4-36 帰還
頭が、ひどく痛かった。
気遣われてばかりだった。間で何度も意思を問われ、もう
見たいわけではなかった。むしろ、見たくない。見るのはとても恐ろしかった。
だが、見なくてはと思った。
それが、自分の、役目だと思った。
激しい拒絶と後悔と恐怖。初めて経験する感情に、
すぐに、抱きしめられた。胸板に顔が押し付けられて視界が塞がり、腕が耳に強く当たる。温かい闇に身体が包まれ、目に涙が薄く滲んだ。
もっと、耐えていたかった。なのに、感情を堪えきれなかった。
これは、現実なのだ。嘘でも映画でもなく、確かに起こった出来事なのだ。
しんとした静寂が場を包み、薄闇が迫る六畳一間の和室に、虫の
「……
全てが終わったことを、ようやく知った。
穏やかに掛けられた声に、誘われるようにして――坂上
拓海をずっと支えてくれた
慌てて「すみません」と謝ったが、拓海の手は藤崎の両腕に固定されたかのように離れず、そんな己の身体の動きに、拓海はひどく動揺した。このままではいけないと躍起になればなるほどに、指の震えが大きくなる。
「……。坂上君。今日は私が自宅までお送りしましょう」
「……藤崎さん?」
「後ほど、私の連絡先をお渡しします。君が今日ここで見聞きしたことで、日常生活を送るなかで気になることがあれば、相談に乗らせてください」
拓海は茫然としたまま、藤崎の険しい表情を見つめた。
この家に上がらせてもらった時から、優しげな顔ばかり見てきた。あの〝映像〟の中でも、それは同じだった。そんな男が不意打ちで見せた真剣さに驚いていると、藤崎は拓海を緊張させたことを詫びるように、柔らかく笑った。
「坂上君。人とは、自分が思っているよりも、ずっと脆い生き物ですよ。少なくとも私は、大人になった今であっても、自分の事を
「それは……つまり」
拓海は、ぼんやりと藤崎を見つめ返す。
七瀬の、師範。そして、先程〝映像〟で見た、あの青年の養父であり――家族。
この場にいる〝もう一人〟の視線を気にかけながら、薄々と察した藤崎の言葉の意味を吟味して、拓海はおずおずと訊いた。
「もしかして……病院で、カウンセリングとかを受けた方が良いってことですか? ……こういうものを、見たから」
「必要が生じれば、
藤崎の気遣いは有難いが、拓海には到底この件に家族を巻き込む気にはなれなかった。今日の出来事を家族に説明できる自信はなく、藤崎にその役割を担わせるのも恐縮だった。そんな言い訳を抜きにしても、家族にだけは絶対に言えないと、拓海は強く思うのだ。
――家族同士で、殺し合った。
そんな記憶の話など、家族に、言えるわけがない。
「……あ」
なぜ藤崎が拓海をここまで気遣うのか、家族への後ろめたさを意識してようやく、理由の一端を掴めた気がした。
――この殺人の記憶は、誰かに打ち明けることが難しいからだ。
藤崎と、もう一人と、階下で拓海を待つ友人達。限られたメンバーにしか話せない。そんな禁断の知識という果実に、拓海は手を伸ばしてしまった。
藤崎は、そこを気にかけてくれたのだろうか。拓海がここで見聞したものについて気に病んで、
「……藤崎さん。また、会いに来てもいいですか?」
藤崎が、目を瞬いた。拓海自身も己の言葉に驚いていたが、この気持ちこそが素直な本心なのだと気づいていた。
「もし、迷惑じゃなかったら……俺は、今回のことを知らない家族よりも、俺のことを知らない誰かよりも、藤崎さんと、もっと話をしたいです」
躊躇いながら最後まで言い切ると、気恥ずかしさから頬が火照った。七瀬にも時々怒られるが、拓海の言葉には多少そういう所があるらしい。己の口下手を全力で呪っていると、頭上から小気味良い笑い声が降ってきた。
「君は素直な子ですね。七瀬さんが君を好きになったのも納得できます。君、無意識で
「へ? 罪作りっ?」
