4-24 杏花
「和泉君。今日は有難うね」
「いえ……」
イズミは
「いいのよ。貴方が気にすることではないでしょう?」
「いいえ。僕の責任です。きちんと帽子をかぶせてあげれば良かったですし、間で水分を摂らせるべきでした。大切なお嬢さんをお預かりしておきながら、申し訳ありません」
「貴方は、本当に律義なのねえ」
顔を上げないイズミの頭上から、困惑気味の声が降る。微かな笑みを含んだ声は普段と変わらないものだったが、
「杏花さんの具合はどうですか」
「お布団に寝かせたら、ぐっすりよ。吐いたら楽になったみたい。貴方のおかげです。御免なさいね。大変だったでしょう」
「そんなことはありません。それよりも、心配です。
「和泉君。貴方、いい加減に頭を上げて下さいな。綺麗なお顔の若い子がそんな風に
ゆっくりと顔を上げると、茜射す廊下に立った呉野
「……貞枝さん。杏花さんは、寂しいと言っていました」
杏花の哀切の表情を。胸を打つ言葉の数々を。そして、名乗る名前を間違えて――思い詰めて、倒れたことを。
「杏花さんは、
「……
「……それは、貴女が望んだことだからです」
黙ることは、簡単だ。だからこそ今、楽な流れに身を任せるのは
「僕が、呉野氷花さんを杏花さんと呼ぶ理由は、一つしかありません。貞枝さんと、御爺様と、そして何より杏花さんが、僕にそれを望んだからです。僕は、貴女方と〝アソンデ〟います。ですが、〝アソビ〟とは楽しいものでなくてはなりません。これは、誰が楽しいのですか。杏花さんは、悲しんでいます」
「貴方、杏花とはそんなに話をしていないでしょう? 二人で遊んだ時間を足せば、二日分ほどしか付き合いがないというのに、
「僕が理屈っぽい性格をしているのは、今に始まったことではありませんから」
追及を
「和泉君。今日はもう、お帰りなさいな」
「何故です」
すぐさま、イズミは訊き返した。貞枝の言い方は穏便だが、要するに出ていけと言われたのだ。呉野家の都合が悪いのか、
イズミの中に、執着はない。情熱はおろか、目標もない。確かな手応えで掴めるものは、家族愛の尊さと、学びの為に学ぶ姿勢だけだ。
ならば、納得するまで極め抜く。イズミの知らない〝アソビ〟の闇を、目を逸らさずに凝視する。
「……」
貞枝は、まだ薄ら笑いを浮かべていた。出て行くどころか微動だにしない不躾な態度の青年を、興味深そうに眺めている。やはり妖女のようだった。
逡巡したイズミは、覚悟を決める。
「貞枝さん。――『
「和泉君たら、叔母さんを口説いても仕方がないでしょう?」
文庫本を受け取った貞枝が、くすりと笑う。揶揄混じりではあったが、
「貞枝さんは、お綺麗ですから。口説かれる方は大勢いらっしゃるでしょう」
「貴方って本当に、物語に出てくる美少年、
貞枝は、ころころと笑い飛ばした。非道とまで
「和泉君。
「美しいと思いました」
負けじとイズミが伝えると、貞枝は虚を
「――『
イズミは、貞枝を
――今度は、ちゃんと人に見えた。
「僕は、驚きました。息苦しいという感想が、見事に覆されたのです。鮮烈な感情の閃きが、物語の世界の色を変えました。先ほど僕は、狂気という言葉を用いましたが、そんな情念も含めて、お
「やっぱり、非道ね。貴方は私の為に、嘘をついているもの」
「嘘ではありません。僕はこの物語に〝清らか〟を見出しました」
「清らか。清らかだと、貴方は
「はい」
対峙した二人は、色の異なる瞳で見つめ合う。貞枝はイズミの心を測るように
「……和泉君。人の持てる感情には、
「量?」
突然の、告白だった。イズミは、慎重に耳を傾ける。
「ええ。質量と
「何故、ですか」
「だって、可哀相だとは思いませんか?」
貞枝は、笑う。何故イズミには判らないのかと言いたげに、やはり少し恨めしげに、謎めいた言葉を畳みかけていく。
「葛藤が、心を追い詰めている。追い詰められた数だけ感情が動き、
「判りません」
だが、本当は判っていた。貞枝の望む方向へ誘導された問いの答えを、言葉にしたくないだけだ。そんな心の動きは
「和泉君。知っていますよ。貴方、優し過ぎるもの。平気で人に嘘をつく、罪作りな男の子。貴方は誰かを泣かせない為に、
「貴女にどんな悪意をぶつけられようと、僕は僕です。イズミ・イヴァーノヴィチです。そして、貴女は呉野貞枝です。お
「人間」
「ええ。人間です」
「
「はい。清らかです。物語に清らかを見出した僕は、貴女にも同じものを見出しました」
「やっぱり、嘘ね」
貞枝は、取り合わなかった。イズミは、懸命に考える。
どんな言葉なら、伝わるだろう。だが、何を伝えたいのだろう。噛み合わない会話の意味すら、イズミには理解できないのだ。貞枝は、何が欲しいのだろう。イズミは、何がしたいのだろう。答えは、己の内にあるはずだ。
悲しそうな杏花の顔が、頭から離れないのは何故なのか。もし
「僕は、貴女の名前を美しいと思いました。物語の登場人物の名を冠した貴女は、とても美しいと思いました」
「口がお上手ね」
踵を返した貞枝が、廊下を歩き去ろうとする。「貞枝さん」とイズミが呼び止めると、横顔だけで振り向いた貞枝は、にい、と口の端だけで笑った。
真っ赤に熟した日差しが、貞枝の全身を照らし出す。鮮血のような斜光を返り血のように浴びた妙齢の女の立ち姿は、イズミの胸に
まるで、
「……杏花。もう少し、寝ていなさいな」
「……? 杏花さん?」
弾かれたように振り向くと、廊下の突き当たりにパジャマ姿の杏花がいた。頬に夕焼け色の
「お兄様」
か細い声に呼ばれたイズミは、杏花の元まで静かに駆け寄り、床に膝をついた。
「杏花さん、お身体の具合はどうですか」
「……」
杏花は、俯いた。灯が消えたように暗い表情だった。明るい笑みを終始絶やさなかった少女が、瞳に底知れぬ虚無を覗かせて、イズミと目も合わせない。不安を覚えたイズミが、杏花の両肩に手を添えると、糸が切れたように小さな身体が倒れてきた。胸板にぶつかった頭から、切れ切れの声が聞こえてくる。
「……お兄様。ごめんなさい」
「悪いのは僕の方です。貴女への配慮が足りませんでした」
「お兄様は、やさしいのですね」
「……ええ、僕は優しいのですよ」
同じ
「……お兄様。
「気にすることはありません。また食べに行けばいいのです」
「また、食べに行けるのですか。お兄様と」
「もちろんです。いつでも行きましょう」
「……では、私。お兄様が暮らしていた国の、ごはんを食べてみたいです。ろしあでは、どんなごはんを食べるのですか」
「そうですね……一つ挙げるなら、ボルシチでしょうか」
「ぼるしち」
「ビーツという赤いお野菜が入っています。見た目はビーフシチューのように見えるかもしれません。美味しいですよ」
「お兄様が、作ってくれるのですか」
杏花が、イズミのシャツに顔を埋めた。顔を上げた時には、笑顔が戻っていればいい。
「お兄様の、おうちに……遊びに……行きたい、です」
「はい。仰せのままに、杏花さん」
イズミの首に、華奢な腕が巻きついてくる。しがみつくように抱きついてきた子供の体温を、イズミはしかと胸に抱いて座り続けた。
――背後に近づいてきた貞枝から、刺すような視線を感じた時だった。
杏花の体温とは対極に位置する、冷え切った異変に気づいたのは。
「……っ、杏花さん……少し、苦しいです」
イズミは、小さく咳き込んだ。杏花は、無言だった。無心にイズミの首を抱き続けて、細腕に力を込めている。
――首を、絞められている。
呼吸が辛くなって初めて、
――『らすこーりにこふは、人を、殺すのですか』
六歳の少女が発した言葉が、今になってイズミを戦慄させた時だった。
「……杏花、和泉お兄ちゃん、首が苦しいみたいよ」
貞枝の白く細い手が、イズミの背後から伸びてきて、娘の頭を撫でていた。
イズミは、はっとする。貞枝の声を呼び水にして、世界が時を刻み始めた。聴覚に音が宿り、
縁側から吹く生ぬるい風に全身を
「杏花、さん……?」
「……好きな人には……こうするもの、なのでしょう……?」
「……」
今、助けられた。そんな気がした。
「だから言ったのですよ」
イズミを救ったかもしれない叔母は、涼やかに笑った。
暮れゆく夏空と風の音に、酷く似合いの艶美な笑い。嘲笑い。
――もう、人間には見えなかった。
「今日はもう、お帰りなさいな。イズミ・イヴァーノヴィチ。杏花の優しいお兄様。……其れでは、左様なら」
丁寧に告げられた別れの言葉が耳に残り、イズミの頭から離れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます