4-39 克仁

 黄昏時の闇が刻一刻と満ちていく和室で、二人の男は向き合っていた。

 一人は、浴衣に身を包んだ異邦人。もう一人は、異邦人の養父たる初老の男。

 呉野和泉と、藤崎克仁ふじさきかつみ

 この家で、かつて家族として生活を共にしてきた二人の男。

 時が止まったかのような静寂の中で、二人は閉ざされたふすまを見つめていた。数分前までそこに居た少年を見送った格好のまま、両者はぴくりとも動かない。

「……彼、気づいていましたよ」

 永劫のような沈黙は、そんな克仁かつみの言葉で切りひらかれた。

「あの少年は、私達に幾つか質問を用意していました。ですが、彼は最も訊きたかったであろう質問を、君の為に呑み込みましたよ。……優しい子ですね。君、気遣われていますよ」

「……そうですね。僕は、酷いことをしたというのに」

 和泉はそう言って、自嘲の滲む顔で笑う。その表情を見咎めたのか、克仁の眉が寄せられた。

「……。イズミ君。君が何故、四人の中学生たちの中から、坂上拓海たくみ君を選んだのか。私が当ててみせましょうか」

 正座の姿勢のまま、きっ、と克仁が和泉を見る。罪を糾弾するように。

「単純に考えるなら、れは一階で待つ三浦君と雨宮さん、七瀬さんにかかる負担の軽減でしょう。どういうわけだか判りませんが、一階の彼等は〝傷〟だらけです。そんな仲間達の中で、彼だけが無傷でした。だから選んだのかとも考えられましたが、君はそんな理由で彼を選んだわけではありませんね?」

 和泉は、返事をしなかった。表情も変えずに、克仁の言葉を待っている。克仁は、嘆息して続きを言った。

「イズミ君。君は、坂上拓海君が羨ましかったのでしょう」

「ええ。そうですよ。先ほど僕は、自分からそう言いました」

ずるい逃げですね。坂上君に君がったことと、私が君に今っていることでは、言葉のニュアンスが少し異なりますよ」

 克仁は、追及の手を緩めなかった。

「君は坂上拓海君に、新たな戦い方を模索できることが羨ましいといました。……何をぬけぬけと嘘をいているのです。君が羨ましいと思うものが、そんなものではないことくらい、私には判りますよ」

「……」

「頭の回転の速い、理知的な少年。君の学生時代に少し似ていますね。あのメンバーの中で、最もイズミ・イヴァーノヴィチに似た魂でしょうね。そんな彼は、恵まれています。可愛らしい彼女がいて、の彼女は今も元気に生きている。れに、彼女を失うかもしれない危機が迫ったとしても、君を始めとする周囲の者から、知恵と助けを享受きょうじゅできます。……幸せですね。大切なものを守って生きていけるのは。急に何もかもを奪い去られる凄惨さを何も知らない、無知で、無垢で、清らかな魂。……君。羨ましいという表現は、適確ではありませんね。彼の事が羨ましいと思う以前に、こう思ったのではありませんか?」

 克仁は、重々しく断言した。

ねたましい、と」

 感情の暴露とも言うべき台詞せりふに、和泉はしばらく応じなかった。やがて薄闇の中で困惑したような微笑をそっと見せて、申し訳なさそうに目を伏せた。

「そのような心は認めたくない、と。往生際悪く思ってしまいますが。残念ながら、仰る通りなのでしょうね。僕は自分がいやになりました」

「卑屈な台詞をうものではありませんよ。イズミ君はいやな言葉を嫌ったはずです。ずるいことの何が悪いと、豪語ごうごしたのは君でしょう」

「ええ、狡いのです。狡いからこそ、克仁さんに打ち明けるまでに、これほどの時間をかけてしまいました」

 和泉は、伸びをするように上体を反らせた。こつんと頭が障子窓の木枠にぶつかり、そのまま壁にもたれて、天上を振り仰ぐ。

「……父の死をどう説明すべきか、あの時の僕と御父様おとうさまは、本当に困ってしまったのですよ。何しろ、原因不明の突然死です。克仁さんがそんな変死を受け入れられるとは、到底思えませんでした」

「だから、ろくに面会もさせずに、ロシアに連れ帰ったのですか。薄情ですよ。全く。私にとってイヴァンは、大切な、本当に大切な友人だったのです。君が思うよりもずっと、私はイヴァンが大切だったのですよ。最後に一目くらい会いたかった。そんな風に、君達を恨んだこともありました。もちろんれは、今だからえることです。れに、もう恨んではいませんよ」

