4-37 柊吾

 文字通り長い映画を観た後のように、緩慢な疲労が全身を包んでいる。頭痛と吐き気は収まっていたが、心の鬱屈が綺麗に晴れたとは言い難く、階段を下りる度に床が軋み、忘れていた眩暈がぶり返す。くらりと、視線が階下に落ちた。

「……」

 一階の、玄関前。先ほど見た〝映像〟の光景が、茜色の輝きとともに、脳裏へさっと描き出される。

 ――ここで、イズミと藤崎が会話を交わしたのだ。

 そして、帰宅したイズミの父を出迎えて、楽しい団欒だんらんが始まった。

 ――家族。

 もう、元には戻らない、家族。

「……」

 疲労を重く引き摺りながら、拓海は階下へ辿り着く。そうして居間に繋がるふすまを抜けて、その姿を見つけていた。

「ああ」

 赤ん坊のような声が、喉から漏れた。相手も拓海に気づき、はっと息を呑む仕草に合わせて、浴衣の裾がひるがえる。下ろしていた髪は後ろでまとめられていて、襟足えりあしに掛かった一房の髪が、ふわりと緩く揺れていた。

 明かりのいていない居間は、二階と同じく薄暗かった。赤紫色に沈む甘やかな闇の中で、ソファに腰かけた少女は立ち上がり、心底の安堵を覗かせた顔で、拓海を呼んだ。

「坂上くん」

 ――会いたかった。

 今年の四月に、茜射す放課後の調理室で、長い眠りから覚めた少女が、拓海に告げた短い台詞。あの時と同じ台詞を、今度は拓海が言おうとしていた。

 なのに、せり上がった感情が切実過ぎて、拓海は〝言挙げ〟できなかった。

 代わりに、浴衣を着た少女の元へ――篠田七瀬しのだななせの元へ、大股に歩いた。

 居間の薄闇に踏み込んで、一息に距離を詰める。藍色に白い朝顔と蔦の模様が拡がる浴衣に手を伸ばし、拓海は戸惑う七瀬を抱き竦めた。

「よかった」

 会いたかったと言うはずだった。それなのに口をいて出た言葉は、全く違う台詞せりふだった。だが、それこそが最も言いたい言葉だった。拓海は、表情もなく七瀬を抱きしめた己の目尻に、涙が薄く浮いたことに気づく。うなじに顔を埋めてそれを隠すと、微かに弾んだ身体から、七瀬の動揺が伝わってきた。

「や、やだ、どうしたの? 坂上くんってば」

「よかった。篠田さんが、無事で」

「え?」

「よかった。無事で、本当に、よかった」

 綺麗に着付けられた浴衣が乱れるのも構わずに、片手で背をなぞって掻き抱くと、「坂上くんっ? 待ってよ、待って」と声を上ずらせて抵抗する七瀬の片手に指を絡めて、命の温度と輪郭を探りながら、拓海は全てを思い出していた。

 ――拓海と七瀬が、呉野氷花と初めて衝突した、あの時。

 忘れ物の日誌を取りに戻った調理室で、氷花に待ち伏せされた七瀬は、〝言霊〟の攻撃を受けた。

 何故あの時、七瀬はあれほど取り乱したのか。『合わせ鏡』の学校で、七瀬と心を通わせながら、拓海の心からは違和感が消えなかった。事件後に三浦柊吾みうらしゅうごから〝言霊〟について教わっても、己の実感が事実に寄り添うことはなかった。

 だが、異能の少女の父親が、命に代えて教えてくれた。魂が無残に切り裂かれていく様を、〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟の異能を通して目の当たりにして、こんなにも時間をかけて、拓海はようやく知ったのだ。

