4-23 天麩羅蕎麦
道場兼自宅を出ると、肌を突き刺すような夏の日差しで眩暈がした。
夏は好きだが、暑さは苦手だ。実に
「お兄様、お
よって、前方を指さした杏花が元気に叫んで、アスファルトを駆けていった時、暑さに参ったイズミは店を見つけられてほっとした。
呉野神社がある御山の近く、灰色の住宅街が拡がる区域は、最寄りの
空いたテーブル席へ杏花を座らせたイズミは、隣の椅子に杏花のポシェットと帽子を載せて、自らは対面の席に腰を下ろし、
「杏花さんは、何を召し上がりますか? お子様ランチもありますよ」
イズミが子供向けメニューの
「私は、もう決めているのです。
「貴女には量が多いと思いますよ。エビフライなら、お子様ランチにもついています」
「それは、
杏花としては、蕎麦のつゆに漬かる
「お兄様は、何を食べるのですか?」
「僕は天丼にします。こちらにも天麩羅が乗っていますよ。……ああ、すみません。天丼単品一つ、天麩羅蕎麦も単品で一つ、お願いします」
隣を横切った店員に注文すると、杏花は満足げに頬を緩めた。「天麩羅、天麩羅」と楽しそうに歌い始めている。あれだけぷりぷりと怒っていたのに、ころりと感情が変わっていた。余程楽しみにしていたと見える。
「なぜ貴女は、
「食べたかったからです!」
杏花は、華やいだ声で答えた。目がきらきらと輝いている。
「おはなし会には、お爺様とも行ったことがあります。その日の帰りに、お爺様が食べていたのが、天麩羅です! ……ですが、私はお子様ランチでした。量が多いから駄目と言われたのです」
「そうですか。リベンジですね」
「りべんじ?」
「ああ、すみません。今日こそは、天麩羅を食べられますね」
「はい!」
にこにこと笑った杏花が、再び「天麩羅、天麩羅」と小声で歌い始める。近くのカウンター席で新聞を読んでいた白髪の男が、ちらと
今さらながら、青年と幼女という奇妙な取り合わせに、イズミは不思議な心持ちになる。幸せそうに歌う杏花の声に反応したのはカウンター席の男だけで、他の者は食事か、家族との会話に忙しいようだ。
子を持つ親は、様々な視線の中で生きている。今の視線は微笑ましげなものだったが、
「杏花さんは、おはなし会よりもご飯の方が楽しみだったようですね。おはなし会では、何か気になるお話はありましたか?」
「どれも楽しかったです。でも、大きな本が一番楽しかったです!」
「ああ。そうですね。あれは凄かったです。大人二人がかりで読むような本があるとは、僕も初めて知りました」
「お兄様でも、知らないことがあるのですね」
「もちろんですよ。先ほど克仁さんがお話された『
「鬼の角」
杏花が呟き、沈黙する。ふわりと穏やかな笑みを乗せた顔は、天使のようにあどけなかった。
「お兄様。あのお話は、まるでお兄様のお話のようですね」
「どういう意味ですか?」
「だって、お兄様は優しいからです」
対面に座った杏花が、身を乗り出す。そして精一杯イズミに顔を寄せてくると、両手で頬に触れてきた。
キスされた事を、思い出す。警戒したイズミは身体を固くしたが、杏花はイズミの戒めを覚えていたのか、単に
「藤崎さんから、あのお話を聞けて良かったです。お父様が『
「そんなに気に入ったのですか?」
「はい。気に入りました」
イズミは、静かな驚きを感じていた。
――『
物語の登場人物が、善の心の持ち主だからだ。
イズミは、己が善人だとは思わない。だが、少なくとも悪人ではないだろう。杏花に優しく接していることも、自覚として意識している。
イズミは、杏花の瞳を見る。微かに潤んだ眼差しに、言葉を催促された気がした。
ねだられるまま、求められるまま、誘われるように――美しい鬼の物語を、イズミは語り始めていた。
「……『鬼の
「はい」
杏花が、頷く。双眸が、細くなった。まだ、続きをねだっている。まるで女のようだった。六歳の少女とは思えぬ
