4-9 死人
藤崎が、目を見開いた。驚きの表情を視界の端に捉えたまま、拓海は和泉を見つめて答えを待つ。
和泉の表情は、変わらなかった。柔和な笑みを湛えたまま、「いいえ」と短く答えて笑っている。
「神社では七瀬さんにああ言いましたが、実は直後に状況が変化しました。氷花さんは、七瀬さんに恐れを為しています。七瀬さんと喧嘩を続ければ、次はどんな『合わせ鏡』に囚われるか分かりませんから。その証拠に、学校で会っても避けられているのでしょう? 確かに以前の事件で怨恨は生まれましたが、僕は安心しても良いと思いますよ。捨て身の喧嘩ができるほど、あの子には〝アソビ〟に対する執着も、覚悟も矜持もないはずです」
「……分かりました。二つ目の質問です。去年、氷花さんが
これには、藤崎も黙っていられなかったらしい。「イズミ君」と硬い声で和泉を呼んだ。和泉は、困ったように眉尻を下げた。
「克仁さん。後ほど必ずお話します。さて、拓海君。中学生の少女を転校させるのは大変な事ですよ? ですが、僕としてはそれでも転校させたいのが本音です。七瀬さんの安全をより確かなものとする為には、それは必須の処置でしょう。その考えには
「当たり前です」
藤崎の声には、微かな憤りが滲んでいた。
「私は、氷花さんが袴塚西中学から転校した経緯さえ、聞かされてはいないのですよ。にもかかわらず、また転校させるという。理由を私に
「……拓海君、この通りです。僕は克仁さんにとって、どんどん悪者になっていくようです。親不孝者で申し訳ありません」
「全くですよ。今日は家族会議です。……イズミ君、夕飯を食べて帰りなさい。久しぶりですから、ゆっくりしていきなさい」
「有難う御座います。克仁さん」
親密に、二人は笑い合う。家族の会話に水を差すのは気が引けたが、「三つ目の質問をします。次は、藤崎さんに」と拓海は質問を割り込ませた。
「藤崎さんが、呉野氷花さんを預かっているのは分かりました。でも、それならどうして篠田さんは、今までその事実を知らなかったんですか」
この謎は、是が非でもはっきりさせておきたかった。七瀬の見せたショックで打ちのめされたような顔が、拓海には忘れられないのだ。
「篠田さんからは、この家に泊まりに来たこともあると聞きました。そんな篠田さんが、氷花さんの存在に全く気づかないのは不自然です。藤崎さんは、隠していたんですか」
「ええ。隠していましたよ」
簡潔に肯定されて、拓海は度肝を抜かれる。藤崎は、ただ寂しげに笑うだけだ。
「どうして、言わなかったんですか」
「訊かれなかったからですよ。……私はイズミ君を預かるよりもずっと前に、妻とは若い時分に死別していますから。自分と血の繋がった子供は一人もいません。門弟の間では有名な話なので、子供なりに気を遣ってくれたようですね。家庭について訊かれる事は、ほとんどありません。入門したての門弟が訊いてきても、私が事情を話した途端、申し訳なさそうに委縮してしまいます。皆、優しい子ばかりです」
「……」
「私は、その優しさに便乗しました」
藤崎の瞳に灯る憂いの色が、また少しだけ濃くなった。
「もし、私が氷花さんの存在を門弟に一言でも喋ったならば。
「……すみません」
「謝らないで」
藤崎が手を伸ばして、ぽんぽんと拓海の頭を撫でてくれた。子供をあやす親のような愛情に触れた時、罪悪感で息が詰まった。
優しい藤崎に、拓海はまだ問答を続けなくてはならないのだ。それが途轍もない苦行となって、良心をきりきりと締め付ける。
だが――どんなに、止めたくても。
「……四つ目を、訊きます。呉野氷花さんの〝言霊〟についてです」
感情を殺して、拓海は顔を上げた。
「さっき和泉さんは、〝霊感持ち〟は五人いると言いました。でも、その前に〝霊感持ち〟同士でも『見え方』が違うとも言いました。それは、どういう意味ですか。お互いに、できることが違うって事ですか? 呉野氷花さんは〝言霊〟が使えますけど、他の人には無理って事ですか?」
「……ほう」
和泉が、吐息をついた。拓海の決心を慈しむように、思慮深い笑みが白い美貌に浮かぶ。
「最後の質問に、それを持ってきましたか。克仁さんが氷花さんの〝言霊〟について全く知識がないと判ったから、後回しにしたのですね。君はやはり優しいですね」
「イズミ君。君がそんな風に全てバラしちゃ、坂上君も立つ瀬がないでしょう。君はどこまで無粋を働けば気が済むのです」
