4-34 夫婦

 縁側に立つ、伊槻いつきの背後。月光が降り注ぐ、森の中。水面が青く輝く、泉のほとりに――の母子は、立っていた。

 母親は昼間と同じ浴衣姿で、娘も巫女装束のままだった。美しいかおの女と少女は、豊かな黒髪を風に流し、寄り添い合って立っている。

 絶句するイズミへ、女はつややかに笑いかけた。少女の方は、笑わない。母の笑みをくらい瞳で見上げてから、イズミにも同じ昏さの視線を向けて、表情もなく立っている。

「……貞枝。お前は……」

 國徳くにのりが、息を詰まらせたような声で、娘を呼んだ。

 父親の声が聞こえたのか、貞枝と呼ばれた女の笑みが、一層まばゆつやめきを帯びる。唇のべにが、すうと笑みの形に伸びた。

「こんばんは。和泉君、御父様。……イヴァンお兄様。貴方という人は、やっぱり此処ここに来てしまったのね。ねえ、貴方。どうして来てしまったの? あれだけ駄目とわれていたのに。……本当に、いけない人」

 貞枝が、笑う。嘲り笑うように、れでいて何処どこか寂しげに。笑みに複雑な感情の滲みを湛えたまま、貞枝は浴衣のたもとに手を入れると、何かをそっと取り出した。

 目をらすと、れは茶封筒だった。手紙が入っているのか厚みがあり、二通用意されている。貞枝は静々と屈み込むと、杏花に二通の茶封筒を手渡した。

「杏花。れを、和泉お兄ちゃんに渡しておいで」

「はい、お母様」

 杏花は茶封筒を受け取ると、母の顔を凝乎じっと見上げた。

 ――気づけば、伊槻が動きを止めていた。

 國徳だけを視界に捉えていたはずの伊槻の目が、今や森に立つ母子を食い入るように凝視している。横顔から窺える眼差しに、凶暴な輝きがさっきざした。

 ――殺す気なのだ。瞬時に気づき、イズミは蒼白になった。

「貞枝さん、杏花さん。……此方こちらに来ては、いけません」

「ええ。私は行きません。其方そちらに行くのは、杏花だけよ」

 粛然と笑った貞枝は、出し抜けに――ぱん、と両手の平を叩き合わせた。浴衣の裾が、翻る。真夏の夜の冷気をはらんで、黒髪が大きくたなびいた。

伊槻いつきさん、此方こちらにおいでなさいな!」

 貞枝が、声を張った。笑みを含んだ呼び掛けとともに、ぱん、ともう一度手を叩く。はやし立てる女の声に呼応して、伊槻が覚束ない足取りで縁側を下りた。たぶらかされたかのように表へ出ていく姿に度肝を抜かれたイズミは、思わず構えていた丸椅子を投げ出して、血相を変えて叫んだ。

「貞枝さん、何をなさっているのです! この伊槻さんが何をするか、貴女にはっ」

「判っていてよ、和泉君。判っているから、こうするのよ!」

 貞枝は三度みたび手を打ち鳴らし、「伊槻さん、此方こちらにおいでなさいな!」と唄うように繰り返す。覚悟なのか、諦観なのか、何らかの自信に裏打ちされた凛々しい声に、明瞭な意思の存在を知覚する。出会った時からの瞬間に至るまで、本当に振り回されてばかりだった。

 ただ、焦った。貞枝も、父の姿を見たはずだ。此処ここで無惨に殺された、腹違いの兄の死を。にもかかわらず、衣服を真っ赤に染めた異常者たる夫に対して、なぜのような行動を取れるのか。真意が何一つ理解できなかった。