 ――あの時の七瀬も、同じ状況だったのだ。

 肥大化した感情に心の器を破壊されて、精神のせきが崩れた不憫ふびんな男と、同じ危機に直面していたのだ。

 七瀬も、ああなったかもしれない。錯乱し、葛藤し、決壊した感情を狂気に変えて、激情の赴くままに、凶行に駆り立てられたかもしれない。

 呉野伊槻いつきと、同じになったかもしれない。

 もしかしたら――母親を、殺しにいったかもしれない。


 ――『お母さんのいない所へ、行けばいいのよ』


 母親が、いない世界。そんな世界を追及する為に、母親を殺しにいったかもしれない。足場が崩れていくような恐怖で、身体が芯から冷たくなった。

 ――危なかったのだ。

 あの時、危なかったのだ。本当に、危なかったのだ。

 人を鬼へと駆り立てる狂気が、あの時七瀬を襲ったのだ。拓海の目の前で、手が届くほど近い距離で、くずおれる身体を支えた手の平では、到底かばいきれない悪意のやいばに、魂をずたずたに切りつけられて。しかも、その脅威に拓海は気づいていなかった。人が人を殺そうとした瞬間に立ち会わせていながら、危機感がまるで足りていなかった。拓海は、七瀬を最悪の形で失ったかもしれない。取り返しの付かない惨事が、起こっていたかもしれないのだ。そんな事実を見過ごしかけていたことが、何よりも恐ろしいことだった。

 だが、同時に……強い安堵も、感じていた。

 七瀬は、壊れなかったからだ。氷花の〝言霊〟を受けても、その攻撃に魂をおびやかされても、それでも正気を保っていた。

 生きている。人のままでここにいる。それが、拓海には嬉しかった。

「ありがとう。篠田さん」

 なぜ礼を言ったのか、最初は自分でもよく分からなかった。己の〝言挙げ〟にいざなわれて、心の答えが導かれる。深い情愛が胸を満たすのを感じながら、あの青年が言葉を愛した理由を理解した。

「あの時、壊れないでくれて、ありがとう。篠田さんのお母さんのこと、恨むんじゃなくて、大事に思ってくれて、ありがとう。家族のこと、大切に思ってくれて、ありがとう……」

「坂上くん……?」

「それから」

 戸惑う七瀬に、拓海は言った。

「生きててくれて、ありがとう」

 滅茶苦茶な台詞だったが、七瀬は拓海に文句を言わなかった。ただ一言「苦しいよ」と恥ずかしそうに囁かれたが、「ごめんな」とだけ囁き返して、抱きしめる力を強くした。

 もう、何も要らないと思った。九年前の夏の青年が、唯一生き残った家族を慈しんだ心が、痛いほどによく分かる。希望だった。支えだった。赤い風車のようなその温もりを手折たおられたら、生きていけないと知っているのだ。かつて〝イズミ〟が呉野國徳くにのりに望んだように、拓海も七瀬が無事なら、それ以上は望まない。もし七瀬があの時、氷花の〝言霊〟の霊威れいいに屈していて、『鏡』とは異なる狂気にかれて、自我を喪失していたなら、拓海は七瀬を失ってから、その大切さに気づいて泣いただろうか。

 拓海は、きっと幸せだ。他者が見れば許せないと思うほどの平和の中で、幸せを享受して生きている。今までの拓海は、人から疎まれることがあまりなかった。だが、七瀬と付き合い始めてから、学校で他者の悪意と向き合う機会ができてしまった。拓海はこんなにも無自覚で、大切なことへの気づきが遅いのだから、恨まれるのも道理かもしれない。自分らしくない揶揄めいた思考の流れだったが、そんな捉え方も出来るのだという発見は、ほんの少しだけ新鮮だった。

 その観念を受け止めた上で、拓海は拓海でしかないのだ。己を疎んだ相手に対して、怒りも悲しみも返したくない。悪意に悪意で歯向かう戦い方は出来なかった。己の幸せさえろくに測れていないこの甘さが、他者のかんさわるのだとしても、一つずつ学んでいけばいい。そんな姿勢を九年前の青年から、拓海は教えてもらったのだ。

「坂上くん、ちょっと、困る!」

 はっとした様子の七瀬が拓海の背を叩いたが、拓海にはよく聞こえなかった。ただ、己の理解がそこまで追いついたことが嬉しかったのだ。分からないことが、分かるようになる。あの青年も、思えばそれが好きだった。拓海にも手が届いた感慨が温かで、七瀬が生きている事が幸せで、現実にピントが合っていなかった。

