4-39 克仁
黄昏時の闇が刻一刻と満ちていく和室で、二人の男は向き合っていた。
一人は、浴衣に身を包んだ異邦人。もう一人は、異邦人の養父たる初老の男。
呉野和泉と、
この家で、かつて家族として生活を共にしてきた二人の男。
時が止まったかのような静寂の中で、二人は閉ざされた
「……彼、気づいていましたよ」
永劫のような沈黙は、そんな
「あの少年は、私達に幾つか質問を用意していました。ですが、彼は最も訊きたかったであろう質問を、君の為に呑み込みましたよ。……優しい子ですね。君、気遣われていますよ」
「……そうですね。僕は、酷いことをしたというのに」
和泉はそう言って、自嘲の滲む顔で笑う。その表情を見咎めたのか、克仁の眉が寄せられた。
「……。イズミ君。君が何故、四人の中学生たちの中から、坂上
正座の姿勢のまま、きっ、と克仁が和泉を見る。罪を糾弾するように。
「単純に考えるなら、
和泉は、返事をしなかった。表情も変えずに、克仁の言葉を待っている。克仁は、嘆息して続きを言った。
「イズミ君。君は、坂上拓海君が羨ましかったのでしょう」
「ええ。そうですよ。先ほど僕は、自分からそう言いました」
「
克仁は、追及の手を緩めなかった。
「君は坂上拓海君に、新たな戦い方を模索できることが羨ましいと
「……」
「頭の回転の速い、理知的な少年。君の学生時代に少し似ていますね。あのメンバーの中で、最もイズミ・イヴァーノヴィチに似た魂でしょうね。そんな彼は、恵まれています。可愛らしい彼女がいて、
克仁は、重々しく断言した。
「
感情の暴露とも言うべき
「そのような心は認めたくない、と。往生際悪く思ってしまいますが。残念ながら、仰る通りなのでしょうね。僕は自分が
「卑屈な台詞を
「ええ、狡いのです。狡いからこそ、克仁さんに打ち明けるまでに、これほどの時間をかけてしまいました」
和泉は、伸びをするように上体を反らせた。こつんと頭が障子窓の木枠にぶつかり、そのまま壁にもたれて、天上を振り仰ぐ。
「……父の死をどう説明すべきか、あの時の僕と
「だから、
「何故です? 恨んだままでも、良いのですよ」
「恨めるわけないでしょう」
克仁は、呆れたような眼差しを和泉に向けた。
「君は、イヴァンの息子です。
「……父の遺体を、ロシアに連れて帰ってからのこと。お話しましょうか」
「……。あの頃の君を見ていれば、大体判ります。そんな無理をする必要はありませんよ」
克仁は、労りを含んだ声で言った。
だが、その声音は硬かった。この瞬間の克仁の声は、篠田七瀬を始めとする門弟の少年少女達に向ける声とは、一線を
「……」
家族としての絆が、和泉に異質さを悟らせたのか。和泉は、居住まいを正した。
象徴的な、間合いだった。心の距離を測るように、感情の質量を探るように、互いがひた隠した思惑が、
「イズミ君。君は篠田七瀬さんを始めとする中学生諸君の要求を聞き入れて、呉野氷花さんの秘密を明かすと約束し、
「ええ。その通りです」
「あの惨劇の上映は、あれで全てですか?」
「もちろんですよ」
「違いますね」
克仁は、切り込むように言った。
「あれが全て。そんなわけがないでしょう。君は秘密を明かすと
「どの辺りに、謎が残っているというのです?」
和泉は、肩を竦めた。顔には、薄い笑みが張り付いている。
「九年前の惨劇は、呉野氷花さんの〝言霊〟による殺人です。ただ、本人には自分が人を殺したという実感もないでしょうね。それこそが、この悲劇の正体ですよ」
「子供騙しですね」
克仁は、聞き入れなかった。ぴしゃりと
「中学生ならば、騙されるかもしれませんね。
「僕が、何を隠したというのです?」
