4-34 夫婦
縁側に立つ、
母親は昼間と同じ浴衣姿で、娘も巫女装束のままだった。美しい
絶句するイズミへ、女は
「……貞枝。お前は……」
父親の声が聞こえたのか、貞枝と呼ばれた女の笑みが、一層
「こんばんは。和泉君、御父様。……イヴァンお兄様。貴方という人は、やっぱり
貞枝が、笑う。嘲り笑うように、
目を
「杏花。
「はい、お母様」
杏花は茶封筒を受け取ると、母の顔を
――気づけば、伊槻が動きを止めていた。
國徳だけを視界に捉えていたはずの伊槻の目が、今や森に立つ母子を食い入るように凝視している。横顔から窺える眼差しに、凶暴な輝きが
――殺す気なのだ。瞬時に気づき、イズミは蒼白になった。
「貞枝さん、杏花さん。……
「ええ。私は行きません。
粛然と笑った貞枝は、出し抜けに――ぱん、と両手の平を叩き合わせた。浴衣の裾が、翻る。真夏の夜の冷気を
「
貞枝が、声を張った。笑みを含んだ呼び掛けとともに、ぱん、ともう一度手を叩く。
「貞枝さん、何をなさっているのです! この伊槻さんが何をするか、貴女にはっ」
「判っていてよ、和泉君。判っているから、こうするのよ!」
貞枝は
ただ、焦った。貞枝も、父の姿を見たはずだ。
「貞枝さん、貴女は……それでは、殺されてしまいます!」
「
凛とした答えが、返ってくる。貞枝はイズミをひたと見つめると、恥じらうように目を逸らして、娘の手元を見下ろした。
「和泉君。杏花に託しました。こんな
「貴女は、何を言って……」
イズミが問い詰めかけた時、「お母様」と別の人物の声が割り込んだ。
杏花が、母の浴衣の裾を引いていた。貞枝が「なあに」と答えて微笑むと、母の注意を引いた杏花は、愛らしく小首を傾げて、こう訊いた。
「お母様。お父様は、私と仲直りをしてくれるでしょうか」
「……」
無邪気に訊ねた杏花を、イズミは呆然と見下ろした。
杏花も母親同様に、全てを見たはずなのだ。血の海に沈んで眠る父と、満身創痍の國徳を。イズミ自身も、國徳ほどではないにしろ手負いなのだ。
そんな、地獄絵図の中で……喧嘩の仲直りが、一体、何だと言うのだろう。
人が、既に死んでいるのだ。最愛の人が、
虚脱感で、意識がぐらつく。父の最期の記憶が、蘇る。イズミの〝言霊〟を拒絶して、静かに逝った父の声。
だが、そんな己の葛藤や
命の観念の欠落は、
「……」
打ちひしがれるイズミを、貞枝が一瞥してから俯いた。赤い口の端が持ち上がり、イズミは静かに戦慄した。
――笑っているのだ。
人が、死んだ山で。血を流す國徳を、視界に入れながら。思い返せば
――狂っている。
今度こそ、
「仲直り、ね……」
思案気に囁いた貞枝は、人差し指を唇に当てる。そして、不意に意地悪く微笑むと、純心に訊ねる娘を見下ろして、試すような声音で言った。
「ふふ、そうね、どうかしら。……判らないわねえ、杏花」
「? どうしてですか?」
「だって。杏花はもう、お父様とは遊べないもの」
杏花が、沈黙した。
遊べない。
「杏花。〝アソビ〟はおしまいです。
「……」
娘の無言の訴えを、貞枝は笑って相手にしない。あしらわれた杏花の唇が、小さな言葉を紡ぎ出した。
「嘘つき」
水面に花を落とすように、言葉が一つ、零れ落ちる。一つ零せば、もう一つ。「嘘つき」と無表情の杏花の口から、言葉が零れ落ちていく。感情の起伏が緩やかな、酷く
だが、
イズミを兄と呼んで慕う顔。
愛らしい杏花。憎からず思っていた杏花。イズミの知る杏花と、目の前の少女の間に、残酷なまでの隔たりを感じた。理不尽さに苛まれながら何故なのかと自問したが、理由もまた明白なのだ。善悪を知らない故に、こうなった。