 よって、そんな拓海の目を覚ましたのは、七瀬ではなく、横合いから飛んできた声だった。

「……あのさ。坂上と篠田、お前ら俺になんか恨みでもあるのか?」

 かなり決まり悪そうな声だった。

「……。へ?」

 我に返った拓海は、ぽかんと顔を上げた。しかし視界に人影は無く、声が随分と下方から聞こえた事に遅れて気づいて、すとんと視線が落ちる。

 すると、ばっちり目が合った。

 他校の制服姿の少年が一人、ソファに寄り掛かるように床のラグに腰を据えて、胡乱うろんな目でこちらを見ていた。かと思えば、気まずそうに目を逸らしている。「あ」と拓海は呟いた。我ながら薄情だと思うが、七瀬の姿を真っ先に見つけた所為で、こちらをすっかり忘れていた。

「三浦っ?」

 呼ばれた三浦柊吾は、拓海をちらと再び見た。だが、じっとりとした目を向けられたのは一瞬だけで、またしても視線は逸らされた。今にも「またかよ」とでも言い出しそうな呆れまなこに気づいた途端、今度こそ拓海は我に返った。

 こんな現場を目撃されるのは、『鏡』の事件の時に続いて二度目だった。ばっと身体が発火したかのように熱くなり、拓海はふらふらと七瀬の身体を離した。

「えっと、三浦、これは、その」

 無意味にまごついていると、「言い訳すんな恥ずかしい」と素気すげな無く一蹴されてしまった。そんな柊吾の横顔と耳も真っ赤で、徹底した目の逸らし方に違和感を覚えた拓海は、七瀬を振り返り――その場で、身体を硬直させた。

 なぜ柊吾が、こちらを見ないのか。その理由が、目の前にあった。

「……」

 七瀬も、顔を真っ赤にして俯いていた。

 拓海が乱暴に触れた所為で、髪はおろか浴衣まで乱れている。はだけた胸元を押さえて震える姿が目に飛び込んできて、次の瞬間にはそれをやったのが自分だという認識が、がつんと殴りつけるように降ってきた。

 あらゆる感情を差し置いて浮かび上がった感情は、失礼なことに恐怖だった。ざっと血の気が引いていき、動揺と混乱で「わ、わああ」と拓海が情けない声を上げた途端に、ばちんと平手打ちが飛んできた。

「わああ、じゃないでしょ! ばかぁ!」

 顔が真横にぶれて、柊吾が「うわ」と同情を含んだ声で呟く顔が、視界の端で残像になる。その最中にも胸板を殴られて、「もう、三浦くんいるのに! 普段自分からはそんなことしないくせに!」と抗議が矢のように飛んできた。

「ご、ごめん、ほんとにごめん……!」

 無抵抗に殴られながら、拓海は弁解しようとしたが、何だか可笑しくなってしまい、結局ふやけた笑い方をしてしまった。

 ――帰ってきた。そんな実感が、身体を包んだからだ。

「ただいま、篠田さん。三浦」

 柊吾が、「ん、おかえり」と言って頷いている。こちらを見てはくれなかったが、口角が少しだけ笑みの形に持ち上がった。七瀬も浴衣の襟を直しながら拓海を睨み、「心配したんだから」と掠れた声で言って、瞳を潤ませて俯いた。

「ん。……ごめんな。ただいま」

「……おかえり」

「うん」

「あー、いつまでやってんだ、お前ら」

 柊吾が嘆息して、「帰り支度、やっとけよ」と声を掛けてきた。その段になって初めて、拓海はここに居るはずのもう一人の姿が見えないことに気がついた。

「三浦。雨宮あまみやさんは?」

 拓海が訊くと、柊吾と七瀬は顔を見合わせた。一拍の間を空けてから、柊吾が顎でソファを示す。柊吾がもたれているソファだ。

 拓海は促されるまま目を向けて、そこに白いタオルケットが盛られていることに気づき――そのタオルケットが人型に膨らんでいることに気づいて初めて、タオルケットからはみ出た栗色の髪を見つけて、驚いた。

「あ、雨宮さん?」

「寝てるけど、そろそろ起こすつもりだったから、声とか気にしなくていいぞ」

 柊吾はソファから落ちた白い腕を優しく取って、タオルケットの中へ戻そうとする。タオルケットを少しずらした事で、拓海の立つ場所からも、その人物の顔――雨宮撫子なでしこの顔が見えた。