面食らって顔を上げると、優しい瞳と目が合った。父親が子供を見るような、深い慈愛の眼差しだった。
「私で良いのなら、幾らでも。いつでもお越し下さい……と、
朗らかに笑う藤崎の手が、拓海の頭に乗せられた。中学三年生にもなって大人から髪を撫でられては、何だか少し照れてしまう。赤面した拓海は目を泳がせたが、その手を拒む事はしなかった。藤崎の手は、温かかった。藤崎
そんな藤崎だから、あの青年も――藤崎が、悪意の言葉に晒された時。たった一人で戦ったのだろうか。
そんな思いを、
「……君には、
拓海は、障子窓の方を振り向いた。
――白と灰の
ただ、拓海には声の掛け方が分からなかったのだ。あんなにも凄絶な夏の最中に居た人に、ただ鑑賞していたに過ぎない中学生が、一体何を言えるだろう。それでも声を掛けられたことに僅かな救いも感じていて、手の震えも止まっていた。落ち着きを取り戻した心に背中を押されるようにして、掠れた声で拙く言った。
「……
藤崎の両腕から手を離し、身体ごと男へ向き直る。障子窓と
室内は
血を溶いたような色彩は、不気味さよりも美しさの方が勝っていた。こんなにも退廃的な空気の中に居ては、どんなものでも綺麗に見える。そんな気がしてしまったのは、異邦人たる男の笑みが、あまりに美しい所為だろうか。
「……いいえ。そんなことはありません。僕は君に、酷いことをしました」
拓海の震えた声に、男は
拓海が、七瀬への好意を自覚したあの事件も、元はといえばそんな経緯だった。
どうして人は、傷ついた人のことを、放っておけないと思うのだろう。
同情だろうか。違うだろう。それだけの感情で、支えられるものではない。
それでも綺麗だと思うのは、一体どういうわけだろう。
「……僕は、君にこんなものを見せるべきではなかったのです。少なくとも、中学生の少年に見せるものではありませんでした。これから君は、苦しむことになるでしょう。こんな記憶を僕の視点で見たことを、ふとした瞬間に思い出して、苦悶に
男は、穏やかに言い募る。拓海はその言葉を否定したくて、頑なに首を横に振った。その一方で、何も違わないのだと分かっていた。男の言葉は正しいのだ。藤崎もそれを心配している。
この記憶は、
だが、拓海はあくまで『見た』だけだ。目の前の男から、酷い仕打ちを受けたとは思っていない。むしろ、酷い仕打ちをしたのはこちらの方だ。こんな展開は、誰も望んでいなかった。叶うならば誰にも見せたくなかった記憶のはずで、拓海達がせがまなければ、一生
それを、こじ開けた。だから、辛いことになった。
ここにいる二人にとって、辛いことになってしまった。
「俺は……和泉さんに、辛いことなんて、されていません。辛いのは和泉さんで、藤崎さんだと思います。だから、俺が、辛いとか……そういうのは、違います。そういうのは、違うんです」
拓海は、言葉を重ねる。すぐに耐えられなくなって、がばと深く頭を下げた。
「すみませんでした」
謝って済む話ではなかった。謝罪を求められていないことも分かっていた。それでも愚直に謝る以外に、拓海は
沈黙の後に、穏やかな笑い声が頭上を流れ、薄闇に溶けて消えていく。
拍子抜けして顔を上げると、異邦の風貌を持つ男は、少しだけ面白がるような目をしていた。
「君は、やはり優しい人ですね。優しい人は薄幸ですから、僕は君を見ていると心配になってしまいます。拓海君、僕は優しい人に
そう言って、青色の瞳の異邦人――呉野和泉は、笑った。
慈愛に満ちた表情だった。そんなにも嫋やかな情愛を、人の身体で保持できることが信じられないと思うほどに、純粋な善の笑みだった。
だが、拓海は知っている。その優しさが、どんな経験と思想を土台にして成り立っているのか、痛ましい歴史を知っているのだ。
