4-19 貞枝
呉野家に戻ると、立てつけの悪い引き戸の音で気づいたのか、
杏花は母の姿を見ると「お母様」と嬉しそうに呼んで駆けていったが、娘を抱き留めた貞枝の方は、イズミをちらと見て意地悪く笑った。
「貞枝さん。貴女も覗き見をしていたのですね。場所は、屋根裏部屋の窓といったところでしょうか」
「
いけしゃあしゃあと貞枝は言う。黒い双眸は狐の目のように弧を描き、犯行を隠す気がないのは明白だ。イズミは、少しばかりむっとした。
「貴女は一体、どういう教育をしているのです」
「意外ときつい
「寂しい思いをするのは、貴女ではなく杏花さんですよ」
さっと周囲に視線を走らせて、
「将来、己の安売りを後悔するのは杏花さんです。戒めるのが母の務めというものです」
「まあ。高校生の男の子から、そんなお説教をされるだなんて。和泉君、貴方って本当に真面目なのねえ」
「貞枝さん」
本題からずれている。
「……では、もういいです。
「ご案内しますよ。どうぞ
杏花の身体を離した貞枝が、ロングスカートを翻して、廊下を静々と歩き出した。イズミが貞枝についていくと、上り
「お兄様、いってらっしゃいませ」
律義な子だと思う。イズミも振り向きざまに「はい、行ってきます」と慇懃に答えると、
「随分、仲良しになったのですね」
「ええ。とても良いお嬢さんです。ですが、僕以外の人にも同じような事をするのではないかと心配です」
「あら。同じような事って何かしら?」
まだ、からかう
「貞枝さん。これは一体、どういうことですか」
「これ、とは?」
貞枝が、愉快げに笑った。背後を盗み見たイズミは、杏花の姿が消えている事を確認しながら「貴女には、僕の質問の意味が判るはずです」と小声で問うた。
「あの子は、呉野氷花さんのはずです。何故、皆が揃って杏花と呼ぶのです。氷の花で氷花なのだと、貴女が僕に教えたはずです」
「驚いたわ。覚えていたのね」
貞枝が、イズミを振り向く。驚きと喜色が入り混じった笑みが、
「ええ、そうよ。あの子の本当の名は、呉野氷花。貴方の記憶に、間違いはありませんよ」
「では、何故です。貴女も、伊槻さんも、それに氷花さん自身まで」
「そういう〝アソビ〟だと思ってくれたらいいのよ、和泉君」
廊下を進む足を止めないまま、貞枝が言う。歩くたびに、木の床板が軋る音がした。傾き始めた日の光が縁側から射し込んで、古めかしい日本家屋を橙色に染めている。甘やかさを含んだ盛夏の夕暮れ時の匂いが、
「……〝アソビ〟?」
イズミは、訊き返す。
「ええ。
「……。それは構いませんが、何故です。何故そのような遊びをするのです」
「ふふ、何故かしら」
貞枝は、笑ってはぐらかした。
「教えては、頂けないのですか」
「いいえ、教えますよ。でも、私から聞かなくとも、
「御爺様が?」
イズミは、密かに驚いた。
少女を、杏花と呼ぶ〝アソビ〟。厳格な印象の國徳も、
「何故、僕は呼ばれたのですか。用があったのは、御爺様の実子であり、僕の父であり、貴方の兄であるイヴァンだけだと思います。孫の僕は、添え物のはずです」
「貴方は本当に、質問ばかりなのねえ」
くすくすと、貞枝が笑った。馬鹿にされた気もしたが、あまり腹は立たなかった。真実を知りたいという性急さだけが、
答えを待つ為に口を噤むと、長い沈黙が場に降りた。
「……ねえ、和泉君。貴方は、私達と文学の話をしたでしょう。
「はい? ……ええ、覚えています」
突然の問いに面食らいながら、イズミは頷く。廊下の角を曲がると、日の光が遮られた。縁側から少し離れただけで、廊下にはあっという間に薄闇が迫る。日中の暗がりが思いのほか静かで不気味で、イズミは無意識に息を詰めながら、前方をゆるゆると歩く貞枝に言った。
「伊槻さんも貞枝さんも、何作品か挙げられましたが、最終的に貴女がまとめる形で述べたタイトルは……伊槻さんが『
「ええ。そうよ、『
貞枝の語調が、不意に強くなった。
イズミは、
気圧されて黙るイズミを、貞枝が緩やかに振り返った。薄闇の中で
「貴方がイズミで、私の娘がキョウカ。イヴァンお兄様だけは、名付け親が貴方のロシアの御婆様……ソフィヤさんだったそうだから、違うというだけの話であって。呉野
