4-40 謎解き

「最初に疑わしいと思ったのは、彼女が君達から全く〝同胞〟として扱われていなかったからです」

 克仁かつみのそんな言葉から、の奇妙な謎解きは始まった。

「まるでれが暗黙のルールであるかのように、君も國徳くにのりさんも彼女を〝同胞〟扱いしませんでした。身内であるにもかかわらず。の反応をもってして、彼女には異能が無いと判断すべきかとも思いましたが、やはり一人だけ遺伝しないという風には、どうにも考えにくいのです」

 う感じるのはもっともだ。克仁の言葉に、イズミは頷く。

「そうですね。貞枝さだえさんは感情的な人でした。何を考えているのか全く判らない反面、悪意ばかりは明け透けです。まるで常人と同じように、感情が心に届いてきます。よって、僕は『判る』『判らない』の判断を、彼女に対してだけは意図的にしませんでした」

れは、何故です?」

「貴方ならお判りでしょう、克仁かつみさん。それをしてしまったら……とても怖いことになりますよ」

 イズミは、自嘲気味に笑う。克仁の表情が、固まった。

「もし、貞枝さんに異能があるなら……あの事件は、全く違った顔を見せます。僕は、それが恐ろしかったのかもしれませんね。だからこそ無意識に、目を逸らしたのかもしれません。そういえば僕は、御父様からも一度言われていました。何故、目を背けるのかと。やはり屹度きっと、怖かったからでしょうね。貞枝さんの事が、初めて出逢った少年の頃から、ずっと」

「……。君、まさか。予期していたのですか。こうなってしまうことを」

 克仁の強張った声を受けて、イズミはしばしの逡巡ののちに、頷いた。

「そうかもしれません。とても漠然とした感覚でしたし、自覚が芽生えたのはいよいよみなが消えようとした時でした。僕の中でその予感が、もっと大きなものであれば……この惨劇、止められたかもしれませんね。感傷になりますが、父も死なずに済んだでしょう」

「……君は、國徳くにのりさんの血を、最も濃く引いたのやもしれませんね」

 克仁はう言って、感傷的な流れを断つようにかぶりを振る。のようにして感情と決別する仕草を見せてから、会話の流れを元に戻した。

「貞枝さんに対する一度目の疑念は、先ほど述べた通りです。二度目に彼女を疑わしく思ったのは、君と氷花さんが蕎麦屋そばやへ行った時の事です」

「ほう」

 の言い方は、少しばかり意外だった。

「九年前にも指摘しましたが、やはり貴方は、杏花とは呼ばないのですね」

「茶番はしましょう、イズミ君。の際なのでお断りさせて貰いますが、私はのような〝アソビ〟にお付き合いする気はありませんよ。呉野の者ではありませんし、御目溢おめこぼしを願います。て、君と氷花さんの蕎麦屋での会話を思い出してください。おはなし会の帰りに、私から聞いた『鬼のつの』について、二人で話した時の事です」

 克仁は、痛ましげに目を伏せると、「可哀そうに」と小声で言った。

「あの子は、名乗る名前を間違えてしまいましたね。内では〝杏花〟、外では〝氷花〟。のルールに酷く縛られているように見えました。イズミ君は、のちにこんなものは〝アソビ〟には思えないといましたが、〝映像〟を見た私も、君と全く同じ疑念を持ちましたよ。の件で君に謝っていたという氷花さん自身は、〝アソビ〟が終わるのがいやだからと釈明していたそうですが、私にはあの図は、大人のいつけを守れなかった子供が、期待に沿えなかったという重圧に負けて、あるいは苛烈かれつな叱責を受ける未来を想像して、怯えて竦んでいるようにしか見えませんでした」

 克仁は、畳から氷漬けの〝花〟を一つ手に取ると、重い溜息を吐き出した。

 克仁から見て、手前の花。便宜べんぎ上、〝杏花〟と定義した方の花だ。

 ――〝アソビ〟をやめれば〝氷花〟に戻る。そんな、歪みを抱えた花。

「イズミ君。私はあの瞬間に、貞枝さんを悪人と見做みなしました」

 克仁は、言う。単調な言い方だったが、の声には隠しようのない怒りがあった。

「氷花さんは、〝清らか〟なものに拘泥こうでいしていました。〝清らか〟という言葉にこだわったこと自体は、言葉を教えた君の受け売りでしょう。ですが、彼女は君と出会う以前から、美しく清らかなものに対して、過剰ともえる執着を見せていました。君と氷花さんが出会ったあの日、御山には花がたくさん落ちていましたね。の点からも、あの悪癖あくへきが君と出会う以前からのものだったと、容易に推測が可能です。六歳の少女が、何故ああも偏執的なまでに、美しいものへ焦がれるのです。あの価値観、美意識、観念。一体誰が植え付けたのです? 小学校にも上がっていない、幼い少女の世間の広さ。そんなものは知れています。あの観念は間違いなく、彼女の家族が植え付けたものです」

