4-20 國徳
しんと束の間、静寂が満ちる。
やがて「入れ」と短くしゃがれた声が聞こえたので、イズミは障子戸の合わせ目に手を掛けると、ゆっくりと横へ滑らせた。
そして――
正面から、風が吹く。廊下に蟠る夏の熱気を、御山の清涼な風が洗っていく。イズミの頬を、赤い花びらが掠めていった。
山中異界に通じるような
頭では、判っていた。そんな理由では、無いのだと。
「……来たか」
朴訥な声が掛かった時、イズミは動けなかった。少し離れた所にはまだ貞枝が立っている気配を感じたが、
眼前に拡がる風景に、心を攫われてしまっていた。
「……。ごゆっくり」
足音が、静々と去っていく。遠ざかる床板の軋みを耳に入れながら、「はい」とイズミは返事をした。
去りゆく貞枝への、返答ではない。
和室の最奥に座した男への、返答だった。
「……。御爺様、お久しぶりです」
ありきたりな台詞の他に、声の掛け方を知らなかった。頭を下げるイズミへ、対面の男は「中に入れ」という簡素な指示だけを投げて寄越した。
ぞんざいとも取れる言葉からは、情動を感じられなかった。男が怒っているのか、
何一つとして、判らない。
――
感動なのか、
他者の心が判らないという事は、なぜ
夕闇が迫る八畳間に、明かりは点いていなかった。障子窓からは焔の色をした日差しが入り、
肩に載りかけた
短髪に触れかけた赤い花を、男は機敏な所作で振り払う。群青色の浴衣から伸びた腕は、枯れ枝のように痩せていて、薄い筋肉が透けて見えるようだ。座った身体を以前よりも小さく感じたのは、男が僅かながら背中を丸めている所為だろう。
郷愁が、不意を衝いて胸を打つ。再会した父の首筋に、老いの影を見つけた時のことを思い出す。
だが、六年の歳月を経ても尚――瞳だけは、変わっていなかった。
己に厳しい自戒を強いているような双眸には、イズミがまだ見ぬ矜持が在った。時の流れに左右されない強靭さが、今も神職の男の瞳で、青白く燃え盛っている。
むしろ、
「御爺様、改めまして。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです。御無沙汰しております」
居ずまいを正したイズミは、深く
――茎は、やはり無かった。
「見えているんだろう」
唐突に、國徳が言った。
イズミは、
「見えています。この和室に降りしきる、たくさんの花が。この花達は、お庭で切り落とされていた花たちとはまた違いますね。茎のところで切られているという姿かたちは同じでも、言うなれば魂が異なります。
「
「お察しの通り、あの
鎌をかけた心算だった。
だが、高校三年生レベルの駆け引きなど、老成した大人の前には遊戯同然のようだった。國徳は「座れ」と言ってイズミに座布団を勧めると、軽く俯いたまま息をついた。
「気に食わん。和泉。判っているのであれば、わざわざ訊くこともなかろう」
「判ってなどおりません。僕は何も知らないのです。
「一度もか?」
「はい」
「では、頃合いを見て一度話しておいた方がいい。十八の青年と、大人の男だ。向こうも判っとるだろうから、
「そうでしょうか」
「何を怯えることがある」
「一目見た時から、貴様の事には気づいていた。
苦々しさを含んだ声は、微かな諦観を帯びていた。
目の前に座る男は、人形ではない。イズミと同じく血の通った、生身の人間同士なのだ。恐れることなど、やはり無かった。勢いを得たイズミは、
「克仁さんは、僕に何も明かしていません。ですが、互いに判っています。理由は、互いの事が『判らない』からです。中には『判りにくい』という非常に曖昧な相手もいますが、それは各々の人間に対する相性、個人差の問題だと僕は考察しています。――それでも僕が、はっきりと『判らない』相手だと認定した相手は……一人目は、僕の父、イヴァン。二人目は、僕の第二の父であり、貴方の友人でもある、藤崎克仁さん。……そして。三人目は、貴方です。御爺様」
「……」
「御爺様。僕は、貴方の事が『判りません』。少しどころではなく、全くです。初めてお会いした時からそうでした。ですが、あの頃には今ほど確かな実感を持てませんでした。あの頃の僕は、今よりもずっと子供でしたから」
「……いつから、己の異能に気づいていた?
