4-25 伊槻

「お帰りなさい、イズミ君」

 克仁かつみの声に出迎えられたイズミは、居間に入るなり驚いた。

 とはいえ、一応の予想は出来ていた。玄関の三和土たたきに、見知らぬ靴があったからだ。ぴかぴかに磨かれた、黒く大きな革靴だ。一目で来客だろうと見抜いていたが、よもやの人物が自宅に居るとは思わなかった。

伊槻いつきさん」

 イズミが茫然と名を呼ぶと、ソファに腰を沈めていた呉野伊槻いつきは、「やあ」と挨拶してから立ち上がり、照れ臭そうに笑った。今日もスーツ姿なので、一目で仕事帰りと判る。髪も整髪料で整えているのか、硬派に決め過ぎず、さりとてだらしなくはならぬよう、毛先を洒落しゃれた崩しで遊ばせていた。

 社会で戦う大人の姿は、の居間にはあまりそぐわなかった。和洋折衷の調度品が古めかしいからかもしれないし、伊槻いつきの座るソファのカバーが、伽羅きゃら色の毛糸編みだからかもしれない。そんな回りくどい理由よりも、イズミと克仁かつみの生活空間にの男が居る風景が、単純に目に馴染まないだけかもしれない。

 もしうならば、我ながら伊槻いつきに対して冷たいと思う。イズミは状況の説明を求めて克仁を盗み見たが、伊槻の対面のソファに座る克仁は、飄々と笑うのみだった。説明する気はないらしい。そんな同居人の思考が手に取るように分かったので、嘆息をこらえたイズミは、視線を伊槻の顔に戻した。

 背筋を伸ばした伊槻は、初対面の人慣れした印象からは程遠い、遠慮と気まずさがない交ぜになった顔をしていた。の理由を本人の口から聞く前に、感情が水のようにするりと身体に流れ込んできて、イズミは合点する。

「……」

 不思議だと思う。あの日はうとんだ伊槻の笑みが、今日はれほどいやではない。ただ、れでは少し退屈だという我儘わがままも感じてしまい、己の貪欲さに少し呆れた。言葉を用いない理解は楽には違いないのだが、己の怠惰を育てるだろう。だからイズミはこんな性格なのだろうかと、責任転嫁でさを晴らしたい気分になった。

「……イズミ君」

 言いにくそうに、伊槻は言う。中肉中背と思っていたが、立ち上がった姿を見ると、意外と体格は痩せ型だ。杏花がイズミを大きいと言った事を思い出す。背がイズミより僅差きんさで低いから、そんな印象を持ったのだろうか。

 ともあれ、何故か家に居た男、呉野伊槻は――がばと突然勢いよく、頭を下げてきたのだった。

「先日は、すまなかった」

 見事としか言いようがない、角度四十五度のお辞儀だった。れほどの謝罪を見舞われるとは予想外で、泡を食ったイズミは「あ、頭を上げて下さい、伊槻さん」と珍しく言葉をつっかえさせて、伊槻に駆け寄る羽目になった。間の抜けた光景だったと思う。

「そもそも、なぜ貴方が僕に謝るのですか。僕は貴方から謝られるようなことをされた覚えはありませんよ」

「いや、そんなことはないと思うけど」

 イズミが高校生らしからぬ理屈っぽさで応対したからか、伊槻は毒気を抜かれた様子で顔を上げた。

「……いやあ、改めて言うのも妙な話だけど、この間イズミ君が来てくれた時は、僕らは全然話せなかったし……それに多分、君には不愉快な思いをさせたんじゃないかって、実はとても気になっていたんだ」

 だから、其の『不愉快な思い』とやらは何なのだ。会話のテンポの微妙な差異は、あの日と同じ倦厭の感情を呼び起こして――の程度のことで他者を疎んだ心の矮小さに、ほとほと嫌気が差してしまった。

 多分だが、心に余裕がないのだろう。ささやかな言葉一つに拘泥して、小さなことまであげつらの思考は、間違いなく今日の出来事を引き摺っている所為だった。

 イズミは、伊槻に八つ当たりがしたいのか。内面に一喝いっかつすると、散らかった心はおのずとまとまり、不必要に強張った身体から力が抜けた。れこそ妙な話だが、安堵したのだと思う。つまらない責任転嫁は、やはりいやな後味を身体に残す。そんなものは、無いに限る。

