4-41 名前
緩やかな諦念が、心に
もう、そんなところまで割れている。
貞枝との喧嘩、杏花との別離。過去を回顧した時にも感じた痛みを、人は喪失感と呼ぶのだろう。少女が失くした清らかを、
克仁には、知ってほしくなかった。
だが、時間を巻き戻せない以上、ひとたび知識を得たが最後、無知な頃には戻れない。幾ら寂しく思おうとも、徹底的に極め尽くさねば気が済まない偏屈同士、全てを解き明かす以外に、出来ることなど何もない。
イズミが言葉を待っていると、克仁は
「貞枝さんは、氷花さんを挑発していました。
「もし、その〝言霊〟。不発だったらどうするのです?」
イズミは、訊く。会話の流れが、いよいよ後戻りの出来ないものへ変わっていくのを感じながら、克仁の言葉に返事をして、
「氷花さんの、破滅を呼ぶ〝言霊〟。何故そんなものを貞枝さんが引き出そうとしたのか、その疑問は、今は捨て置きます。あの時、もし貞枝さんの思惑通りに事が運ばず、氷花さんの〝言霊〟が不発に終わった場合、貞枝さんはどうするお
「だから、先手を打って殺したのです」
克仁が言った。殺伐とした声からは、感情が根こそぎ消えていた。表情だけが、悲痛だった。死者を
「貞枝さんは、伊槻さんを泉の中央へ
克仁は、
「彼女は、あの夜。正気の心のまま御山に居ました。そして少女の〝言霊〟の
「……」
「貞枝さんは、己の意思で、正気で、狂ってなどいない心で、伊槻さんを……自分の夫を、包丁で滅多刺しにした事になります」
「……」
「――『伊槻さんを殺して、自分も死ぬ』。
恐ろしい〝言挙げ〟を聞きながら、イズミは〝花〟を見つめていた。
二つの花。
過去の〝杏花〟と、未来の〝氷花〟。
〝アソビ〟の呪いが解けたなら――〝杏花〟は〝氷花〟に、正しく戻る。
初老の男の語る声が、
また、
思い返せば、
だとしたら、イズミは
――『元々〝氷花〟だったものを〝杏花〟と呼ぶのが
――『そして、
――『一体、なんと名付けるべきでしょうね?』
「……克仁さん。貴方の言葉に、矛盾を見つけましたよ。それも、かなり致命的な。
イズミは、〝花〟を
「貴方が手に
「〝貞枝〟です」
迷いのない言葉だった。日本刀の一閃のように、言葉が空気を
イズミは、口を挟まなかった。〝アソビ〟の終わりは、
「〝貞枝〟です。
――杏花。
鎮守の森の最奥で、巫女装束に身を包んだ少女が、絶望の淵でイズミに
しかし、
杏花の言った『寂しい』を、イズミはあの時、忘れてしまった。杏花の孤独に同情しながら、命の観念という喪失が
――『お母様。お父様は、私と仲直りをしてくれるでしょうか』
「氷花さんは、九年前の夏……いえ、
愛らしい杏花。憎からず思っていた杏花。そんな杏花が、
殺人の連鎖を目の当たりにしても、イズミは杏花のことを可哀想だと思ってしまった。一度は幻滅にも似た感情を抱きながら、
そんな風に、同情しながら――杏花の〝清らか〟を、イズミは守れなかった。変質していく魂を、止めることが出来なかった。
だから、あんなことになってしまった。
皆、居なくなってしまったのだ。
「何故、娘に
「……。何故、僕がそれを知っていると?」
茫洋と、
「克仁さん、何故そのように確信に満ちた言い方をなさるのです? 何か根拠がおありなのですか」
「根拠はありません。簡単な想像ですよ。……貞枝さんの、遺書。
「やはり、君は持っているのですね。杏花さんが、あの夜に抱えていた茶封筒。あれは間違いなく、呉野貞枝の遺書です。遺書はあの場に二通ありましたが、どちらも後日に焼いたと聞いています。一通は君宛てで、もう一通は
「内容まで御存知とは。克仁さん、フェアではありませんね。貴方、最初から知っている事が多過ぎですよ」
「君と勝負をしているわけではありませんから、
「……。では、一つだけ質問をさせてください」
イズミは、言う。
――〝アソビ〟は、楽しいものでなくてはならない。
そして今、楽しい〝アソビ〟が終わろうとしている。郷愁が心を引っ掻き、名残惜しさから出た声は、己でも知覚できる程の微かな甘えを含んでいて、
たとえ
もし、イズミが
「……。克仁さん。先に、謝っておきます。僕の親不孝をお許し下さい。僕は、貴方がいつか死ぬ時……病死か、老衰かは判りませんが、その死を看取る事は出来ません。先に
「聞かなかったことにしますよ」
克仁は即答した。声音は静かなものだったが、拒絶の意思は明白だった。イズミが目を見開いて黙っていると、怖い顔で睨まれてしまった。
「イズミ君、早く
「……」
覚悟を、決めた。
イズミは、〝花〟を見る。克仁の手に在る、氷の花。〝氷花〟の花。〝貞枝〟の花。凍てついたままの永遠の花。
氷は溶けない。清らかさは戻らない。死んだ者も帰らない。
だが、
「……克仁さん、貴方に質問です。貴方は先程、呉野貞枝が『妬ましい』と思う相手は、本当に呉野氷花ひとりなのかと言いました。――では。貞枝さんが、『妬ましく』思っている相手。その人物の名を、言ってください」
克仁は、顔色を変えなかった。イズミの言葉に腹を立てた時のまま、
清らかな情愛の色彩は、イズミに母を思い出させた。サンクトペテルブルクで見た光と、同じ温度が
目には見えない清らかな『愛』を、イズミが心に刻んだ時。
「貞枝さんが、『妬ましい』と
克仁は、言葉を切る。
そして、酷くやるせなさそうに、〝アソビ〟を終わらせる言葉を告げた。
「あの夏の、惨劇の正体は。呉野氷花による親殺しではありません。呉野貞枝による計画殺人です」
克仁の言葉を呼び水にして、記憶が花吹雪の
――全ては、あの日から始まっていたのだ。
九年前の夏、
あの日、神社へ行く父を止めていたら。父は、今も生きていただろうか。
自問したが、苦笑とともに、イズミは首を横に振る。
否、
「呉野の一族の、皆殺し。貞枝さんは、家族を残らず殺す気でした。呉野と名の付く人間は、すべからく皆『妬ましかった』。氷花さんの『憎悪』を引き出して〝言霊〟を暴発させた理由は、彼女の怨恨です。イヴァンの死は、
克仁が、イズミをひたと見た。
「イズミ君。見せてください。
もう躊躇うことはなかった。イズミは浴衣の
一通の、茶封筒。表書きに踊った
見るのも辛い、父の名前だった。
「お父さん」
愛を込めて、
そして、一息に封を開けて、中に押し込まれた紙片を引き抜いて――克仁に、手向けた。ロシアの共同墓地で、母に赤い風車を手向けた時と同じように。
手紙を受け取った克仁の手が、折り畳まれた紙片を開いていく。夜気の甘さが、残り香のように薄く香った。
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