和泉は微笑んだが、克仁は笑わなかった。真剣な目で、和泉を睨み続けている。
「では、イズミ君。私から君に質問です。呉野のお宅の〝アソビ〟について、やや不明瞭だと感じる部分があるのです。君、
「ほう。何でしょう。では、質問をどうぞ。何なりと」
「
克仁は、頷く。そして、坂上拓海が去ってからようやく、薄らとした笑みを見せて、和泉に問うた。
「呉野氷花さんを、〝杏花〟という名で呼ぶ〝アソビ〟。――
「……」
和泉は、黙る。
……そして、笑った。
愉快げにも、皮肉げにも見える笑みだった。克仁は対照的に笑みを消して、質問を続けた。
「イズミ君。まだありますよ。今の質問に君が答えてくれる前に、更なる質問をさせて貰いましょう。イヴァンが死んだあの夜の事です」
事務的に、淡々と、克仁は言う。まるでそうすることが、己の役目だとでも言うように。
「
「……ほう。疑問とは?」
「
「……。不意を打たれたのでは?」
「
克仁は、和泉の言葉にあっさりと頷く。
そして、真顔のまま、訊いた。
「では、何故あの時。我が家には電話が入ったのでしょうね?」
「……。仰っている意味が判りかねますね。何のことです? 『来るな』という
「
克仁は、茶番に耳を貸さなかった。
「――『
「……」
「何故、
「……」
「九年前の夏に、君は
克仁は、一切の誤魔化しを許さない目で和泉を見る。そして、断定の口調で言った。
「國徳さんは、『氷花さんを〝杏花〟と呼ぶ〝アソビ〟』について君に説明した際、私の記憶が確かならば……命が長くない少女の為に、
「……」
「少女を〝杏花〟と呼ぶ〝アソビ〟。
「……」
「誰でしょうね。
「……」
沈黙する異邦人へ、克仁は尚も続けた。
「ですが、
「この〝アソビ〟に、まだ不明瞭な部分があるというのですか?」
「ええ。たくさんありますよ? イズミ・イヴァーノヴィチは事あるごとに、私達に何故なのかと訊ねたではありませんか。私からもたまには君に質問させて貰わなくては。君、
この瞬間だけ、克仁はおどけたような笑みを垣間見せた。すぐにその表情を引き締めると、頑なに口を閉ざす息子へ、追及の言葉を投げかけた。
「呉野の〝アソビ〟は、少女を〝杏花〟と呼ぶ事です。幼い少女の先行きが、〝言霊〟の異能で血塗られたものとなる未来を憂えた大人たちに
「……」
「――と。どうやら
「……克仁さん?」
和泉が、目を見開く。克仁の話が予想外の方向へ転がったからか、隠しようのない驚きが、青色の双眸に宿る。
「矛盾するのですよ。イズミ君。〝杏花〟という名前が、本当に氷花さんの先行きを憂える為の名前なら。
「僕には判りませんね。何が矛盾するというのです」
「簡単なことですよ。
「克仁さん。狡いです。今の矛盾について説明をお願いします」
「君が狡いなら、私もまた狡いのですよ。文句なら
和泉を黙らせた克仁は、おもむろに畳へ手を伸ばした。何もない空間に迷いなく差し出された右手の
――克仁が見れば、首の
――和泉が見れば、氷の
九年前の夏の終わりから、この和室に降り始めた
「君には、
「両方とも氷漬けですね。しかも、克仁さん。それはわざとですか? どちらも
「ええ。似た花を選んで拾った
克仁は頷くと、右手の〝花〟をすいと前に差し出して、畳の上に再び置いた。
「――杏花と、氷花。
克己は、左手の〝花〟も動かした。先に置いた〝花〟の斜め前へ、まるで
「克仁さん。なぜ花を斜めにずらして並べるのです」
「今に判りますよ」
克仁は「想像してください」と言って、二つの〝花〟から顔を上げると、いつしか笑みをとうに消していた和泉と目を合わせた。
「後から並べた方の〝花〟。
「……。〝二人居る〟。それを体現して見せて、何を説明なさるお心算ですか?」
「見ての通りですよ。……
克仁は、〝花〟を一つだけ持ち上げた。
――〝氷花〟の花を持ち上げて、〝杏花〟の花を畳に残した。
「
「僕の?」
「ええ。杏花さんが、御山の花を切ったあの日の事です。イズミ君は、杏花さんが命を無惨に摘み取るところを見てしまいました。
克仁の手が、ぱっと開かれる。〝氷花〟の花が畳に落ちたのか、和泉がその動きを目で追った。再び〝杏花〟の花の斜め前に落ちたであろう〝花〟を見つめてから、和泉は克仁の顔に視線を戻した。
「イズミ君。君は
「克仁さん……?」
「六歳の杏花さん。そして
「……」
「〝氷花〟さんは、〝杏花〟さんが成長した姿」
克仁は、繰り返す。そして、反応を窺うように、和泉を見た。
「……イズミ君。こういう風に考えたならば、
「……不親切で、判りにくい説明ですね」
和泉は微笑んで、養父の説明にけちを付けた。
「不十分な説明ですよ、克仁さん。なるほど確かに、この畳を成長軸として見るならば、僕たちは今、一人の少女の成長の過程と変遷を、身長の伸びを測るように見下ろしている事になるのでしょうが……それでも、
「ほう。まだ逃げる
「逃げる?」
和泉が、不意を
「ええ。……
克仁は、和泉を睨んだ。
そして「逃がしませんよ」と言って、表情を僅かに硬化させた息子を見た。
「九年経って、やっと尻尾を掴んだ息子の消息です。私が君を見逃すなどと、君は本当に思っているのですか? ……やっと見つけましたよ。イズミ・イヴァーノヴィチ。君は人の心を捨てたと
和泉は、目を見開いて、克仁の長い
「五つ目の、疑問。――
「……」
「ただし、
克仁は、畳の〝花〟を見下ろした。
「君は今日の昼下がりに、坂上拓海君に嘘を
「それは、謝りますよ」
和泉は、素直な声音で詫びを入れた。克仁は、頷いてから先を続けた。
「
和泉が、軽く目を
「
克仁の指摘を受けた和泉は、瞬き一つしなかった。やがて無言の時が数秒ほど続いた後に、端整な容貌の上に、
「……答えを最初から知っているのでなければ、お見事、と僕は言ったと思いますよ」
「〝先見〟――『先』の出来事を『見る』異能。少し先の未来のことが、
「……。誤認?」
和泉が、克仁を見る。「ええ。此れは誤認でしょう」と克仁は答えて、再び〝花〟へ視線を転じた。
「イズミ君。私は先程、
克仁の手が、〝花〟を一つ動かした。〝杏花〟の花の斜め前に置かれた〝氷花〟の花を選び取り、〝花〟の位置を少しずらす。和泉はその様子を見守ってから、ぽつりと言った。
「……今度は、縦一列になるように並べたのですね」
「ええ。
「……」
「ですが、もし先程のように、少しずらして置いたなら。もしくは、真正面から〝花〟を見ずに、斜めから、横から、
克仁は、もう一度手を動かして、〝氷花〟の花の位置を、横にずらした。
「イズミ君。……真正面に座る君から見て、
「……」
「現在の〝氷花〟と、過去の〝杏花〟。一人の少女の成長過程。
「……」
「現在を生きる魂、〝氷花〟。そして、
「……」
空気が、張りつめていく。克仁の言葉を起点にして、緊迫感が夏部屋にひしひしと満ちていき、逃げ場を断つように取り巻いていく。
異邦人は
「今の克仁さんの説明、筋は通っていると思いますよ。なるほど、道理です。それなら〝二人居る〟という謎の言葉に説明がつきます。ですが、先ほど克仁さんは、現在の象徴たる少女を〝氷花〟と定義しましたね? 今の貴方の言い方では、
「そりゃあ、君、
克仁は、はっきりとした声で言った。己の導き出した解に、絶対の自信を置いている。その明瞭さに打たれたのか、和泉は黙る。克仁は、言葉を畳みかけた。