「……何か、由来があるのですか? 貞枝さんという、貴女のお名前には」
慎重に、イズミは訊いた。貞枝の感情を
そんな配慮の声を受けて、貞枝が酷薄に微笑んだ。
「貴方に『化銀杏』のお話を、少しだけ聞かせてあげましょうか」
よく通る声に、自嘲の響きが滲む。
「――お家の事情で、十四歳という若さで十歳以上も歳の離れた男と夫婦になった少女、お
「……」
「ああ、あと。お
「丸髷。……銀杏返し」
台詞を復唱して、イズミは頷いた。
丸髷も銀杏返しも、昔の日本人女性の髪の結い方を指すはずだ。
「髪の結い方が、今のお話と何か関係があるのですか?」
「さっき
貞枝は、皮肉げに笑った。
「……」
イズミは、何も言わなかった。相槌を打たずに、敢えて会話を止めにした。多少の我は殺してでも調和を選ぶ、イズミ・イヴァーノヴィチらしくない。自覚はあったが、己に居心地の悪さを
貞枝の文学講釈が、どうにも聞きにくかった所為だ。
貞枝の感情が、多分に混じっている所為だ。
作中のお貞が、美少年の芳之助に愚痴を零したというのなら、『
貞枝は、イズミに小説の概要を話したいわけではない。
愚痴を、言いたいだけなのだ。
「貞枝さん。御爺様を、お待たせしています。……急がなくては」
「……やっぱり、真面目なのねえ」
貞枝は、くすりと笑った。
「和泉君。
「……」
「銀杏返しの時にしか姉様って呼んで貰えなくて、
「……。貞枝さん」
「そんな美少年に、お貞は言うのよ。旦那さんの愚痴を。次第に興に乗りながら、次から次へと陰口が溢れ出る。遊びも知らない勤勉な旦那さんを、どんどんと貶めて、こき下ろしていく。そんな姿を、ねえ、心憎からず思う少年に、
「……お貞は、どうなるのですか」
「さあ? ……でも、和泉君」
貞枝が一度、言葉を切る。
そして、
「
「……」
物語の結末は、当然だが知る由もない。
貞枝は薄暗く微笑むと、
「私は、貞枝。――『貞』の字を、お貞から貰い受けた貞枝。私の名前は、『
「……貴女は、それがお
「ええ、厭よ。
「名前は、打っ棄ることは出来ません」
「そうねえ。じゃあ、名付け親の御父様を、恨めばいいのかしら?」
「何がそんなにも、お厭なのですか」
イズミは、訊いた。もう何も訊くまいと思っていたが、気が変わったのだ。
貞枝は恐らく、感情の機微に敏感だ。イズミが
たとえ
ささやかな義憤に駆られたイズミの心を、貞枝がどう捉えたかは判らない。ただ、つと
まるで、観念するように。
――観念小説。
そんな言葉が脳裏を掠め、不意を打たれた気分になった。
「……私は、
貞枝の声が、耳朶を打つ。一瞬の不思議な感慨は、
「……貞枝さんは先程、僕に本を貸して下さると仰いましたね」
「ええ。
「僕は、真っ先に『
貞枝が、足を止めた。振り返る所作が、鼻腔に花の香りを運んでくる。飴色の薄明りに支配された廊下に茫と立った美女と、イズミは真っ向から対峙した。艶やかな赤に濡れた唇が、簡素な言葉を紡ぎ出す。
「ええ。いいわ」
少し恐い返事だった。笑みを絶やさなかった妖女が初めて、顔から笑みを消していた。背筋に氷を流し込まれたような怖気を感じたが、柄にもない喧嘩を自ら売っておきながら、臆病風に吹かれた顔は見せたくない。意地と覚悟で作り上げた無表情の仮面を張り付けて、イズミは貞枝と見つめ合った。
静かな根競べに、先に飽きたのは貞枝だった。
整った顔に、笑みが戻る。人を食ったような、狐面の顔。イズミが最も苦手とする、呉野貞枝の笑みだった。
「……。
「……はい。有難う御座います」
イズミは、貞枝の横を通り過ぎる。生暖かい風が、すうと流れた。
そして、少し離れた所に立つ貞枝の存在を気にしながら――イズミは室内の老人に聞こえるように、心持ち大きな声で呼びかけた。
「御爺様。失礼いたします。イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノが参りました」
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