4-22 おはなし会
パン、パン、と打ち鳴らされる手拍子に合わせて、スピーカーから
「お兄様、一緒に座って下さいな」
傍らから聞こえた小声に、イズミは「僕はここで」とやんわり返した。
「杏花さんは、前の方の席で見てきて下さい。僕がついて行くと、後ろの席に座る方が見え
「じゃあ、私もここにいます」
「それでは、貴女が見えないでしょう」
しゃがんだイズミは、杏花と目を合わせる。白いブラウスに藤色のスカートを合わせた服装は、
見慣れたはずの稽古場は、今では見違えるほど華やかだ。折り紙の輪っか飾りに、星や花の形をした色画用紙の切り抜きが、日常の空間を別世界に仕立て上げている。フローリングには巨大なマットが敷かれていて、赤ん坊が保護者に付き添われて遊んでいた。マットの後ろにはパイプ椅子も並んでいて、幼稚園児や小学生の子供達が座っている。
まだ空席は幾らかあるが、来場者は絵本の読み聞かせが始まってからも増えるだろう。
「杏花さん。僕は
「わかりました、お兄様。……行ってきます!」
頬を桃色に上気させた杏花が、早足でパイプ椅子に向かっていく。元気な従妹の姿を見送りながら、イズミは即席の舞台へ目を向けた。
大きな絵本や紙芝居が用意された舞台の隅で、
*
来場者数は、大人と子供を合わせて五十以上は居たと思う。開始の時点では半数だったが、時間が経つにつれて客足は増していき、スタッフが椅子を補充するほどの賑わいだった。
換気の為に窓を開ければ、外に漏れた歓声と拍手が、通りすがりの客も呼んだ。おはなし会自体はイズミも何度か目にしていたので珍しくはなかったが、人形劇は初めて見たので、なかなか興味深かった。
全ての演目が終了すると、片付けが始まった稽古場は、祭りの後のような
と思いきや、室内にはまだ一組の家族が残っていた。
「おとうさん」
声にイズミが振り向くと、杏花くらいの歳の少年が、母親と思しき若い女性の手を引いて、稽古場を出ようとするところだった。
少年の頬は子供らしく艶々していて、
「おとうさん。おかあさん、顔、赤い」
少年の指摘通り、女性の頬には薄い赤みが差していた。熱でもあるのだろうかと訝ったが、女性の抱えた痛みが灼熱の日差しのように赤く伝わり、イズミは悟る。人形劇の上演中に、窓を開けて換気をするまで、
イズミは母子に近寄ろうとしたが、少年の傍にいた体格のいい男性が、はっとした様子で女性に寄り添ったのが見えたので、足を止めた。
「
「大丈夫よ、シュンちゃん。
遥奈と呼ばれた女性は、困ったように手を振った。
「帰ろう、遥奈」
「可哀そうよ、シュンちゃん。柊吾、ご飯を楽しみにしていたもの。行きましょうよ。大丈夫だから」
「いい。帰ろう、おかあさん」
少年が、首を横に振る。真面目な口調で「帰ろう」と繰り返し、母の細い手を引いて大股に歩いた。よろけた母親を、父親が抱き留めて支えている。
「柊吾もそう言ってるし、今日は帰ろう。ご飯は僕が作るから。遥奈、何が食べたい?
「シュンちゃんも、柊吾も。私の事を、お姫様にしてくれるのね」
「ああ。遥奈は僕のお姫様だから」
「おかあさんが、元気な方がいい」
「柊吾は、王子様みたいね」
優しい父子の顔を交互に見つめた女性は、夏の風が風鈴を揺らすような涼やかさで微笑んだ。少年の頬が、ぴくりと動く。
思わず見惚れるほどに、美しく透明な涙だった。嗚咽を漏らさない少年は、泣いたことが余程
――清らか。
「……ごめんなさい、柊吾。私の所為ね」
女性が、すとんと屈む。ワンピースの胸元へ少年の顔を引き寄せると、毛布で
「……帰ろう、遥奈、柊吾。家に着いたら、三人でご飯にしよう」
「うん」
ともあれ、美しいものを目にした時、
「らぶらぶです」
杏花が興味深そうな目で、家族の背中を見つめている。「そうですね」とイズミが相槌を打った時、
誰なのかは、見当が付いていた。幾ら『判らない』相手であろうと、家族の気配は覚えている。
振り返ると案の定、
「克仁さん、お疲れ様です」
微笑んだイズミは、克仁を労った。最近は、こんな言葉ばかりを大人に掛けている。克仁も気づいたのか、小さく吹き出した。藤崎家の
「全く、君は大人を労ってばかりですね。目上の者への気配りを欠かさない君自身は、誰に労ってもらう
「それは克仁さん、貴方ですよ。僕を労うのは簡単です。父と国際電話で話した夜から、僕は夜食のラーメンを待ち続けているのですから」
「おや、そうでしたか。今日の昼なら
今日の昼は、先約がある。克仁も
「克仁さん、今日の僕の昼食は、
