4-25 伊槻
「お帰りなさい、イズミ君」
とはいえ、一応の予想は出来ていた。玄関の
「
イズミが茫然と名を呼ぶと、ソファに腰を沈めていた呉野
社会で戦う大人の姿は、
もし
背筋を伸ばした伊槻は、初対面の人慣れした印象からは程遠い、遠慮と気まずさがない交ぜになった顔をしていた。
「……」
不思議だと思う。あの日は
「……イズミ君」
言いにくそうに、伊槻は言う。中肉中背と思っていたが、立ち上がった姿を見ると、意外と体格は痩せ型だ。杏花がイズミを大きいと言った事を思い出す。背がイズミより
ともあれ、何故か家に居た男、呉野伊槻は――がばと突然勢いよく、頭を下げてきたのだった。
「先日は、すまなかった」
見事としか言いようがない、角度四十五度のお辞儀だった。
「そもそも、なぜ貴方が僕に謝るのですか。僕は貴方から謝られるようなことをされた覚えはありませんよ」
「いや、そんなことはないと思うけど」
イズミが高校生らしからぬ理屈っぽさで応対したからか、伊槻は毒気を抜かれた様子で顔を上げた。
「……いやあ、改めて言うのも妙な話だけど、この間イズミ君が来てくれた時は、僕らは全然話せなかったし……それに多分、君には不愉快な思いをさせたんじゃないかって、実はとても気になっていたんだ」
だから、其の『不愉快な思い』とやらは何なのだ。会話のテンポの微妙な差異は、あの日と同じ倦厭の感情を呼び起こして――
多分だが、心に余裕がないのだろう。ささやかな言葉一つに拘泥して、小さなことまで
イズミは、伊槻に八つ当たりがしたいのか。内面に
「イズミ君。君と初めて出会った席で、僕が君を見ていたのは、何も君の容貌が外国人だから物珍しいとか、そういう差別的な目ではないんだ。申し訳ない。気付いていたんだろう? 僕が君を見ていたのを」
「ああ」
謝罪の気持ちは、
――私がもっと〝清らか〟になれば、お爺様は私と一緒にいても、怒ったみたいな顔をしないで済むでしょうか。お父様も、もっと私と遊んでくれるでしょうか。
――……お父様も、最近は、私と遊んでくれないのです。
「……。伊槻さん。謝らなければならないのは、僕の方でした。今日は大切なお嬢さんをお預かりしておきながら、申し訳ありません」
イズミは、頭を下げた。
一番に言いたい台詞は別にあったが、
頭上からは伊槻が慌てた気配が伝わってきたが、愛娘が体調を崩した件は、貞枝からの連絡で知っていたようだ。「気にしないでほしい。今日は、氷花を連れ出してくれて有難う」と伊槻は優しい口調で言ってくれた。
「……」
イズミは、顔を上げた。
今――確かに、尻尾を掴んだ。
視界の端で、克仁が苦笑の顔をしている。肩を竦める所作まで見えたが、判っていて何も言わない辺り、やはり狸だとイズミは思う。克仁は
「伊槻さん」
「うん?」
「今、氷花と仰いましたね。杏花さんの事を」
「……」
しん、と沈黙が場に降りる。克仁が肩を微かに揺らせて、忍び笑いを漏らしていた。面白がる第三者に加勢するように、
伊槻は、
黄昏時の空気が甘く香り、沈みかけの太陽光が、居間に霧のように立ち込める。克仁がソファから立ち上がり、電灯を付けに行った。ぱちんと音を立てて、蛍光灯の白い光が瞬く。夕暮れの寂莫感が眩しい
「二人とも、座ったらどうです。お茶を入れ直してきましょう」
「……」
伊槻が、ソファに腰を下ろす。イズミも対面に腰かけると、覚悟を決めたような吐息が聞こえて、伊槻は静かに語り始めた。
「僕が入り
「はい。存じております」
「君は僕の事を、どれほど家の人から聞いているんだい?」
「実は、あまり。商社にお勤めだとは伺っております。貞枝さんの旦那様であり、杏花さんのお父様です」
「……。貞枝とは、大学生の時に出会ったんだ」
意味深な間を空けてから、伊槻が最初に告げたのは愛妻の名前だった。最も話したい話題は別にあるのに、敢えて違う話題を選んでいる。本命は後で話す