「何故です? 恨んだままでも、良いのですよ」

「恨めるわけないでしょう」

 克仁は、呆れたような眼差しを和泉に向けた。

「君は、イヴァンの息子です。國徳くにのりさんは、イヴァンの父です。そんな君達が、一番辛い思いをしたのです。私の怨嗟えんさなど、あの悲劇の前には、ささやかなものですよ」

「……父の遺体を、ロシアに連れて帰ってからのこと。お話しましょうか」

「……。あの頃の君を見ていれば、大体判ります。そんな無理をする必要はありませんよ」

 克仁は、労りを含んだ声で言った。

 だが、その声音は硬かった。この瞬間の克仁の声は、篠田七瀬を始めとする門弟の少年少女達に向ける声とは、一線をかくすものだった。

「……」

 家族としての絆が、和泉に異質さを悟らせたのか。和泉は、居住まいを正した。

 象徴的な、間合いだった。心の距離を測るように、感情の質量を探るように、互いがひた隠した思惑が、しじまの中で行き来する。異能の男がたった二人、人知れず緊張感をたぎらせながら、じっと静かに見つめ合った。

「イズミ君。君は篠田七瀬さんを始めとする中学生諸君の要求を聞き入れて、呉野氷花さんの秘密を明かすと約束し、の上映会の場を設置しました。の場には私、藤崎克仁も同席させて、九年前の夏の惨劇を、目に見える形で再現してくれましたね」

「ええ。その通りです」

「あの惨劇の上映は、あれで全てですか?」

「もちろんですよ」

「違いますね」

 克仁は、切り込むように言った。

「あれが全て。そんなわけがないでしょう。君は秘密を明かすといながら、何も明かしてなどいませんね。謎がたくさん残っていますよ」

「どの辺りに、謎が残っているというのです?」

 和泉は、肩を竦めた。顔には、薄い笑みが張り付いている。

「九年前の惨劇は、呉野氷花さんの〝言霊〟による殺人です。ただ、本人には自分が人を殺したという実感もないでしょうね。それこそが、この悲劇の正体ですよ」

「子供騙しですね」

 克仁は、聞き入れなかった。ぴしゃりとねつけるように言って、煙に巻こうとする息子の青い瞳を睨めつけている。

「中学生ならば、騙されるかもしれませんね。れで全部が終わりだと。呉野の大人達が、少女の〝言霊〟によって破滅した。の結果、一人の青年が生き方を変えて、仇の少女の兄となった。……君、狡いですよ。残虐な物語を見せて驚かせて、お茶を濁しているだけではありませんか。……イズミ君。坂上拓海君は、聡明な少年です。大人二人を相手にして、十五歳の少年がたった一人で、あれだけの質問をこなしたのです。賞賛に値する勇気です。此処ここに来るのは、恐ろしかったはずですよ。……そんな、少年が。たとえの過去の鑑賞によって、動揺を見せたからといって、真相に理解が届かないなどと、どうして君は思うのです? ――屹度きっといつか、彼は気づきますよ。君が隠した真実に」

「僕が、何を隠したというのです?」

 和泉は微笑んだが、克仁は笑わなかった。真剣な目で、和泉を睨み続けている。

「では、イズミ君。私から君に質問です。呉野のお宅の〝アソビ〟について、やや不明瞭だと感じる部分があるのです。君、其処そこを明らかにしてくれなくては、私は気持ちが悪くて仕様が無いのですよ」

「ほう。何でしょう。では、質問をどうぞ。何なりと」

れでは、一つ目の質問と参りましょうか」

 克仁は、頷く。そして、坂上拓海が去ってからようやく、薄らとした笑みを見せて、和泉に問うた。

「呉野氷花さんを、〝杏花〟という名で呼ぶ〝アソビ〟。――の〝アソビ〟を始めようと、最初にい出したのは、誰ですか?」

「……」

 和泉は、黙る。

 ……そして、笑った。

 愉快げにも、皮肉げにも見える笑みだった。克仁は対照的に笑みを消して、質問を続けた。

「イズミ君。まだありますよ。今の質問に君が答えてくれる前に、更なる質問をさせて貰いましょう。イヴァンが死んだあの夜の事です」

 事務的に、淡々と、克仁は言う。まるでそうすることが、己の役目だとでも言うように。

國徳くにのりさんはあの夜、イズミ君をおびき出す為のえさとして、呉野家で拘束されていましたね。君は持ち前の異能にって、國徳さんが暴行を受けた現場を伊槻いつきさんから読み取っていましたが。此処ここで一つ、新たな疑問が生まれたのですよ」