そんな風に、思い詰めた時――唐突に、思い出した。
――〝二人居る〟
恨む相手を、別に作る。
――ざぶん、と。不意に、水音がした。
驚いて顔を上げると、貞枝が
はっとする。國徳だった。イズミと目が合うと、首を横に振ってくる。
見守れと、あるいは行くなと言いたいのだろうか。視線を正面に戻すと、貞枝は浴衣の裾を捲りもしないで、泉の中央を目指している。
「御爺様。……止めなくて、いいのですか」
「……」
國徳は、返事を寄越さなかった。前方を睨む祖父の顔を、間近に見て――イズミは、先程とは比較にならぬほどに驚いた。
國徳の眼差しが、あまりにも鋭かったからだ。
息子のイヴァンを見つめた時とは、明らかに目つきが違う。視線だけで人が殺せるならば、
「……お母様の、嘘つき」
感情が欠けた声で呟いてから、次の瞬間には火が付いたように「嘘つきっ」と叫び、非難の〝言挙げ〟が森の
「可哀想な氷花。
「……っ、貞枝さん!」
堪りかねたイズミは、母子の会話に割って入った。二人の間に何があったのかは判らないが、
だが、発作的な呼びかけ程度で、呉野貞枝が止まってくれるわけもなかった。
愛娘から
「ねえ、和泉君。御父様。
「……それは、伊槻さんの事ですか?」
イズミは貞枝の真意を探りながら、慎重に訊ねる。貞枝は「ええ。そうよ。
――ぞっとした。
「……発作的に、人を殺して。ねえ、伊槻さんは耐えられると思いますか? イヴァンお兄様をこんなにして、
「……!」
愕然としたイズミは、伊槻を見た。
弛緩した腕をだらりと下げて、
伊槻は、本当に――家族を、殺したかったのだろうか?
決まっている。こんな現実を、伊槻が望んだわけがない。こうなってしまった後で伊槻を擁護する心算はなかったが、呉野伊槻という人間が本来どういった個性の持ち主だったか、少しだがイズミは知っているのだ。
知っていて尚、仇だと思う。
だが、恨み切っていいのかは判らなかった。社交的な個性と平凡な孤独を抱えた、優しくも寂しい一人の男。イズミの知る呉野伊槻は、そんな相手なのだ。
イズミは――伊槻が、憎い?
「……」
そんな自問ばかりしていたから、気づくのが遅れたのだ。
――
もし、伊槻が
精神が
判らない。だが、恐らく無理だ。少なくともイズミは、
――
正気の伊槻は、果たして
「……」
「可哀そうな人」
沈黙するイズミに追い打ちをかけるように、貞枝が言った。地に落ちた蝉の足掻きを見るような、嗜虐的とも無感動とも取れる目つきだった。そんな茫洋たる光を瞳に浮かべた女は、
「弱い人。本当に弱い人。伊槻さんは弱いもの。私は
だが、
軽く俯いた、貞枝の口元。赤い唇が形作った表情は、微笑ではなかったのだ。
――満面の、笑みだった。
「……だから。伊槻さんは、私が連れて行きます。
言葉が、早口になっていく。最初はゆっくりと、次第に性急に、焦燥と歓喜が血泡のように言葉に滲み、狂気の演説が加速する。膨れ上がった感情の歯止めが、暴発して壊れていく。イズミの中で、不吉な予感も加速した。
――
「ふふふ、ねえ、和泉君。御父様。御免なさいね、
「貞枝さん、伊槻さん……!」
抜き差しならぬものを感じ取った。イズミが名を叫んでも、貞枝はおろか伊槻さえ、
だが、
夢見心地で唄う女と、
「御爺様。貞枝さんも、まさか……」
既に、杏花の――〝氷花〟の言葉に、魂を絡めとられているのか。
「……」
國徳は、肯定も否定もしなかった。厳しい眼光を変えないまま、一人娘を睨んでいる。
