4-35 決着
イズミの視界が、真っ暗な闇に落ちたのは。
貞枝の振るった包丁が、
「!」
がくん、と身体が下がる感覚に襲われて、畳に思い切り尻餅を付く。背後から引き倒されたのだ。咄嗟に抵抗しようとしたが、すぐに何も出来なくなった。
顔を覆う手の感触が、あまりに温かだったから。
「……」
名を、呼ぼうとした。されど掠れて声にならず、喉で一度引っかかる。やっとのことで絞り出した声で、イズミは家族に呼び掛けた。
「御爺様」
「見んでいい」
すぐ傍から、短く囁く声がした。顔を覆う老人の手に、イズミはおそるおそる手を重ねる。いよいよ本格的に腫れ始めた手は感覚がなく、己が今触れているのが本当に祖父の手なのか、心細くて堪らなかった。存在を確かめるように「御爺様」ともう一度呼んだ時、激しい水音が響き渡った。
絶叫が
――背後から、抱きしめられている。体温が、身体に伝わる。
「御爺様」
イズミは、呼ぶ。もう一度。答えてくれるまで何度でも。
だが、聞こえる。
だが、イズミには、どうしても――國徳の手を、拒めなかった。
疲労と怠惰、そして何よりも
……ずっと、会いたかった人だった。
異国の地に居た頃から、イズミは國徳に会いたかった。
だが、会おうとしなかった。傍系だからと気兼ねして、
國徳は、
イズミの頬を、涙が声もなく伝い落ちた。もう、
「御爺様。何も見えないのは、怖いです」
「怖いことが、あるか。見えた方が、怖いこともある。貴様は、こんなものは見んでいい」
「御爺様」
もう、
「死なないと、約束、してくれますか」
「……まだ、死なん。口の減らん奴め」
國徳の悪態が、耳元でくぐもって聞こえた時だった。
黒一色の世界を引き裂くように、「酷いです!」と杏花の悲鳴が響き渡った。
「お母様は、嘘つきです! お父様も、嘘つきです!」
悲鳴ではなく、罵声だった。糾弾の声に応えるように、嘲り笑いも響き渡る。誰の声かすぐに判る。女の
「そうよ、嘘つき! 杏花ったら、一体何度
「お母様は、ひどいです!」
叫び声が、まだ聞こえる。今度は涙声だった。暴力に似た激しさは、まるで
「お母様。私には、何もありません。何にもないままでした。からっぽです。お母様が、取ったから。……返して、お母様。清らか、返してください!」
「あら。私を
「嫌いです! お父様も、嫌い! お母様も、嫌い! 皆、嫌いです! 大嫌い!」
「あら、そう」
素っ気ない、声がした。無関心を極めたような母の声に、杏花が、かっとなったのが――見えていないのに、はっきり判った。
「お母様なんて、大嫌い!」
杏花の声が大きくなり、肌に触れる空気の質感ががらりと変わった。
――全てが、終わろうとしているのだ。
最後の〝言挙げ〟が放たれる前に、意識は終焉を知覚していた。イズミは
呪われた呉野の血が、イズミに破滅を
神社の御山で起こった、呉野の一族による惨劇。救いのない悲劇に幕を引く言葉を、少女は
「お母様も、お父様も、嫌いです。……『皆、居なくなっちゃえ』」
背筋が凍るほどに、感情が
六歳の幼い魂が紡ぎ出した、悲愴な〝言挙げ〟。
娘の言葉を聞いた女は、簡素な返事を寄越して、笑った。
「はい。判りました」
――ぷつん、と。
ざざざざ、と風が音を立てて吹きすさぶ。木々の
自然が、怒っている。御山に宿る神々の怒りに、イズミ達は触れてしまった。
だが、畏敬の念と
――しん、と。
辺りが、急に静かになったのだ。
「……」
耳鳴りがする程の沈黙の中で、虫の鳴き声が聞こえてくる。盛夏の夜の沈黙が、数十秒ほど続いた後に、イズミの顔を覆う腕の力が、ほんの少しだけ、緩んだ。
手が、ゆっくりと外されていく。國徳の浴衣の裾が離れ、そろりと開いた両の目に、月明かりが淡く射した。
「……御爺様」
茫然と、イズミは呟く。そして、背後の國徳を振り返るべく、俯き気味になっていた顔を、ゆるゆると上げた。
視線が、上向きになる。縁側の床から、御山の木々へ。帯のように射し込む月明りで青く輝く泉の水面へ、視線が吸い寄せられた時。
「……」
イズミは、沈黙した。
愕然と、していたのだ。
水面が、波紋を描く。一滴、二滴、狂乱の名残か血か涙か、水面が
恐ろしいほどに静かだった。貞枝が居ない。伊槻も居ない。泉で殺し合って居たはずの男女の姿が、最初から誰も居なかったかのように、
「あははははは」と笑い声が聞こえてくる。貞枝の笑い声だと思いたいのに、
否、違う。別の声だ。罪と罰を一身に引き受けるべく〝アソビ〟によって生まれた少女。鬼の娘、狂いの子。純真無垢ゆえに育まれた、悪徳の魂。まるで産声のような哄笑に、御山の空気がびりびり震える。静寂が、壊れていく。悪意に染まった〝言霊〟が、森の〝清らか〟を壊していく。
「お父様も、お母様も、嘘つき。嘘つきでした。私は、最初から氷花だったのですね。お父様、お母様、どうして嘘をつくのですか。それは、新しい遊びですか?」
杏花は――氷花は、
己の〝言霊〟を暴走させた、善悪も命も知らぬ少女。
そんな少女の言葉に
イズミは、守れなかった。まるで観念するように、
「御爺様」
イズミは、國徳を振り返る。背後で屈んだ國徳の目は、厳しく細められたままだったが、イズミが呼ぶと、
再会の日に、なぜ國徳はイズミにあのような言葉を掛けたのか。理由が
「御爺様。……
國徳が、軽く目を瞠った。イズミは、薄く微笑んで見せた。思った以上に、自然に笑うことが出来た。相手が家族だからだろうか。やはり
「僕はこれから、貴方と共に生きていきます。それが父の最期の祈りでもありますし、そんな願いを抜きにしても、僕は貴方と一緒に居たいのです。祖父というよりも父親のように、貴方を慕っていきたいのです。克仁さんにも、そうしたように。……これから貴方の息子となる僕は、呉野和泉と名乗ろうと思います。気兼ねせずに、名乗っていこうと思います」
「……イズミ・イヴァーノヴィチはもういいのか。イヴァンの名が入ったロシアの名、無理に捨てる事もなかろう」
素っ気なく言い捨てられて、イズミは少し呆れてしまった。
ただ、『捨てる』という言い方をされて、胸が痛んだのは事実だった。
「はい。捨てましょう。父の名を頂いた名では、清らか過ぎていけません。呉野和泉でなければ、なれぬものもあるのです」
「好きにすればいい」
再び
少女はけたけたと不気味な笑い声を立てていたが、イズミの足音に気づくと、ぴたりと声を殺した。くるんと
顔立ちは、やはり愛らしい。あの貞枝の娘なのだ。
今までは、そんな風には思わなかったはずだった。イズミはほんの少しだけ、少女に対して申し訳ない気持ちになる。
イズミは、悪いことだとは思っていない。
「……全く、貴女には驚かされてばかりでした。ですが、今ほど驚いたことはなかったと思います。何がそんなにも
淡々とした揶揄が、薄く滲んだ台詞を受けた少女――氷花は、きょとんと可愛らしく小首を傾げた。何を言われたのか判らない。
だが、やがてイズミが己を〝氷花〟と呼んだ事を呑み込めたのだろう。白い頬に、さっと赤味が差した。怒っている。すぐに判ったが、もう呼べなかった。
何故ならイズミは、目の前の人間が〝杏花〟だとは思えない。全く別の鬼の女が、無垢を装っているだけだ。
「……僕は、貞枝さんから聞きました。人の持てる感情には、
イズミは、言う。
「僕は、父が死んだ時。その魂の清らかさを、引き継ごうと決めました。そして、貴女が鬼のような激しさで、言葉の魂を操った時。貴女の事を、御隠居だと思いました。清らかなあの少女は、どうすれば帰ってくるのでしょうか。これは、感傷です。未練を〝言挙げ〟したところで、失われた命は戻りません。ですが、それでも」
イズミは、氷花と呼ぶことに決めた少女を見下ろした。
寂しさは、最早感じなかった。
愛しかった。救いたかった。もっと一緒に居たかった。
だが、
「貴女が、この夏に失った〝清らか〟は――僕が、貰い受けましょう」
「ですが、ここで一つ問題があります。僕は既に、父の清らかさを受け継いで生きていくと決めたのです。この
「お兄様は、怒っているのですか? ……少し、怖いです」
「そうですね。怒っているかもしれませんね。そんな
「……。お兄様、冷たいです。面白くありません」
「ええ。面白くなくて結構です。面白いことを言った
「……」
氷花の目から、感情が失せる。
そして、「お兄様も、私と、遊んでくれないのですか」と小さな声で言った。
イズミは、「ええ、遊びませんよ」と
氷花の目の色が、変わる。だが、イズミは言葉を撤回しなかった。
まだ、
「氷花さん。このままでは貴女は、〝清らか〟を失った鬼のような少女のままです。人の命への『愛』がなく、『憎悪』しか持たぬ貴女では、落としてしまった『鬼の
少女が、呆けたような目でイズミを見た。
思い出す、物語があった。思い出す、笑顔があった。
――杏花。
イズミに
盛夏に出逢った
ならば。イズミは、
己の事など、どうでもいい。杏花が、イズミに望んだのだ。
今、
「僕は、誰も憎みません。『憎悪』という名の
人で、鬼で、花。凍りづけの、手向けの供花。供養を体現した
看取る。見届ける。
少女の破滅を、最期まで。
大人達は、なぜ死ななくてはならなかったのか。〝言霊〟について知識を得ても、当事者として
だからこそ、今度こそは、必ずや見届けようとイズミは思う。
少女の血塗られた先行きを、余すことなく見尽くすこと。
「罪塗れの貴女が、どのように身を滅ぼしていくのか。僕は、それを見守らせていただこうと思います。その為に、僕は貴女の兄となりましょう。幸い、貴女の兄に相応しい名を名乗ることを、既に許されましたから。……氷花さん。僕の妹。これから僕等は兄妹です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
決意の口上を終えたイズミは、氷花を見下ろした。
夜風に前髪を揺らした氷花は、兄となる青年の長い台詞に耳を傾けたものの、
ふと
ずっと、イズミ・イヴァーノヴィチと名乗っていた。あの少女には
――〝コトダマアソビ〟
真名を偽って己が魂を守りながら、兄妹同士で相対するという〝アソビ〟。
だが、
何故なら
イズミは、友好的に笑った。
憎悪を意識的に捨て去った空虚な心に、一人の人間が持つには過剰とも言うべき仁愛を満たして、微笑む。
そして、妹になった少女に向けて、己の名前を〝言挙げ〟した。
「初めまして、呉野氷花さん。――僕は、呉野和泉と申します」
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