4-19 貞枝

 呉野家に戻ると、立てつけの悪い引き戸の音で気づいたのか、貞枝さだえがすぐに出迎えてくれた。

 杏花は母の姿を見ると「お母様」と嬉しそうに呼んで駆けていったが、娘を抱き留めた貞枝の方は、イズミをちらと見て意地悪く笑った。

 の表情を認めた途端、イズミは全てを悟っていた。

「貞枝さん。貴女も覗き見をしていたのですね。場所は、屋根裏部屋の窓といったところでしょうか」

て、何のことかしら」

 いけしゃあしゃあと貞枝は言う。黒い双眸は狐の目のように弧を描き、犯行を隠す気がないのは明白だ。イズミは、少しばかりむっとした。

「貴女は一体、どういう教育をしているのです」

「意外ときついい方をするのね、和泉君。叔母さん、とても寂しいわ」

「寂しい思いをするのは、貴女ではなく杏花さんですよ」

 さっと周囲に視線を走らせて、伊槻いつきの不在を確認する。イズミは声量を絞った早口で、貞枝に面と向かって陳情した。

「将来、己の安売りを後悔するのは杏花さんです。戒めるのが母の務めというものです」

「まあ。高校生の男の子から、そんなお説教をされるだなんて。和泉君、貴方って本当に真面目なのねえ」

「貞枝さん」

 本題からずれている。う言い返しかけたが、もう反論はそうと思った。貞枝の方が上手うわてなのだ。イズミが敵う相手ではない。

「……では、もういいです。國徳くにのり御爺様に呼ばれておりますので、これからお会いしてきます。どちらへ進んだら宜しいでしょうか」

「ご案内しますよ。どうぞ此方こちらへ」

 杏花の身体を離した貞枝が、ロングスカートを翻して、廊下を静々と歩き出した。イズミが貞枝についていくと、上りかまちに一人残された杏花が、手をひらひらと振ってくれた。

「お兄様、いってらっしゃいませ」

 律義な子だと思う。イズミも振り向きざまに「はい、行ってきます」と慇懃に答えると、此方こちらに横顔を見せた貞枝が、赤い唇のを持ち上げた。長い黒髪が一房、紺色のブラウスの肩から滑り落ちる。艶を弾く髪は麗しく、妖怪変化のごとき艶美さだ。

「随分、仲良しになったのですね」

「ええ。とても良いお嬢さんです。ですが、僕以外の人にも同じような事をするのではないかと心配です」

「あら。同じような事って何かしら?」

 まだ、からかう心算つもりなのか。イズミは失礼を承知の上でだんまりを決め込もうと考えたが、不意にれが絶好の機会だと気がついた。前を行く貞枝の背中へ、思い切って訊ねてみる。

「貞枝さん。これは一体、どういうことですか」

「これ、とは?」

 貞枝が、愉快げに笑った。背後を盗み見たイズミは、杏花の姿が消えている事を確認しながら「貴女には、僕の質問の意味が判るはずです」と小声で問うた。

「あの子は、呉野氷花さんのはずです。何故、皆が揃って杏花と呼ぶのです。氷の花で氷花なのだと、貴女が僕に教えたはずです」

「驚いたわ。覚えていたのね」

 貞枝が、イズミを振り向く。驚きと喜色が入り混じった笑みが、此方こちらへ悪戯っぽく向けられた。

「ええ、そうよ。あの子の本当の名は、呉野氷花。貴方の記憶に、間違いはありませんよ」

「では、何故です。貴女も、伊槻さんも、それに氷花さん自身まで」

「そういう〝アソビ〟だと思ってくれたらいいのよ、和泉君」

 廊下を進む足を止めないまま、貞枝が言う。歩くたびに、木の床板が軋る音がした。傾き始めた日の光が縁側から射し込んで、古めかしい日本家屋を橙色に染めている。甘やかさを含んだ盛夏の夕暮れ時の匂いが、ひぐらしの声を誘い出す。の家に来てから、れなりの時間が経過したのだ。

