4-49 鏡

 そんな経緯があったからこそ、イズミと國徳くにのりの再会は、こんな形になったのだろう。舞い上がる火の粉を見送りながら、イズミは青空を振り仰いだ。

 鬼女きじょの残した物を、焼く。の程度のことが、供養になるとは思わない。ましてや仇討ちになるとも思わない。二度と仇は打てないのだ。残されたイズミ達の心の整理がつくだけで、何にもなりはしないだろう。

 れでも、イズミはうしたかった。國徳くにのりもまたうしたいのだ。だから二人で正装を纏い、にもつかぬと知りながらも、こうして遺品を焼いている。

「また貴様は、どうせ益体やくたいの無いことでも考えているんだろう」

 声と足音が、すぐ隣から聞こえてきた。國徳くにのりが戻ってきたのだ。

 イズミは振り返ったが、の瞬間に視界を塞いだのは、朱色に塗られた正方形の物体だった。ぬっと眼前に迫った物体に泡を食いながら、イズミは訊ねる。

「御父様、近いです。……何です? これは」

「見たら判る」

 近すぎて判らない。鼻先に突き付けられた物体を掴んで受け取ると、なるほど確かに、見たら判るとの言葉通りだった。

「鏡、ですか」

 物体の正体は、小さな手鏡だった。ぱこんとコンパクトを開いてみると、鏡面がきらりと太陽光を反射して、國徳くにのりが眩しそうに目を眇める。

「一枚は克仁かつみにやった。もう一枚は、貴様が持っていればいい」

「そういえば、神社は鏡をおまつりしている所が多いそうですね。此方こちらでもお祀りしているのですか?」

「参拝客から見える所には無いが、奥にはある。れは貴様にやる。先代から受け継いだものだ」

霊験れいげんあらたか、という事ですか」

「〝お守り〟として機能するかは判らんが、無いよりはマシだろう。持っておけ。どう使うかは好きにしろ」

屹度きっと、僕には不要の守りだと思いますよ。何せ〝同胞〟ですからね。克仁かつみさんにとってもこれは、おそらく不要の守りでしょうね」

 イズミは手鏡を閉じると、朱塗りの表面をそっと撫でた。

 細筆で描かれた毬の柄は、驚くほど緻密で麗しい。先代から受け継いだ物だと國徳は言ったが、劣化や損傷は全く見受けられなかった。

「〝お守り〟と仰いましたが、守りがなくとも平気だという事くらい、御父様は判っているのでしょう? そうでなくては、克仁かつみさんの所へ氷花さんを預けるわけがありません」

 ――藤崎克仁かつみ。イズミの養父。そして今は、少しばかり仲が悪い相手。

 というのも、イズミは日本をつ直前に、パスポートや着替えといった、必要最低限の荷物を纏める為に、自宅に戻ったのだが――の際の作業を克仁かつみに見られてはややこしいので、家主たる克仁に様々な嘘を吹き込んで、体よく家から追い出してしまったのだ。

 惨劇の夜以降、克仁には父の死はおろか、行方すら教えなかった。の死をようやく伝える決心がついたのは、イズミがロシアに着いてからの事だった。

 國徳から話が伝わっている事を期待したが、國徳はの役目をイズミに一任していたらしく、克仁は本当に何も知らないままだった。結果として、国際電話で父の訃報ふほうを克仁に告げたイズミは、大目玉を食らう羽目になってしまった。

 れでもイズミは、父は急死したと伝えただけで、詳細についてはがんとして語らなかった。今はまだ克仁を不用意に巻き込みたくないという思いが、少なからずあったのだ。

 ただ、克仁と仲が悪くなったと言っても、深刻味は薄かった。今回の件で多少の軋轢あつれきは生まれたが、れは絆の深さで修復していけるものだと思う。

 現に今日も、れから会う。克仁とは今後も、家族として付き合っていけるだろう。

 ――イズミが今後、あの家に近寄ることが出来るかどうかは、判らないが。

「克仁さん、氷花さんと仲良くやっているそうですね。あの子の暮らしぶりについて、克仁さんから聞きましたよ。……元気過ぎて、怖いくらいだと。両親が失踪状態だというのに、それを判っていないのか、気丈さを装っているのか。何にせよ、元気に笑って暮らしているようですね」

「克仁に託すのが一番いいと、私は思う」

 淡々と、國徳は言った。肯定的な言葉とは裏腹に、口調は重々しいものだった。

「あの子の先行きがどうなるかは、判らん。だが、私と暮らすよりは、ずっといいに決まっている。……克仁も、手を焼いとるようだがな」

「手を焼いている? 仲が宜しいように見えましたよ?」

「馴れ合いにしか見えん。もしくは、化かし合いか。大人に可愛がられる為に、どういう態度を取ればいいか。れをあの歳で判っとるのは、末恐ろしいことだと思う」

「……。克仁さんは、人格者です。更生も有り得ると思いますよ」

流石さすが其処そこまで期待するのは、ならん。れに、克仁には荷が重過ぎる」

 國徳は、苦々しげに、れでいてはっきりと言い切った。

「和泉。誰もが貴様のように、ろくな反抗期もなく健やかに育つなどと思い上がるな。克仁と貴様のような家族が、氷花であっても成り立つのか。そんな期待を此方こちらが持つのは、幾らなんでも克仁に悪い。れに、れは克仁が果たすべき役目でもない。あいつもれを判っとるから、氷花との生活で、手を焼くことが多いのやもしれん」

「それは……単純に、女の子との二人暮らしが、初めてだからではありませんか? 克仁さんには、血の繋がったお子さんはいませんから。距離感が判らないだけかもしれませんよ」

「……そんな理由とは、思えんがな」

 國徳は、不機嫌そうに目を逸らした。何処どことなく卑屈な光をの双眸に認めたイズミは、心配になる。家族としての責任を放棄して、別の人間に押し付けた。國徳は、れを気に病んでいるのだろうか。

 もしうなら、気にすることではないとイズミは思う。

 相手は、仇だ。國徳は家族を殺されたのだ。犯人もまた己の家族なのだとしても、イズミは國徳の選択を、ひいては感情を責める気はなかった。

 父親でありながら、娘の罪を拒絶する。れでも構わないと思ったのだ。

 むしろ、そんなものを受け入れられる人格者など、別に居なくていいと思う。

「……」

 我ながら、冷淡だと思う。れでは非道と詰られても、反論の余地など何処どこにもない。そんな此方こちらの感情は声に出さなくとも伝わったのか、國徳は一層不機嫌そうに眉根を寄せて、ふ、と小さな溜息をく。悪態あくたいが今にも飛び出してきそうな雰囲気だったが、國徳は何も言わずに、イズミの隣にすとんと座った。

 イズミはたじろぎ、目をしばたく。

 よもや、の人物と、縁側に並んで腰掛ける日が来ようとは。

 懐かなかった野良猫が歩み寄ってきたような驚きを感じていると、國徳は先程イズミがうしたように空を仰いだ。そんな祖父の狩衣かりぎぬに、花弁が付いているのをイズミは見つけた。

 ――赤く、ほんのりと透けた花弁だ。イズミが國徳の書斎に入った時に、天井から降っていた花だろうか。

 あの部屋には、なぜ花が降るのだろう。粛々と降りしきる眺めは葬送のようで、イズミたち家族がこうなってしまうことを、御山の自然に宿る神々が、あらかじめ知っていたかのようだった。

 イズミは、國徳の狩衣から花弁をつまむ。手のひらに移したれに吐息を吹きかけると、ふわりと舞い散った赤い花の一片ひとひらは、地に落ちるよりもずっと早く、雪のように消え失せた。

 の頃合いを、見計らったかのように。

 しゃがれた声が、横合いから掛かった。

「すまなかった」

 イズミは、呆ける。時が、止まったような気がした。

 國徳は、此方こちらを見ていない。焚火を見つめたままだった。火影ほかげだいだいに照らされた横顔は無表情に近かったが、微かな憂いを浮かんでいる。唇は固く引き結ばれていて、其処そこから言葉が紡がれたことが夢であるかのようだった。

 だが、驚きで思考が止まったのは、あくまで一瞬だけだった。

 イズミはきっと表情を引き締めると、「何故、貴方が謝るのです」と我ながら珍しいと思うほどきつい声で、祖父に言葉を叩きつけた。

「御父様、聞いてください。御父様が僕に謝る必要性について、僕と一緒に考察しましょう。貴方が何に対して謝っているのか。それを列挙していきます。可能性その一。御父様はロシア女性との離縁をきっかけにして、家族の絆を捻じれさせた事を謝っている。その必要は皆無ですね。もし御父様がソフィヤ御婆様と結ばれていなければ、僕は生まれていないのですから。謝られても困ります」

「……は?」

 國徳が、目を丸くする。そんな応答をするところなど、多分初めて見たと思う。可笑おかしさを覚えて笑いながら、イズミは一方的な主張を展開した。

「それでは、御父様が何を謝っているのか。可能性その二。御父様は過去に伊槻いつきさんへ『神社を継がなくていい』と言った事を謝っている。その台詞せりふの所為で伊槻さんが孤独を深め、あの惨劇の引き金になったのではないかと後悔している。……御父様。貴方は〝先見せんけん〟の異能によって、僕がいずれ神職にく事を悟っていましたね? 神社を継ぐのは伊槻いつきさんではなく僕だと、貴方には予感があったのでは? そうでなければ、神主になる事を前提に貞枝さんとの結婚を許した男性に、神社を『継がなくていい』などと言うわけがありません。ですが、こちらも謝る必要など皆無ですね。貴方は、伊槻さんが就いていた職を尊重しただけです。気に病む必要すらありません」

「和泉」

「それに、謝ってもらって解決する問題ではありませんよ。伊槻さんは死んだのですから」

 國徳に口を挟ませないよう早口で言いながら、イズミは悪戯っぽく笑った。伊槻の顔を、思い出していた。

 狂気に歪んだ顔ではない。記憶の中で、伊槻は綺麗に笑っていた。片手を差し伸べて、有難うとイズミに告げて、優しい顔で笑っている。

 あの夜には恨んだが、今はもう恨んでいない。怨嗟を断ち切って笑える事が、初めて清々しいと思えた。

「伊槻さんは、死にました。呉野家は異能の家系ですが、死んだ人間の事は判りません。もう言葉を交わせないのですから、その心を知ることは出来ません。伊槻さんが本当に御父様の言葉を気に病んだのか、真実は誰にも判りません。……御父様。伊槻さんの事は、もう忘れてしまってもいいのだと僕は思いますよ。伊槻さんは優しい方でした。僕が言うのも妙ですが、たとえ怒っていたのだとしても、屹度きっと許してくれますよ」

「……。要らん気を使いおって。貴様の減らず口には毎度呆れる」

「では、三つ目の可能性の提示を以て、減らず口の主張の終了とさせていただきましょうか」

 仏頂面の國徳へ笑いかけると、イズミは最後の可能性を提示した。

「御父様が何を謝っているのか、三つ目の可能性――それは、僕に『氷花さんが〝二人居る〟』と言った事です」

「……」

「僕の出国が慌ただしかった所為で、貴方とあまり話せませんでしたが、貴方が何を『誤認』したのか、今の僕には判っている心算つもりですよ」

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