「御隠居は、鬼が落とした
「はい」
杏花が、頷く。まだ求めている。欲している。続きを聞きたいとねだっている。イズミは、
だから、杏花は、イズミを、兄と慕うのか。
「やがて鬼は、己の
「お兄様の話し方は、まるで夢のようですね」
「夢、ですか」
「はい。何だかふわふわしています」
「判りにくかったですか?」
「いいえ。好きです」
杏花が、言った。はっきりとした、意思が通った声だった。
「お兄様。今のお話を、私は〝清らか〟だと思いました」
「清らか」
――また、だった。イズミは、瞠目する。
子供の記憶は、移ろいやすい。幾ら文字が読めようと、大人びた話し方をしていようと、所詮は六歳の幼い少女。めくるめく日常の流れの中で、他愛ない会話の記憶は次々と塗り替えられていくだろう。出逢いの日の思い出は、頭の片隅から薄れていると、イズミは疑っていなかった。
だが、違った。杏花は全てを覚えていて、今も〝清らか〟に拘っている。
「杏花さんは、〝清らか〟という言葉が使えるようになったのですね」
「はい。綺麗な言葉は好きです。お兄様、もっと私に〝清らか〟を教えて下さいな。私は〝清らか〟をたくさん知りたいのです」
「何故、焦るのです」
「だって」
明るい笑顔に、陰りが差す。眉尻を下げた顔は、やはり少女の顔ではなく、艶美な女の顔に見えた。
「私は、お爺様に、あまり良く思われていませんから」
「……何故、そう思うのです」
「遊んでくれないからです」
杏花は、イズミの頬から手を離した。温もりが、離れていく。
「お爺様は、私とあまり遊んでくれません。多分、私がいけない子だからです。良い子でなければ、お爺様はご本にも触らせてくれません。……お兄様。お兄様のご本では、魂が〝清らか〟な女の人が出てきます。お兄様は私のことを〝清らか〟だと言ってくれました。その女の人のように、私も〝清らか〟ですか?」
「ええ。清らかです」
「では、あとどれくらい〝清らか〟になれば、お爺様は私と遊んでくれますか?」
「……」
「私には、わからないのです。お母様も、お父様も、お爺様とおんなじように、美しいものが大好きです。私がもっと〝清らか〟になれば、お爺様は私と一緒にいても、怒ったみたいな顔をしないで済むでしょうか。お父様も、もっと私と遊んでくれるでしょうか。……お父様も、最近は、私と遊んでくれないのです」
「……杏花さん。一つ質問があります」
イズミは、感情を殺した声で訊いた。
もう限界だったのだ。判らないことが、辛いのではない。杏花の声が、辛かった。こんな台詞を聞かされて尚、何の感情も動かぬほどに、心が枯れた
――可哀想だと、思ってしまった。
「貴女が、
「ああ」
杏花が、笑った。何かを、観念したように。
「氷花と、言ったことですか」
「……はい」
「お兄様、私には名前が二つあるのです。おうちに居る時は〝杏花〟。お外に居る時は〝氷花〟。使い分けるように言われています」
「何故、ですか」
「わかりません」
笑い声が、楽しげに弾んだ。悲しみの気配が羽のように軽くなり、イズミはただ驚いていた。何が杏花を救ったのか、理由が判らなかったのだ。
「私がこうしていたら、皆が笑ってくれます。お爺様もです。お母様も、楽しそうに笑ってくれます。……お父様は、少しだけつまらなそうです。でも、皆で楽しく遊ぶのが、私はとても好きなのです」
「……」
「お爺様は、本当は。もっと、とても優しい人です。おはなし会にも、連れて行ってくれました。
「……」
「お父様も、本当は。もっと、とても優しい人です。今も優しいお父様ですが、前の方がずっと優しいお父様でした。今は、少し寂しいです。お父様の〝清らか〟を、私は見つけなければいけないと思います」
「……」
「お母様は、一緒にいて一番楽しいです。幼稚園の友達といる時も楽しいですが、お母様の方がいいのです。お母様も、笑ってくれます。遊んでくれます。私と、一緒にいてくれます。……でも、私。お兄様が、一番好きです」