「……ほう。疑問とは?」

國徳くにのりさん。体格は小柄ですが、ああ見えて頑健がんけんです。イヴァンが倒れた後も、手負いの状態でありながら、伊槻いつきさんとわたり合っていましたね。……そんな國徳さんが、何故。易々やすやすと伊槻さんの手に落ちたのでしょうね」

「……。不意を打たれたのでは?」

うでしょうね。不意を打たれて、殴られて、一度気絶でもさせられてから、伊槻いつきさんの監視下に置かれていたのでしょう。の際に、伊槻さんは電話を掛けて、君を呼び立てようとした。すると、の時には目を覚ましていた國徳くにのりさんは、伊槻さんの不意を打って、電話を一瞬だけ奪った。……筋書きは、おおむねこんなところでしょうか。相手は家族ですから、油断もするでしょうね」

 克仁は、和泉の言葉にあっさりと頷く。

 そして、真顔のまま、訊いた。

「では、何故あの時。我が家には電話が入ったのでしょうね?」

「……。仰っている意味が判りかねますね。何のことです? 『来るな』という國徳くにのり御父様からの電話の事ですか?」

の一つ前です」

 克仁は、茶番に耳を貸さなかった。

「――『伊槻いつきさんが、失踪した』……と。わざわざご丁寧に教えてくださった電話があったじゃないですか。……君。忘れたとは、わせませんよ」

「……」

「何故、國徳くにのりさんは伊槻いつきさんの手に落ちたのでしょうね。隙のないあの方が、片時でも油断して、気が触れた伊槻さんの手に落ちたのでしょうね。最初に國徳さんを殴りつけるか何かして、気絶させた人間。の人物は、果たして本当に呉野伊槻だったのでしょうか? ……イズミ君。最初の質問を、此処ここでもう一度させて貰いますよ。呉野氷花さんを、〝杏花〟と呼ぶ〝アソビ〟。――そんな〝アソビ〟を始めようと、家族に働きかけた最初の人間。……れは、一体誰です?」

「……」

「九年前の夏に、君は鏡花きょうか談義を終えた後で、数年ぶりに再会した國徳くにのりさんから、〝アソビ〟の概要について聞かされましたね。ですが、の時の君達の会話、何だか妙だとは思いませんでしたか? れともあれは、私の聞き間違いだったのでしょうか」

 克仁は、一切の誤魔化しを許さない目で和泉を見る。そして、断定の口調で言った。

「國徳さんは、『氷花さんを〝杏花〟と呼ぶ〝アソビ〟』について君に説明した際、私の記憶が確かならば……命が長くない少女の為に、の〝アソビ〟に自分が『付き合ってやっても良い』……と。う仰ったように思うのですが。――自分がの〝アソビ〟を始めたなどとは、一言も仰っていませんね」

「……」

「少女を〝杏花〟と呼ぶ〝アソビ〟。れは、國徳さんの発案ではなかった。誰か、他にいるのです。の〝アソビ〟を皆でやろうと画策し、呉野の者達を懐柔かいじゅうして、己の思惑通りに強制させていった人間が。――いいえ。鬼が」

「……」

「誰でしょうね。の人物は。一体誰でしょうね。勿論もちろん、伊槻さんは論外です。彼は呉野の〝アソビ〟を疎んでいました。娘に奇態きたいな名を付けられたことも心底しんそこ不思議に思っていて、うえ娘を別の名で呼ぶ行為に、強い抵抗を感じていました。――そんな、普通の感性を持った男が。こんなけったいな〝アソビ〟を、提案するわけがない。……イズミ君。残る容疑者は、二人に絞られましたよ」

「……」

 沈黙する異邦人へ、克仁は尚も続けた。

「ですが、此処ここで三つ目の質問をさせて貰いますよ。呉野の〝アソビ〟の中で最も謎めいた部分を、今こそ明らかにさせてほしいのです」

「この〝アソビ〟に、まだ不明瞭な部分があるというのですか?」

「ええ。たくさんありますよ? イズミ・イヴァーノヴィチは事あるごとに、私達に何故なのかと訊ねたではありませんか。私からもたまには君に質問させて貰わなくては。君、ずるいではありませんか」

 この瞬間だけ、克仁はおどけたような笑みを垣間見せた。すぐにその表情を引き締めると、頑なに口を閉ざす息子へ、追及の言葉を投げかけた。

「呉野の〝アソビ〟は、少女を〝杏花〟と呼ぶ事です。幼い少女の先行きが、〝言霊〟の異能で血塗られたものとなる未来を憂えた大人たちにって、手向たむけの花の名があてがわれました。凍って死んで花となれ。美しい供花きょうか。……実に大人にとって都合がいい、感傷塗れの名前です。のようにしておけば、後に少女が残虐非道の鬼へ変貌しようと、過去の清らかさを変わらず慈しむ事が出来ます。本当にれが清らかなのか、疑問を呈さずにはいられない程の手垢を感じますね」