「イズミ君。君と初めて出会った席で、僕が君を見ていたのは、何も君の容貌が外国人だから物珍しいとか、そういう差別的な目ではないんだ。申し訳ない。気付いていたんだろう? 僕が君を見ていたのを」

「ああ」

 謝罪の気持ちは、ういう解釈で生まれたのか。イズミは拍子抜けの顔を笑みで隠して、「気になさらないで下さい。慣れていますので」と穏やかに言った。そもそもの件については水に流した心算つもりでいたのだ。ただ、伊槻がイズミに謝る原因となった出来事を回想すると、イズミは杏花の台詞せりふを思い出した。

 ――私がもっと〝清らか〟になれば、お爺様は私と一緒にいても、怒ったみたいな顔をしないで済むでしょうか。お父様も、もっと私と遊んでくれるでしょうか。

 ――……お父様も、最近は、私と遊んでくれないのです。

「……。伊槻さん。謝らなければならないのは、僕の方でした。今日は大切なお嬢さんをお預かりしておきながら、申し訳ありません」

 イズミは、頭を下げた。

 一番に言いたい台詞は別にあったが、れは先に通すべき筋だった。れを通すことを怠れば、他の言葉を語る資格を、己の内に見い出せない。

 頭上からは伊槻が慌てた気配が伝わってきたが、愛娘が体調を崩した件は、貞枝からの連絡で知っていたようだ。「気にしないでほしい。今日は、氷花を連れ出してくれて有難う」と伊槻は優しい口調で言ってくれた。

「……」

 イズミは、顔を上げた。

 今――確かに、尻尾を掴んだ。

 視界の端で、克仁が苦笑の顔をしている。肩を竦める所作まで見えたが、判っていて何も言わない辺り、やはり狸だとイズミは思う。克仁はの展開を見越した上で、伊槻を家に上げたのだろうか。あるいは、の展開をしんに望んでいたのは、伊槻だったのではないだろうか。イズミとしては、どちらにしても好都合だ。

「伊槻さん」

「うん?」

「今、氷花と仰いましたね。杏花さんの事を」

「……」

 しん、と沈黙が場に降りる。克仁が肩を微かに揺らせて、忍び笑いを漏らしていた。面白がる第三者に加勢するように、ひぐらしが和室に満ちる。伊槻も何かを観念したような苦笑いで、軽く肩を竦めてきた。

 伊槻は、の話題に食いついている。最初からの心算で、の男は此処ここまで来たのだろうか。さながら愚痴を零すように。あの日の貞枝と同じように。

 黄昏時の空気が甘く香り、沈みかけの太陽光が、居間に霧のように立ち込める。克仁がソファから立ち上がり、電灯を付けに行った。ぱちんと音を立てて、蛍光灯の白い光が瞬く。夕暮れの寂莫感が眩しいあかりで取り払われ、此方こちらを振り返った克仁が、落ち着いた声で言った。

「二人とも、座ったらどうです。お茶を入れ直してきましょう」

 れを聞いた伊槻は、恐縮した様子で「ああ、藤崎ふじさきさん、お構いなく。すぐにおいとましますので……」と言ったが、克仁はさっさと台所へ消えてしまった。そして、居間には不器用な男二人が、取り残される格好となった。

「……」

 伊槻が、ソファに腰を下ろす。イズミも対面に腰かけると、覚悟を決めたような吐息が聞こえて、伊槻は静かに語り始めた。

「僕が入り婿むこだという話は、君も知っているね?」

「はい。存じております」

「君は僕の事を、どれほど家の人から聞いているんだい?」

「実は、あまり。商社にお勤めだとは伺っております。貞枝さんの旦那様であり、杏花さんのお父様です」

「……。貞枝とは、大学生の時に出会ったんだ」

 意味深な間を空けてから、伊槻が最初に告げたのは愛妻の名前だった。最も話したい話題は別にあるのに、敢えて違う話題を選んでいる。本命は後で話す心算つもりなのだ。少しでも長く話す為に、伊槻は会話を延ばしている。

「貞枝は、綺麗だろう? 歳は僕が一つ上で、一目惚れだった。交際を申し込んで、受け入れてもらえた時は吃驚びっくりしたよ。平凡な僕には、熱意を誰よりも懸命に伝えることくらいしか、貞枝にアピールできるところなんて、何もなかったと思うのに。今でもあの頃のことは、夢みたいに幸せだったって思い出せるんだ」

