の事もだ。あいつの考えている事が、私には判らなかった。判ってやらなければならなかった。
イズミは、顔を上げて、國徳を見る。國徳は、青天を見上げていた。
「私には、未来が見えた。ただ、
國徳はイズミを見下ろすと、強い眼差しで睨みつけた。
「長生き出来るかは判らんが、出来る限り努力してやる。和泉、私を置いて先立つような間抜けだけは、
唇が、震えた。声を上げようとした途端に、瞼も痙攣したように震え始めた。堪えきれずに、目を伏せる。滲んだ視界の中で見た、
少女の声が、イズミに囁く。記憶の中で、笑みが弾けた。
――作者は、
男の、黒曜石の瞳。女の、ブロンドの髪。
幼い少年の両の手を、父と母が掴んでいる。
遠い異国の空の下で、幸せそうに笑う、三人の姿は。
「……家族写真を、一度だけ見せた事がある。
イズミは、
まるで、
「氷花は、急に泣き出した。なぜ泣くのかと訊ねたら、貞枝を
人形ではなく、親戚の兄さん。言葉が、ぐるぐると頭で
命を知らぬはずの少女が告げた、
――お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!
思えば、イズミは。あの少女から一度も、本当に、たったの一度も――己の容姿について、何かしらの指摘を受けた事が、無かった。
「氷花さんは……僕の髪や目の色について、何も言いませんでした。日本人離れした、それこそお人形さんのような色味だというのに。……何故、ですか」
「判らん。子供の気まぐれかもしれん。ただ、一目惚れだったんだろうとは、思う」
「……」
國徳の〝言挙げ〟が、記憶から一つの言葉を呼び覚ます。
九年前の八月に、少女と
――お爺様は、本当は。もっと、とても優しい人です。おはなし会にも、連れて行ってくれました。
――お父様も、本当は。もっと、とても優しい人です。今も優しいお父様ですが、前の方がずっと優しいお父様でした。今は、少し寂しいです。お父様の〝清らか〟を、私は見つけなければいけないと思います。
――お母様は、一緒にいて一番楽しいです。幼稚園の友達といる時も楽しいですが、お母様の方がいいのです。お母様も、笑ってくれます。遊んでくれます。私と、一緒にいてくれます。……でも、私。
お兄様が、一番好きです。
イズミは、回想する。
――本当に、呆れる程の偏屈だと思う。
「あれは
國徳はイズミの手を取ると、赤い
差し出された半紙を、イズミは受け取る。墨の香りが、
「あれの部屋にあった。まだ幾らか綺麗に書けているものを選んだ
皺が寄ってくしゃくしゃになった半紙を広げると、
一枚目は、人の名前だ。
――『貞枝』と、大きな字で書かれている。
母の名前を、練習したのだろう。イズミは
――『伊槻』
今度は、父の名前だ。
次は、『
何故『くにのり』は平仮名なのに、もっと難解な字が漢字なのか。わけが判らず、吹き出した。笑いを堪えたまま五枚目を見ると、現れたのは『泉鏡花』だった。
そして、六枚目。次が最後だった。
イズミは『泉鏡花』の半紙を捲り、
「……カタカナ。書けるではありませんか」
読み書きは出来ないと、言っていたのに。
だからこそ、練習したのだろうか。畳に座して、筆に墨を吸わせて、名前をきちんと書けるように。イズミは、肩を震わせて笑った。
本当に、聡明で、健気な子だと思う。
「ですが、駄目ですね。字が汚すぎます。僕の名前だけなら文句は言いませんが、僕の名は、父の名も含んでいますから、この乱暴さはいただけません。……それでも、
声が、つっかえる。
「……僕は。あの子の事が、本当に可愛かったのです。愛らしかった。憎からず思っていました。あの子は聡明で、ですが何も知りませんでした。僕が教えてあげられることは、もっとたくさんあったはずなのです。彼女の〝清らか〟を、僕は守ってあげられたはずなのに。間に合うことが、出来ませんでした」
「……泣くなら、余所で泣け」
國徳が、ふいと目を逸らす。そして「ソーニャに似た顔で、泣かれては敵わん」と吐き捨てたので、イズミはぽかんと國徳を見上げた。
「御父様。……ソフィヤ御婆様の事を、ソーニャと呼ばれていたのですか?」
失言だったのだろう。國徳の肩が軽く跳ねた。「知らん」と片言の口調で言われたので、イズミは思い切り笑ってしまった。
「御父様。僕の顔は、ソーニャ御婆様に似ているのですか?」
「知らんと
「色んな方に、似ていると言われた夏でした。ですが、今の言葉が一番嬉しかったですよ」
言い終えると、イズミは立ち上がった。
清らかな家族の絆が、今も変わらず
ならば。未練は、
「御父様。……
「いいのか? イヴァンからの贈り物、
「いいえ。これは、僕の物ではありません。僕の
炎の前に、和泉は立つ。
焼け崩れた浴衣は、
――遊んでくださいな、お兄様!
声が、脳裏に響いていく。
――
過ぎ去った夏の鮮やかな記憶を抱きしめながら、イズミは半紙を炎に落とした。名前が、燃えていく。そして消えてなくなっていく。
もう、二度と遊べない。
清らかな少女は、もう居ない。
罪で
未練を断つ為の、別離の言葉。哀悼を込めて、魂を込めて、イズミは
「
イズミが
【第4章・清らかな魂:END】→
【NEXT:第5章:最終章・
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