「貞枝は、綺麗だろう? 歳は僕が一つ上で、一目惚れだった。交際を申し込んで、受け入れてもらえた時は
「神社の娘さんだって事は判っていたから、貞枝との結婚を認めてもらえたら、僕は神主を継がなくてはいけないんだろうなって、社会人として働きながら考えていたよ。実際に、お
「いえ、判りません」
「継がなくていいって、言われたんだ」
イズミは、息を吸い込んだ。伊槻は、何でもないように微笑んだ。痙攣に似た震えが、一瞬だけ頬に走った。
「何故なんだろうね。僕には判らなかった。僕は貞枝と一緒になる為に、それなりの覚悟を固めた
「何か理由があったのではありませんか」
「そう思うかい?」
硬い声で答えるイズミに、伊槻は尚も笑みを返してくる。大人のあしらい方をされた気がした。子供にはまだ、判らないのだとでもいう風に。
「僕は、別にいいんだ。仕事だって、やりがいや楽しさがあるし、ふいにするより続けたかったから。でも、判らないということが、辛い時もあるんだよ」
「僕には、お義父さんの御心が判らない。神社の今後はどうするのか、考えを一度聞いてみたいけど、引退を迫っているように聞こえたら困るから、正直すごく出しゃばり辛い。貞枝の事も、ずっと一緒にいるのに……何を考えているのか判らないんだ」
「貞枝さんの事も、ですか」
イズミは、内心慌てていた。話題が夫婦間のことにまで及ぶとは、思いもよらなかったのだ。秘めた心の内を吐露するにしても、親戚の小僧相手に話すには、
「判らないさ。貞枝の事も。娘に風変りな名前を付けた時だって、僕の父母はあまり良い顔をしなかった。将来のことを考えたら、やっぱり名前はもっと普通の方がいいとは思わないかい?」
「そのように、進言はされたのですか?」
「もちろん、したさ。……貞枝に、あしらわれたけどね」
「ああ……」
「……ともかく僕は、氷花という名前には反対だったけれど、それでも付いた名前は仕方がない。慣れたら可愛いと思えるようにもなってきた。……だけど、どうしてなんだろう。僕にはやっぱり判らないんだ」
顔を上げた伊槻は、心底不思議だと言わんばかりの顔をした。
「どうして、折角つけた名前で娘を呼ばないんだ。貞枝も、お義父さんも、考えている事が僕には判らないし……情けない話、なんだか仲間外れのような気がして、寂しい気も少しするんだ」
「……」
――〝二人居る〟。
伊槻は、知らない。呉野の一族の者達が、杏花と呼んで可愛がっている少女の命を、長くないと
そもそも、
イズミは、伊槻の顔を見る。貞枝にあしらわれ、
そんな孤独感と
「……やっと、吐き出せたよ。家では、氷花をキョウカって呼ぶルールがある、なんて。こんな特殊な状況、同僚にも遊び仲間にも言えないからね」
伊槻は、肩の荷が下りたような顔をしていた。哀愁を滲ませつつも、晴れ晴れとした表情だった。
「ずっと、お一人で抱えておられたのですね」
「はは、そんな大層なものじゃないと思うけど。君は大人びた喋り方をするんだなあ」
高校生から労わられたことに狼狽えたのか、伊槻は謙遜するように言ってから、嬉しそうに笑った。今までに見た中で、最も溌溂とした笑みだった。
「大人げないと君は思うかもしれないけど、大人だって、愚痴を言ってないとやっていられない時があるんだ。貞枝は、ああいう態度ばかりだから。誰の言うことも聞かないし、自分がしたいことばかりして、すぐに周りを振り回すし。身近な相手には話せない時もあったから、僕は君が呉野家に遊びに来てくれて、本当に良かったと思っているんだよ。……有難う、イズミ君」
伊槻は語りを締め括ると、イズミへ手を差し伸べた。
すっかり驚いたイズミは、伊槻の手の平を見下ろした。
他者の心が『判る』イズミでも、全てが『判る』わけではない。
伊槻の寂しさは幻視できても、