 の話はもしかすると、あの鏡花談義の席で貞枝が言っていた『ロマンス』だろうか。犬も食わない話をひもといているにもかかわらず、伊槻の表情は神妙だ。甘やかな幸福が、年月を経た写真のように色褪せてしまった寂しさを、イズミは声から感じ取った。

「神社の娘さんだって事は判っていたから、貞枝との結婚を認めてもらえたら、僕は神主を継がなくてはいけないんだろうなって、社会人として働きながら考えていたよ。実際に、お義父とうさんからは結婚の条件として、いずれ跡を継ぐように言われていたんだ。……でも、イズミ君。僕は今、神社とは違う職場で働いているね? 辞めなければいけないと思っていた会社で、今もまだ働いている。それが何故か、判るかい?」

「いえ、判りません」

「継がなくていいって、言われたんだ」

 イズミは、息を吸い込んだ。伊槻は、何でもないように微笑んだ。痙攣に似た震えが、一瞬だけ頬に走った。

「何故なんだろうね。僕には判らなかった。僕は貞枝と一緒になる為に、それなりの覚悟を固めた心算つもりだった。お義父さんはどういう心算で、僕にあんなことを言ったんだろうね」

「何か理由があったのではありませんか」

「そう思うかい?」

 硬い声で答えるイズミに、伊槻は尚も笑みを返してくる。大人のあしらい方をされた気がした。子供にはまだ、判らないのだとでもいう風に。

「僕は、別にいいんだ。仕事だって、やりがいや楽しさがあるし、ふいにするより続けたかったから。でも、判らないということが、辛い時もあるんだよ」

 の言葉には、少しどきりとさせられた。真実に続く道のりを、ただひたすらに追及したい。そんな求道者としての魂が、今の伊槻の言葉に共鳴した。伊槻はイズミの動揺など知るよしもなく、「だって、そうだろう?」と続けて、興奮気味に身を乗り出した。

「僕には、お義父さんの御心が判らない。神社の今後はどうするのか、考えを一度聞いてみたいけど、引退を迫っているように聞こえたら困るから、正直すごく出しゃばり辛い。貞枝の事も、ずっと一緒にいるのに……何を考えているのか判らないんだ」

「貞枝さんの事も、ですか」

 イズミは、内心慌てていた。話題が夫婦間のことにまで及ぶとは、思いもよらなかったのだ。秘めた心の内を吐露するにしても、親戚の小僧相手に話すには、流石さすがに一線を越えている。れ以上耳に入れてはならぬと思ったが、克仁が戻って来る気配はない。妙な気を使うよりも、早く帰ってきてほしい。やきもきするイズミをよそに、伊槻は語りに熱がこもったことを恥じるように、膝に視線を落としていた。

「判らないさ。貞枝の事も。娘に風変りな名前を付けた時だって、僕の父母はあまり良い顔をしなかった。将来のことを考えたら、やっぱり名前はもっと普通の方がいいとは思わないかい?」

「そのように、進言はされたのですか?」

「もちろん、したさ。……貞枝に、あしらわれたけどね」

「ああ……」

「……ともかく僕は、氷花という名前には反対だったけれど、それでも付いた名前は仕方がない。慣れたら可愛いと思えるようにもなってきた。……だけど、どうしてなんだろう。僕にはやっぱり判らないんだ」

 顔を上げた伊槻は、心底不思議だと言わんばかりの顔をした。

「どうして、折角つけた名前で娘を呼ばないんだ。貞枝も、お義父さんも、考えている事が僕には判らないし……情けない話、なんだか仲間外れのような気がして、寂しい気も少しするんだ」

「……」

 ういえば、呉野神社を訪れた時、イズミの祖父である國徳くにのりは、確かこう言っていた。判っていないのは伊槻だけだ、と。

 ――〝二人居る〟。

 伊槻は、知らない。呉野の一族の者達が、杏花と呼んで可愛がっている少女の命を、長くないと見做みなした事を。短い命を儚む為に、家族ぐるみで〝アソンデ〟いる事を。

 そもそも、國徳くにのりと貞枝の認識は正しいのだろうか。〝二人居る〟うちの一人が喰われて居なくなるという発言を、杏花が死ぬという予言を、いつか訪れるというの破滅を、少なくともイズミは信じていない。

 イズミは、伊槻の顔を見る。貞枝にあしらわれ、國徳くにのりからも心を開いて貰えず、娘の事も何も知らない――仲間外れの男を見る。ただの親戚に過ぎないイズミでさえ、同情の念を禁じ得ない程に、伊槻は何も知らされていなかった。

