4-10 イズミ
父と母は、ついに離縁を決めてしまった。
平和で慈悲深い終焉を前に、感傷の言葉など不要だった。
「お父さん。お疲れ様です」
息子にのんびりと声を掛けられた男は、玄関先で困ったように目を細めた。イズミも自然と微笑みを返す。御託は抜きにして、父との再会が嬉しかったのだ。
灰色の住宅街の一角、『
出迎えの為に出てきた玄関先は、茹だるような熱気に包まれていた。飛び石の埋まる白砂が、
陽炎が揺らめく門の前に立つ父は、少しばかり華奢だった。シャツの袖から伸びた腕も、骨ばっていて痩せている。薄幸な印象を抱いた理由は、柔らかな髪色の所為だろうか。燦々と降り注ぐ八月の日差しは、父の髪に金色の輝きを与え、天の使いを彷彿とさせた。
イズミの髪と、似た色だ。
門を越えて、塀沿いに
入道雲が綿菓子のように立ち上る青空の下、向かい合う長身の男二人の影は青かった。イズミの身長は百八十に届くくらいだが、父はそんなイズミよりさらに背が高い。幾つだったか訊ねかけたが、些細なことなので止めにした。
父と話せる時間は、いつも有限なのだから。
そんな微々たる拘泥を心に留めながら人と会話をしているのかと思うと、
黒い革靴を履いた父の足が、イズミの正面に立っていた。
「……おかえりなさい。お父さん」
父を軽く見上げたイズミは、内心驚いていた。父と向き合う時、以前はもっと上を向くように見上げていたからだ。離婚の話よりも
「ただいま。イズミ。久しぶりに会って、お疲れ様はないだろう」
「ですが、他に言いようがありません。的外れだと言うのなら、お父さんは疲れていないのですか?」
イズミが訊き返すと、父は余計に困ったような顔をした。親しみやすさが滲み出ている表情が、先ほど感じた東洋人風という感慨を、より一層強くさせた。イズミよりも父の方が、ロシアの血が薄い所為もあるだろう。
イズミが父の立ち姿を観察していると、父はおもむろに、ふ、と破顔した。偏屈な息子の思索に、父の理解が追いついたのだ。
「イズミは相変わらずのようだ。元気で安心したけれど、少し痩せたんじゃないか? ちゃんと食べているのかい?」
「食べていますよ。
逸らした話題をすぐに戻され、父は沈黙する。イズミは父に意地悪をする気はなかったが、質問には答えてほしかった。我ながら幼稚な反抗だと自覚はあるが、其れくらいの我儘は、久しぶりなのだから許してほしい。
控えめな抗議が伝わったのか、父は吐息をついた。煙草の
「ああ。疲れたよ。疲れたさ。でも、疲れたなんて言ったら、ジーナにあんまり失礼だ。可哀そうな事をしたんだから、そんな風に言ってはいけないよ」
「可哀そうだなんて、本気で思っているのですか? お父さんは、お母さんが可哀想だと?」
イズミは悪びれずに、
「いいえ、思っていませんね。お父さんもお母さんも、そんな風には思っていません。お互いに清々したのではないですか? 僕は少しすっきりしましたよ。ようやく蹴りがついたのですから。長かったですね」
「イズミ」
流石に呆れたのか、あけすけな物言いを聞いた父の眉根が寄せられる。
「……これで良かったんだとは思っているよ。僕もだけど、ジーナもね。ただ、イズミとしては思うところがあるんじゃないのかい? ジーナは君に愛想を尽かされるんじゃないかと、今でも怯えているんだ」
「愛想を尽かす」
目を瞬いて、イズミは父の顔を見る。
愛想を尽かす。『愛』が尽きる。なかなか酷い言葉だった。少なくともイズミの方は「愛想を尽かした」覚えはないのだが、
せっかく再会し、折り合い、和解できたというのに、すぐに言葉で仲違いしてしまう。だが、
イズミは
「僕が何故、お母さんに愛想を尽かさねばならないのです」
「だって、僕らはそれだけのことをイズミに強いただろう」
「僕がお父さんとお母さんのお二人に、何を強いられたというのです」
イズミは、本気で
しかし、流石に
「何を、って、イズミ……」
途方に暮れた様子で、父は呟く。やがて微かな諦観を黒水晶のような瞳に浮かべると、真っ直ぐ
蝉が、じじっと鳴く声がした。近隣の家から飛んできて、庭の
そして、ぽつりと。水を更地へ一滴落とすように、言った。
「……とても重く、十八の青年には、出来ることなら、背負わせたくはなかったものだよ」
じりじりと、蝉が鳴く。
「十八です。お父さん。夫婦が夫婦でなくなっても、一応受け止められる年齢です。僕を心配し過ぎですよ」
沈黙が、降りる。イズミにとっては、
侘しさを感じさせる表情で、父は若木を見上げていた。視線を追うと、空へと伸びる細枝の先に、虹色の羽の反射がきらりと見える。
「日本の夏も、やっぱり美しいな」
「お父さんも、これからは毎年こちらでしょう?」
「ああ。そうだね。……それに、あちらへ詣でれば、もっと美しい景色が見られるだろうね」
微かに伏せられた睫毛は長く、父の風貌を意識した。
「イズミ。
「あと一時間は戻りませんよ。図書館での打ち合わせに参加するそうです」
「図書館?」
「ええ。次回の絵本の読み聞かせは、今までと趣向の異なる催しになるそうです。人形劇を上演すると聞きました」
「克仁さんは、そんなこともやっているのか」
「いいえ、人形劇は専門の方にお任せして、克仁さんは恒例通り絵本の読み聞かせ、もしくは紙芝居での参加ですね。ブックトークもやるかもしれないと仰っていましたが、人形劇でかなり尺を取りそうですから、今回はなしになるのではないかと思います。……克仁さんも、変わりないですよ。とてもお元気です」
「それを聞いて、安心したよ」
父は満足そうに、言葉通りの安堵の顔で微笑んだ。
日陰で微笑みかけられて初めて、日差しの下では気づかなかった父の首に刻まれた皺に気づいてしまう。頬や額の辺りにも、知らない皺が増えている。変わらないのは、イズミを見つめる黒い瞳の、慈愛の深さだけだった。
父に老いの影が迫るように、これから会う回数が減っていくであろう母もまた、時の流れに呑まれていく。異国の母へ、イズミは遠く思いを馳せた。
次に母と会うのは、年末の冬休みになるだろう。だが、受験期の長期休暇だ。進路を左右する大切な時期に、果たしてロシアに行けるのか、イズミには確たる自信も実感もなく、誠意もあまり持てなかった。そんな曖昧さが申し訳なく、母の顔を思い出そうとした。すぐには思い出せず、少し焦る。簡単に忘れていい相手ではない。躍起になって記憶を呼び起こそうとして、思考の鈍磨に気がついた。
夏の暑さが、イズミから冷静さを奪ったのかもしれない。
「お父さん。荷物はそれだけですか。もっと大荷物で来られるのかと思いましたよ」
イズミは、父の持つ革鞄と白い紙袋を見下ろした。父は、「ああ」と頷くと柔和に笑った。やはり照れ隠しのような笑みだった。
「克仁さんへのご挨拶は明日に出直そうと思って、お土産をホテルに置いてきてしまったよ。ここでイズミに会えるんだから、持ってきたらよかったな。……イズミ、そのまま出られるかい?」
「はい。お父さん、休まなくてもいいのですか? お疲れでしょう。冷たいお茶を出しますよ」
出会い頭に「お疲れ様」と声を掛けたばかりなのに、つい同じ台詞を繰り返していた。はっと気づくと、父は
「いいんだ。イズミ。有難う」
父の手が、イズミの頭に乗せられた。伸びた背丈を測るように。
懐かしさが、不意を打って胸に迫った。
父は、確実に老いていく。イズミが知らぬ間に老いていく。老いから老いへの変遷の隙間に、イズミの居場所は
そんな家族の在り方を、イズミは寂しく思った事はない。父の首から、目を逸らす。見てはいけないものを見てしまった後ろめたさで、胸が詰まった。
だが、
イズミは何事もなかったかのように首を振ると、表情を取り繕って薄く笑い、白昼夢のように湧いた感慨を、そっと胸の奥へ仕舞い込んだ。感傷に浸る時間は、父と別れた後で取ればいい。だから今は、必要なかった。
「行こうか。イズミ」
父の手が、イズミの頭から離れていく。細い指を追うように、髪がさらりと風に流れた。
日向へ歩き始める父の背中は、やはりどこか華奢だった。飛び石を辿る足取りはゆらゆらと心許なく、きちんと食事を
イズミは呆れと心配の溜息を吐いてから、とん、と父に
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