「……」

「――と。どうやらのように、あの頃の君は解釈していたようですが」

「……克仁さん?」

 和泉が、目を見開く。克仁の話が予想外の方向へ転がったからか、隠しようのない驚きが、青色の双眸に宿る。

「矛盾するのですよ。イズミ君。〝杏花〟という名前が、本当に氷花さんの先行きを憂える為の名前なら。此処ここで矛盾が生まれるのです」

「僕には判りませんね。何が矛盾するというのです」

「簡単なことですよ。の名前で呼ぶ行為は、國徳さんの発案ではないからです。……イズミ君。の三つ目の疑問はやはりのまま保留にして、私から四つ目の疑問を提示させて貰いましょう」

「克仁さん。狡いです。今の矛盾について説明をお願いします」

「君が狡いなら、私もまた狡いのですよ。文句ならの話が終わった後で、私にたんまりえば宜しい」

 和泉を黙らせた克仁は、おもむろに畳へ手を伸ばした。何もない空間に迷いなく差し出された右手の五指ごしが、壊れ物に触れるような繊細さで折り曲げられる。克仁は左手も同様の手つきで畳に伸ばし、そこから何かを拾い上げた。

 ――克仁が見れば、首の生花せいか

 ――和泉が見れば、氷の供花きょうか

 九年前の夏の終わりから、この和室に降り始めた幽玄ゆうげんの花。常人には決して『見えない』二つの〝花〟を手に載せて、克仁は和泉をじっと見た。

「君には、の〝花〟がどう見えますか」

「両方とも氷漬けですね。しかも、克仁さん。それはわざとですか? どちらも芙蓉ふようの花に見受けられますが、色といい形といい、まるで双子のようにそっくりなものを選びましたね」

「ええ。似た花を選んで拾った心算つもりですよ」

 克仁は頷くと、右手の〝花〟をすいと前に差し出して、畳の上に再び置いた。

「――杏花と、氷花。國徳くにのりさんは、少女が〝二人居る〟と仰いましたね。まず此方こちら芙蓉ふようを〝杏花〟さんだと仮定します。六歳の幼い少女、清らかな魂。……そして」

 克己は、左手の〝花〟も動かした。先に置いた〝花〟の斜め前へ、まるで将棋しょうぎを指すように配置している。和泉は己の方へ突き出されるように置かれた〝花〟を見下ろすと、試すような目を克仁に向けた。

「克仁さん。なぜ花を斜めにずらして並べるのです」

「今に判りますよ」

 克仁は「想像してください」と言って、二つの〝花〟から顔を上げると、いつしか笑みをとうに消していた和泉と目を合わせた。

「後から並べた方の〝花〟。此方こちらは〝氷花〟さんと仮定します。歳は、六歳以上だと仮定してください。今の氷花さんの年齢である十五歳でも構いませんし、あの頃の杏花さんと同じ六歳でも構いませんよ。ですが、杏花さんよりは最低でも数日分、確実に年上だと考えてください。……繰り返しますよ。此方こちらの花は、〝氷花〟さんです」

「……。〝二人居る〟。それを体現して見せて、何を説明なさるお心算ですか?」

「見ての通りですよ。……のように見下ろせば、確かに二つ。ですが、もし。本当は二つではなく、一つなのだとしたら?」

 克仁は、〝花〟を一つだけ持ち上げた。

 ――〝氷花〟の花を持ち上げて、〝杏花〟の花を畳に残した。

此処ここに、花が二つ存在する意味。れについて考察しようとした時、私は十八歳の青年、イズミ・イヴァーノヴィチの言葉を思い出すのですよ」

「僕の?」

「ええ。杏花さんが、御山の花を切ったあの日の事です。イズミ君は、杏花さんが命を無惨に摘み取るところを見てしまいました。の後、君はったのです。彼女の母親と、衝突した時に。――人は、成長するのだと」

 克仁の手が、ぱっと開かれる。〝氷花〟の花が畳に落ちたのか、和泉がその動きを目で追った。再び〝杏花〟の花の斜め前に落ちたであろう〝花〟を見つめてから、和泉は克仁の顔に視線を戻した。

「イズミ君。君はいました。彼女がどんなに異常な行動を取ろうと、れは一人の少女の成長過程であり、彼女は狂ってなどいないのだと。私はの時の君の言葉を、とても正しいと思うのですよ」

「克仁さん……?」

「六歳の杏花さん。そして此方こちらの〝花〟は、の杏花さんの、少し先を行く少女。の時間軸を、『成長の流れ』として見るならば。氷花さんは、杏花さんの未来の姿という事になりますね」