 そんな孤独感と隔絶かくぜつ感が、あの日の伊槻の瞳に、イズミを探させたのだろうか。イズミは伊槻という人間が、酷く不憫ふびんに思えてしまった。

「……やっと、吐き出せたよ。家では、氷花をキョウカって呼ぶルールがある、なんて。こんな特殊な状況、同僚にも遊び仲間にも言えないからね」

 伊槻は、肩の荷が下りたような顔をしていた。哀愁を滲ませつつも、晴れ晴れとした表情だった。

「ずっと、お一人で抱えておられたのですね」

「はは、そんな大層なものじゃないと思うけど。君は大人びた喋り方をするんだなあ」

 高校生から労わられたことに狼狽えたのか、伊槻は謙遜するように言ってから、嬉しそうに笑った。今までに見た中で、最も溌溂とした笑みだった。

「大人げないと君は思うかもしれないけど、大人だって、愚痴を言ってないとやっていられない時があるんだ。貞枝は、ああいう態度ばかりだから。誰の言うことも聞かないし、自分がしたいことばかりして、すぐに周りを振り回すし。身近な相手には話せない時もあったから、僕は君が呉野家に遊びに来てくれて、本当に良かったと思っているんだよ。……有難う、イズミ君」

 伊槻は語りを締め括ると、イズミへ手を差し伸べた。

 すっかり驚いたイズミは、伊槻の手の平を見下ろした。

 他者の心が『判る』イズミでも、全てが『判る』わけではない。

 伊槻の寂しさは幻視できても、此方こちらは『判って』いなかった。

 言葉と態度で示されて、初めて『判った』感情だった。

「……はい。僕も、貴方とお会いできて良かったです。また此方こちらにいらして下さい。伊槻さん」

 差し出された手を握り返し、イズミも微笑を返した。今日一日の疲れを、ほんの少しだけ忘れられた気がした。

 すると、和解の瞬間を見計らったかのように、克仁が居間に戻ってきた。立ち聞きをしていたのは間違いない。あまりに間合いが絶妙なので、伊槻も気づいて笑っていた。れ程あからさまな行動を取っても、客人に嫌な顔ひとつされない克仁は、実は凄いのではないかと感心してしまう。屹度きっと、人徳の為せるわざだろう。


     *


 の後、伊槻はすぐに藤崎家を後にした。丁寧に一揖いちゆうした時の顔色はすっきりとしたものに変わっていて、夕方の住宅街を歩く足取りも軽やかだ。

 呉野家に帰れば屹度きっと、妻からは手玉に取られ、義父とは意思疎通を上手く図れず、娘を本名とは違う名で呼ばなければならない日常に戻るのだろう。伊槻にとって藤崎ふじさき家で過ごした時間は、束の間の安息だったのだろうか。苦労人の伊槻に幸あれと、同情を込めてイズミは手を振り、スーツの背中を送り出した。

「克仁さん。泉鏡花の『女客おんなきゃく』と『売色鴨南蛮ばいしょくかもなんばん』は、どんな美しさを描いているのでしょうね」

 イズミはふと思いついて、門の前に立った克仁に訊いた。

「藪から棒に、どうしたんです?」

「伊槻さんのお好きな小説なので、気になりました。俗に言う観念小説ではないのでしょう?」

嗚呼ああ、成程。観念小説ですか。ういえば君は、鏡花作品初期のものを、最近読んでいましたね。解釈は人それぞれですし、泉鏡花いずみきょうか文学を指して観念小説と呼ぶこと自体も、人それぞれだと思います。れを念頭に置いた上で、私の感想をうのなら、の文豪の初期の作品群は、互いの破滅にって成就する純愛を、悲しいほどに救いがなく、戦慄するほどの美しさで、緻密に描き出していると思います。そんな物語を読み込んでから『女客おんなきゃく』と『売色鴨南蛮ばいしょくかもなんばん』という物語に向き合ってみると、の二作の美しさは、初期の作品群とは異なる気がしますね」

「どのように異なるのですか?」

 イズミが訊ねると、克仁は指を顎に当てて考え込んだ。二つの作品世界を思い返しているのだろう。目元が優しく細められていく。

 美しいものを思う時、人は皆こんな顔をするのだろうか。

 ――清らか。う囁いた声を思い出す。御山の緑と泉のほとり、青い空へ溶けた声は、幼く澄んだ少女の声。

うですね。二作品は筋書きがまるで異なるお話ですが、どちらの作品にも清らかな心を持った女性が登場します。個人の感想としては、温かな余韻を得られるのが『女客』で、はっと息を呑むほど冴え冴えとした切なさが輝くのが『売色鴨南蛮』ですね。イズミ君、の二作品が所収された本は、私の本棚にありますよ。興味があるなら読んでみるといいでしょう」

