4-21 同胞

左様さようなら、和泉君」

 玄関先で貞枝に見送られたイズミは、頭を下げる。の別れの台詞せりふを以前にも聞いたと回想しながら、懐かしの呉野家を後にした。

 長い一日だった。肩と頭にこごった疲れを感じながら、鎮守の森を抜けたイズミが神社の境内まで戻ってくると、下界を臨む色の鳥居のすぐ傍に、質素な白シャツに駱駝らくだ色のズボンという洋装の痩躯を見つけた。緊張の名残が、ほぐれていく。

 待っていてくれたのだ。

「お父さん」

 父は足元に集まっていたすずめたわむれていたが、呼び掛けるとすぐに反応した。腰を屈めた姿勢から背筋を伸ばし、イズミを振り返って笑っている。雀が、賑やかに飛び立っていった。羽ばたきの波音なみおとが茜色の空に向かって解き放たれて、イズミは頭上を振り仰ぐ。此処ここは、平和だ。う、ぼんやりと思った。

「イズミ。お疲れ様」

「その言葉は、僕への仕返しの心算つもりですか」

 イズミは父に視線を戻すと、軽く肩を竦めて見せた。此処ここに来る前に父へ言った台詞が、よもやこんな形で己に返ってくるとは思わなかった。

「疲れました。僕は添え物のはずでしたのに、貴方に騙された所為ですよ。異国の地で頑張る一人息子に、どうしてもっと優しく接して下さらないのです」

「イズミは手厳しいなあ。だからこうして待っていたじゃないか」

 イズミが責めたからか、父が弱り果てた様子で狼狽える。些細な冗談一つにも慌てふためく父の優しさが、今のイズミには嬉しかった。

「イズミ、杏花さんはどうした? 随分懐かれていたそうじゃないか。きっと見送りについて来るんじゃないかと思っていたよ」

「杏花さんなら、眠ってしまいましたよ。遊び疲れたのです。僕を送り出したのは、貞枝さんお一人です。伊槻いつきさんも職場に顔を出すそうで、出掛けられましたから」

「貞枝は、相変わらずだったなあ」

 父が、穏やかな目で吐息をつく。妹を持つ兄の目だ。父がこんな顔を見せた事が、単純に驚きだった。視線に気づいた父が、イズミを見下ろして微笑んだ。今度は父親の顔だった。

「イズミは、思わなかったかい? 少し取っつきにくい怖さがあるだろう、貞枝は」

「思いましたよ。僕が此処ここに来たがらない理由の一つは、貞枝さんが恐ろしいからです」

「素直だな、イズミは」

 呆れの顔で笑った父は、ふと表情を改めると、穏やかな声音のまま訊いてきた。

「なあ、イズミ。何故あの子は杏花さんなのか、聞いたかい?」

「ええ。聞きましたよ。ですが、意味は理解できませんでした」

「聞いたのか」

 父が、目を瞠る。イズミも、驚いて瞠目した。

 鳥居をくぐり、石段をいざ下りんとするところで、異国の風貌を持つ二人の男は立ち止まる。夕暮れの光に照らされて、白いかおが赤く染まった。時が止まったような沈黙の中で、口火を切ったのはイズミだった。

「お父さんは、聞いていないのですか?」

 躊躇いを覚えたが、はっきりと訊いた。明らかにさせたかったからだ。

 父は不甲斐なさそうに淡く笑うと、首をゆるゆると横に振る。色素の薄い茶髪が、夕刻の風に舞い上がった。沈みゆく太陽が残した朱色のつやめきを受けた髪は、はっとするほど美しかった。

「ああ。僕は聞いていない。教えてくれたらいいのにと待ってみたけど、待ったからって話してくれるようなお人でもないから、仕方がないさ」

「……」

「イズミ。僕の父と、君がどんな話をしていたのか、僕は正直なところ、とても気になっているけれど……君だけに話したのは、何か意味があってのことだと思う。僕に気を使うことはないから、君は御爺様とこれからも仲良くしてあげてくれないか」

「どういう意味で、言っているのですか」

 つい、きつい言い方になった。父は、目を丸くしている。驚かせてしまったと判っていたが、イズミの耳からは國徳くにのりの言葉が消えなかった。

 ――いずれ、貴様から父と呼ばれる。

 國徳は一体どういう心算つもりで、イズミにこんな言葉を掛けたのだろう。

 理由を訊ねたが、黙られた。返答をせがむと、時間が遅いから帰れと追い出された。結果として杏花の事もあれ以上は訊けずじまいで、イズミには謎だけが残された。判らないことは、判るようにしたかった。手に取りやすい情報で、理解に足るだけの感情で、れを伝える言葉の形で、判るようにしたかった。