「元々〝氷花〟だったものを〝杏花〟と呼ぶのが
「……そちらも、〝氷花〟さんと呼ぶべきではありませんか」
和泉は、言った。表情もなく、白い顔で、淡々と。
「現に、僕達は彼女をそう呼んでいますよ。〝アソビ〟が終わり、呉野の大人が消えてから、僕達は彼女を氷花さんとして扱ってきました」
「……イズミ君。では君は、やはり杏花という魂が死んで、氷花という魂が
克仁が、感情を消した声で訊いた。
「鬼が
「ええ」
「何を甘ったれているのです」
厳しい罵倒が、空気を叩いた。和泉が、
「なぜ諦めているのです。君は
克仁は、驚いた顔で自分を見る息子に、もう逃がしはしないと再び宣誓するように、意思の言葉を叩きつけた。
「
「……ええ、覚えています」
「では、
克仁は、一拍の間を置いてから、朗々と名を
「まずは、君。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノ。そして君の父、イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。
克仁は、真っ直ぐに和泉を見る。
そして、何気ない調子で、こう訊ねた。
「本当に、
沈黙が、六畳一間の和室に降りた。
和泉の顔色は、紙のように白かった。次に克仁が何を言うのか、断罪にも似たこの謎解きが、どんな方向へ向かっているのか。対峙する男が『判らない』相手であるにもかかわらず、次なる展開を予期しているかのようだった。
その顔に、やがて――笑みが、薄らと浮かび上がる。
面白い。今にもそんな言葉を発しそうな、人を食った笑みだった。養父との対話を全身全霊で楽しんでいるのか、生き生きとした感情が、血液のように頬に通う。繊細な美貌に溌溂と浮かんだその表情を、じっと見つめる克仁の口から、ついに――決定打の言葉が、罪を罰するように告げられた。
「
克仁が、そう訊ねた時だった。
和泉は、声を立てて笑い始めた。
潜めた声でありながら、それでいて辺りを憚らずに、まるで気が触れたように笑い始めた。
――本当に、克仁は凄いと思う。
あの夏に己が直視できなかった真相を、こうも
本気で、
和泉は――――――イズミは。
今、本気で、
「……。帰ってきましたね。おかえりなさい。イズミ君。久しぶりにイズミ・イヴァーノヴィチらしい顔を見られて、私はとても嬉しいですよ」
克仁が、微笑んだ。目尻に刻まれた優しい皺を見つめながら、イズミもまた微笑みを返す。克仁もまた老け込んだ。九年の月日が流れたのだ。迫り来る老いの影は、当然のものだろう。もう、老いるところは見たくない。
愉快だった。こんな感情は久しぶりだった。高揚で
久しぶりの団欒が、こんなにも心躍るものになろうとは。
夢にも思いはしなかった。
「今日は特別ですよ。この部屋を出れば、僕はまた呉野和泉に戻ります。ですが、今は。今だけは。貴方ともっと話していたい。克仁さん、ただいま戻りました。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです。貴方の息子が戻りましたよ。……さあ、もっと聞かせて下さい。僕は貴方と〝アソビ〟たいのです。貴方の推理を聞かせてください。貴方の知るイズミ・イヴァーノヴィチが悪童ならば、僕の知る藤崎克仁は、完璧主義の
イズミは己の魂が求めるままに、克仁へ、父へ、こう訊いた。
「九年前の夏の罪。――父を殺した、真犯人。それは一体、誰ですか?」
克仁は頷き、こう言った。
「呉野貞枝です」
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