國徳が、訝しげに顎を引く。イズミは、微笑んで答えた。
「小学生の、高学年の頃です。
あの日、サンクトペテルブルクのアパートの一室で、イズミは確かに『愛』を見た。父であるイヴァンと決別を選び、母国に残してきた家族は、イズミ・イヴァーノヴィチを愛している。あの日『見た』神々しさが、子供の夢とは思えなかった。ましてや思慕の情を過度に美化した、記憶の幻影とも思えない。あの瞬間の母に手を差し伸べたなら、部屋に射し込んだ輝かしい月光に、己の魂も染まると思った。
「何故、
國徳は、イズミに問うた。喉という発声器官の衰えを感じさせる、酷く掠れた声だった。
――いつか、誰かに打ち明ける日が訪れる。
予感は、あった。
「当時、僕たち家族の仲は険悪でした。原因は父から聞かれているかと存じますが、僕の進路の問題です。揉め事の渦中にいる僕が、他愛のない世迷言で両親の心を乱すのは、親不孝な行為だと思います。……いえ」
言葉を切ったイズミは、本当の理由を告白した。
「僕は、日本行きを父に提案された時、克仁さんの家に居候をしながら学校へ通うという生活に、とても魅力を感じました。しかし、僕が精神の異常を訴えて両親の不安を煽ったならば、僕の日本行きは流れたはずです。……僕は、打算で黙っていました。それに、両親以外の他人に、僕の目に『見える』ものを打ち明けたとしても、扱いは嘘つきか異常者の二択でしょう。日々の生活をより良いものにする為には、沈黙こそが肝要と考えました」
「そうか」
イズミの告白を聞いた國徳は、無感動に頷いた。
己の狡賢さを堂々と打ち明けたというのに、反応が薄い。
今のイズミの言葉は、國徳にとって
相手の考えが『判らない』と、
「ただ、僕の……そうですね。便宜上〝霊感〟とでも言わせて下さい。おそらく、そんなに強い力ではありません。他者の考えが自ずと『判る』他には、感情に色や輝きが宿ったものが時々『見える』だけです。何も『見ない』ようにしようと思えば、ある程度の制御も出来ます」
イズミは、謙遜の心算で言った。元から誇っているわけではないので謙遜するのも妙な話だが、
だが、國徳からは意外な反応が返ってきた。
「
「と、言いますと?」
「強くなる。手が付けられなくなる事はないだろうが、お前にとって辛いことになるだろう」
「……。辛いことなど、ありません」
首を横に振ったのは、虚勢ではなく本心からだ。
辛いことなど、何もない。
「他者の思考が筒抜けになるということが、僕にはさほど苦痛ではありません。もちろん、
「……私とは、逆か」
國徳が、嘆息する。表情は相変わらず読み取りにくいが、声には感嘆とも呆れとも取れる響きがあった。
「私は、貴様の歳の頃が、最も酷いものだった。
「呪われているのですか、僕達は。それは、いけません。御爺様。そんなことはありません」
イズミは、断固たる口調で言った。國徳が
國徳が、真剣な目でイズミを見た。
「先程、イズミ・イヴァーノヴィチと名乗ったな?」
「はい。確かに、そう名乗りました」
イズミは、笑みを収める。相手の真剣さを測れないまま、
「学校は、
「いいえ。僭越ながら、学校では呉野和泉と名乗っております」
「何故、畏まる」
「傍系だからです。御爺様」
「そんなことは、気に病む理由にはならん」
「そうですね。気に病んでなどおりません」
「……もう一度、訊こう。学校では呉野和泉と名乗りながら、ひとたび名を訊かれると、異国の名を名乗るのは何ゆえか」
「それは……」
イズミは、口籠る。単純に、理由を明かすのが恥ずかしかったからだ。
だが、仏頂面で返答を待つ國徳に、恥ずかしいから言いたくないとは言えない。苦笑で心の折り合いをつけたイズミは、長年の秘密を吐露した。
「御爺様がソフィヤ御婆様と離縁をなさったことにより、貞枝さんや杏花さんを直系とする視点で見るならば、僕らは皆様から見て傍系です。呉野姓を放棄していなくとも、名乗るのは恐縮でした。それが理由です」
「……」
「……今のは、お察しの通り建前です。あながち嘘でもありませんが。何となく、僕の名前は呉野和泉というよりも、イズミ・イヴァーノヴィチだという気がするだけなのです。この名前で呼ばれていた、幼少期の記憶の所為かもしれません。……今度は、本当ですよ」
「……和泉。私にもお前の事は『判らん』」
國徳が、厳かに言った。武骨に投げかけられた言葉は、殺意のように鋭利だった。
そして、
何故か、悟ってしまったからだ。
「私は、今では〝同胞〟の識別しか出来ん。『見える』ことは、もう稀だ。だが……
「二人?」
「貞枝が、身籠った時だ。あの時から、もしやとは思っていた」
國徳が、目を逸らす。まるで、何かを恐れるように。
「双子だと思いたかった。だが、産まれた赤ん坊は一人だった。確固たる現実を突きつけられても、私には……やはり〝二人居る〟ように見えた」
「御爺様。それは、どういうことです」
イズミは、口を挟む。喉の渇きを、感じていた。貞枝夫婦との鏡花談議の時に出された茶を、イズミは飲んでいなかった。
「和泉。まずは、孫を杏花と呼んでくれた事に感謝する。……あの娘は、
吸い込んだ空気が、乾いた喉に絡んだ。何を言われたのか、判らなかった。國徳の言葉は、現実感を欠いていた。
「御爺様、何を仰っているのです」
「呉野氷花の話をしている。貴様は
「待って下さい。今の御爺様の言葉では、杏花さんが」
――躊躇う。だが、無理やり言った。
「……じきに、死ぬと言っているように聞こえます」
「
「理解できかねます」
「一人は死ぬ。二人で生きていく事は叶わん。氷花が残って杏花は消える。
「氷花……?」
今度は、氷花。貞枝に教えられた氷漬けの花の名が、脳裏で
「それではまるで、杏花さんが双子だと言っているように聞こえます」
「
國徳は、一蹴した。外から聞こえる
「二人居る。だが、一人は喰われる」
「何故です」
イズミは、食い下がった。膝に載せた拳に、力がこもる。
「御爺様の説明では、双子というよりも、一つの身体に二つの魂があると言っているようにも聞こえます。それなら二重人格と言っていただいた方が、まだ納得の余地があります」
「二重人格」
イズミの反論を受けた國徳が、鼻を鳴らした。子供をあしらうような声に、微かな不機嫌が織り交ざる。
「
イズミは、黙る。黙るしかなかったからだ。
他人が聞けば、意味を汲めない台詞だろう。だが、イズミには通じていた。
皮肉の意味を知る者は、〝同胞〟以外に居はしない。
「近い将来、あの娘は居なくなる。皆が、
「……呉野、杏花さん。彼女は一体、何者ですか」
「判らん」
國徳は、目を眇めた。和室に揺蕩う藤色の影が、濃い
「だが、孫の事が『判らん』私でも、判るのは――〝二人居る〟という事実だけだ。
「何故、喰われると断言なさるのです」
「強い方が生き残り、弱い方は淘汰される。当然の定めだろう」
「共存は、あり得ないのですか」
「有り得ぬ」
語調が、力強い。
「あの娘の名付けについては、
「供養?」
「いつか、氷花の為に死ぬ。弔いの花となって死ねと、そんな願いで付いた名だ」
「御爺様」
「和泉。聞け」
厭わしい語りから逃げることを、國徳は許さなかった。次第に
「凍れば、永遠。故に、供花は、氷花になる。詩的過ぎると
「……僕は、納得できません」
言葉の圧を、振り切りながら。
イズミは、毅然と顔を上げた。
「御爺様は、諦めています。御爺様だけではなく、貞枝さんもです。――二人居る。判りました。そうでしょうね。僕には御爺様のような知覚は出来ませんが、貴方がそう言うのであれば、間違いなくそうでしょう。……ですが。その所為で杏花さんが死ぬと断言なさる辺りが、僕には納得できません」
「貴様の納得など、要らん」
ばっさりと、切り捨てられた。
感情と心を、ぽきんと手折られたようだった。非情な言葉にイズミは思わず固まったが、國徳は孫の反応を見ると、肩の力を緩めたように見えた。
「イズミ・イヴァーノヴィチよ。呉野和泉と名乗る事に、
「……ええ。そうですね。僕はイヴァンの息子です。父と連なる名を名乗る事に、親子としての絆も感じていますから。それに、やはり皆様から見て傍系だという点も気に掛かっておりますので、呉野和泉と名乗ることは恐縮です」
「
――きっぱりと、
イズミは面食らい、國徳を見る。國徳は顔色を一切変えず、事務的とも思えるほど淡々とした口調で言った。
「私が、赦す。お前が呉野和泉と名乗ることを、赦す。
「……何故、ですか」
「何故と、問うか」
國徳は、目を細めた。
勉強の不出来な子供へ諭すような、雲間から射す一条の光に似た慈しみを、厳格さという薄衣で包んだ言葉の意味を、イズミはまだ知らなかった。
決して一つの色では表現し得ない、
「いずれ、貴様から父と呼ばれる。息子になる青年に掛ける、最初の言葉として――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます