4-41 名前

 緩やかな諦念が、心に小波さざなみごとく寄せていく。イズミは、軽く手を叩いた。

 もう、そんなところまで割れている。克仁かつみには敵わなかった。れに恐らくは最初から、勝てる相手でもなかったのだ。二十七歳だろうが十八歳だろうが、己の倍は生きた家族を、騙すことなど出来はしない。イズミは童心に帰ったような心地で微笑んだが、胸中の寂しさは消えなかった。

 貞枝との喧嘩、杏花との別離。過去を回顧した時にも感じた痛みを、人は喪失感と呼ぶのだろう。少女が失くした清らかを、いたむ気持ちと同じなのだ。

 克仁には、知ってほしくなかった。の状況を散々たのしんでいながら、己の心の都合の良さには、ほとほと呆れ果てるばかりだった。

 だが、時間を巻き戻せない以上、ひとたび知識を得たが最後、無知な頃には戻れない。幾ら寂しく思おうとも、徹底的に極め尽くさねば気が済まない偏屈同士、全てを解き明かす以外に、出来ることなど何もない。

 イズミが言葉を待っていると、克仁はの一瞬だけ、僅かな躊躇いを見せた。れから己のする〝言挙げ〟が、酷くおぞましいものであるかのように、そして最後は黙祷もくとうのように、両のまぶたが閉じられる。やがて瞼を開いた克仁は、覚悟を決めたような声で、イズミに言った。

「貞枝さんは、氷花さんを挑発していました。のようにして、彼女が怨嗟のこもった〝言霊〟を使うように仕向けたのです。『皆、居なくなっちゃえ』と氷花さんはいましたが、屹度きっとどんな言葉でも良かったのです。ただし、確実に自分達が死ねるような、破滅を呼ぶ言葉を引き出せるようにあおっていたとは思います」

「もし、その〝言霊〟。不発だったらどうするのです?」

 イズミは、訊く。会話の流れが、いよいよ後戻りの出来ないものへ変わっていくのを感じながら、克仁の言葉に返事をして、の〝言霊〟に声で応えた。

「氷花さんの、破滅を呼ぶ〝言霊〟。何故そんなものを貞枝さんが引き出そうとしたのか、その疑問は、今は捨て置きます。あの時、もし貞枝さんの思惑通りに事が運ばず、氷花さんの〝言霊〟が不発に終わった場合、貞枝さんはどうするお心算つもりだったのです? あのままでは貞枝さん、伊槻いつきさんに殺されていたかもしれませんよ」

「だから、先手を打って殺したのです」

 克仁が言った。殺伐とした声からは、感情が根こそぎ消えていた。表情だけが、悲痛だった。死者をとむらかおだった。

「貞枝さんは、伊槻さんを泉の中央へおびき出し、あらかじめ泉の中へ隠しておいた凶器で刺殺しました。君は國徳くにのりさんのおかげで見ずに済みましたが、何が起こっていたのかは明白です。ここで思い出していただきたいのですが、彼女には異能があるということです。〝同胞〟には、異能は効きません。……〝言霊〟は、効かないのですよ。貞枝さんには。先ほど軽く触れたように、あの惨劇の夜、氷花さんの〝言霊〟の霊威れいいって気が狂い、異常者のごとく立ち回ったあの女は、実際には狂ってなどいなかったのです。――つまり」

 克仁は、しばし沈黙する。そして酷く辛そうな間を空けたのちれでも毅然きぜんと言葉を続けた。

「彼女は、あの夜。正気の心のまま御山に居ました。そして少女の〝言霊〟の霊威れいいって気が触れた様子を装いながら、氷花さんを挑発して、新たな〝言霊〟を誘いました。の時、氷花さんは貞枝さんが望む通りの〝言霊〟をぶつけましたが、の〝言霊〟が出ようと出まいと、貞枝さんにとってはどちらでもよかったのです。彼女の目的は、そんなものではないのですから」

「……」

「貞枝さんは、己の意思で、正気で、狂ってなどいない心で、伊槻さんを……自分の夫を、包丁で滅多刺しにした事になります」

「……」

「――『伊槻さんを殺して、自分も死ぬ』。おぞましい宣言を、あの女は本気でっていたのです。の殺人を実現する方法は、簡単です。自分で殺しても構いませんが、もっといやなやり方が一つあります。――娘を、使えばいい。娘の異能を、使えばいい」

 恐ろしい〝言挙げ〟を聞きながら、イズミは〝花〟を見つめていた。

 二つの花。芙蓉ふようの花。手向たむけの花。氷の花。

 過去の〝杏花〟と、未来の〝氷花〟。

〝アソビ〟の呪いが解けたなら――〝杏花〟は〝氷花〟に、正しく戻る。

 初老の男の語る声が、其処そこに宿った魂が、イズミに理解を促している。記憶の中の蝉のが、頭蓋の奥で鳴っていた。九年前の夏の名残へ耳を貸せば貸す程に、〝アソビ〟が壊れていく気がした。

 嗚呼ああ、終わってしまう。明瞭な喪失感を意識してようやく、壮烈そうれつな観念が、喉元にまでせり上がる。寂寞せきばくだろうか。愛着だろうか。れとも惜別の情だろうか。の感情の質量は、清らかにたたられた心のうつわでは、イズミにはもう測れない。れを測ろうとしたならば、の時イズミは破滅する。あの日壊れずに保った心が、今度こそ割れて崩れてしまう。抱え込んだ〝清らか〟が、其処そこからなだれ落ちていく。杏花に、返せなくなってしまう。イズミは、苦笑してしまった。

 また、つのを落とすのか。己が鬼なのか御隠居なのか、もうどちらなのかも判らない。思い返せばイズミと杏花は、神社の御山で出逢ってから、本の話ばかりしていた。出逢いが海外文学ならば、絆は日本文学だ。夏部屋に吹き抜けた甘い夜気が、浴衣をさやかに揺らしていく。幸福感が、肌に触れた。あの時、イズミは幸せだった。家族と〝アソンデ〟、幸せだったのだ。

 の〝アソビ〟が、終わる。九年前の夏が、真に終わろうとしている。過去の終焉しゅうえんをはっきりと突き付けられた瞬間、イズミは台詞せりふを思い出していた。

 思い返せば、の台詞こそが〝アソビ〟を終わらせる言葉だった。幕引きの役割を果たす為に、克仁はあの夏を生き残ったのだろうか。

 だとしたら、イズミはの観念に、自力で気づきたかった。

 れこそが、はっきりと己の感情として判る、あの夏のイズミの後悔だった。

 ――『元々〝氷花〟だったものを〝杏花〟と呼ぶのがの〝アソビ〟です』

 ――『そして、の花を〝杏花〟ではなく、〝氷花〟と正しい名で呼んだならば……斜め前に置いた、此方こちらの花。私が先程、〝氷花〟と定義したの花は。未来の象徴たるの魂、呉野の〝アソビ〟風にうならば』


 ――『一体、なんと名付けるべきでしょうね?』


「……克仁さん。貴方の言葉に、矛盾を見つけましたよ。それも、かなり致命的な。あるいはこの矛盾、僕たち〝同胞〟にとって、新しい事実の発見とでも言うべきでしょうか。……ですが、この発見についても、今は捨て置きます。克仁さん、先に答えてください。貴方は先ほど言いましたね」

 イズミは、〝花〟を凝乎じっと見る。克仁が選んだ氷の供花を、凝乎じっと見る。

「貴方が手にせた、〝氷花〟の花。もし、畳に残した六歳の少女、〝杏花〟さんを、正しく〝氷花〟と呼ぶのなら。……その先を行く少女であり、國徳くにのり御父様が〝二人居る〟と誤認してしまった未来の少女を示す、この魂。貴方は、何と呼びますか?」

