4-21 同胞
「
玄関先で貞枝に見送られたイズミは、頭を下げる。
長い一日だった。肩と頭に
待っていてくれたのだ。
「お父さん」
父は足元に集まっていた
「イズミ。お疲れ様」
「その言葉は、僕への仕返しの
イズミは父に視線を戻すと、軽く肩を竦めて見せた。
「疲れました。僕は添え物のはずでしたのに、貴方に騙された所為ですよ。異国の地で頑張る一人息子に、どうしてもっと優しく接して下さらないのです」
「イズミは手厳しいなあ。だからこうして待っていたじゃないか」
イズミが責めたからか、父が弱り果てた様子で狼狽える。些細な冗談一つにも慌てふためく父の優しさが、今のイズミには嬉しかった。
「イズミ、杏花さんはどうした? 随分懐かれていたそうじゃないか。きっと見送りについて来るんじゃないかと思っていたよ」
「杏花さんなら、眠ってしまいましたよ。遊び疲れたのです。僕を送り出したのは、貞枝さんお一人です。
「貞枝は、相変わらずだったなあ」
父が、穏やかな目で吐息をつく。妹を持つ兄の目だ。父がこんな顔を見せた事が、単純に驚きだった。視線に気づいた父が、イズミを見下ろして微笑んだ。今度は父親の顔だった。
「イズミは、思わなかったかい? 少し取っつき
「思いましたよ。僕が
「素直だな、イズミは」
呆れの顔で笑った父は、ふと表情を改めると、穏やかな声音のまま訊いてきた。
「なあ、イズミ。何故あの子は杏花さんなのか、聞いたかい?」
「ええ。聞きましたよ。ですが、意味は理解できませんでした」
「聞いたのか」
父が、目を瞠る。イズミも、驚いて瞠目した。
鳥居をくぐり、石段をいざ下りんとするところで、異国の風貌を持つ二人の男は立ち止まる。夕暮れの光に照らされて、白い
「お父さんは、聞いていないのですか?」
躊躇いを覚えたが、はっきりと訊いた。明らかにさせたかったからだ。
父は不甲斐なさそうに淡く笑うと、首をゆるゆると横に振る。色素の薄い茶髪が、夕刻の風に舞い上がった。沈みゆく太陽が残した朱色の
「ああ。僕は聞いていない。教えてくれたらいいのにと待ってみたけど、待ったからって話してくれるようなお人でもないから、仕方がないさ」
「……」
「イズミ。僕の父と、君がどんな話をしていたのか、僕は正直なところ、とても気になっているけれど……君だけに話したのは、何か意味があってのことだと思う。僕に気を使うことはないから、君は御爺様とこれからも仲良くしてあげてくれないか」
「どういう意味で、言っているのですか」
つい、きつい言い方になった。父は、目を丸くしている。驚かせてしまったと判っていたが、イズミの耳からは
――いずれ、貴様から父と呼ばれる。
國徳は一体どういう
理由を訊ねたが、黙られた。返答をせがむと、時間が遅いから帰れと追い出された。結果として杏花の事もあれ以上は訊けずじまいで、イズミには謎だけが残された。判らないことは、判るようにしたかった。手に取りやすい情報で、理解に足るだけの感情で、
今後、イズミが國徳を、父と呼ぶのなら――目の前の、
「……お父さん。不吉な言葉を聞いたのです。僕は、貴方の事が心配になりました」
「どうしたんだ、イズミ。何を不安に思うことがあるんだ」
父は、心底
「お父さん。貴方はあまり呉野神社に近寄らない方が良いと思います。國徳御爺様のお告げは、意味深でした。ロシアに一時帰国するまでの間は、距離を置かれた方が安全です。貴方が日本に引っ越してきた後も同様です。近寄らないよう、お願いします」
「……イズミ。それは、御爺様に言われたことではなく、自分で考えたことなのかい?」
「もちろんです」
「やっぱり、君と御爺様は似ているね」
意表を
「僕がどうして先に帰ろうとしたか、判るかい? 御爺様に言われたからなんだ。
「お父さんは、追い返されたのですか? 御爺様に? ……何故ですか」
「さあ。父の考えは僕にもよく判らないよ。……ただ」
イズミの頭から手を離した父が、今度は己の頭髪を額から掬い上げるように掻きあげた。困ったように笑う声が、黄昏時の空に吸い込まれる。
「これもきっと、何か意味があってのことなんだろうと思う。僕はそう信じているよ。貞枝に言わせれば、ロマンチストの人なんだ。実は僕も、こっそりそう思ってる」
「怒られますよ、お父さん」
「まあ、いいじゃないか」
「何を理由に、そんな御爺様と僕が似ているというのです。僕はロマンチストではありません」
「ああ、イズミはそこに
「納得できません」