 れなのに、残った。しかも、気がかりな点は他にもあった。

 今後、イズミが國徳を、父と呼ぶのなら――目の前の、の父は。

「……お父さん。不吉な言葉を聞いたのです。僕は、貴方の事が心配になりました」

「どうしたんだ、イズミ。何を不安に思うことがあるんだ」

 父は、心底吃驚びっくりしたと言わんばかりの顔をしている。反抗期もろくにないまま優等生として育ってきたはずの息子が、唐突に不安を覗かせて慌てているようだ。

「お父さん。貴方はあまり呉野神社に近寄らない方が良いと思います。國徳御爺様のお告げは、意味深でした。ロシアに一時帰国するまでの間は、距離を置かれた方が安全です。貴方が日本に引っ越してきた後も同様です。近寄らないよう、お願いします」

「……イズミ。それは、御爺様に言われたことではなく、自分で考えたことなのかい?」

「もちろんです」

「やっぱり、君と御爺様は似ているね」

 意表をく言葉だった。思わず父を見上げると、父は朗らかな笑みを浮かべて、幼い子供にうするように、イズミの髪をふわりと撫でた。

「僕がどうして先に帰ろうとしたか、判るかい? 御爺様に言われたからなんだ。しばらく近寄らないように、とね。君達は全く違う個性のようで、驚くほど似ているね。何処どこが似ているんだろう。貞枝なら屹度きっと、魂が似ていると言って笑いそうだ」

「お父さんは、追い返されたのですか? 御爺様に? ……何故ですか」

「さあ。父の考えは僕にもよく判らないよ。……ただ」

 イズミの頭から手を離した父が、今度は己の頭髪を額から掬い上げるように掻きあげた。困ったように笑う声が、黄昏時の空に吸い込まれる。

「これもきっと、何か意味があってのことなんだろうと思う。僕はそう信じているよ。貞枝に言わせれば、ロマンチストの人なんだ。実は僕も、こっそりそう思ってる」

「怒られますよ、お父さん」

「まあ、いいじゃないか」

「何を理由に、そんな御爺様と僕が似ているというのです。僕はロマンチストではありません」

「ああ、イズミはそこにこだわっていたのか。君の喋り方では、ロマンチストと揶揄されても仕方がないじゃないか」

「納得できません」

「そういう理屈っぽい堅物さが、御爺様と似ているね。僕はそう思うよ」

 悔しかったが、の指摘には成程と納得してしまった。己の頑固さをしっかりと見抜かれていた事が少しばかり面映ゆく、イズミは照れ隠しのように微笑むと、石段をゆっくりと下り始めた。

 の山を下りた先には民家が軒を連ねているので、暮れなずむ町からは夕餉ゆうげの匂いが流れてくる。今日の藤崎ふじさき家の夕飯は、何だろう。克仁かつみの顔を思い出すと、歩調が軽やかに弾んだ。家族とは、やはり良いものだとイズミは思う。

「そういえば、イズミ。僕に質問って何だい?」

 イズミを追って、父も石段を下りてきた。「ああ」とイズミは間の抜けた声で応じる。今日は様々な出来事があったので、すっかり忘れてしまっていた。

「お父さんは……國徳御爺様と、克仁さんと、杏花さんと、僕。この四名に対して、何らかの共通点を見出せますか?」

「ん?」

 父は、目を瞬いていた。当然の反応だろう。名前だけを列挙して共通点を見つけろでは、あまりにも抽象的過ぎる。だが、配慮不足は承知の上で、今のイズミにはこういう訊き方しか出来なかった。

 ――國徳は、父に多くを語らなかった。

 の事実が、イズミが父に対して長年抱いてきた一つの予感を、確かに肯定したからだ。

「イズミが何を訊きたいのか、僕には判らないけれど……そうだな。雰囲気だと、僕は思う」

「雰囲気、ですか」

「ああ。御爺様と君だけなら、さっき挙げたような共通点で通るけど、そこに克仁さんや杏花さんまで入ってきては、四人の共通点とは言えないからね。そうなると、何となく雰囲気だと思ったよ」

「それは、何故です?」

「君はまるで先生のように、僕の心を訊くんだなあ」

 ゆったりとした笑い声に、ひぐらしの声が重なった。

 夏の夕べはやがて終わり、もうじき短い夜が来る。うすれば、また朝日が昇るだろう。まっさらで何も無く、の一日をどう過ごすのか、悩ましく思考する日常が巡って来る。蝉には、そんな時間さえ惜しいのだろう。生きるということは、まことせわしいことだと思う。