「〝貞枝〟です」

 間髪かんはつを入れずに、う言われた。

 迷いのない言葉だった。日本刀の一閃のように、言葉が空気をぎ払う。

 イズミは、口を挟まなかった。〝アソビ〟の終わりは、のようにして迎えるべきだ。葬送のように喪に服しながら、イズミは克仁の〝言挙げ〟を聞き続けた。

「〝貞枝〟です。の魂の名は。〝杏花〟と呼ばれた〝氷花〟の未来。の先行きの魂を見た國徳くにのりさんが、何故〝二人居る〟と誤認したのか。同じ魂であったなら、歳が違うだけで同じ魂であったなら。〝二人居る〟などとは仰らないはずです。未来の魂に、一目見て判るほどの狂気と異常を見てとったからこそ、國徳さんは驚愕し、〝二人居る〟と誤認したのです。――の花の名は、〝貞枝〟です。貞枝さんの教育によって、近い未来に必ず変質するであろう魂。あの夜に、確実に人を殺すべく感情を操作されていた、一人の傷ついた少女の魂。……〝杏花〟でも〝氷花〟でも、のどちらでもなくなろうとしていた……大人に良いように利用された、あまりに可哀想な魂です」

 ――杏花。

 鎮守の森の最奥で、巫女装束に身を包んだ少女が、絶望の淵でイズミにすがり、寂しいと言って泣いた時。イズミは貞枝と戦おうと心に決めた。

 しかし、の夜に父が死に、伊槻いつきが死に、貞枝もまた消えてしまった。

 杏花の言った『寂しい』を、イズミはあの時、忘れてしまった。杏花の孤独に同情しながら、命の観念という喪失がもたらしたへだたりに、愕然と竦んで忘れてしまった。

 ――『お母様。お父様は、私と仲直りをしてくれるでしょうか』

 の程度の、言葉の所為で。

「氷花さんは、九年前の夏……いえ、れよりずっと以前から。貞枝さんから歪んだ教育を受けていました。の教育によって、清らかなものに対して異常な執着を見せるようになりました。かつて清らかだったはずの少女が、親の教育で変質していく。國徳くにのりさんが『見た』魂は、そんな魂です。鬼のような、少女の魂。清らかさが剥離はくりして、悪徳に染まった少女の魂。無垢な少女とは似ても似つかぬ、まるで別人のような魂……いずれ、母親のようになる。〝貞枝〟のようになる魂」

 愛らしい杏花。憎からず思っていた杏花。そんな杏花が、伊槻いつきを壊した。の伊槻が父を殺し、父を殺した伊槻は貞枝が殺した。

 殺人の連鎖を目の当たりにしても、イズミは杏花のことを可哀想だと思ってしまった。一度は幻滅にも似た感情を抱きながら、れでも可哀想だと思ってしまった。

 そんな風に、同情しながら――杏花の〝清らか〟を、イズミは守れなかった。変質していく魂を、止めることが出来なかった。

 だから、あんなことになってしまった。

 皆、居なくなってしまったのだ。

「何故、娘にいびつな教育を施したのか。何故、彼女は娘を妬んだのか。『妬ましいほど、好き』。何故、の言葉が生まれるに至ったのか。彼女が『妬ましい』と思う相手。れは果たして、呉野氷花ひとりなのか。……イズミ君。そろそろ君の番ですよ。呉野貞枝を巡る、家族の愛憎劇。君の口から語って下さい。私が憶測を語るよりも、の方が明瞭だと思いますよ」

「……。何故、僕がそれを知っていると?」

 茫洋と、う訊いた。過度な感傷に沈んだ脳が、徐々に言葉の意味を咀嚼そしゃくして、何を言われたのか悟った時、イズミはにわかに動揺した。

「克仁さん、何故そのように確信に満ちた言い方をなさるのです? 何か根拠がおありなのですか」

「根拠はありません。簡単な想像ですよ。……貞枝さんの、遺書。其処そこに真相が隠されていると見るのは、誰であれ一度は考える事です」

 う言って、克仁はイズミを凝視した。はっとしたイズミは、さっと浴衣のたもとへと視線を走らせてしまい、咄嗟とっさ愚行ぐこうにすぐさま気づき、小声で笑ってしまった。

 れではまるで、己が犯人のようだ。

「やはり、君は持っているのですね。杏花さんが、あの夜に抱えていた茶封筒。あれは間違いなく、呉野貞枝の遺書です。遺書はあの場に二通ありましたが、どちらも後日に焼いたと聞いています。一通は君宛てで、もう一通は國徳くにのりさん宛てだったとか。どちらも、正気を疑うような内容だったそうですね」