「昼は麺類、夜も麺類ですか。君一人ならば
「
やいやいと大人げない言い合いをしていると、ズボンの裾が軽く引かれた。
イズミが見下ろすと、
「……。杏花さんっ?」
隣に居たはずなのに、なぜ背後から現れたのか。驚いたイズミは
「杏花さん、
「さっきの、らぶらぶの家族を見たかったのです。少し、後ろにくっついてきました」
杏花は悪びれずに胸を張り、小さな衝撃を受けたイズミは沈黙した。
六歳児だから可愛いものの、もう少し歳が上であれば野次馬か、酷ければストーカー扱いされても文句は言えまい。どう諌めるべきか判断に困り、結局イズミは曖昧に微笑むと、杏花の髪をさらりと撫でた。
「一人で
「お兄様は、心配性です。お父様と、少し似ています。血のつながりは、ないのに。不思議ですね」
杏花はくすくすと笑ったが、イズミは血の繋がりという言葉に驚かされて、再び言葉に詰まってしまった。
――杏花は、以前の会話を覚えているのだ。
一週間も前の話で、しかも複雑怪奇に入り組んだ、呉野家の話を。年齢にそぐわない台詞を聞いて放心したイズミをよそに、杏花は身体をくるんと克仁に向けると、スカートの裾をちょこんと摘まんでお辞儀をした。
「藤崎さん、こんにちは! 呉野氷花と申します!」
「こんにちは、氷花さん。貴女の事は、イズミ君から聞いていますよ。おはなし会は楽しめましたか?」
「はい! 楽しかったです!」
「ちょっと、待って下さい」
イズミは、談笑を始めた二人の間に割り込んだ。
最初は、違和感を持たなかった。むしろ杏花との出逢いの時こそが、強い違和感に呑まれていたと言えるほどだ。
だが、
説明を求めて克仁を見ると、含み笑いが返ってきた。裏のある大人の笑みから、イズミは瞬時に悟っていた。
――克仁は
だから、少女を氷花と呼んだのだ。
「お兄様、どうしました?」
杏花が、小首を傾げている。イズミは聡い少女に
克仁の笑みを見る限り、杏花が名乗る名を使い分けているのは、ただの偶然ではなさそうだ。すぐにでも問い質したいが、今訊ねても無駄だろう。
沈黙したイズミを、克仁は感心した様子で見つめていた。イズミが追及を諦めた事が意外なのか、堪えた事を褒めているのか。恐らくは両方だろう。やはり問い質したくなった所為で、演技の笑みは苦い笑みへと崩れたが、克仁には自宅で話してもらおうと心に決めて、イズミは杏花を振り返る。
そもそも
「杏花さん、克仁さんは図書館の方々と一緒に、時々こうして物語を読むのです。彼なら本に詳しいですよ」
「
「ええ」
イズミが頷くと、克仁は目尻に皺を刻んで微笑んだ。「ええ、知っていますよ。何でも聞いて下さい」と頼もしく請け負った声は生き生きしていて、少林寺拳法の道場で門弟たちに怪談を
「藤崎さん、私が読めるようなお話は、何かありませんか?」
杏花が、克仁に近づいた。靴下がフローリングに擦れる音が、小学校の多目的ホールの縮小版のような部屋に響く。窓から降り注ぐ斜光の中で、克仁はほんの少しだけ残念そうに眉を下げた。
「はい。ありますよ。ただ、残念ながら、図書館の本は貸出中でした」
「そうですか……」
杏花が、しゅんと肩を落とす。すると、克仁はすかさず言った。
「ですが、
「聞きたいです! 教えて下さいませ!」
日差しを受けた花のように、杏花の表情が明るくなった。元気な返事を聞いたイズミは、少しばかり不思議に思った。
「藤崎さんは、お話がとってもお上手なのです。だから、さっきのおはなし会で聞いたものとは違うお話も、私は聞いてみたいのです。藤崎さんに、話してもらいたいのです!」
「おやおや」
破顔した克仁が、杏花の前に膝をついた。女王に忠誠を誓う騎士のように、恭しい仕草だった。
「
「鬼の角?」
イズミは、訊き返す。初めて聞くタイトルだった。少なくとも、先日の鏡花談議で挙がったタイトル群の中には無い。首を捻るイズミを見上げた克仁が、にんまりとガキ大将のように笑った。
「君も知らないのでしょう、イズミ君。君の要求に応え、かつ君が退屈しない物語を用意してきたのです。私はなかなか仕事が早いと思いませんか?」
「はい。流石です。僕の父が役目を丸投げして、使命を託しただけのことはあります。克仁さんは頼りになるお方です」
「
呆れた様子の克仁に肩を竦めて見せてから、イズミは杏花を見下ろした。
杏花は、克仁の目をじっと見つめて、物語の始まりを待っている。
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