4-20 國徳

 しんと束の間、静寂が満ちる。ひぐらしの声が、しじまを喰らった。

 やがて「入れ」と短くしゃがれた声が聞こえたので、イズミは障子戸の合わせ目に手を掛けると、ゆっくりと横へ滑らせた。

 そして――れらを、見た。

 正面から、風が吹く。廊下に蟠る夏の熱気を、御山の清涼な風が洗っていく。イズミの頬を、赤い花びらが掠めていった。東袴塚ひがしこづか学園高等部の制服にも、様々な色彩に染まる夏の花が吹き付ける。

 山中異界に通じるような静謐せいひつな香りを纏う風が、花を運んできたのだろうか。

 頭では、判っていた。そんな理由では、無いのだと。

「……来たか」

 朴訥な声が掛かった時、イズミは動けなかった。少し離れた所にはまだ貞枝が立っている気配を感じたが、其方そちらを振り返る余裕はなかった。

 眼前に拡がる風景に、心を攫われてしまっていた。

「……。ごゆっくり」

 足音が、静々と去っていく。遠ざかる床板の軋みを耳に入れながら、「はい」とイズミは返事をした。

 去りゆく貞枝への、返答ではない。

 和室の最奥に座した男への、返答だった。

「……。御爺様、お久しぶりです」

 ありきたりな台詞の他に、声の掛け方を知らなかった。頭を下げるイズミへ、対面の男は「中に入れ」という簡素な指示だけを投げて寄越した。

 ぞんざいとも取れる言葉からは、情動を感じられなかった。男が怒っているのか、あるいは別の感情を持っているのか判らない。顔を上げたイズミが男の瞳を覗き込んでも、目と目が合うだけで何もなかった。

 何一つとして、判らない。

 ――れが、嬉しかった。

 感動なのか、れともイズミがまだ知らない衝動なのか、込み上げた想いの熱さで息が詰まる。積年の呪縛という赤い帯がするするとほどけて床に落ちるような、紛れもない安堵がイズミを包んだ。

 他者の心が判らないという事は、なぜれ程の不安と、そして相反する安堵をイズミにもたらすのだろう。思考を哲学の海に浸したイズミは、花の香が漂う和室に入り、畳に正座してから足首を立てた跪坐きざの姿勢で、障子戸を閉ざした。

 夕闇が迫る八畳間に、明かりは点いていなかった。障子窓からは焔の色をした日差しが入り、竜胆リンドウごとき青紫色に沈む日陰が、和室に濃い陰影を描いている。用意された座布団の傍へ、イズミが膝行しっこうの動作でにじり寄ると――名前も知らぬ赤い花が、再び頭上から舞い降りた。

 肩に載りかけたべに色を、イズミは軽く身を引いて避ける。男の眉が、微かに動いた。朝露を蓄えた花のように揺れた感情の残滓を追うように、イズミは男を見つめ返す。男の見事な白髪にも、鬼灯ほおずきのように赤い花が、音もなく舞い落ちるところだった。

 短髪に触れかけた赤い花を、男は機敏な所作で振り払う。群青色の浴衣から伸びた腕は、枯れ枝のように痩せていて、薄い筋肉が透けて見えるようだ。座った身体を以前よりも小さく感じたのは、男が僅かながら背中を丸めている所為だろう。れでも孫を持つ年齢にしては姿勢が良い部類に入るはずだが、軍人を彷彿とさせる立ち姿を見ていただけに、痛ましさが胸を刺した。

 國徳くにのりは、確実に老いていた。イズミと会わなかった時間の分だけ、日々の歩みという足跡を、人生に刻み続けていた。

 郷愁が、不意を衝いて胸を打つ。再会した父の首筋に、老いの影を見つけた時のことを思い出す。

 だが、六年の歳月を経ても尚――瞳だけは、変わっていなかった。

 己に厳しい自戒を強いているような双眸には、イズミがまだ見ぬ矜持が在った。時の流れに左右されない強靭さが、今も神職の男の瞳で、青白く燃え盛っている。

 むしろ、の双眸は――以前よりも、強い光を宿していた。

 の会合は、イズミと國徳の両者にとって、劇的なものとなるだろう。何しろ、互いに隠し事を止めたのだ。知らんぷりを止めた時、互いは何を語るのか。イズミは当事者の片割れでありながら他人事のように構えていて、同時に微かな高揚を、己の胸中に認めていた。案外、ただ緊張しているだけかもしれない。

 天邪鬼あまのじゃくな己の思考は、己であっても掴みにくい。人の感情とは、難儀で、複雑怪奇で、不可思議で――面白いものだと、イズミは思う。

「御爺様、改めまして。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです。御無沙汰しております」

 居ずまいを正したイズミは、深くこうべを垂れた。頬や目元に掛かった灰茶の髪の向こう側で、色彩豊かな花が見える。

 ――茎は、やはり無かった。

「見えているんだろう」

 唐突に、國徳が言った。

 イズミは、おもてを上げる。そして、感情が読めない男の問いに、此方こちらも相手からすれば感情が読めないに相違ない声で、「はい」と明瞭に返事をした。

「見えています。この和室に降りしきる、たくさんの花が。この花達は、お庭で切り落とされていた花たちとはまた違いますね。茎のところで切られているという姿かたちは同じでも、言うなれば魂が異なります。彼方あちらは誰にでも『見える』うつつの花ですが、此方こちらは限られた者にしか『見えない』夢の花です」

奇矯ききょうい回しを好むのは、一体誰の影響か」

「お察しの通り、あの御仁ごじんの影響です。日本人の父として、僕は彼がとても好きです」

 鎌をかけた心算だった。克仁かつみについて仄めかした時、國徳くにのりはどんな反応を示すのか。興味と茶目っ気が湧いたのだ。

 だが、高校三年生レベルの駆け引きなど、老成した大人の前には遊戯同然のようだった。國徳は「座れ」と言ってイズミに座布団を勧めると、軽く俯いたまま息をついた。の溜息に乗せるように、ぼそりとしゃがれた声が漏れる。

「気に食わん。和泉。判っているのであれば、わざわざ訊くこともなかろう」

「判ってなどおりません。僕は何も知らないのです。克仁かつみさんとはその件について、お話したこともありません」

「一度もか?」

「はい」

「では、頃合いを見て一度話しておいた方がいい。十八の青年と、大人の男だ。向こうも判っとるだろうから、こじれはせんだろう」

「そうでしょうか」

「何を怯えることがある」

 國徳くにのりが、イズミを見た。鷹のように鋭い眼差しだった。

「一目見た時から、貴様の事には気づいていた。れでも私が何もわなかったのは、和泉。貴様と会うことは二度と無いと思ったからだ。耄碌もうろくしていたんだと思う。今の方が、良く判る。一度衰えたと思っていたが……いやな因縁だと思う」

 苦々しさを含んだ声は、微かな諦観を帯びていた。

 目の前に座る男は、人形ではない。イズミと同じく血の通った、生身の人間同士なのだ。恐れることなど、やはり無かった。勢いを得たイズミは、國徳くにのりの顔を見据えると、ようやあいまみえた〝同胞〟との会話に、意識の全てを集中させた。

「克仁さんは、僕に何も明かしていません。ですが、互いに判っています。理由は、互いの事が『判らない』からです。中には『判りにくい』という非常に曖昧な相手もいますが、それは各々の人間に対する相性、個人差の問題だと僕は考察しています。――それでも僕が、はっきりと『判らない』相手だと認定した相手は……一人目は、僕の父、イヴァン。二人目は、僕の第二の父であり、貴方の友人でもある、藤崎克仁さん。……そして。三人目は、貴方です。御爺様」

「……」

「御爺様。僕は、貴方の事が『判りません』。少しどころではなく、全くです。初めてお会いした時からそうでした。ですが、あの頃には今ほど確かな実感を持てませんでした。あの頃の僕は、今よりもずっと子供でしたから」

「……いつから、己の異能に気づいていた? いようだと、物心ついた時からというわけでもなかろう」

 國徳が、訝しげに顎を引く。イズミは、微笑んで答えた。

「小学生の、高学年の頃です。此処ここで御爺様と出逢うよりも、少し前の出来事がきっかけでした。僕が日本へ渡る前に、僕の父と母は酷く言い争っていました。僕があの時『見た』ものは、母の心でしょうか。あるいは、別のものでしょうか。ともあれ、僕には母の感情が、とても美しく『見えた』のです」

 あの日、サンクトペテルブルクのアパートの一室で、イズミは確かに『愛』を見た。父であるイヴァンと決別を選び、母国に残してきた家族は、イズミ・イヴァーノヴィチを愛している。あの日『見た』神々しさが、子供の夢とは思えなかった。ましてや思慕の情を過度に美化した、記憶の幻影とも思えない。あの瞬間の母に手を差し伸べたなら、部屋に射し込んだ輝かしい月光に、己の魂も染まると思った。