「内容まで御存知とは。克仁さん、フェアではありませんね。貴方、最初から知っている事が多過ぎですよ」

「君と勝負をしているわけではありませんから、ずるかろうが汚かろうが何でもいいのですよ。……其処そこに隠しているのは判っています。君がもし私と戦っている気でいたのなら、の勝負、君を見抜いた私の勝ちです。持ってきたという事は、見せる心算つもりはあったのでしょう? ……イヴァンの死の真相。私にも知る権利がありますよ。おおむね予想はついてますが、答え合わせとさせてください」

「……。では、一つだけ質問をさせてください」

 イズミは、言う。の質問をもって、克仁との〝アソビ〟を終わりにする。の為の〝言挙げ〟を、克仁の口から訊きたかった。

 ――〝アソビ〟は、楽しいものでなくてはならない。れが九年前のあの夏に、イズミが言った台詞せりふだった。

 そして今、楽しい〝アソビ〟が終わろうとしている。郷愁が心を引っ掻き、名残惜しさから出た声は、己でも知覚できる程の微かな甘えを含んでいて、嗚呼ああ、やはりの人は己の父だったのだと、敬愛の情が心に満ちた。

 たとえの先にどんなことがあろうとも、克仁には生きていてほしい。だが、そんな風に思った時、れではいけないと気づいてしまった。

 もし、イズミがれからも克仁の事を、日本の父だと思い続けたままならば。イズミはいずれ、の死を看取みとらなければならなくなる。克仁が現世うつしよから消える時を、の目で見届けなくてはならなくなる。れが子の務めだからだ。最愛の父、イヴァンにうしたように。

「……。克仁さん。先に、謝っておきます。僕の親不孝をお許し下さい。僕は、貴方がいつか死ぬ時……病死か、老衰かは判りませんが、その死を看取る事は出来ません。先にくのは、きっと僕だと思うのです。子の務めを全うできない事だけを、此処ここで貴方にお詫びします」

「聞かなかったことにしますよ」

 克仁は即答した。声音は静かなものだったが、拒絶の意思は明白だった。イズミが目を見開いて黙っていると、怖い顔で睨まれてしまった。

「イズミ君、早くいなさい。君は私に何を質問しようとしていたのです。の質問に、私は答えます。そして、君にあの夏の怪事を解明して貰わなくては困るのです。……さあ。って御覧なさい」

「……」

 覚悟を、決めた。

 イズミは、〝花〟を見る。克仁の手に在る、氷の花。〝氷花〟の花。〝貞枝〟の花。凍てついたままの永遠の花。

 氷は溶けない。清らかさは戻らない。死んだ者も帰らない。

 だが、れでも〝アソビ〟は終わる。いつか必ず終わるものだ。れは、ただれだけの話だった。れを寂しいことだとは、もう思ってはいけないのだ。

「……克仁さん、貴方に質問です。貴方は先程、呉野貞枝が『妬ましい』と思う相手は、本当に呉野氷花ひとりなのかと言いました。――では。貞枝さんが、『妬ましく』思っている相手。その人物の名を、言ってください」

 克仁は、顔色を変えなかった。イズミの言葉に腹を立てた時のまま、此方こちらを鋭い眼光で睨んでいる。の表情にやがて、憐憫にも似た儚げな情が宿る。行燈あんどんのようにぼうと灯った輝きは、狂気に絡めとられた伊槻いつきから逃げたあの夜に、イズミを國徳くにのりの元まで導いた花灯はなあかりのようだった。

 清らかな情愛の色彩は、イズミに母を思い出させた。サンクトペテルブルクで見た光と、同じ温度が其処そこに在った。

 目には見えない清らかな『愛』を、イズミが心に刻んだ時。

 ようやく放たれた克仁の言葉が、空気をさっと切りひらいた。

「貞枝さんが、『妬ましい』とうとんだ相手。の人物の名前は――呉野氷花。呉野國徳くにのり。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。そして、君。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノ。……全員です。伊槻いつきさんだけはグレーゾーンですが、入り婿の彼を除いて、呉野の一族、全員です。伊槻さんはあの夜、『一家で心中する』という狂気に駆られましたが、あの狂気、皮肉ですね。正気かられを実践しようとした女を、妻に持ってしまうなど。……彼が、一番の被害者なのかもしれません」