からからと、藤崎が笑う。預かりの娘について何も知らなかった痛みを突かれて尚、藤崎は傷ついた様子を見せなかった。拓海は申し訳なさが極まって俯きかけたが、藤崎は気丈な声で続けた。
「
「同胞の、識別?」
「ええ。何しろ、〝同胞〟の〝傷〟だけは、私にも『見えない』のですから」
「え?」
ぴんと、閃くものがあった。驚く拓海へ、和泉は優雅に首肯した。
「君が考えた通りですよ、拓海君。僕達は言葉の形で確認せずとも、互いが〝同胞〟であると見抜けるのです。もちろん、克仁さんにできることや、僕にできることは違います。ですが、識別の能力には、どうやら個人差はないようです」
「それは、つまり……」
「はい。克仁さんであれば、何も『見えない』相手。僕であれば、何も『分からない』相手。そして、氷花さんであれば――〝言霊〟が『通用しない』相手。……残りの二名は、僕達ほど特徴的ではありません。識別のみの能力です。ですが、分かりやすいものでしょう? 己が持つ他者とは異なる五感の機能が、全く利かない相手。要するに――本当の意味で、普通の人間として対等な付き合いができる相手。それこそが、我々の言う〝同胞〟です」
「……!」
拓海は、弾かれたように藤崎を振り向いた。
「藤崎さん、じゃあ……呉野氷花さんが〝霊感持ち〟だって事は、〝言霊〟の異能について知らなくても、最初から分かってたんですか?」
「ええ。知っていましたよ。ですが、何も
「分かってたのに、どうして」
「其の理由なら、今イズミ君が云いましたよ、坂上君」
切羽詰まって訊ねる拓海に、藤崎は微笑を返してくる。細められた双眸で、穏やかな光が揺れていた。
「心の内が全く『分からず』、何も『見えない』相手。会話を積み重ねて日常を過ごし、日々を繋げていくことで、やっと掴めていく距離感と絆。
「……」
常人ならざる異能を宿した初老の男の、積年の孤独と、
「私は、氷花さんの親ではありません。家族としての距離感も、
「……はい」
「
微笑んだ藤崎が、肩を落とした。たったそれだけの所作が藤崎を一回り小さく見せた気がして、拓海の胸がずきんと痛む。浴衣の
「……克仁さん。これからきちんと、お話しますよ。今まで黙っていて、すみませんでした。ですが、貴方は氷花さんの味方ですから。僕は氷花さんから、氷花さんに優しく接してくれる存在を、奪いたくはなかったのです。彼女を歪みなく『愛』する人に、彼女を叱らせたくはなかったのです。貴方が傷ついてしまうところも、僕は見たくなかったのです」
「黙られている方が、辛いこともあるのですよ。イズミ君はやはり子供ですね」
「……子供、ですよ。今日の僕は」
和泉が、しめやかに笑った。
その笑い方は、やはり拓海には意味深なものに思えた。
違和感を覚えた時――驚きのあまり、呼吸が止まった。
――笑顔が、違う。
純度の高い善意の笑みを、今まで頑なに崩さなかった男、呉野和泉。
その和泉が、笑みの質を一変させていた。
僅かに伏せられた白い
暗鬱な、笑み。嗜虐的で、純然たる、悪意の笑み。
――そんな笑い方をする人間を、拓海は一人だけ知っている。
あの日、学校の調理室で拓海は見たのだ。あらん限りの〝言霊〟の悪意に攻め入られ、錯乱を見せた篠田七瀬に、対面の少女が浮かべた悪辣な笑み。
呉野氷花の、笑み。
「坂上拓海君。もう一度、僕に自己紹介をさせて下さい。――初めまして。僕は、イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノと申します」
風が、不意に吹き荒れた。障子窓から入る夏の風が、三者の衣服を乱していく。
ぬるい風に全身を嬲られた瞬間、拓海は花の影を畳に見た。
そして、和室の壁一面に、青く澄み渡った夏空と、灰色の住宅街が、映像を投影したかのように現れて、六畳一間の氷花の部屋が、全く別の夏景色に、鮮やかに塗り替えられていって――。
「イズミ・イヴァーノヴィチ。それは、九年前の八月に命を投げ出した、十八歳の青年の名です。……ああ、ご挨拶が遅れましたが、今日の僕は死人です。今日という日まで誰にも真相を語ることのなかった死者であり、
こうして、拓海は戦線から一時離脱した。
長い悲劇の上映に、魂が耐えられるのかさえ、判らないまま――途方もなく孤独な場所へ、赴く為に。
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