「……何故、ですか」
「それは」
杏花が、何かを言いかけた。
まさに
すると、横合いからくすりと笑い声が聞こえてきた。
イズミが横目に様子を窺うと、カウンター席に座った年配の男と目が合った。杏花が歌っていた時に、微笑ましげに見守っていた人物だ。イズミが会釈すると、男もにこりと微笑んだ。
「君、以前に神社の石段で、ゴミを拾いながら下りていた子でしょう」
「僕を知っているのですか」
「ええ。覚えていますよ。感心しましたから」
父と二人で神社から帰った時のことだろう。何しろイズミの容貌は奇抜なので、こういった声掛けには慣れていた。
だが、男が杏花に目を向けて、「そちらの子は、神社の神主さんのお孫さんでしょう」と言った時には、不意打ちだったので驚いた。
「杏花さんの事も、知っているのですか?」
「はい。よく境内に散歩に行くもので。あそこの神主さんや若い奥さんとも顔見知りで、お嬢さんと一緒に歩いているところも、たまに見かけるんですよ」
男が朗らかに笑うと、雰囲気が克仁と似通った。子供を愛する大人の
杏花は瞳を煌めかせて
小動物のような仕草を見て、男が
「お嬢ちゃん、こんにちは。お名前、自分で言えるようになったかな?」
「はい!」
杏花が、元気いっぱいに返事をする。目の前に念願の天麩羅があるからだろうか、声には明るい張りがあった。会話相手が笑ってくれたことも嬉しいのか、満面の笑みで割り箸を握り締めた杏花は、唇を開いた。
――〝内〟は杏花。〝外〟は氷花。
杏花は当然、後者の名を名乗るだろう。イズミは特に気負うことなく、杏花の言葉に耳を傾けていた。
だが――失念、していた。
杏花が、まだ六歳の少女であることを。
十八歳のイズミでさえ、己の全ての行動に責任を持ち、間違いを犯さず生きていくなど不可能だ。生きている限り、失敗と不手際は己の影のように付き纏う。器用さで
よって、
「呉野、杏花です!」
名乗り終えた直後から、無邪気な笑みが、凍りついた。
杏花の手から、割り箸が落ちる。テーブルを叩く乾いた音が、異様に大きく響き渡った。空っぽになった小さな手が、ぱっと口元を押さえる。指先が、蝋のように白い。
「……。僕の、妹です。僕は、呉野和泉と申します」
イズミは、やむなく
「妹……ですか。君が……兄?」
「はい。僕はクオーターですから。日本人の血も混じっています。兄ですよ」
イズミは、真実と虚構を織り交ぜる。少し早口になっていた。自分でもなぜ焦っているのか判らない。ただ、杏花から目を背けてほしかった。幼さ
――『凍れば、永遠。故に、供花は、氷花になる』
次に思い出した台詞は、呉野貞枝の言葉だった。凛と唄うような予言の声が、胸騒ぎを掻き立てた。
――『杏花は、氷花に喰われてしまう。
カウンター席の男は、不思議そうにイズミと杏花を見比べてから、
「ええ。有難う御座います」とイズミも当たり障りなく答えてから、杏花に視線を戻して――息を呑んで、立ち上がった。
「杏花さん、どうしましたか」
杏花は、俯いていた。蕎麦の
イズミは、急いで駆け寄った。カウンター席の男も顔色を変えて、「大丈夫ですか」と張り詰めた声を掛けてくる。返事をする余裕はなかった。「杏花さん」とイズミは杏花の名だけを呼んだ。
「おにいさま、気分が、悪い、です」
「無理をしないで下さい、杏花さん。どこが苦しいですか?」
杏花の身体から、力が抜けた。手を伸ばしたイズミは、幼い身体を引き寄せる。手の甲が
細い肩は、熱かった。夏の熱気を吸ったような体温に触れて
「杏花さん、もう少しの間、辛抱して下さい」
「おにいさま」
――思えば、
呉野杏花と過ごした夏の、最も〝清らか〟な時間であり、
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