 克仁は、言葉を切る。

 そして、酷くやるせなさそうに、〝アソビ〟を終わらせる言葉を告げた。

「あの夏の、惨劇の正体は。呉野氷花による親殺しではありません。呉野貞枝による計画殺人です」

 嗚呼ああ、とイズミは息を吐く。嗚呼ああ、清らか。あの遺書にもう書かれていた。賛美と憧憬、そして渇望。手が届かないことを知っていたのだ。だからあんなにも恋い焦がれる。

 克仁の言葉を呼び水にして、記憶が花吹雪のごとく乱舞する。蝉の声が、わっとあふれた。灼熱の夏の光が、意識を白く照らし尽くした。

 ――全ては、あの日から始まっていたのだ。

 九年前の夏、だるような暑さの袴塚こづか市。来日した父の痩躯そうくに、知らない皺の増えた首。異国の風貌を持つ男の、天使のような清らかさ。

 あの日、神社へ行く父を止めていたら。父は、今も生きていただろうか。

 自問したが、苦笑とともに、イズミは首を横に振る。屹度きっと、あの鬼女きじょは諦めない。六年の月日を待った女だ。何年だって待つだろう。父が再び来日するまで、殺せる距離に近づくまで、好機が訪れるの瞬間まで、幾らだって待ち続ける。れを克仁も判っているのだ。

 否、れとも――諦めて、いるのだろうか。

「呉野の一族の、皆殺し。貞枝さんは、家族を残らず殺す気でした。呉野と名の付く人間は、すべからく皆『妬ましかった』。氷花さんの『憎悪』を引き出して〝言霊〟を暴発させた理由は、彼女の怨恨です。イヴァンの死は、伊槻いつきさんによる殺人ではありません。貞枝さんの計画として、始めから織り込まれていたのです。イヴァンの来日は、好機です。殺したい人間が一堂に会する、またとない機会です。貞枝さんは、腹違いの兄を確実に殺す気で、山へとおびき出したのです。君が来れば、イヴァンは来ます。君を助ける為に必ず来ます。其処そこまで計算くの殺人でした。イヴァンの来日が決まった時から、の殺人計画は動き出していたのです。――の為に、障害となる國徳くにのりさんの動きを封じたのです。の為に、あらかじめ泉に凶器を仕込んだのです。探せば屹度きっと、他の場所にもあったはずです。己の家族と親戚達を、確実に殺す為の凶器が。……の怨嗟の、正体は。彼女の遺書が、教えてくれるはずです」

 克仁が、イズミをひたと見た。

「イズミ君。見せてください。おいっ子と実父に遺書を残した貞枝さんが、〝同胞〟の兄にもまた遺書を残しているという私の憶測が、正しいならば。君がふところに持っているのは、イヴァン宛ての遺書のはずです。……隠された、三通目の遺書。れを、私に見せてください」

 もう躊躇うことはなかった。イズミは浴衣のたもとに手を入れて、其処そこから引き抜いた封筒を、克仁の目に晒した。

 一通の、茶封筒。表書きに踊った墨痕ぼっこん鮮やかな達筆が、宛名として封に刻んだの名前は――イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。

 見るのも辛い、父の名前だった。

「お父さん」

 愛を込めて、の名を呼ぶ。のようにして、ゆるしをう。

 そして、一息に封を開けて、中に押し込まれた紙片を引き抜いて――克仁に、手向けた。ロシアの共同墓地で、母に赤い風車を手向けた時と同じように。

 手紙を受け取った克仁の手が、折り畳まれた紙片を開いていく。夜気の甘さが、残り香のように薄く香った。

 其処そこに封じ込められた、悪意ある言葉の羅列が――九年の月日を経て、解き放たれた。

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