「清らか、ですか」

 イズミは、克仁の台詞から言葉を抜き出して復唱する。今まさに思い描いていた少女の存在を、言い当てられた気分だった。

 杏花との別れ際に、笑顔はついに見られなかった。呉野家の廊下で見た空虚な表情を思い出すと、やりきれなさが胸に迫る。

 そして、やりきれないという言葉だけでは表現できない、得体の知れない感情も。

「……」

 手が、自然と喉へ伸びていく。子供の柔い力によって、絞められかけた首に触れる。杏花は、あの時。何故、イズミを。

「今日の君は、伊槻さんに優しくなりましたね。私が印象を訊いた時は、口数が少なかったではありませんか。あまり良くは思っていなかったのでしょう? どういう心境の変化です?」

「白々しいですよ、克仁さん」

 イズミは首に触れた己の指を、腰の横に降ろした。先程までの感慨は一旦忘れ去ることにして、養父を軽く睨んで見せる。

「僕は、伊槻さんを誤解していただけです。いえ、誤解ではないですね。彼の事を、あまりに知らなかっただけでした。伊槻さんの境遇は、同情に値するものです。一家の大黒柱とは思えぬ冷遇っぷりです。可哀想に」

「イズミ君、言い過ぎですよ。君は、優しいのか非道ひどうなのか判りませんね」

「非道」

 またしても、言葉を復唱してしまう。先程の〝清らか〟に続いて、二つ目の当たりだ。思わず苦笑したイズミは、伊槻を見送る為に出てきた門に背を向けて、のんびりとした歩調で家に戻る。うして居間のソファでくつろぐと、「僕は非道だそうですよ、克仁さん」と言って、同じく居間に戻ってきた克仁を振り返った。

「今日、貞枝さんに非道だと詰られてしまいました。ですが、何をもって僕を非道だと詰ったのか、僕にはぴんと来ませんでした。僕は彼女が相手だと、なぜ会話が上手くいかないのでしょうか」

れは、君。デリカシーの欠如では? 君を好きになった女の子は皆、自分から身を引いていくではありませんか」

「デリカシー。そうかもしれませんね。僕から離れていく女子生徒達の感性は、実に正しいと思います」

「イズミ君、君は自覚があるのですか」

 克仁が、苦々しげな表情になる。かと思いきや、愉快そうに吹き出して、腹を抱えて笑い始めた。

「君、れではモテませんよ。成程、道理ですね。君はそんな調子だから、屹度きっと無意識の内に、貞枝さんに失礼を働いたのでしょう」

「そうでしょうね。ですが、彼女が僕に怒っているのだとしたら、僕もまた彼女に怒っているのかもしれません」

「君が怒る? れはまた、珍しいこともあるものです。良ければ、話を聞きますよ」

 イズミはしばし黙考し、「いえ」と述べて淡く笑った。己の抱えた葛藤は、まだ一人で処理出来る軽さだと思ったのだ。

 ――『和泉君。人の持てる感情には、あらかじめ量が決まっていると思うのよ』

 呉野貞枝の台詞が、呪いのように記憶から浮かび上がってくる。かぶりを振ったイズミは、意識的に笑みを作る。家族団欒の温もりが、冷えた言葉を頭の中から掻き消した。

「大丈夫です。克仁さん。今日の出来事は、いずれ必ずお話しましょう。少し考える時間が欲しいのです。……ああ。ですが、貴方には質問がありました」

 ふと思い出して、イズミは言った。伊槻の登場で失念していたが、克仁には必ず訊きたいことがあったのだ。

「克仁さん。何故、彼女を氷花と呼んだのです」

「何故って、君。國徳くにのりさんにわれたからですよ」

 克仁は、さも当然のように答えた。釈然としないイズミが無言になると、詳しい説明を求める空気を読み取って、克仁が楽しげに笑った。『判らない』相手であっても、家族の思考は筒抜けなのだ。知りたがるイズミを面白がった克仁は、突然にこんなことを言い出した。

「イズミ君。君は、〝言霊〟という言葉を知っていますか」

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