「……」

「〝氷花〟さんは、〝杏花〟さんが成長した姿」

 克仁は、繰り返す。そして、反応を窺うように、和泉を見た。

「……イズミ君。こういう風に考えたならば、の〝花〟達がどうして〝二人居る〟ように見えるのか、私には不思議でならないのですよ。――可笑おかしな話ですね。私の目には、少女がたった一人、常人と同じように存在しているだけに見えるのですが」

「……不親切で、判りにくい説明ですね」

 和泉は微笑んで、養父の説明にけちを付けた。

「不十分な説明ですよ、克仁さん。なるほど確かに、この畳を成長軸として見るならば、僕たちは今、一人の少女の成長の過程と変遷を、身長の伸びを測るように見下ろしている事になるのでしょうが……それでも、國徳くにのり御父様は〝二人居る〟と仰いましたよ?」

「ほう。まだ逃げる心算つもりですか。イズミ君」

「逃げる?」

 和泉が、不意をかれたような顔になる。

「ええ。……れから君へ、五つ目の疑問を提唱します。の質問をもってして、の四つ目の疑問点である〝二人居る〟という言葉の謎、の場で解かせて貰いましょう」

 克仁は、和泉を睨んだ。

 そして「逃がしませんよ」と言って、表情を僅かに硬化させた息子を見た。

「九年経って、やっと尻尾を掴んだ息子の消息です。私が君を見逃すなどと、君は本当に思っているのですか? ……やっと見つけましたよ。イズミ・イヴァーノヴィチ。君は人の心を捨てたといました。けれど私にはそんな風には見えません。人をねたんで呼びつけて、殺人現場を見せつける。そんな外道げどうぜんの鬼など、全く、聞いて呆れますね。九年前の君は、イズミ・イヴァーノヴィチとしての魂は、氷花さんの兄になる為には死ぬべきだと演説し、思い詰めたように上手く見せかけていましたが……残念ながら、私はイズミ・イヴァーノヴィチと生活を長く共にしたおかげで、彼がどういった思想の持ち主か、どれほど頑固で融通が利かない子供なのか、誰より良く知っているのですよ。……イズミ君は野心家です。素直な反面狡猾こうかつです。夏になれば居間へと勉強道具一式を抱えて襲来し、私と涼しい部屋を奪い合い、ラーメン一つ食べるだけでも信じられない程の注文を付けてくる、悪童のごと我儘わがまま坊主です。子供です。最愛の。誰より可愛い息子なのです。――そんな、イズミ・イヴァーノヴィチが。簡単に死にますか。君、感情を意図的に排した程度の事で、己が違う人間になれるなどと、本気で思っているのですか? 父親をあんなにも愛してやまなかった青年が、絆の象徴のような名を、う簡単に捨てられますか? ……死んでいませんね? 生きていますね? 名を捨ててなどいませんね? 理屈っぽい己の心を納得させる為だけの、れは便宜べんぎに過ぎませんね? 君は、今までの間、ずっと――イズミ・イヴァーノヴィチでしたね?」

 和泉は、目を見開いて、克仁の長い台詞せりふを聞いていた。驚きと、微かな畏怖いふ。他のどんな人間にも見せなかった表情はまるで、子供が親から予想外の叱責しっせきを受けて目を丸くしたような、まさにそんな表情だった。

「五つ目の、疑問。――れは、私達の異能についてです」

「……」

「ただし、の五つ目の疑問。異能については二つ質問があります。まず一つ目は、先程の四つ目の疑問に連なる疑問です。――呉野國徳くにのりさんの異能について、まずははっきりさせて貰いましょうか」

 克仁は、畳の〝花〟を見下ろした。

「君は今日の昼下がりに、坂上拓海君に嘘をきましたね。『國徳くにのりさんの異能は〝同胞〟の識別のみ』だと。確かに現在ではうかもしれませんが、少なくとも九年前、そしてもっと以前には、別の異能も操る事が出来ましたね? 出来なくなった要因は、単純に年齢による衰えでしょうが、とはいえ衰えたの異能、あの〝映像〟を見る限り、全く使えないというわけでもなさそうでした」

「それは、謝りますよ」

 和泉は、素直な声音で詫びを入れた。克仁は、頷いてから先を続けた。

國徳くにのりさんは、〝言霊〟を操る事が出来ました。……さらに、私は國徳さんにはもう一つ、別の異能がある事を知っていますよ」

 和泉が、軽く目をみはった。「う驚くこともないでしょう。私は友人なのですから」と、克仁は穏やかな口調で言って、驚く息子へおどけて見せた。

れに、あの〝映像〟を見ていれば、推測は十分可能だと思いますよ。鏡花きょうか談義を終えた後、君を呼び出した國徳くにのりさんは、『いつかイズミ君から父と呼ばれる』という予言をしていますからね。の点からも、答えは容易に導き出せます。――國徳さんの、もう一つの異能。れは〝先見せんけん〟ですね?」

 克仁の指摘を受けた和泉は、瞬き一つしなかった。やがて無言の時が数秒ほど続いた後に、端整な容貌の上に、揶揄やゆ混じりの微笑みが浮かぶ。

「……答えを最初から知っているのでなければ、お見事、と僕は言ったと思いますよ」

「〝先見〟――『先』の出来事を『見る』異能。少し先の未来のことが、國徳くにのりさんには判るのです。ただ、あの頃の國徳さんを〝映像〟で見る限り、状況に翻弄されていたのは、君と同じに見えました。やはり異能の衰えの所為でしょう。九年前の夏に國徳さんが知り得たことは、ごく限られたものだったのでしょうね。……そして、私が見る限り。國徳さんがあの夏の惨劇について、あらかじめ知る事が出来ていたのは――まず、『君に父と呼ばれる』事。次に、『イヴァンに何らかの危機が迫る』事。そして、『氷花さんが〝二人居る〟と誤認した』事。の三点に尽きると思いますよ」

「……。誤認?」

 和泉が、克仁を見る。「ええ。此れは誤認でしょう」と克仁は答えて、再び〝花〟へ視線を転じた。

「イズミ君。私は先程、のように〝花〟を斜めに置きました。の意味を今から明かしましょう」

 克仁の手が、〝花〟を一つ動かした。〝杏花〟の花の斜め前に置かれた〝氷花〟の花を選び取り、〝花〟の位置を少しずらす。和泉はその様子を見守ってから、ぽつりと言った。

「……今度は、縦一列になるように並べたのですね」

「ええ。れで、イズミ君がの〝花〟を真正面から見た時、縦一列に並んだ此の〝花〟は、二つには見えませんね? 勿論もちろん、上から見下ろせば二つあると判ります。ですが、真正面から見れば一つです。手前の〝氷花〟に隠されて、背後の〝杏花〟は見えません。現在あるべき姿の象徴である〝氷花〟さんがいるだけで、過ぎ去った時間の象徴である〝杏花〟さんは見えません。――れは、ういう図です。人として当たり前の、魂の見え方です」

「……」

「ですが、もし先程のように、少しずらして置いたなら。もしくは、真正面から〝花〟を見ずに、斜めから、横から、の〝花〟達を見たならば」

 克仁は、もう一度手を動かして、〝氷花〟の花の位置を、横にずらした。

「イズミ君。……真正面に座る君から見て、の〝花〟は幾つに見えますか?」

「……」

「現在の〝氷花〟と、過去の〝杏花〟。一人の少女の成長過程。の魂が二つ、同時に見えている状態が生まれました。……此処ここで、私が先ほど提唱した五つ目の疑問、異能についてを思い出してください。――國徳くにのりさんの異能は、〝先見〟です」

「……」

「現在を生きる魂、〝氷花〟。そして、の少し先を行く、〝氷花〟の未来の魂。の魂を、國徳くにのりさんは同時に『見た』。同一線上に並んでいるべき魂を、本来はまだ『見えない』はずの未来の魂を、異能の力にって『見て』しまった。――れが、〝二人居る〟の正体ですね? 國徳さんは一人の少女の魂を、時系列の異なる場所から一つずつ、同時に『見た』に過ぎません」

「……」

 空気が、張りつめていく。克仁の言葉を起点にして、緊迫感が夏部屋にひしひしと満ちていき、逃げ場を断つように取り巻いていく。

 異邦人はしばし考え込むように沈黙し、ふっと吐息をついてから、「その説明では、まだ不足しているのでは?」と悠々ゆうゆうたる声で言い返した。

「今の克仁さんの説明、筋は通っていると思いますよ。なるほど、道理です。それなら〝二人居る〟という謎の言葉に説明がつきます。ですが、先ほど克仁さんは、現在の象徴たる少女を〝氷花〟と定義しましたね? 今の貴方の言い方では、國徳くにのり御父様が見た〝氷花〟。過去の少女〝杏花〟を指しているように聞こえます。……〝杏花〟を、〝氷花〟と呼んでいるように聞こえますよ。克仁さん」