「貞枝さん、貴女は……それでは、殺されてしまいます!」

れでいいのです」

 凛とした答えが、返ってくる。貞枝はイズミをひたと見つめると、恥じらうように目を逸らして、娘の手元を見下ろした。

「和泉君。杏花に託しました。こんな心算つもりではなかったのに、貴方、来てしまうんだもの。全てが終わった後で、読んでくださいな」

「貴女は、何を言って……」

 イズミが問い詰めかけた時、「お母様」と別の人物の声が割り込んだ。

 杏花が、母の浴衣の裾を引いていた。貞枝が「なあに」と答えて微笑むと、母の注意を引いた杏花は、愛らしく小首を傾げて、こう訊いた。

「お母様。お父様は、私と仲直りをしてくれるでしょうか」

「……」

 無邪気に訊ねた杏花を、イズミは呆然と見下ろした。

 杏花も母親同様に、全てを見たはずなのだ。血の海に沈んで眠る父と、満身創痍の國徳を。イズミ自身も、國徳ほどではないにしろ手負いなのだ。

 そんな、地獄絵図の中で……喧嘩の仲直りが、一体、何だと言うのだろう。

 人が、既に死んでいるのだ。最愛の人が、此処ここで、今。

 虚脱感で、意識がぐらつく。父の最期の記憶が、蘇る。イズミの〝言霊〟を拒絶して、静かに逝った父の声。の魂の清らかさが、眼前の少女を否定する。結局イズミは兄の心算つもりでいただけで、ただの薄情な高校生に過ぎなかったのかもしれない。貞枝の言葉通り、非道な人間かもしれない。

 だが、そんな己の葛藤や欺瞞ぎまんを抜きにしても――れは、あまりに酷過ぎた。

 命の観念の欠落は、くも残酷なものなのか。

「……」

 打ちひしがれるイズミを、貞枝が一瞥してから俯いた。赤い口の端が持ち上がり、イズミは静かに戦慄した。

 ――笑っているのだ。

 人が、死んだ山で。血を流す國徳を、視界に入れながら。思い返せばの叔母は、杏花に茶封筒を託した時にも笑っていた。笑みが記憶に馴染んだ所為で、違和感の認知が遅れていた。

 ――狂っている。

 今度こそ、う思った。イズミは、本気で、う思った。

「仲直り、ね……」

 思案気に囁いた貞枝は、人差し指を唇に当てる。そして、不意に意地悪く微笑むと、純心に訊ねる娘を見下ろして、試すような声音で言った。

「ふふ、そうね、どうかしら。……判らないわねえ、杏花」

「? どうしてですか?」

「だって。杏花はもう、お父様とは遊べないもの」

 杏花が、沈黙した。

 遊べない。う言い切った母親を見つめる顔から、表情がそっくり消え失せる。そんな娘に尚も笑いかけながら、貞枝は残酷な〝言挙げ〟を止めなかった。

「杏花。〝アソビ〟はおしまいです。れから皆は、貴女のことを〝氷花〟と呼びます。御爺様もう呼んでくださるから、安心していいのよ」

「……」

 娘の無言の訴えを、貞枝は笑って相手にしない。あしらわれた杏花の唇が、小さな言葉を紡ぎ出した。

「嘘つき」

 水面に花を落とすように、言葉が一つ、零れ落ちる。一つ零せば、もう一つ。「嘘つき」と無表情の杏花の口から、言葉が零れ落ちていく。感情の起伏が緩やかな、酷くいだ声だった。

 だが、の台詞こそが、伊槻を狂わせた元凶なのだ。伊槻の心が、教えてくれた。何が己の精神を壊したのか、きっかけとなる記憶を見せてくれた。背後に立つ國徳もまた、イズミに教えてくれたのだ。犯人。罪人。諸悪の根源。の惨劇に、そんな位置づけの人間が居るならば、れが誰を指しているかは明白だ。

 嗚呼ああ、と思う。

 の子は、

 イズミを兄と呼んで慕う顔。のあどけなさと繋がらないのだ。

 愛らしい杏花。憎からず思っていた杏花。イズミの知る杏花と、目の前の少女の間に、残酷なまでの隔たりを感じた。理不尽さに苛まれながら何故なのかと自問したが、理由もまた明白なのだ。善悪を知らない故に、こうなった。れ以上でも以下でもない。うと判っていてもの隔絶感を受容したら最後、自我が狂って死ぬ気がした。心の壊れた伊槻のように、同じ道を辿る気がした。

 そんな風に、思い詰めた時――唐突に、思い出した。

 ――〝二人居る〟

 嗚呼ああ、そうか、と。諦念に覆い尽くされた心で理解した。少女の先行きをうれいているはずのの〝アソビ〟は、あまりに大人に都合が良かった。

 恨む相手を、別に作る。れなら、無垢な〝杏花〟を憎まずに済む。

 れは、ういう〝アソビ〟だったのだろうか。


 ――ざぶん、と。不意に、水音がした。


 驚いて顔を上げると、貞枝が襤褸屋ぼろやに背を向けて、湧き水を湛えた泉へと足を踏み入れたところだった。奇行に息を呑んだイズミが「貞枝さん!」と呼び止めると、肩を強く掴まれた。

 はっとする。國徳だった。イズミと目が合うと、首を横に振ってくる。

 見守れと、あるいは行くなと言いたいのだろうか。視線を正面に戻すと、貞枝は浴衣の裾を捲りもしないで、泉の中央を目指している。楚々そそとした足運びが水面を波立て、月明りの帯が射し込む舞台に、泡沫うたかたの煌めきを散らしていく。ほとりに残された杏花は微動だにせず、無言で母を見送るだけだ。

「御爺様。……止めなくて、いいのですか」

「……」

 國徳は、返事を寄越さなかった。前方を睨む祖父の顔を、間近に見て――イズミは、先程とは比較にならぬほどに驚いた。

 國徳の眼差しが、あまりにも鋭かったからだ。

 息子のイヴァンを見つめた時とは、明らかに目つきが違う。視線だけで人が殺せるならば、の目が屹度きっとうだろう。研ぎ澄まされた敵意に圧倒されて「御爺様」と呼び掛けたが、母親に置いていかれた杏花の声が、イズミの声を遮った。

「……お母様の、嘘つき」

 感情が欠けた声で呟いてから、次の瞬間には火が付いたように「嘘つきっ」と叫び、非難の〝言挙げ〟が森のしじまに響き渡る。貞枝はくるりと振り向くと、「そうよ、私は嘘つきでした」と悪びれずに言ってのけて、にんまり笑って開き直った。

「可哀想な氷花。れから一人ぼっちになる氷花。けれど、私は伊槻さんを一人には出来ないもの。だから、伊槻さんと一緒に行きます。でも、嗚呼、違いますね。あの人を連れて行くのは、私の方ですもの」

「……っ、貞枝さん!」

 堪りかねたイズミは、母子の会話に割って入った。二人の間に何があったのかは判らないが、の親子の会話を止めなくてはと思ったのだ。異能の血がざわめくのだ。イズミは貞枝の声音から、確たる凶兆を感じたのだ。

 だが、発作的な呼びかけ程度で、呉野貞枝が止まってくれるわけもなかった。

 愛娘からおいの青年へと視線を滑らせた貞枝は、双眸を糸のように細めて、妖しく笑う。蠱惑こわく的な嗤い声に、陰湿さが滲んだ。

「ねえ、和泉君。御父様。の人がのまま正気に返ったら、一体どうなると思いますか?」

「……それは、伊槻さんの事ですか?」

 イズミは貞枝の真意を探りながら、慎重に訊ねる。貞枝は「ええ。そうよ。の人」と答えて、伊槻に視線を転じた。

 の瞬間、躑躅ツツジの茂みの傍に立つ杏花の横を、伊槻が通り過ぎていった。泥とガソリンを被った革靴が水に浸かり、びしゃびしゃと濡れた音を立てていく。妻を追って泉に入った男は「ひひひ」とまだ奇怪な笑い声を上げていて、人としての理性が壊れきった夫を眺めた貞枝は、愛おしそうに目を細めた。

 ――ぞっとした。

 の時の貞枝の目は、人を愛する目ではない気がしたのだ。強いて言うならば、愛玩動物を見るような。道徳の観念が捩じ切れた眼差しは、イズミに此処ここから先の言葉を聞いてはいけないと悟らせたが、悟った時には遅過ぎた。

「……発作的に、人を殺して。ねえ、伊槻さんは耐えられると思いますか? イヴァンお兄様をこんなにして、れで、れからも生きていけると? ……無理ですよ。出来はしません。れこそ本当に、気が狂ってしまうわ」

「……!」

 愕然としたイズミは、伊槻を見た。

 弛緩した腕をだらりと下げて、血塗ちまみれの身体で妻を追いかける男、呉野伊槻。家族を殺して自分も死ぬ。そんな妄執もうしゅうりつかれ、凶行に走った孤独の人。

 伊槻は、本当に――家族を、殺したかったのだろうか?