「そういう理屈っぽい堅物さが、御爺様と似ているね。僕はそう思うよ」
悔しかったが、
「そういえば、イズミ。僕に質問って何だい?」
イズミを追って、父も石段を下りてきた。「ああ」とイズミは間の抜けた声で応じる。今日は様々な出来事があったので、すっかり忘れてしまっていた。
「お父さんは……國徳御爺様と、克仁さんと、杏花さんと、僕。この四名に対して、何らかの共通点を見出せますか?」
「ん?」
父は、目を瞬いていた。当然の反応だろう。名前だけを列挙して共通点を見つけろでは、あまりにも抽象的過ぎる。だが、配慮不足は承知の上で、今のイズミにはこういう訊き方しか出来なかった。
――國徳は、父に多くを語らなかった。
「イズミが何を訊きたいのか、僕には判らないけれど……そうだな。雰囲気だと、僕は思う」
「雰囲気、ですか」
「ああ。御爺様と君だけなら、さっき挙げたような共通点で通るけど、そこに克仁さんや杏花さんまで入ってきては、四人の共通点とは言えないからね。そうなると、何となく雰囲気だと思ったよ」
「それは、何故です?」
「君はまるで先生のように、僕の心を訊くんだなあ」
ゆったりとした笑い声に、
夏の夕べはやがて終わり、もうじき短い夜が来る。
「似ていると言っても、何を
「その四名の何が似ているか、どうしても判りませんか」
「それが判れば、苦労はしないさ」
「そういえば、イズミが言った四人以外にも、僕は今までに誰かに対して、似たような感じ方をしたことがあった気がするよ。だけど、それは多分、僕等がどこかで似ているというよりも、単純に相手に心惹かれているからだと思うんだ」
「? どういうことですか」
「仲良くしたいということさ。僕が、その相手と」
「仰っている意味がよく判りません。お父さんは、自分と似ていると感じた相手と、仲良くなりたいと思っているのですか?」
「そういう訊かれ方をすると、何だか妙な感じはするけど……そうだな。そうだと思うよ、イズミ」
融通の利かない息子の思考回路に呆れたのか、父が苦笑しながら、
「相手への興味は、仲良くなりたいという好意。僕は多分、その人と話がしたいだけなんだ。だから、君と、克仁さんと、父上と、杏花さんと、もっとたくさんの話がしたいと思っている。それが、僕が君達に持つ共通点じゃないかな」
「……そうですか。判りました」
イズミは、深く頷いた。
今の話を聞いて、
――やはり、父には自覚がない。正確には、〝知覚〟はしているが〝自覚〟が出来ていないのだ。
父は、人よりも感情の機微に敏感だろう。心が優し過ぎるのだ。
ともすればそんな優しさが、父の〝自覚〟を妨げているのかもしれない。
そして、子供という言葉から、今日いっしょに遊んだ少女を連想したイズミは、國徳の台詞を思い出して、唇を結んだ。
――『和泉。貴様は、私が『判らん』と
厳しい追及の眼差しを受けた時に、イズミは観念していたのだ。
――『孫の事が『判らん』私でも、判るのは――〝二人居る〟という事実だけだ。
あまりにも幼い〝同胞〟は、
「お父さん。泉鏡花という文豪は御存知ですよね」
「知っているも何も、君の名前の由来である、偉大な作家のお名前だ。忘れるわけがないじゃないか」
「お父さんは、作品を読まれていますか? 読まれているのであれば、もう一つ、別の質問があるのですが」
「何だい? こういう質問は
「泉鏡花作品に、児童向けの小説はありませんか?」
「児童向け?」
「はい。杏花さんに紹介できる本がないのです。お勧めの小説を教えてほしいとせがまれましたが、僕はあのお嬢さんに紹介できるような読書をしてきませんでした。あの年齢の少女には、どんな本をお勧めすれば良いのでしょうか。御高説を賜りたく存じます」
「杏花さんが……あの子、字が読めるからなあ。大したお嬢さんだと感心するよ」
「なまじ大したお嬢さんなだけに、困ってしまうのですよ。あまり刺激的ではないものを一つ、お願いします」
「それじゃあ僕のお勧めになってしまうよ。杏花さんは君のお勧めが知りたいのではないのかい?」
「それは、この際仕方ありません。貴方のお勧めを僕のお勧めに
あけすけに言うイズミに、「とんでもない兄さんだなあ」と父が言い返して苦笑する。そしてひとしきり笑った後で、ふと何かを思いついたような顔になり、立ち止まった。
「? お父さん?」
「……イズミ」
父は、茶目っ気たっぷりの笑みを向けてきた。
「いい考えがある」
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