「その観念を植え付けた犯人を、なぜ貴方は貞枝さんお一人に限定なさるのです?」

 一応う訊いてみると、克仁からは「國徳くにのりさんは、私の友人ですので除外です」という飄々ひょうひょうたる返答が飛んできた。イズミは少し呆れてしまった。

「友人。そんな理由では、僕は納得しませんよ。完璧主義の克仁さん。それではただの感情論です。なぜ貴方は諸悪の根源を、貞枝さんお一人に限定なさるのです? 何か理由があるのでは?」

「全く、君はいやらしいですね」

 克仁は呆れ果てたような目でイズミを睨んでから、今度は「消去法ですよ」と実につまらなさそうに言い捨てた。

「まず、伊槻いつきさんは違います。感情論とわれたられまで。ですが、あの方の感性については、先程もった通りです。呉野の〝アソビ〟と、〝アソビ〟に固執こしゅうする愛娘のようれら全てにいて倦厭けんえんを示した普通の男が、氷花さんにあんなにも歪んだ観念を植え付けるわけがありません。れに、伊槻いつきさんに関してはもう一つ、感情論とは異なる決定的な証拠がありますよ。伊槻さんは惨劇前夜に、氷花さんと派手な喧嘩をしていますね? あれが演技ではない限り、伊槻さんが呉野の〝アソビ〟を疎んでいたという事実は、大前提として揺るぎません。れに、イズミ君は伊槻さんの心を『見た』ことで、彼が抱えていた悪感情を、私よりも知っているのでしょう? さあ、まだ何か反論があるならって御覧なさい。論破ろんぱしてあげましょう」

「判りました。伊槻さんに関しては白。納得です」

 己の異能まで持ち出されては敵わない。イズミは観念して苦笑した。

「まだありますよ、イズミ君。氷花さんは、蕎麦屋でこうもっています。『〝杏花〟と〝氷花〟の名を使い分けるのは、そうするように言われているから』と。先ほど述べた理由により、氷花さんに名前の使い分けを命じた人間は、伊槻さんではありません。さらに國徳くにのりさんに関しても、の〝アソビ〟に『付き合っている』だけであり、発案者ではありません。一応念押ししておきますが、氷花さんは〝アソビ〟を提案された側であり、容疑者から除外します。って、残った貞枝さんが犯人です」

「それだけでは、まだ納得できませんね」

 イズミは食い下がった。意地悪をしている自覚はあったが、克仁なら応えてくれると思ったのだ。

國徳くにのり御父様は、本当に白ですか? 貴方の友人という言い訳以外の理由を、僕に是非とも聞かせてください」

「其れならば君、何度もいましたよ。國徳さんは、の〝アソビ〟の発案者ではない。れが答えです」

「……。どうやら、先ほど保留にされた矛盾の話に繋がるようですね」

 の謎解きが始まってから、ずっとれが気になっていたのだ。

「なぜ御父様が〝アソビ〟を始めた人間ではない事が、御父様が白であるという理由になるのです? 判りにくいですよ、克仁さん」

「根拠なら、やはり十八歳の青年、イズミ・イヴァーノヴィチが示してくれましたよ」

 克仁は、平然と言う。イズミは、肩透かしを食らった気分になった。

「また僕ですか。今度はどの時点での会話です? 若かりし頃の僕は、手がかりをそこかしこにばら撒いてきたようですね。なかなかのやり手です」

「自画自賛されると、こき下ろしたくなるのが人の常ですが、まあいいでしょう。おかげで謎解きがしやすいのは確かです」

 呆れ笑いを浮かべた克仁は、「君が貞枝さんと口喧嘩をした時ですよ」と言って、過去を慈しむような目つきになる。

 屹度きっと、イズミが克仁の書斎を引っ掻き回した日を回想しているのだ。面映ゆさを覚えて苦笑すると、気づいた克仁がにたりと笑った。露骨に若さをからかわれたが、然程さほど悪い気はしなかった。我ながら懐かしく思うところが多少なりともあったからだが、過去をしのんでいくにつれて、微かな胸の痛みも思い出した。

 結局あの日、イズミの言葉は、貞枝には届かなかった。の直後に、イズミは杏花に言われたのだ。

 ――左様さようなら、と。別れの言葉を、切なくなるほどの清らかさで。

 イズミは緩く首を振って、雑念を淡々と追い払う。克仁との〝アソビ〟は、まだ始まったばかりなのだ。

 表情を取り繕う息子の顔を、克仁は何も言わずに見つめていた。ねぎらわられていると判る沈黙だったが、克仁はの気遣いを、けして声には出さなかった。此方こちらに負けないくらいに淡々とした声音のまま、問答は静かに再開された。

「君は、氷花さんが花を切った現場を見た後で、一度自宅に帰ってから、精神的なやまいについて扱った本を、呉野家に持っていきましたね。の時の会話が、鍵ですよ。あの時の君は、貞枝さんからる決定的な一言を聞き出すことに成功しているのです」

「……決定的な一言?」

「ええ。國徳くにのりさんが白で、貞枝さんが黒。れを証明するに足るだけの、決定的な証拠です」

「その言葉は、何ですか?」

「――『化銀杏ばけいちょう』ですよ。イズミ君」

 イズミは、沈黙する。そして、口の端だけで笑って見せた。

「……なるほど」

 感傷に引き摺られた感情が、高揚でふわりと持ち上がった。和室にわだかまる重い空気が、爽やかな軽さに変わっていた。克仁の言葉が変えたのだ。過去の陰惨さで淀んだ空気を、れこそ清らかに洗うように。イズミは軽く首肯した。

「君は貞枝さんと口論を交わした結果、並行線の議論に失望し、落胆しました。ですが、れでも……あの喧嘩、君の勝ちですよ。君は、言質げんちを取りましたから。彼女が犯人であるという、決定的な証拠の言葉を。……貞枝さんは、いました。美しく清らかな日本文学、『化銀杏ばけいちょう』を指して、こうったのです」

「――『ねたましいほど、好き』……と」

 イズミは、克仁の台詞を引き継いだ。克仁の顔に、はっきりとした喜色が浮かび上がる。やっと、尻尾を掴んだ。今にもう言わんばかりの顔はまるで、文字通り長年追い続けた犯人が残した手掛かりを、ようやく見つけたかのようだった。いっそ清々しい程の悪人面に、イズミは小さく吹き出した。

「その台詞の一体どこが、彼女が犯人たる所以ゆえんになるやら」

 イズミは、からかう。もっと克仁の話を聞いていたい。昔から、克仁の話は楽しかった。そんな娯楽に触れられる事が、の歳になっても叶うとは。己の養父たるの男には、幾つになっても敵わない。愉悦を隠さずあげつらうと、克仁の笑みに呆れが混じる。屹度きっと全てを見抜かれている。れこそがイズミにとって、何より愉快なことだった。

「イズミ君。の台詞の意味を考えて御覧なさい。いや、考えるまでもありませんか。貞枝さんの『貞』の字は、日本文学『化銀杏ばけいちょう』から付けられたのだと、貞枝さんは卑屈にっていましたね。そしての名は、呉野國徳くにのりる名付けだと」

 克仁は、つと視線を此方こちらへ向ける。

 しかし、イズミを見ているわけではないのだろう。

 イズミの隣――文机ふづくえを見ているのだ。

「國徳さんの日本文学好きがこうじて、一族の者に文学的な名が付けられた。貞枝さんはのように、君に説明していましたが……本当に、うでしょうかねえ」

 イズミは、克仁の視線を追いかける。

 文机ふづくえの上、障子窓の前。一列に並んだ文庫本。

 ――の中の、一冊。ついに、克仁の視線の先に辿り着いた。

外科室げかしつ海城発電かいじょうはつでん

 表題には、入っていない。だが、の中にることは知っている。九年前のあの夏に、イズミは同じ本を叔母から借りた。此処ここに所収されていることを、克仁もまた知っているのだ。

「君は、貞枝さんに問いました。貞枝さんは、己の名をちゃってしまいたい程にいやだとっていましたが、実はの文学がお好きなのではないか、と。〝キョウカ〟という少女の名前に、『杏』の字を当てた理由を問いました。そして、彼女は肯定しました。『化銀杏ばけいちょう』を好きだと認めて、娘の名に『杏』の字を当てた理由を認めたのです。ですが、の肯定。ただれだけの意味ではありませんね。彼女は、君に認めたのです。――自分こそが、〝彼女〟の名付け親なのだと」

 克仁の笑みが、深くなる。本当に人の悪い笑みだった。一階に居る若人わこうどたちに、是非とも見てほしいと切に願う。抑揚ある言葉の流れは、やはり水芸の滝のようだった。あの日〝言霊〟の知識を授けてくれた、歌を詠む声と質が同じだ。の時と寸分違わぬ流暢りゅうちょうさで、意思の言葉が流れていく。唄うように流れていく。

 力強い言葉はまるで、れこそ〝言霊〟のようだった。

「〝アソビ〟を始めた人間が國徳くにのりさんではないように、彼女を〝氷花〟及び〝杏花〟と名付けた人間もまた、國徳さんではなかったのです。貞枝さんは、其処そこを偽って君に教えました。自分達の名は全て、國徳さんが付けたのだと。……イズミ君。れも私は、國徳さんから聞いて知っていますよ。國徳さんは、君たち親族の、誰の名前も付けていませんね?」

「……はい?」

 流石さすがに、台詞せりふには驚かされた。目をしばたいたイズミへ、克仁は意趣返いしゅがえしのように笑ってきた。イズミがの〝言挙げ〟を意外がることを、あらかじめ知っていたかのようだった。

「名前の事について、あの頃の君は知らなかったでしょうが、國徳さんと暮らすようになった君は、もう知っているのでしょう? 私が知っている事が、そんなに意外でしたか?」

國徳くにのり御父様は、堅物ですから。克仁さんに話していたとは意外でした」

「君、失礼ですよ。國徳さんは確かに堅物ですが、私という友人がいるのですから。人間ですよ。君と同じ。……ああ、君。己を鬼とさげすむのはなしですよ。今の君は、イズミ・イヴァーノヴィチですからね」

 先手を打たれてしまった。反論を封じられたイズミは、お手上げの意思を示して笑った。

「そうですね……そうでした。それに、貴方は多くの人々を幸せに出来る御仁ごじんでした」

「褒めても何も出ませんよ」

 茶目っ気を見せて克仁が笑い、「君の名付けは、イヴァンですよ」と打ち明けて、目を優しげに細めた。

「イヴァンは、日本を愛していました。日本というよりは、國徳さんを。そんな実父への愛着から、日本文学に傾倒し、愛読し、其処そこから名を頂戴ちょうだいしました。――れが、『イズミ』という君の名です。そして、『化銀杏ばけいちょう』の登場人物、おていから『貞』の一字を貰い受けた、呉野貞枝さんの方ですが……彼女、恐らくは知っていますね。『貞枝』という己の名、本当の名付け親が、國徳さんではない事を」

「ほう。では、一体誰が、彼女の名付け親なのです?」

「子の名付け親が父ではないなら、母と考えるのが妥当でしょう。りんさんで間違いないでしょうね」

りん? 克仁さん、それは何方どなたの事でしょう?」

「君、忘れたのですか? 國徳さんの後妻ごさいですよ。ロシアでの離縁を経て、日本で引き合わされた妻。――呉野りんさん。もう亡くなられていますが、貞枝さんのお母様ですね」

「……。そんな名前まで、貴方が持ち出してくるとは思いませんでしたよ。確か、貞枝さんが一度だけ口にしましたね。僕が貞枝さんと二度目の出逢いを果たした、鏡花談議の席で。ソフィヤ御婆様のお写真を、美しい御本の中に閉じ込めて、いまだにお持ちになっている僕の祖父、國徳くにのり御父様。そんな御父様に、随分嫉妬なさっていた、と」

 ――まさか、其処そこまで言い当てられるとは。イズミは、声を忍ばせて笑った。悪意によって欠けたパズルのピースを、克仁の言葉が埋めていく。理路整然と隙間なく、清らかな言葉で埋めていく。ピースが揃って、見えていく。出来上がる絵が何なのか、れでようやく目に見える。『判らない』が、『判る』に変わる。克仁が真相に何処どこまで迫れるのか、推理を見守るのが面白い。

 壊れ、裂かれ、修復不能にまで陥った呉野の絆を繋ぐ糸を、九年の歳月をかけてり合わせて、綾取あやとりのごとく操りながら、たった二人で〝アソンデ〟いる。れこそまさに、克仁の言った〝コトダマアソビ〟と呼ぶに相応しい。うに違いないと、イズミは思った。

の名付け、及び呉野貞枝を巡る、家族の愛憎について。今から語っても構いませんが、先延ばしにしていた矛盾の解明、そして國徳さんが白で貞枝さんが黒という説明を、此処ここでさせて貰いましょうか」

 克仁は、〝杏花〟の花を畳に戻すと、もう一つの〝花〟を拾い上げる。

 今度は、克仁から見て奥の方。イズミに近い方の花。

 ――未来の少女、〝氷花〟の花。

「氷花。そして杏花。少女の名付け親が國徳さんならば、れらの名前が少女の先行きを憂える為のものという理屈も、一応筋が通ります。ですが、名付け親は國徳さんではなかった。のような〝アソビ〟をしようとい出したのも國徳さんではなく、『少女の先行きを憂える為』に、自発的に動いたわけではなかった。れをしようと訴えたのは、貞枝さんです。そして彼女いわく、の名付けの本当の理由は、『妬ましいほど、好き』だから。……〝杏花〟という名前が、本当に氷花さんの先行きを憂える為の名前なら、『妬ましい』などという言葉が出ますかね。母親の口から。貞枝さんは、『少女の先行きを憂いて』などいませんね。彼女のの台詞からは、醜い怨嗟しか感じられません。國徳さんが白で、貞枝さんが黒。両者の言葉から、の差は明確かと思いますよ」

「……その怨嗟、貴方はどう証明するのです?」

 屹度きっと、応えてくれるだろう。れを予感しながら、イズミは訊いた。

「貞枝さんは、氷花さんを『妬んで』いた。自分の娘を妬んでいた。その根拠は、一体何です? そこが説明できなければ、今の理論、ただの感情論に終止します」

「一つ目の根拠なら、既に君に提示しました。氷花さんは〝清らか〟を渇望していました。美しさに焦がれたがゆえに、人知れず抱え込んだ寂しさを、君に吐露とろして泣いていました。蕎麦屋そばやの一件だけをっているわけではありませんよ。氷花さんは花を切ったところを君に見られた時に、酷く傷ついた様子で己を責めていましたね。なぜ六歳の少女が、『生まれ変わったら花になりたい』などとって泣くのです。悲愴ひそう過ぎて見ていられませんよ。彼女が母親から受けてきた教育が、何らかの歪みをはらんでいると見て取るには十分です。……そして、もう一つ」

 克仁は沈痛な面持ちで、〝氷花〟の花をそっと撫でた。

 克仁から見れば、瑞々しく柔らかな花弁に触れている事になるのだろう。だが、イズミの目には、やはり氷の供花きょうかにしか見えなかった。温かな男の手に触れられて尚、厚い氷に覆われたまま、時の流れを止めている。

 溶ければいい。そんな風にも思ったが、もうどうしようもないのだろう。

 氷は、溶けない。凍って死んで手向けとなった。の凍てつきが、溶けるなど。

 そんな希望を抱いていいのか、イズミにはもう判らなかった。

「呉野家の居間で、イヴァンが死んだ夜。イズミ君は、氷花さんと貞枝さんの親子の会話に、違和感を覚えませんでしたか?」

 う克仁に問われて、イズミは回想する。

 ――嘘つき。

 無気力に、怠惰に、そして最後は激昂げっこうして、母親へと食ってかかった、幼い少女の悲痛な怨嗟。の言葉を嘲笑った、狐の面の白いかお

「貞枝さんは、氷花さんに暴言を吐いていました。あの子は〝清らか〟ではなく、そして自分は嘘つきだと。あの子の神経を逆撫でする言葉ばかりをっていましたね。挑発的な態度で。面白おかしく。……ですが、考えてもみてください。呉野貞枝さんは、異能の持ち主です。の仮説がもし正しいのだとしたら……なるほど確かに、君のう通り、想像するだけで怖いことになります」

 の台詞にどう反応すべきか刹那せつな迷い、イズミは先程から全く代わり映えしない苦笑の顔を克仁に向けた。当時はこんな風には笑えなかったが、今のイズミにはれが出来る。そんな擬態の能力こそが、大人と子供の差異さいかもしれない。二十七歳と十八歳という人間が、育んだ価値観の差異かもしれない。

 そんな差異を認める事が、大人になるという事ならば――やはりイズミ・イヴァーノヴィチの時もまた、の氷の花と同様に、十八歳で止まったままだった。

 九年越しの感傷は、相当に粘着質なものらしい。そんな感慨はやはり苦笑の形としてイズミの顔に上り、何だか己が可笑しくなる。

 笑顔で誤魔化すずるさばかりが、上手い大人になってしまった。

伊槻いつきさんは、氷花さんの〝言霊〟で壊れました。貞枝さんもまた、正気が欠落した様子で、泉の中を進んで行きましたが……貞枝さんは〝同胞〟であり、〝同胞〟に異能は効かないはずです。すなわち、あの方は正気で、氷花さんにあのような暴言を投げかけて、怨嗟をあおったことになります。……う、まるで」

 克仁は、厳粛な声音で言った。


「〝言霊〟を、誘発するように」

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