 決まっている。こんな現実を、伊槻が望んだわけがない。こうなってしまった後で伊槻を擁護する心算はなかったが、呉野伊槻という人間が本来どういった個性の持ち主だったか、少しだがイズミは知っているのだ。

 知っていて尚、仇だと思う。ゆるせない。う思う。

 だが、恨み切っていいのかは判らなかった。社交的な個性と平凡な孤独を抱えた、優しくも寂しい一人の男。イズミの知る呉野伊槻は、そんな相手なのだ。の一方で、伊槻はたとえ本心ではなかったとしても、壊れる心に身を任せて、此処ここで人をあやめてしまった。仇だ。殺人者だ。イズミは家族を殺された。最愛の人を、清らかな人を、伊槻に此処ここで殺された。

 イズミは――伊槻が、憎い?

「……」

 そんな自問ばかりしていたから、気づくのが遅れたのだ。

 ――れが伊槻の本心であり、同時に本心ではないのだとしたら。

 もし、伊槻がれから、正気に戻るなら。人と話すのが好きで、気弱な面も持ち合わせた、普通の男に戻るなら――れは、あまりに恐ろしい想像だった。

 精神が此処ここまで破壊し尽くされた人間が、正気を取り戻すとは限らない。れに、仮に元の伊槻に戻れたとして、の伊槻は果たして今夜の出来事を、正確に覚えているだろうか? 父を殺した事を、國徳に暴行を加えた事を、神社の敷地にガソリンを撒いた事を、伊槻は後に思い出せるだろうか?

 判らない。だが、恐らく無理だ。少なくともイズミは、う思う。

 ――れでも、もし。の伊槻が、正気に戻るなら。人の心が一欠片でも残っていて、元の伊槻としての個性を取り戻す可能性が、僅かでもるというのなら。

 の惨劇の全てを、伊槻が思い出した時。

 正気の伊槻は、果たしての事実を受け入れられるのか。

「……」

「可哀そうな人」

 沈黙するイズミに追い打ちをかけるように、貞枝が言った。地に落ちた蝉の足掻きを見るような、嗜虐的とも無感動とも取れる目つきだった。そんな茫洋たる光を瞳に浮かべた女は、の眼差しを夫へ転じて、哀れむように目を細める。

「弱い人。本当に弱い人。伊槻さんは弱いもの。私はれを知っているのよ。そんな罪悪感を背負った貴方が、れから生きていけるわけないものね。人の命を背負える程に、強い人ではないのだから。……れに、そんな人。の世に居るわけないものね」

 の一瞬だけ、貞枝はふと寂しそうな微笑みを見せて、睫毛を伏せた。

 だが、の時には既に――イズミは、異常に気づいていた。

 軽く俯いた、貞枝の口元。赤い唇が形作った表情は、微笑ではなかったのだ。

 ――満面の、笑みだった。

「……だから。伊槻さんは、私が連れて行きます。の人を殺して、私も死にます。ねえ、伊槻さん。美しいお兄様の仇となった、私の愛しい旦那様。弱い貴方を、決して一人にはさせないわ。れが妻というものです。夫の罪は妻の罪、子供の罪は親の罪。連綿と受け継がれていく数多あまたの罪を、全て引き受けるのがの私……」

 言葉が、早口になっていく。最初はゆっくりと、次第に性急に、焦燥と歓喜が血泡のように言葉に滲み、狂気の演説が加速する。膨れ上がった感情の歯止めが、暴発して壊れていく。イズミの中で、不吉な予感も加速した。

 の様子が何を示しているのか、イズミはもう知っている。こんな狂気は既に一度、別の人間で見たばかりだ。

 ――って、れは二人目だ。

「ふふふ、ねえ、和泉君。御父様。御免なさいね、いやな叔母さんで。御免なさいね、いやな娘で。伊槻さん、早く此方こちらにおいでなさいな。貴方を一人にはしませんから。貴方の嫌いな〝杏花〟は居ません。ねえ、伊槻さん。貞枝ですよ。貴女の愛した貞枝ですよ。――私と、〝アソンデ〟くださいな!」

「貞枝さん、伊槻さん……!」

 抜き差しならぬものを感じ取った。イズミが名を叫んでも、貞枝はおろか伊槻さえ、襤褸屋ぼろやの〝家族〟に見向きもしない。垣間見えた伊槻の横顔は安らかで、白痴はくちごとき薄笑いは、杏花が今朝の森で見せた笑みにそっくりだ。の杏花は無表情で父を見送るばかりで、やはりほとりから動かない。自分と〝アソンデ〟くれない男など、知らない。う言わんばかりの無頓着は執着の糸が切れたかのようで、今の杏花の状態が、イズミにはよく判らなかった。