「何故、わなかった」

 國徳は、イズミに問うた。喉という発声器官の衰えを感じさせる、酷く掠れた声だった。れでいて声には意思の芯が通っていて、駆け引きめいた対談に思考を巡らしているのは相手も同じなのだと思うと、ふっとイズミは破顔した。

 ――いつか、誰かに打ち明ける日が訪れる。

 予感は、あった。の『いつか』が、こんなにも急だとは思わなかった。

「当時、僕たち家族の仲は険悪でした。原因は父から聞かれているかと存じますが、僕の進路の問題です。揉め事の渦中にいる僕が、他愛のない世迷言で両親の心を乱すのは、親不孝な行為だと思います。……いえ」

 言葉を切ったイズミは、本当の理由を告白した。

「僕は、日本行きを父に提案された時、克仁さんの家に居候をしながら学校へ通うという生活に、とても魅力を感じました。しかし、僕が精神の異常を訴えて両親の不安を煽ったならば、僕の日本行きは流れたはずです。……僕は、打算で黙っていました。それに、両親以外の他人に、僕の目に『見える』ものを打ち明けたとしても、扱いは嘘つきか異常者の二択でしょう。日々の生活をより良いものにする為には、沈黙こそが肝要と考えました」

「そうか」

 イズミの告白を聞いた國徳は、無感動に頷いた。

 己の狡賢さを堂々と打ち明けたというのに、反応が薄い。れどころか、しかつめらしい表情を崩さなかった國徳の顔つきが、僅かに解れた気さえする。

 今のイズミの言葉は、國徳にとってう悪いものではなかったのだろうか。

 相手の考えが『判らない』と、の程度のことでも不思議に感じてしまうのだ。人として当たり前であるはずの心の動きにイズミは戸惑い、結局そんな己に呆れてしまい、そっと苦笑いを漏らした。

「ただ、僕の……そうですね。便宜上〝霊感〟とでも言わせて下さい。おそらく、そんなに強い力ではありません。他者の考えが自ずと『判る』他には、感情に色や輝きが宿ったものが時々『見える』だけです。何も『見ない』ようにしようと思えば、ある程度の制御も出来ます」

 イズミは、謙遜の心算で言った。元から誇っているわけではないので謙遜するのも妙な話だが、其処そこは断っておきたかった。

 だが、國徳からは意外な反応が返ってきた。

の『力』。甘くみない方がいい」

「と、言いますと?」

「強くなる。手が付けられなくなる事はないだろうが、お前にとって辛いことになるだろう」

「……。辛いことなど、ありません」

 首を横に振ったのは、虚勢ではなく本心からだ。れでも微かに揺らいだ感情の一欠片を受け止めてから手放して、イズミは國徳に失礼のない言い方を考えながら、やんわりと笑う。

 辛いことなど、何もない。

 れを確かな自信として、イズミは父母から貰っている。

「他者の思考が筒抜けになるということが、僕にはさほど苦痛ではありません。もちろん、いやなものも時には見ます。屹度きっとこれからも、その頻度は増すでしょう。ですが、疎ましいもの全てを帳消しにして、御釣りがくるほど素晴らしいものも、僕はたくさん『見て』きました。人の心の内に在るのが『悪』ならば、『善』もまた在りましょう。僕は他者よりもずっと美しい形で、それらを『見る』ことが出来るのです。……贅沢な、個性だと思います。不平を言えば、罰が当たってしまいますよ」

「……私とは、逆か」

 國徳が、嘆息する。表情は相変わらず読み取りにくいが、声には感嘆とも呆れとも取れる響きがあった。

「私は、貴様の歳の頃が、最も酷いものだった。れからは衰退の一方だったが……やはり、せがれと孫にまで遺伝していたか。呉野の血筋は、呪われている」

「呪われているのですか、僕達は。それは、いけません。御爺様。そんなことはありません」

 イズミは、断固たる口調で言った。國徳が何処どこまで本気で言っているのかは知らないが、病は気からと俗に言う。呪われたなどと平易に口にすれば、本当によこしまなものが言葉に宿り、のまま祟られるような気がしたのだ。

 こだわりの強さは、自覚している。今日の昼下がりにも、再会したばかりの父に突っ掛かった。大人とばかり心を通わせておきながら、まだまだ精進が足りないらしい。そんな青臭さが我ながら可笑しく、揶揄の笑みを浮かべかけた時だった。