言葉と態度で示されて、初めて『判った』感情だった。
「……はい。僕も、貴方とお会いできて良かったです。また
差し出された手を握り返し、イズミも微笑を返した。今日一日の疲れを、ほんの少しだけ忘れられた気がした。
すると、和解の瞬間を見計らったかのように、克仁が居間に戻ってきた。立ち聞きをしていたのは間違いない。あまりに間合いが絶妙なので、伊槻も気づいて笑っていた。
*
呉野家に帰れば
「克仁さん。泉鏡花の『
イズミはふと思いついて、門の前に立った克仁に訊いた。
「藪から棒に、どうしたんです?」
「伊槻さんのお好きな小説なので、気になりました。俗に言う観念小説ではないのでしょう?」
「
「どのように異なるのですか?」
イズミが訊ねると、克仁は指を顎に当てて考え込んだ。二つの作品世界を思い返しているのだろう。目元が優しく細められていく。
美しいものを思う時、人は皆こんな顔をするのだろうか。
――清らか。
「
「清らか、ですか」
イズミは、克仁の台詞から言葉を抜き出して復唱する。今まさに思い描いていた少女の存在を、言い当てられた気分だった。
杏花との別れ際に、笑顔はついに見られなかった。呉野家の廊下で見た空虚な表情を思い出すと、やりきれなさが胸に迫る。
そして、やりきれないという言葉だけでは表現できない、得体の知れない感情も。
「……」
手が、自然と喉へ伸びていく。子供の柔い力によって、絞められかけた首に触れる。杏花は、あの時。何故、イズミを。
「今日の君は、伊槻さんに優しくなりましたね。私が印象を訊いた時は、口数が少なかったではありませんか。あまり良くは思っていなかったのでしょう? どういう心境の変化です?」
「白々しいですよ、克仁さん」
イズミは首に触れた己の指を、腰の横に降ろした。先程までの感慨は一旦忘れ去ることにして、養父を軽く睨んで見せる。
「僕は、伊槻さんを誤解していただけです。いえ、誤解ではないですね。彼の事を、あまりに知らなかっただけでした。伊槻さんの境遇は、同情に値するものです。一家の大黒柱とは思えぬ冷遇っぷりです。可哀想に」
「イズミ君、言い過ぎですよ。君は、優しいのか
「非道」
またしても、言葉を復唱してしまう。先程の〝清らか〟に続いて、二つ目の当たりだ。思わず苦笑したイズミは、伊槻を見送る為に出てきた門に背を向けて、のんびりとした歩調で家に戻る。
「今日、貞枝さんに非道だと詰られてしまいました。ですが、何を
「
「デリカシー。そうかもしれませんね。僕から離れていく女子生徒達の感性は、実に正しいと思います」
「イズミ君、君は自覚があるのですか」
克仁が、苦々しげな表情になる。かと思いきや、愉快そうに吹き出して、腹を抱えて笑い始めた。
「君、
「そうでしょうね。ですが、彼女が僕に怒っているのだとしたら、僕もまた彼女に怒っているのかもしれません」
「君が怒る?
イズミは
――『和泉君。人の持てる感情には、
呉野貞枝の台詞が、呪いのように記憶から浮かび上がってくる。
「大丈夫です。克仁さん。今日の出来事は、いずれ必ずお話しましょう。少し考える時間が欲しいのです。……ああ。ですが、貴方には質問がありました」
ふと思い出して、イズミは言った。伊槻の登場で失念していたが、克仁には必ず訊きたいことがあったのだ。
「克仁さん。何故、彼女を氷花と呼んだのです」
「何故って、君。
克仁は、さも当然のように答えた。釈然としないイズミが無言になると、詳しい説明を求める空気を読み取って、克仁が楽しげに笑った。『判らない』相手であっても、家族の思考は筒抜けなのだ。知りたがるイズミを面白がった克仁は、突然にこんなことを言い出した。
「イズミ君。君は、〝言霊〟という言葉を知っていますか」
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