「そりゃあ、君、うでしょう。元々彼女は氷花なのですから。の名を〝杏花〟にえた事こそが、呉野の大人の欺瞞ぎまんです」

 克仁は、はっきりとした声で言った。己の導き出した解に、絶対の自信を置いている。その明瞭さに打たれたのか、和泉は黙る。克仁は、言葉を畳みかけた。

「元々〝氷花〟だったものを〝杏花〟と呼ぶのがの〝アソビ〟です。遊戯ゆうぎによって、少女の名前と魂が歪められました。……イズミ君。國徳くにのりさんが見た現在の魂、〝氷花〟と、過去の象徴たる魂、〝杏花〟。手前のの花は、〝アソビ〟によって〝杏花〟と呼ぶ事にしてしまった花です。――そして、の花を〝杏花〟ではなく、〝氷花〟と正しい名で呼んだならば……斜め前に置いた、此方こちらの花。私が先程、〝氷花〟と定義したの花は。未来の象徴たるの魂、呉野の〝アソビ〟風にうならば、一体、なんと名付けるべきでしょうね?」

「……そちらも、〝氷花〟さんと呼ぶべきではありませんか」

 和泉は、言った。表情もなく、白い顔で、淡々と。

「現に、僕達は彼女をそう呼んでいますよ。〝アソビ〟が終わり、呉野の大人が消えてから、僕達は彼女を氷花さんとして扱ってきました」

「……イズミ君。では君は、やはり杏花という魂が死んで、氷花という魂が台頭たいとうしたと。そんな呉野家の欺瞞ぎまんに屈したのですか?」

 克仁が、感情を消した声で訊いた。

「鬼がつのを落としたように、れを御隠居が拾って変貌したように、美しい物語に一抹の希望を託しながら、れでも〝二人居る〟うちの一人が喰われて死んで、鬼の少女が残ったと。君は、のように思っているのですか?」

「ええ」

「何を甘ったれているのです」

 厳しい罵倒が、空気を叩いた。和泉が、吃驚びっくりしたのか目をしばたく。克仁は、目を丸くする和泉を睨み、強い語調で言い放った。

「なぜ諦めているのです。君は國徳くにのりさんと二度目の出会いを果たした和室で、杏花さんがいずれ死ぬと聞かされた時、自分がどんな言葉をったのか忘れたのですか? たとえ忘れたのだとしても、先ほど〝映像〟で見たはずです。忘れたなどとはわせません。君は、反論しました。杏花さんが喰われて居なくなるとった國徳さんに、反論の言葉をぶつけていました。なぜ諦めるのかと。なぜ彼女がいずれ死ぬという事実に屈し、諦めてしまうのかと。そんな君が諦めるのは、とてもずるいことですね。の狡さは罪ですよ、イズミ君。まるでラスコーリニコフのようですね」

 克仁は、驚いた顔で自分を見る息子に、もう逃がしはしないと再び宣誓するように、意思の言葉を叩きつけた。

此処ここで、私達の異能にまつわる、もう一つの質問です。イズミ君。君は坂上拓海君と此処ここで話した時に、私達〝同胞〟の名を列挙して、彼に教えてあげましたね。覚えていますか?」

「……ええ、覚えています」

「では、のメンバー。今度は私がいましょうか」

 克仁は、一拍の間を置いてから、朗々と名をえいじた。

「まずは、君。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノ。そして君の父、イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。の父、呉野國徳。の孫であり、君の従妹、呉野氷花。あとは私、藤崎克仁。……私という例外を除けば、呉野の一族の者で占められていますね。君があの時、坂上君に教えてあげた五名の名前です。……ですが、私には最初から不思議でしたよ。イズミ君。の時から疑問だったのです」

 克仁は、真っ直ぐに和泉を見る。

 そして、何気ない調子で、こう訊ねた。

「本当に、れで全員ですか?」

 沈黙が、六畳一間の和室に降りた。

 和泉の顔色は、紙のように白かった。次に克仁が何を言うのか、断罪にも似たこの謎解きが、どんな方向へ向かっているのか。対峙する男が『判らない』相手であるにもかかわらず、次なる展開を予期しているかのようだった。

 その顔に、やがて――笑みが、薄らと浮かび上がる。

 面白い。今にもそんな言葉を発しそうな、人を食った笑みだった。養父との対話を全身全霊で楽しんでいるのか、生き生きとした感情が、血液のように頬に通う。繊細な美貌に溌溂と浮かんだその表情を、じっと見つめる克仁の口から、ついに――決定打の言葉が、罪を罰するように告げられた。