 國徳が、真剣な目でイズミを見た。

「先程、イズミ・イヴァーノヴィチと名乗ったな?」

「はい。確かに、そう名乗りました」

 イズミは、笑みを収める。相手の真剣さを測れないまま、れでも戸惑いは見せずに、首肯した。

「学校は、東袴塚ひがしこづかだとせがれから訊いた。高校でも、そんな長い名を名乗っているのか」

「いいえ。僭越ながら、学校では呉野和泉と名乗っております」

「何故、畏まる」

「傍系だからです。御爺様」

「そんなことは、気に病む理由にはならん」

「そうですね。気に病んでなどおりません」

「……もう一度、訊こう。学校では呉野和泉と名乗りながら、ひとたび名を訊かれると、異国の名を名乗るのは何ゆえか」

「それは……」

 イズミは、口籠る。単純に、理由を明かすのが恥ずかしかったからだ。

 だが、仏頂面で返答を待つ國徳に、恥ずかしいから言いたくないとは言えない。苦笑で心の折り合いをつけたイズミは、長年の秘密を吐露した。

「御爺様がソフィヤ御婆様と離縁をなさったことにより、貞枝さんや杏花さんを直系とする視点で見るならば、僕らは皆様から見て傍系です。呉野姓を放棄していなくとも、名乗るのは恐縮でした。それが理由です」

「……」

「……今のは、お察しの通り建前です。あながち嘘でもありませんが。何となく、僕の名前は呉野和泉というよりも、イズミ・イヴァーノヴィチだという気がするだけなのです。この名前で呼ばれていた、幼少期の記憶の所為かもしれません。……今度は、本当ですよ」

「……和泉。私にもお前の事は『判らん』」

 國徳が、厳かに言った。武骨に投げかけられた言葉は、殺意のように鋭利だった。

 そして、の感情を〝殺意〟だと断定した瞬間、イズミの心には強い疑念が、泡のように浮かび上がった。

 何故か、悟ってしまったからだ。

 の殺意は――イズミに向けられたものでは、ないのだと。

「私は、今では〝同胞〟の識別しか出来ん。『見える』ことは、もう稀だ。だが……れでも、〝二人居る〟ことには、気づいていた」

「二人?」

「貞枝が、身籠った時だ。あの時から、もしやとは思っていた」

 國徳が、目を逸らす。まるで、何かを恐れるように。

「双子だと思いたかった。だが、産まれた赤ん坊は一人だった。確固たる現実を突きつけられても、私には……やはり〝二人居る〟ように見えた」

「御爺様。それは、どういうことです」

 イズミは、口を挟む。喉の渇きを、感じていた。貞枝夫婦との鏡花談議の時に出された茶を、イズミは飲んでいなかった。

「和泉。まずは、孫を杏花と呼んでくれた事に感謝する。……あの娘は、う長くない。貴様がの名で呼んでくれた事が、いつか奇跡になればいい。貞枝が、ひとり言を漏らしていた」

 吸い込んだ空気が、乾いた喉に絡んだ。何を言われたのか、判らなかった。國徳の言葉は、現実感を欠いていた。

「御爺様、何を仰っているのです」

「呉野氷花の話をしている。貴様はれを訊く為に、呼び出しに応じて此処ここまで来たのだろう」

「待って下さい。今の御爺様の言葉では、杏花さんが」

 ――躊躇う。だが、無理やり言った。

「……じきに、死ぬと言っているように聞こえます」

心算つもりった」

「理解できかねます」

「一人は死ぬ。二人で生きていく事は叶わん。氷花が残って杏花は消える。れは、れだけの話だ」

「氷花……?」

 今度は、氷花。貞枝に教えられた氷漬けの花の名が、脳裏で錫杖しゃくじょうの音のように響き渡る。もどかしさにき動かされて、イズミは緩くかぶりを振る。話が全く見えないことが、微かな苛立ちとなって胸をいた。貞枝といい、伊槻いつきといい、國徳といい、イズミを取り巻く親族は、回りくどい大人ばかりだ。

「それではまるで、杏花さんが双子だと言っているように聞こえます」

う思ってもらっても構わん」

 國徳は、一蹴した。外から聞こえるひぐらしが、大きくなる。

「二人居る。だが、一人は喰われる」

「何故です」

 イズミは、食い下がった。膝に載せた拳に、力がこもる。

「御爺様の説明では、双子というよりも、一つの身体に二つの魂があると言っているようにも聞こえます。それなら二重人格と言っていただいた方が、まだ納得の余地があります」

「二重人格」

 イズミの反論を受けた國徳が、鼻を鳴らした。子供をあしらうような声に、微かな不機嫌が織り交ざる。

の台詞をったのが、貴様でさえなければ、私は耳を傾けただろうな。和泉。貴様は、私が『判らん』と云った。貴様の父であるイヴァンの事も、同居人である克仁の事もだ。……本当に、れだけの心算つもりか? 何故、貴様は目を逸らす?」

 イズミは、黙る。黙るしかなかったからだ。

 他人が聞けば、意味を汲めない台詞だろう。だが、イズミには通じていた。

 れは、痛烈な皮肉だった。

 皮肉の意味を知る者は、〝同胞〟以外に居はしない。

「近い将来、あの娘は居なくなる。皆が、れを判っとる。判っとらんのは、伊槻いつき君だけだ。可哀想だが、仕様が無い。説明できる者もしようとする者もおらんから、杏花が死んだ後も、伊槻君には莫迦ばかで居てもらうしかない」

「……呉野、杏花さん。彼女は一体、何者ですか」

「判らん」

 國徳は、目を眇めた。和室に揺蕩う藤色の影が、濃い紫苑しおん色へ沈んでいく。〝同胞〟以外には『見えない』花は、しんしんと天井から降り続けて、畳に触れると消えていく。かすかに畳を照らす夕日の赤が、本棚の硝子扉にも反射した。

「だが、孫の事が『判らん』私でも、判るのは――〝二人居る〟という事実だけだ。れ以外は、やっぱり『判らん』」

「何故、喰われると断言なさるのです」

「強い方が生き残り、弱い方は淘汰される。当然の定めだろう」

「共存は、あり得ないのですか」

「有り得ぬ」

 語調が、力強い。幽玄ゆうげんの花の首が舞う夢幻むげんの和室で、経文の発声にも似た気迫のこもった激情が、イズミに真正面から向けられた。

「あの娘の名付けについては、大方おおかた貞枝から私の文学嗜好が理由だと聞かされているだろう。だが、杏花は違う。杏花は、供花きょうか。供養の花だ」

「供養?」

「いつか、氷花の為に死ぬ。弔いの花となって死ねと、そんな願いで付いた名だ」

「御爺様」

「和泉。聞け」

 厭わしい語りから逃げることを、國徳は許さなかった。次第に祝詞のりとのような敬虔けいけんさを帯び始めた言葉の奔流に、いつしかイズミは呑まれていた。

「凍れば、永遠。故に、供花は、氷花になる。詩的過ぎるとわれたられまでだろうが、の程度のたわむれが、死体さえ残せぬあの子の供養となるのなら。多少の〝アソビ〟にくらい、付き合ってやっても良い」

「……僕は、納得できません」

 言葉の圧を、振り切りながら。

 イズミは、毅然と顔を上げた。

「御爺様は、諦めています。御爺様だけではなく、貞枝さんもです。――二人居る。判りました。そうでしょうね。僕には御爺様のような知覚は出来ませんが、貴方がそう言うのであれば、間違いなくそうでしょう。……ですが。その所為で杏花さんが死ぬと断言なさる辺りが、僕には納得できません」

「貴様の納得など、要らん」

 ばっさりと、切り捨てられた。

 感情と心を、ぽきんと手折られたようだった。非情な言葉にイズミは思わず固まったが、國徳は孫の反応を見ると、肩の力を緩めたように見えた。の態度の何処どこにも、先程までの激しさはなかった。

「イズミ・イヴァーノヴィチよ。呉野和泉と名乗る事に、いまだ恐縮を覚えるか」

「……ええ。そうですね。僕はイヴァンの息子です。父と連なる名を名乗る事に、親子としての絆も感じていますから。それに、やはり皆様から見て傍系だという点も気に掛かっておりますので、呉野和泉と名乗ることは恐縮です」

ゆるす」

 ――きっぱりと、う言われた。

 イズミは面食らい、國徳を見る。國徳は顔色を一切変えず、事務的とも思えるほど淡々とした口調で言った。

「私が、赦す。お前が呉野和泉と名乗ることを、赦す。いやでなければ、好きに名乗るが良い」

「……何故、ですか」

「何故と、問うか」

 國徳は、目を細めた。

 勉強の不出来な子供へ諭すような、雲間から射す一条の光に似た慈しみを、厳格さという薄衣で包んだ言葉の意味を、イズミはまだ知らなかった。

 決して一つの色では表現し得ない、にしきごと絢爛豪華けんらんごうかな美しさを、イズミが心から理解したのは――全てが終わった、後だからだ。

「いずれ、貴様から父と呼ばれる。息子になる青年に掛ける、最初の言葉として――れは、当然の言葉であろう」

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