「……〝アソビ〟?」

 イズミは、訊き返す。

 の言葉は奇しくも、イズミの抱いた印象のものだったからだ。

「ええ。れは〝アソビ〟。――和泉君。私の娘を、あの場で杏花と呼んでくれた事に感謝します。伊槻さんはあまり乗り気ではない〝アソビ〟だから、つい一緒に文句をってくれそうな同胞探しをしてしまうのよ。御免ごめんなさいね。いやな目だったでしょう? あの人、お喋りのお相手が欲しいだけで、悪い人ではないのよ」

「……。それは構いませんが、何故です。何故そのような遊びをするのです」

「ふふ、何故かしら」

 貞枝は、笑ってはぐらかした。の誤魔化しが、イズミにはもどかしかった。

「教えては、頂けないのですか」

「いいえ、教えますよ。でも、私から聞かなくとも、國徳くにのり御父様が説明をして下さると思いますよ?」

「御爺様が?」

 イズミは、密かに驚いた。

 少女を、杏花と呼ぶ〝アソビ〟。厳格な印象の國徳も、の行為に加担しているのだろうか。首筋に触れた薄ら寒さを振り切って、イズミは貞枝をきっと見る。

 れから謁見えっけんする國徳に、事情を訊けるのだとしても、目の前の貞枝もまた〝アソビ〟の秘密を知っているのだ。直接訊かない手はなかった。

「何故、僕は呼ばれたのですか。用があったのは、御爺様の実子であり、僕の父であり、貴方の兄であるイヴァンだけだと思います。孫の僕は、添え物のはずです」

「貴方は本当に、質問ばかりなのねえ」

 くすくすと、貞枝が笑った。馬鹿にされた気もしたが、あまり腹は立たなかった。真実を知りたいという性急さだけが、の時のイズミの全てだった。

 答えを待つ為に口を噤むと、長い沈黙が場に降りた。れではへそを曲げたようにも取られかねないが、貞枝はイズミが機嫌を損ねたとは思っていないのか、れとも何も考えていないのか――ふと唐突に、感情の濃淡を消した声で、イズミに言った。

「……ねえ、和泉君。貴方は、私達と文学の話をしたでしょう。の時の鏡花きょうか談議で挙がったタイトル、貴方は今も覚えていますか?」

「はい? ……ええ、覚えています」

 突然の問いに面食らいながら、イズミは頷く。廊下の角を曲がると、日の光が遮られた。縁側から少し離れただけで、廊下にはあっという間に薄闇が迫る。日中の暗がりが思いのほか静かで不気味で、イズミは無意識に息を詰めながら、前方をゆるゆると歩く貞枝に言った。

「伊槻さんも貞枝さんも、何作品か挙げられましたが、最終的に貴女がまとめる形で述べたタイトルは……伊槻さんが『女客おんなきゃく』と『売色鴨南蛮ばいしょくかもなんばん』、貞枝さんが『外科室げかしつ』、そして御爺様が……確か、『化銀杏ばけいちょう』」

「ええ。そうよ、『化銀杏ばけいちょう』!」

 貞枝の語調が、不意に強くなった。

 イズミは、吃驚びっくりする。怒りか、れとも感嘆か。気の昂ぶりが判るだけで、の激情の名が判らない。爆ぜた感情を目の当たりにして初めて、貞枝が胸中に秘めた情動の存在をようやく知った。そして強引に知らされていまだ尚、れまで狐面の笑みを崩さなかった女が、情念の刃を騙し討ちのようにイズミへ差し向けたことが信じ難かった。

 気圧されて黙るイズミを、貞枝が緩やかに振り返った。薄闇の中でわらかおは、やはり幽鬼のようだった。

「貴方がイズミで、私の娘がキョウカ。イヴァンお兄様だけは、名付け親が貴方のロシアの御婆様……ソフィヤさんだったそうだから、違うというだけの話であって。呉野國徳くにのりの娘である私が、ねえ、文学的な名を頂かないというのでは、れでは全く、道理に合わないとは、思いませんか……?」