 ハーフアップツインの髪は下ろされていて、テーブルの上にヘアゴムが二つ置かれている。眠る時に邪魔になったからほどいたのだろう。胎児のようにタオルケットにくるまる様子は、小柄な体格の所為か人が寝ているというよりは、猫がそこにいるような感覚を拓海に抱かせた。

 穏やかな、寝顔に見えた。

 ただ、表情の大半はタオルケットで隠れて見えない。閉じられた目元が見えるのみで、本当に穏やかに眠っているのかは判らなかった。

「……雨宮さん、どうしたんだ」

「……」

 拓海の質問に、七瀬と柊吾は答えなかった。二人揃って気まずそうに黙ったが、七瀬の方には喋るつもりがないようだ。話すならば、その役目は柊吾に譲る。そんな意思がはっきり分かる目で柊吾を見つめて、無言で会話を促している。

 柊吾は言いにくそうに眉根を寄せて、空いた手で髪をいじっていた。拓海に話したくないというよりは、会話の糸口を探しあぐねているのだろう。雰囲気からそれを察した拓海が待っていると、柊吾はやがてぽつりと言った。

「……坂上。お前の学校でも、保健体育で薬物依存の授業、やっただろ」

「薬物依存?」

 突拍子もない言葉が飛び出してきた。面食らったが、拓海はそろりと頷く。確かに少し前に、そんな内容の授業を受けた。

「……。雨宮の事。前にこいつと一緒に話したけど、呉野の所為で目が『見えなく』なってから、病院に通ってる。最近は頻度が落ちてるけど、痛み止めの薬とかるし、経過も見てもらった方がいいらしいから、まだ通院してるんだ」

「痛み止め?」

 拓海は、驚いて口を挟んだ。

「待てよ、三浦。雨宮さん、痛み止めもらってんの? ……なんで?」

「ここが、痛いんだと」

 柊吾が、こんと自分の胸をノックした。

 丁度、胸の真ん中あたりだ。はっとした拓海は、息を詰めた。

 ――その場所に、覚えがあったからだ。

「原因は、医者にせても分からねえんだ。レントゲンを撮っても、何も写らないらしい。けど、雨宮は痛いって言ってる。多分、心因性のものじゃないかって、医者とか、雨宮の両親は言ってる。……俺も、そうじゃないかって思ってる」

「……」

「雨宮、元々クラスで人気があった方なんだ。綺麗とか、洗練されてるって言い方してる奴とかいた。……けど、『見えなく』なってから、そういうクラスの目とか、少し変わったって思う。背も、ちっこいままあんまり伸びねえから、綺麗って言われるより、可愛いって言われる方が増えてるし。同情されたり、あとは『見えない』状態の時に、からかってくる奴もいる。そういうのは俺らが蹴散らしてるし、雨宮には味方が多いから、滅多にないけどな」

 柊吾は、タオルケットにくるまる華奢な少女の手を握り締めながら、「何でだろうな」と大柄な体躯たいくには似合わない程の小声で、言った。

「これも、前にお前らに言ったけど。雨宮が呉野にやられた時の〝言霊〟って、ほんとに大したことないやつなんだ。雨宮が気にしてるわけじゃない。びっくりしただけだって言ってた。どっちかって言ったら、篠田が受けた暴言の方がえげつないと思う」

「そんなの、比べられないでしょ」

 柊吾の言葉に、七瀬がすぐに言い返した。

「人が受けた言葉の重みなんて、外から見て分かんないじゃない。三浦くんの言ってることが間違ってるとは言わないけど、私と撫子ちゃんを比べるのはおかしい」

「ああ。俺だってそう思う」

 七瀬の言い方はややきつかったが、柊吾は怒りを見せなかった。素直に七瀬の言葉に頷いている。

「思うけど、それを差し引いても、やっぱり雨宮の食らったやつは大したことないと思う」

 七瀬はつか黙ってから、「じゃあ、個人差じゃない?」と微かな労りの覗く声で言った。

「私が呉野さんの言葉を受けて平気でも、撫子ちゃんは違うってことでしょ。……華奢だもん。仕方ないよ」

「……ん。そうだろうな。個人差だって、思うしかないんだろうな」

 柊吾が、俯く。「だから、許せないんだ」と深い憤りを押し込んだ声が聞こえて、ぎりっと歯が食いしばられた。

「まだ、苦しんでるんだ。呉野にやられたのは去年の初夏だったのに、一年以上経って、『見える』時間の方が増えてきても、まだ痛いって言ってるんだ。……こいつ、表情分かりづらいから。自分の事をあんまり話さねえし。だから、ここを痛がってることも、俺、最近になってやっと知った。薬を飲むのが怖いからって、処方された薬を捨ててたことも。最近になって知ったんだ」

「な」

 目を、見開いた。拓海は、思わず身を乗り出す。

「雨宮さん、なんで」

「薬物依存の授業を聞いて、怖くなったんだと」

 柊吾は、テーブルに載った撫子のヘアゴムに視線を転じ、その横に置いた透明なプラスチック製のピルケースに目を向ける。目が『見えなく』なった時に必要な絆創膏ばんそうこうが詰められたものと、もう一つ。今度は本当に薬の詰められたケースがそこにあった。

「こういう、痛みを誤魔化す薬を飲んで。飲み続けて、いつか薬の効果に身体が慣れて、本当に耐えられないくらい痛い時に、薬が効かない身体になってたら怖い、って。雨宮、言った。……そんな風に考えてたなんて、俺、全然知らなかった。最近、倒れられたから。その時に、やっと聞き出せた」

「……」

「篠田の師範の、藤崎さん。あの人、いい人だよな」

 柊吾が、呟くように言った。居間の向こう、茜色に色づく薄闇がわだかまる台所へ、遠い眼差しを向けている。

「雨宮、ここに来てすぐに、お茶の用意を手伝いに行っただろ。あの時に、藤崎さんから気遣われたらしいんだ。実は体調が良くなかったこと、見抜かれてたらしい。本当に辛くなる前に親御さんに電話するように、とか。お茶とか水は冷蔵庫から好きに取っていい、とか。タオルケットの場所まで、俺に伝言させてた。……おかげで、助かった。……坂上。痛み止めの副作用でうとうとしてただけだから、大丈夫だ。もう落ち着いてるし。お前は気にすんな」

「……」

 そう言われても、心配しないわけにはいかなかった。現に、薬を飲んで眠っているのだ。先程だって拓海が撫子の容体ようだいを訊いた時、柊吾と七瀬は気まずそうに口をつぐんだ。拓海が二階にいる間に、ここでも色々なことがあったのだ。

 拓海は、眠る撫子を見下ろした。

 感情の機微や言葉を、あまり表には出さない、拓海の友人。無表情か、薄らとした綺麗な笑みを浮かべるところくらいしか、拓海はあまり見たことがない。

 撫子が、そんな風に考えていたなんて知らなかった。

 そんな風に考えて、苦しんでいたなんて知らなかった。

「……雨宮さん。気にし過ぎだ」

 拓海は、言った。撫子の気持ちが分からないわけではなかったが、それでは撫子が辛くなるだけだ。

「ああ。俺もそう思う」

 柊吾は、先ほど七瀬にそうしたように、拓海にも頷いてくれた。

「これは、雨宮の気にし過ぎだ。でも、俺はそういう気持ちを、できるだけ分かってやろうと思う」

 柊吾はピルケースを手に取ると、中の錠剤を見下ろしながら、言った。

「雨宮が何を怖がってるのか、なんで怖いって思うのか、そういう気持ち一つ一つを、できるだけ分かってやろうと思う。分かってやって、理解して……その上で、大丈夫なんだってこと、ちゃんと伝えてやろうと思う。怖くないんだってことを、俺が、教えてやろうと思う」

「……」

「こいつには、昔から……教えてもらうことの方が、多かったから。俺が教えてやれることって、少ねえと思うけど。でも、今度は俺が教えてやりたいんだ」

「……」

「怖がらなくていいってことを、俺が、教えてやりたいんだ」

 柊吾が、そう言った時だった。

 撫子の手が、ぴくりと動いたのは。

 柊吾と握り合う手が不意に引き寄せられて、柊吾が驚いた顔になる。拓海と七瀬も驚いて見守っていると、小さく身じろぎして「ん」と声を上げた撫子は、柊吾の手をゆっくりと両手で掴んだ。

 目は、開いていない。まだ、眠っているのだろうか。

 そんな状態のまま、柊吾の手が、弱々しく引き寄せられて――胸元に、押し当てられた。

 息を吸い込む、声がした。声の主は、柊吾だったかもしれないし、七瀬だったかもしれない。拓海だったかもしれないが、誰でもいいと思ってしまった。

 柊吾の大きな手の平を抱いて、眠る撫子。閉ざされた目に涙が滲んでいくのが見えた時、拓海は静かに目をそむけた。

 もう、見てはいけないと思った。柊吾も撫子も、見てはいけないと思った。

「……ん。……痛いよな。……俺が、ついてるから。ついてる、から……」

 柊吾が俯いて、顔をソファの手すりへ倒す。そんな姿が視界の端でちらつくのを気にしながら、拓海も唇を噛んで俯いた。

 ――取り返しのつかない事なら、もう、既に起こっている。

 確かに、七瀬は無事だった。だが、それは本当に運が良かったか、もしくは柊吾や七瀬が言ったような個人差に助けられたからに過ぎないのだ。あるいは、柊吾や七瀬の心の強さだろうか。それだけが理由ではない気がした。この異能は、大人が破滅するほどのものなのだ。

 撫子は、きっと運が悪かった。不意を打たれて、驚かされて、こうなってしまっただけなのだ。制服の白シャツを着た己の胸に、拓海は手を当ててみる。

 ――撫子が痛いと訴えたその場所が、なぜ痛むのか。柊吾は心因性のものだろうと推測したが、おそらくはそうではないことを、拓海は知っている。

 ――二階の和室で、見たからだ。

 心の〝傷〟を『見る』ことが出来る男の目で、拓海も同じものを『見た』からだ。

 その場所に、何が刺さっているのか。拓海は、もう知っている。

「……坂上くん。今日あったこと、また今度教えてね」

 顔を上げた七瀬が、拓海を振り向いて囁いた。

「今日は……皆、疲れちゃったから。……ごめんね。坂上くんが、一番疲れたはずなのに……ごめんね」

「……いいって。篠田さんが気にすることじゃないし。……待たせて、ごめんな」

 拓海は首を横に振って、ぼんやりと笑った。七瀬も笑みを返してくれたが、その笑みには言葉通りの疲労が薄らと滲んでいた。

「待つのって、大変だった。こんなに辛いことなんだって、初めて知ったかもしれない。……帰って来てくれて、安心した」

「……ん。さんきゅ」

 拓海としては、その言葉が聞けただけで十分だった。視界の端で寄り添い合う男女の姿を意識しながら、拓海は撫子の〝鋏〟の事を考える。そして、柊吾に言わなくてはならない事柄について、緩慢に思考を巡らせた。

 だが、それらを柊吾の耳に入れるのは、今日でなくてもいいだろう。皆が、酷く疲れていた。だから、今日はもういいと思ってしまった。

「……もうすぐ、雨宮の両親が迎えに来るから。その後で、俺らも帰るぞ」

「……うん」

「……そうだね」

 沈んだ声で頷き合って、視線を逸らし合っていた時だった。

 ――かたり、と。玄関扉の方で、物音がしたのは。

「……。三浦、篠田さん。ここにいてくれ。俺が見てくる」

 拓海は小声で言って、きびすを返す。七瀬と柊吾が、緊迫した顔を見合わせた。「坂上くん」と潜めた声で呼び止められたが、今は二人を庇いたかった。七瀬だけではなく、柊吾の事も。おそらくは誰より傷ついているだろう友人に、今日はもう休んでいてほしかった。

 居間のふすまから廊下に出ると、階段前の玄関扉に目を向ける。

 そこにいた相手も拓海に気づき、小さく息を呑んでいた。

「……。そ。来てたのね」

 三和土たたきに立った浴衣の少女は、涼やかな声で素っ気なく言った。つややか黒髪は綺麗に纏められていて、藤色の浴衣から覗く襟足の白さを際立たせている。

 ――呉野氷花だった。

 あの〝映像〟では無垢だったはずの少女が今、中学三年生という拓海と同じ歳の少女として、目の前に粛然しゅくぜんと立っていた。

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