 だが、れどころではなかった。事態は最早、一刻の猶予もなかった。

 夢見心地で唄う女と、の女を殺す為に泉へ踏み込んでいく男。両者の姿に同じ狂気を見たイズミは、強張った顔を國徳に向けた。

「御爺様。貞枝さんも、まさか……」

 既に、杏花の――〝氷花〟の言葉に、魂を絡めとられているのか。

「……」

 國徳は、肯定も否定もしなかった。厳しい眼光を変えないまま、一人娘を睨んでいる。の視線の先で、貞枝が愉しげに笑っていた。恍惚の表情で手拍子を打ち、焦点のけた目を爛々らんらんと伊槻に向けて、狐面の女が笑っていた。

「鬼さん、こちら、手の鳴る、方へ。……ふふふ、伊槻さん、私と遊びましょうよ、伊槻さん……」

 歓待の声に誘われて、伊槻がゆっくり歩いていく。くるぶしかったズボンが水を吸って、歩行がみるみる重くなる。壊れたように笑いながら、「貞枝」と名を呼ぶの理由は、妻への変わらぬ愛ゆえか、殺意がもたらした歓喜ゆえか、れとも精神が壊れたゆえの、ただただ無為な笑みなのか。理由など、イズミには判らなかった。こうなってしまった二人の事など、何も判りはしなかった。

 ――もう、滅茶苦茶だった。

 イズミたち一族は、何故こうなってしまったのだろう。何がれほどの破滅を生んだのか、理由の一端ならば、國徳が既に示している。だが、れだけの情報では足りないのだ。の悲劇の真相に至るまでの道筋が、屹度きっとイズミには隠されている。イズミの目には『見えない』何かが、其処そこるに違いないのだ。

 ういう風に思わなければ、到底やりきれそうになかった。少女の〝言霊〟が、イズミから父を奪うことに繋がったなど、認められるわけがなかった。

「お父さん……」

 感傷から出た囁きに、応える者は誰もいない。夜風が寂しく吹き抜けて、イズミと國徳の間を抜けるだけだ。男女の〝アソビ〟で揺れる水面に、仄青い光が照り返す。蛍のような燐光は、心が洗われるほど美しく、おぞましいほど清らかだ。の御山のものが、嘘をいているかのようだった。

 そして、の嘘を――糾弾する鬼が、一人。

「……嘘つき、お母様の、嘘つき。お父様の、嘘つき。……私は、杏花ではなかったのですか。おうちに、居るのに。どうして、氷花と呼ぶのですか」

 風が唸り、ざわざわと木々の梢が揺れた。

 泉のほとりに取り残された娘の声は、風の音に掻き消されそうな小声だったが、貞枝の耳には届いたようだ。泉の中央で月光を浴びる和装の女は、さも愉快そうに笑った。

「さっきもいましたよ、氷花。貴女のお母様は、最初から大嘘つきだったのです。なあに、貴女。今さら気づいたのかしら。我が娘ながら、愚かねえ」

「……嘘つき」

「そうよ、嘘つきです」

「お母様は、ひどいです」

「そうよ、氷花。私は酷い女ですよ。嗚呼、だって、娘がいずれ死ぬ事を、最初から諦めていたんだもの!」

 貞枝が、伊槻に手を差し伸べた。早く来いと誘うように。二人の距離は、あと少しで手を取り合えるほどに迫っている。杏花の顔が、さっと歪んだ。

 あどけない顔が――憎悪に染まった。

「……お母様は、嘘つきで、ひどいひと」

「ええ、そうよ、そうよ氷花! 私は嘘つきで酷い人! だから、貴女とはもう遊べないの!」

 貞枝が、高らかに笑った。妄執に憑りつかれた狂信者のように、声を上げて笑っている。正気を手放した女のわらい声におくしたのか、杏花の身体が小さく震える。の弾みで、両手から茶封筒が落ちてしまった。

 一通は、土の上に。もう一通は、泉の水面へ――ぽちゃん、と軽い音がして、薄茶の封筒が水に浮いた。はっと青ざめた杏花が水面に手を伸ばしたが、茶封筒はほとりから離れた所まで流されてしまい、幼い指先は届かなかった。の様を一瞥した貞枝が「仕様のない子」とうそぶいて、不出来な娘の体たらくをさげすんだ。