「似ていると言っても、何をもって似ていると思ったのか、僕自身あまり判らないんだ。でも……何だろうな。大昔の友人に、久しぶりに会った感じというか。不思議なんだけど、何かが似ている気がしたよ」

「その四名の何が似ているか、どうしても判りませんか」

「それが判れば、苦労はしないさ」

 う答えた父の顔は、今日見た中で最も清々しい笑みを浮かべていた。

「そういえば、イズミが言った四人以外にも、僕は今までに誰かに対して、似たような感じ方をしたことがあった気がするよ。だけど、それは多分、僕等がどこかで似ているというよりも、単純に相手に心惹かれているからだと思うんだ」

「? どういうことですか」

「仲良くしたいということさ。僕が、その相手と」

「仰っている意味がよく判りません。お父さんは、自分と似ていると感じた相手と、仲良くなりたいと思っているのですか?」

「そういう訊かれ方をすると、何だか妙な感じはするけど……そうだな。そうだと思うよ、イズミ」

 融通の利かない息子の思考回路に呆れたのか、父が苦笑しながら、れでいて温かい口調で言った。

「相手への興味は、仲良くなりたいという好意。僕は多分、その人と話がしたいだけなんだ。だから、君と、克仁さんと、父上と、杏花さんと、もっとたくさんの話がしたいと思っている。それが、僕が君達に持つ共通点じゃないかな」

「……そうですか。判りました」

 イズミは、深く頷いた。

 今の話を聞いて、ようやく判った。

 ――やはり、父には自覚がない。正確には、〝知覚〟はしているが〝自覚〟が出来ていないのだ。

 の感性を、父は霊的なものとは思っていない。父の能力は極めて微弱で、〝同胞〟の認識程度にしか、父の意識に上らないのだ。

 父は、人よりも感情の機微に敏感だろう。心が優し過ぎるのだ。

 ともすればそんな優しさが、父の〝自覚〟を妨げているのかもしれない。

 れは幸福な事だと、イズミは素直に羨ましかった。辛くはないと國徳に宣言しておきながら、の体たらくなのだから笑ってしまう。こういった矛盾や粗を見つけてくれるから、イズミは大人が好きなのだろう。子供だけでつるんでいては、見えない何かが見えてくる。

 そして、子供という言葉から、今日いっしょに遊んだ少女を連想したイズミは、國徳の台詞を思い出して、唇を結んだ。

 ――『和泉。貴様は、私が『判らん』とった。貴様の父であるイヴァンの事も、同居人である克仁の事もだ。……本当に、れだけの心算つもりか? 何故、貴様は目を逸らす?』

 厳しい追及の眼差しを受けた時に、イズミは観念していたのだ。

 嗚呼ああ、思い過ごしではなかったのだ、と。

 ――『孫の事が『判らん』私でも、判るのは――〝二人居る〟という事実だけだ。れ以外は、やっぱり『判らん』』

 あまりにも幼い〝同胞〟は、の小さな身体にどんな異能を秘めているのだろう。あるいは、〝二人居る〟ということが、異能にるものなのだろうか。

「お父さん。泉鏡花という文豪は御存知ですよね」

「知っているも何も、君の名前の由来である、偉大な作家のお名前だ。忘れるわけがないじゃないか」

「お父さんは、作品を読まれていますか? 読まれているのであれば、もう一つ、別の質問があるのですが」

「何だい? こういう質問は克仁かつみさんの方が得意な気もするけど、聞くよ」

「泉鏡花作品に、児童向けの小説はありませんか?」

「児童向け?」

「はい。杏花さんに紹介できる本がないのです。お勧めの小説を教えてほしいとせがまれましたが、僕はあのお嬢さんに紹介できるような読書をしてきませんでした。あの年齢の少女には、どんな本をお勧めすれば良いのでしょうか。御高説を賜りたく存じます」

「杏花さんが……あの子、字が読めるからなあ。大したお嬢さんだと感心するよ」

「なまじ大したお嬢さんなだけに、困ってしまうのですよ。あまり刺激的ではないものを一つ、お願いします」

「それじゃあ僕のお勧めになってしまうよ。杏花さんは君のお勧めが知りたいのではないのかい?」

「それは、この際仕方ありません。貴方のお勧めを僕のお勧めにげ替えて、嘘を付いて機嫌を取ります」

 あけすけに言うイズミに、「とんでもない兄さんだなあ」と父が言い返して苦笑する。そしてひとしきり笑った後で、ふと何かを思いついたような顔になり、立ち止まった。

「? お父さん?」

「……イズミ」

 父は、茶目っ気たっぷりの笑みを向けてきた。

「いい考えがある」

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