「鬼さん、こちら、手の鳴る、方へ。……ふふふ、伊槻さん、私と遊びましょうよ、伊槻さん……」
歓待の声に誘われて、伊槻がゆっくり歩いていく。
――もう、滅茶苦茶だった。
イズミたち一族は、何故こうなってしまったのだろう。何が
「お父さん……」
感傷から出た囁きに、応える者は誰もいない。夜風が寂しく吹き抜けて、イズミと國徳の間を抜けるだけだ。男女の〝アソビ〟で揺れる水面に、仄青い光が照り返す。蛍のような燐光は、心が洗われるほど美しく、
そして、
「……嘘つき、お母様の、嘘つき。お父様の、嘘つき。……私は、杏花ではなかったのですか。おうちに、居るのに。どうして、氷花と呼ぶのですか」
風が唸り、ざわざわと木々の梢が揺れた。
泉の
「さっきも
「……嘘つき」
「そうよ、嘘つきです」
「お母様は、ひどいです」
「そうよ、氷花。私は酷い女ですよ。嗚呼、だって、娘がいずれ死ぬ事を、最初から諦めていたんだもの!」
貞枝が、伊槻に手を差し伸べた。早く来いと誘うように。二人の距離は、あと少しで手を取り合えるほどに迫っている。杏花の顔が、
あどけない顔が――憎悪に染まった。
「……お母様は、嘘つきで、ひどいひと」
「ええ、そうよ、そうよ氷花! 私は嘘つきで酷い人! だから、貴女とはもう遊べないの!」
貞枝が、高らかに笑った。妄執に憑りつかれた狂信者のように、声を上げて笑っている。正気を手放した女の
一通は、土の上に。もう一通は、泉の水面へ――ぽちゃん、と軽い音がして、薄茶の封筒が水に浮いた。はっと青ざめた杏花が水面に手を伸ばしたが、茶封筒は
「私も伊槻さんも、もう貴女とは遊べません。誰も、貴女とは遊べないのです。
「……、
肩を怒らせて、杏花が顔を跳ね上げた。肩口で切り揃えた髪が乱れ、封筒を手放した空っぽの手が、理不尽を堪えるように握り込まれる。「厭です!」と繰り返し叫んだ声には、悲壮感が血のように滲んでいた。
「……」
憐れみが、イズミの心を満たしていった。そんな場合ではないと判っていても、蕎麦屋で杏花の孤独を知った時のように、可哀相だと思ってしまった。
何故、杏花が
〝清らか〟を渇望した少女が、今――世界の全てに、手酷い拒絶を突きつけたのだ。どくん、と全身の血が下がる感覚とともに、胃の底が急激に冷えた。
――
気づいたのだ。こんな状態の少女の言葉が、一体何を引き起こすのか。
悲劇が、起こる。言葉に込められた魂が、
「……!」
イズミは、杏花を呼ぼうとした。切迫感と使命感に衝き動かされるように、杏花を止めるべく呼ぼうとした。
そんな一瞬の怯みが、命取りになってしまった。
杏花が息を吸い込んで、黒髪で隠れた頬と目元が、涙を堪えるように一度震える。やがて
呉野貞枝の声が、割り込んだ。
「……ねえ、伊槻さん。貴方、イヴァンお兄様を包丁で殺したのね?」
「あ……」
イズミは、愕然と息を吸い込んだ。
――
木漏れ日が射す森の泉で、水面から掬った花を
だが、
貞枝の手が、夜色の水面から引き上げられる。
水を滴らせた白い手に、握られていた物は――今度は、花ではなかった。
泉の水底に、何故そんなものが隠してあったのか。イズミには知る由もない。
ともあれ、遠目にもはっきりと見えたのだ。
貞枝の手に握られた、
和装から覗く細腕に、
普段通りの、人を食った笑みで。愛想の良さで厭世観を押し隠した、狐面のような薄ら笑いで。貞枝は、夫に告げたのだった。
「伊槻さん。一緒に、死んでくださいな」
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