和泉は、否、〝イズミ〟は――どうして、こんなにも辛い選択をしたのだろう。
かつて救いたかった一人の少女と、亡くしてしまった最愛の父。その二人の供養の為に、
修羅の道だった。心が血を流している。拓海であっても分かるのだ。目の前で笑う和泉が、一体どれほどの悲哀を
拓海には、出来ない。己の肉親を殺したに等しい少女の、家族になる事など。どんなに前身たる少女が清らかであれ、拓海にはきっと出来ないだろう。
それを、イズミは
この家で初めて出会った時、拓海は和泉のことが恐ろしかった。本心が見えず、行動の意図も読めず、敵なのか味方なのかすら分からない。そんな相手から突然の指名を受けて、動揺する心で見た異邦人の微笑みは、優しさに満ち溢れているからこそ意味深で、不安を否応なく掻き立てられた。
だが、もうそんな風には思えなかった。ここには不器用な青年がたった一人、凄絶な哀しみに刻まれて
「……和泉さん。今日は、ありがとうございました」
拓海は、畳に前髪がつきそうなほど頭を下げる。そうして顔を上げて背筋を伸ばすと、微笑する異邦人に会釈を返して、立ち上がった。泣き笑いのような情けない顔になったかもしれないが、もう何でもいいと思った。
とにかく拓海は、一刻も早く、ここから立ち去るべきなのだ。
「……拓海君。君は、善の心の持ち主です。君の魂もまた〝清らか〟だと、九年前の夏をもう一度過ごした僕は思いますよ」
振り向くと、
意外な仕草だった。
その時、もっと的確な表現の存在に思い至った。
分かってしまえば、簡単な話だった。
今の仕草は、〝呉野和泉〟のものではなかったのだ。
「僕は、別れの言葉があまり好きではありませんから。
「……。〝イズミ〟さん、ありがとうございました」
ぽつりと、拓海はそう言った。
その言葉のニュアンスに、和泉はきっと気づいただろう。拓海はイズミ・イヴァーノヴィチを知っている。その身に流れた異能の血を、既に〝映像〟で見て知っている。あの青年ならば、他者の心の動きに気づかないわけがない。
和泉は
「健闘を祈りますよ。坂上拓海君。正面から戦うことだけが、抗戦ではありませんから。君はもう、氷花さんとの戦い方を決めたようですね」
「……ずるいかもしれません」
答えた拓海は、俯いた。欠けだらけの言葉であっても、今の二人なら通じていた。「
「狡いことの、一体どこが悪なのです。僕は十八で狡い人間でした。君は十五で狡くとも、誰がそれを咎めるというのです? 己の行動の信念が揺らぐには、いささか早いと思いますよ。安寧を愛する個性であればあるほどに、衝突は平穏を壊す劇薬のように感じられて、恐ろしさから足が
「どうして、ですか」
「羨ましいからですよ。僕には、君の事が」
和泉が、
「戦い方が分かっているというだけで、僕には羨ましいのです。あの頃の僕は、懸命に戦っているつもりで、何とも戦えていませんでした。それを後悔するつもりはありませんが、新たな戦い方を模索する者を見ていると、羨望の念が湧くのです。……坂上拓海君。僕はもう一度、君に
「和泉さん」
拓海は、遮った。やんわりと制止する拓海を、和泉が見上げる。目と目が合った瞬間に、全てを了解されたと判った。
異邦の男は、困惑気味に微笑む。そうして藤崎に視線を投げると、藤崎は呆れたように嘆息してから、拓海に目を向けて微笑んだ。
「坂上君。先に一階へ下りていてください。私はもう少しイズミ君と話すことがあります。七瀬さん達をすっかり待たせてしまいましたから、早く会いに行ってあげてください」
「はい。……本当に、今日はありがとうございました」
拓海は薄く笑って、頭を深々と下げる。そして和室の外に出て、
多分、気の所為だろう。そう結論付けて、拓海は
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