可笑おかしいですね。実に奇妙です。いいえ、遺伝というものの原理など、私には判りませんよ。隔世かくせい遺伝という言葉もありますから、間を飛ばして孫に遺伝する事もありましょう。しかし、せませんね。イヴァンもまた〝同胞〟です。呉野國徳くにのりの実子であるイヴァンに遺伝して、何故〝彼女〟の名前だけは、の〝同胞〟達の名に連なっていないのでしょうね。〝彼女〟は〝同胞〟ではないのでしょうか。私には直接的な面識がありませんので、断言は出来かねますが……イズミ君、〝同胞〟識別の定義について、今一度確認させて貰いますよ。れもまた、君が國徳くにのりさんと再会した時に話していた内容の復習です。――〝同胞〟とは、己の異能が影響しない相手。『判る』君にとっては、『判らない』相手こそが〝同胞〟となります。……ですが、中には非常に『判りにくい』相手もいると、君はの時にっていましたね? ……思えば〝彼女〟は感情的な人でしたね。人を煙に巻く態度を取っておきながら、そんな倦厭けんえんを隠そうともしません。厭世観えんせいかんを、煙管きせる紫煙しえんのように身体にまとった、彼女の感情。君、あれだけ他者の感情を全面に押し出されてしまっては。『判る』と誤認してもまあ、仕方のない事だとは思いますが……本当は、気づいていたのではありませんか?」

 克仁が、そう訊ねた時だった。


 和泉は、声を立てて笑い始めた。


 潜めた声でありながら、それでいて辺りを憚らずに、まるで気が触れたように笑い始めた。

 ――本当に、克仁は凄いと思う。

 あの夏に己が直視できなかった真相を、こうも易々やすやすと言い当てられた。凄い、凄い。手拍子を打ってたたえたかった。壊れたようにう思ったが、れはまごうことなき正気だった。

 本気で、う思っているのだ。

 和泉は――――――イズミは。

 今、本気で、う思っているのだ。

「……。帰ってきましたね。おかえりなさい。イズミ君。久しぶりにイズミ・イヴァーノヴィチらしい顔を見られて、私はとても嬉しいですよ」

 克仁が、微笑んだ。目尻に刻まれた優しい皺を見つめながら、イズミもまた微笑みを返す。克仁もまた老け込んだ。九年の月日が流れたのだ。迫り来る老いの影は、当然のものだろう。もう、老いるところは見たくない。れは父が来日した時にも思った事だ。もっと一緒に居るべきだった。後悔したが仕様が無い。いくら自責の念に駆られようと、何度だって繰り返す。そんな己の不器用さは、屹度きっともう治るまい。何せ梃子てこでも動かぬ頑固者で、融通が全く利かないのだ。の歳までそんな有様なのだから、如何いかんともしがたいとしか全く言いようがないのだろう。諦観と共に、イズミは薄ら笑った。

 愉快だった。こんな感情は久しぶりだった。高揚ではやる胸を意識しながら、イズミは克仁の顔を見る。

 久しぶりの団欒が、こんなにも心躍るものになろうとは。

 夢にも思いはしなかった。

「今日は特別ですよ。この部屋を出れば、僕はまた呉野和泉に戻ります。ですが、今は。今だけは。貴方ともっと話していたい。克仁さん、ただいま戻りました。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです。貴方の息子が戻りましたよ。……さあ、もっと聞かせて下さい。僕は貴方と〝アソビ〟たいのです。貴方の推理を聞かせてください。貴方の知るイズミ・イヴァーノヴィチが悪童ならば、僕の知る藤崎克仁は、完璧主義のかがみでした。貴方は何に対しても手を抜かない。執念深く極め抜く。九年前の夏の罪、貴方がどのように読み解くのか。僕はそれが知りたいのです。……藤崎克仁さん。僕等は、貴方に芝居を打っていました。本当は、知っています。僕も、國徳くにのり御父様も、既にこの惨劇の正体を知っています。――ですが、僕は。それでも、えて訊ねましょう。敢えて、貴方に訊ねましょう。言う必要のない言葉です。僕等が判っていればそれでいい。しかし貴方への興味から、僕は、敢えて、〝言挙げ〟しましょう。貴方に、敢えて、〝言挙げ〟しましょう。――容疑者は二人に絞られたと、先ほど貴方は言いましたね? 貴方、回りくどいですよ。その人物が誰なのか、早く僕に教えてください。呉野の〝アソビ〟を始めた女。呉野國徳くにのりに危害を加えた最初の人物。失踪などしていない男の事を、わざわざ我が家にしらせたのは。――さあ、克仁さん。言ってください。僕は、貴方の〝言挙げ〟を待っています」

 イズミは己の魂が求めるままに、克仁へ、父へ、こう訊いた。

「九年前の夏の罪。――父を殺した、真犯人。それは一体、誰ですか?」

 克仁は頷き、こう言った。


「呉野貞枝です」

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