「私も伊槻さんも、もう貴女とは遊べません。誰も、貴女とは遊べないのです。左様さようなら、氷花。お別れの時間です。お母様は、お父様と一緒に遠いところへ行ってくるから。おうちに帰って、お留守番でもしていなさい?」

「……、いやです!」

 肩を怒らせて、杏花が顔を跳ね上げた。肩口で切り揃えた髪が乱れ、封筒を手放した空っぽの手が、理不尽を堪えるように握り込まれる。「厭です!」と繰り返し叫んだ声には、悲壮感が血のように滲んでいた。

「……」

 憐れみが、イズミの心を満たしていった。そんな場合ではないと判っていても、蕎麦屋で杏花の孤独を知った時のように、可哀相だと思ってしまった。

 何故、杏花がいやと言ったのか。れは家族が〝アソンデ〟くれない事でもなければ、貞枝への反発でもないだろう。

 おそらくは、の全部だ。幼い少女が育んできた思想、経験。記憶に留まる事がかなった全てのもの。の全部が厭なのだ。心を通わせた夏の記憶が、『判らない』相手の心をしらせてくれる。自棄やけになる心くらい、手に取るように判るのだ。

〝清らか〟を渇望した少女が、今――世界の全てに、手酷い拒絶を突きつけたのだ。どくん、と全身の血が下がる感覚とともに、胃の底が急激に冷えた。

 ――のまま、喋らせてはいけない。

 気づいたのだ。こんな状態の少女の言葉が、一体何を引き起こすのか。

 悲劇が、起こる。言葉に込められた魂が、の場で再び、惨事を起こす。

「……!」

 イズミは、杏花を呼ぼうとした。切迫感と使命感に衝き動かされるように、杏花を止めるべく呼ぼうとした。のままでは人が死ぬ。イズミか國徳か貞枝か伊槻か、誰かに白羽の矢が立ち此処ここで死ぬ。そして、死という観念が脳を満たした瞬間に、父の死に顔を思い出して――喉が委縮し、呼吸が止まった。

 そんな一瞬の怯みが、命取りになってしまった。

 杏花が息を吸い込んで、黒髪で隠れた頬と目元が、涙を堪えるように一度震える。やがてついに開かれた唇から、新たな破滅を呼ぶ〝言挙げ〟が、されようとしたところで――別の人物の〝言挙げ〟が、割り込んだ。

 呉野貞枝の声が、割り込んだ。


「……ねえ、伊槻さん。貴方、イヴァンお兄様を包丁で殺したのね?」


 おぞましい台詞を告げた声音は、場違いなほど長閑のどかだった。台詞と同じ緩慢さで、貞枝が腰を屈めていく。水を吸い上げて闇色に浸食された浴衣から、ほっそりとした腕が伸びた。白魚のような指先が、夜空を映し取った水面にけられる。背から零れた黒髪の毛先が水面の鏡面をくすぐって、波紋がまるく拡がった。

「あ……」

 イズミは、愕然と息を吸い込んだ。

 ――の光景はまるで、あの日の再現のようだった。

 木漏れ日が射す森の泉で、水面から掬った花を此方こちらに手向けて、異邦人を歓待する女の優美な仕草。イズミが貞枝と数年ぶりに再会したあの日と、れは殆ど同じ光景だった。

 だが、の光景は、間違ってもあの日の再現では有り得なかった。

 貞枝の手が、夜色の水面から引き上げられる。

 水を滴らせた白い手に、握られていた物は――今度は、花ではなかった。

 泉の水底に、何故そんなものが隠してあったのか。イズミには知る由もない。

 ともあれ、遠目にもはっきりと見えたのだ。

 貞枝の手に握られた、にび色の輝きが。淑やかに笑う女の手に、恐ろしい程しっくりと収まった、の凶器が。


 きりのように細い、銀色の包丁が。


 和装から覗く細腕に、凶刃きょうじんを流水のごとき滑らかさで構えた女は、白い頬をおっとりと傾けて、美しく笑った。

 普段通りの、人を食った笑みで。愛想の良さで厭世観を押し隠した、狐面のような薄ら笑いで。貞枝は、夫に告げたのだった。


「伊槻さん。一緒に、死んでくださいな」

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