「……何か、由来があるのですか? 貞枝さんという、貴女のお名前には」

 慎重に、イズミは訊いた。貞枝の感情をれ以上刺激しないよう、腫物に触れるように、同時に、の扱いを表には出さぬよう気をつけながら、う訊いた。

 そんな配慮の声を受けて、貞枝が酷薄に微笑んだ。

「貴方に『化銀杏』のお話を、少しだけ聞かせてあげましょうか」

 よく通る声に、自嘲の響きが滲む。の声は、今までイズミが耳にしてきたどんな声より、卑屈な色を含んでいた。

「――お家の事情で、十四歳という若さで十歳以上も歳の離れた男と夫婦になった少女、おてい。おていは二十一歳になっても、年上の旦那さんの事がどうしても好きになれなくてねえ。お家に下宿している美少年、芳之助よしのすけに、旦那さんへの不平不満を、延々と聞いてもらうのよ。とてもたのしそうに。少女のようにきらきらして。其の芳之助よしのすけという子の事を、憎からず思っているのね。ふふ」

「……」

「ああ、あと。おていは黒髪を丸髷まるまげに結っているのよ。銀杏返いちょうがえしにも結いたいけれど、旦那さんにいけないってわれているそうよ。だからお貞は、髪を丸髷に結っている」

「丸髷。……銀杏返し」

 台詞を復唱して、イズミは頷いた。

 丸髷も銀杏返しも、昔の日本人女性の髪の結い方を指すはずだ。其処そこまでならかろうじて知識があったが、具体的な写真の記憶にまでは結びつかなかった。

「髪の結い方が、今のお話と何か関係があるのですか?」

 う訊ねると、「ええ」と貞枝は肯定した。イズミが問いを投げかけることを、あらかじめ知っていたかのようだった。

「さっきった、おていのいい人。美少年の、芳之助よしのすけ。彼にはお姉さんがいたのだけれど、もう亡くなっていてね。の人は髪を銀杏返いちょうがえしに結っていたそうなのよ。れで芳之助は、お貞が髪を銀杏返しに結っている時は『姉様』、髪を丸髷に結っている時は『奥様』という具合に、お貞の事を呼び分けていたのよ。……残酷なことよねえ」

 貞枝は、皮肉げに笑った。

「……」

 イズミは、何も言わなかった。相槌を打たずに、敢えて会話を止めにした。多少の我は殺してでも調和を選ぶ、イズミ・イヴァーノヴィチらしくない。自覚はあったが、己に居心地の悪さをもたらした原因に気づいたからだ。

 貞枝の文学講釈が、どうにも聞きにくかった所為だ。

 の聞きにくさが何に由来しているのか、其方そちらの理由も判っていた。

 貞枝の感情が、多分に混じっている所為だ。

 れも、恐らくは――良い感情ではないのだろう。

 作中のお貞が、美少年の芳之助に愚痴を零したというのなら、『化銀杏ばけいちょう』の話をすると言いながら、己の感情という毒を織り交ぜた貞枝の言葉はどうだろう。

 貞枝は、イズミに小説の概要を話したいわけではない。

 愚痴を、言いたいだけなのだ。

「貞枝さん。御爺様を、お待たせしています。……急がなくては」

「……やっぱり、真面目なのねえ」

 貞枝は、くすりと笑った。の美貌の向こうに、ぴたりと閉じられた障子戸が見える。屹度きっと此処ここ國徳くにのりがいるのだ。今すぐに貞枝を追い抜いて、ほとんど会話を交わしていない祖父の元へ逃げ込みたかった。の実のない会話を一刻も早く打ち切る為なら、何処どこにだって行きたかった。

「和泉君。丸髷まるまげはね、の当時の日本人の、既婚女性の間で代表的な髪型なのよ。対する銀杏返いちょうがえしは、未婚の小娘や芸者の髪型として広まっていた歴史があるわ」

「……」

「銀杏返しの時にしか姉様って呼んで貰えなくて、れ以外は奥様。おていさんとも呼んでくれない。そんなのって、あんまりじゃないかしら?」

「……。貞枝さん」

「そんな美少年に、お貞は言うのよ。旦那さんの愚痴を。次第に興に乗りながら、次から次へと陰口が溢れ出る。遊びも知らない勤勉な旦那さんを、どんどんと貶めて、こき下ろしていく。そんな姿を、ねえ、心憎からず思う少年に、陰弁慶かげべんけいだなんてわれちゃあ、心も壊れるというものよね。……気持ちが判らないわけじゃないのですよ。私は」

「……お貞は、どうなるのですか」

「さあ? ……でも、和泉君」

 貞枝が一度、言葉を切る。

 そして、莞爾にっこりと。狐面のかおで、こう言った。

れで、判ったのではなくて?」

「……」

 物語の結末は、当然だが知る由もない。

 れでも確かに、貞枝がイズミに伝えたいことだけは、理解した。

 貞枝は薄暗く微笑むと、煙管きせるから棚引たなび紫煙しえんのような厭世観えんせいかんを唇に乗せて、イズミに囁いたのだった。

「私は、貞枝。――『貞』の字を、お貞から貰い受けた貞枝。私の名前は、『化銀杏ばけいちょう』で狂おしい情念に取り憑かれた、女の名前が由来なのですよ」

「……貴女は、それがおいやなのですか?」

「ええ、厭よ。ちゃってしまいたいくらい」

「名前は、打っ棄ることは出来ません」

「そうねえ。じゃあ、名付け親の御父様を、恨めばいいのかしら?」

「何がそんなにも、お厭なのですか」

 イズミは、訊いた。もう何も訊くまいと思っていたが、気が変わったのだ。

 貞枝は恐らく、感情の機微に敏感だ。イズミがの会話をいとい始めている事など、とうに看破されているだろう。

 たとえうだとしても、イズミは胸中に湧き上がった感情を見過ごせなかった。屹度きっと美しいに違いない文学を、否定された気がしたからだ。

 ささやかな義憤に駆られたイズミの心を、貞枝がどう捉えたかは判らない。ただ、つと此方こちらに向けられた眼差しは、意外にも優しい憂いに包まれていた。なぜ判ってくれないのかと、思慮の浅い情夫を恨めしげに詰るように、黄昏時が迫る廊下の夕闇で、貞枝は目を細めて微笑わらっている。

 まるで、観念するように。

 ――観念小説。

 そんな言葉が脳裏を掠め、不意を打たれた気分になった。

「……私は、の物語があまり好きではないのですよ。だって、私のようなんですもの。名前の由来の人物がいて、の女は陰弁慶かげべんけい。好きになれという方が無理な話ではなくて?」

 貞枝の声が、耳朶を打つ。一瞬の不思議な感慨は、のまま意識の片隅へ、夏の川面に浮かぶ木の葉のように、緩やかに流れ去っていった。

「……貞枝さんは先程、僕に本を貸して下さると仰いましたね」

「ええ。いましたよ」

「僕は、真っ先に『化銀杏ばけいちょう』を読ませて頂こうと思います。そして、その感想を必ず貴女へ伝えに来ます」

 貞枝が、足を止めた。振り返る所作が、鼻腔に花の香りを運んでくる。飴色の薄明りに支配された廊下に茫と立った美女と、イズミは真っ向から対峙した。艶やかな赤に濡れた唇が、簡素な言葉を紡ぎ出す。

「ええ。いいわ」

 少し恐い返事だった。笑みを絶やさなかった妖女が初めて、顔から笑みを消していた。背筋に氷を流し込まれたような怖気を感じたが、柄にもない喧嘩を自ら売っておきながら、臆病風に吹かれた顔は見せたくない。意地と覚悟で作り上げた無表情の仮面を張り付けて、イズミは貞枝と見つめ合った。

 静かな根競べに、先に飽きたのは貞枝だった。

 整った顔に、笑みが戻る。人を食ったような、狐面の顔。イズミが最も苦手とする、呉野貞枝の笑みだった。

「……。れじゃあ私、本を取って参ります。貴方の御爺様のお部屋は、其処そこの和室です。和泉君、いってらっしゃい」

「……はい。有難う御座います」

 イズミは、貞枝の横を通り過ぎる。生暖かい風が、すうと流れた。輻射ふくしゃで温められた廊下を一人で進み始めたイズミの横顔を、貞枝の流し目が追ってくる。障子戸の前に辿り着いたイズミは、床に粛々と膝をついた。

 そして、少し離れた所に立つ貞枝の存在を気にしながら――イズミは室内の老人に聞こえるように、心持ち大きな声で呼びかけた。

「御爺様。失礼いたします。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノが参りました」

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