4-11 国際電話

 父であるイヴァンから突然の国際電話を受けた時、イズミは藤崎克仁ふじさきかつみの自宅にて、のんびりと本を読んでいた。

 夏の夜。冷房のない部屋は、籠った熱気で蒸し暑く、とても過ごせたものではない。窓を開け放したが最後、蚊や蛾といった羽虫が光に吸い寄せられて集ってくるので換気も出来ず、消灯する就寝時にしか、部屋を夜気で満たせなかった。

 うなるとイズミの居場所は、冷房のついた部屋、克仁のいる一階居間が中心になるのだった。

 食事の片付けや入浴が終わった後、克仁は居間でくつろぐ事が多い。多趣味の人なので時間の過ごし方は様々だが、大抵は民俗学関係の資料の読書か、絵本の読み聞かせの研究の為の読書、実践、自己研鑽けんさん

 つまり、克仁が読書に耽る限り、居間はとても静かなのだ。テレビも付かない涼しい居間は、高校三年生であるイズミにとって、勉強をする上で申し分ない環境と言えた。

 だからイズミは夏場になると、勉強道具一式を抱えて、いそいそと居間へ下ってくる。克仁が座るソファから少し離れたテーブルへ遠慮なく引っ越し作業を遂行し、黙々と勉強をこなしていく。の引っ越し作業は毎晩例外なく繰り返され、夜が深まって就寝時刻が近づくと、また勉強道具一式を抱えて、イズミは二階へ引き揚げる。

 克仁は大抵、イズミの所業に呆れていた。

「イズミ君。置きっ放しにしておけば良いじゃないですか。君はどうして、うややこしい引っ越しを毎晩繰り返すのです」

「来客があった時に、僕の教科書が散らばっていては迷惑でしょう。お客様にも克仁さんにも申し訳ないからです」

「どうして私に申し訳ないと思うのです?」

「僕の散らかしは、克仁さんの散らかしと間違えられてしまうかもしれません。克仁さんが片付けの出来ない、だらしない人だと思われてしまいます」

「君は真面目ですね」

 イズミの几帳面さを、克仁はからからと笑っていた。そして其れきり、何も言わない。勉強の邪魔は一切しないとばかりに、いそいそと読書へ戻っていく。の様はまるで甘い菓子を前にした子供のように見えたので、四十代半ばの大人の楽しげな顔は、可愛らしいものだとイズミは思う。れに、克仁もの時間を楽しんでいるように思え、共犯者めいた関係が仄見えた気がして、心持ちとしては少々愉快だ。蒸し風呂状態の自室での勉強は苦行だが、の引っ越しを覚えてからは、勉強は夏に限るとイズミは思っていた。

 流石さすがに克仁が絵本の読み聞かせの練習をする際は、イズミが蒸し風呂部屋に引っ込むか、もしくは克仁が自室――此方こちらもイズミの部屋同様、冷房がない、サウナのように蒸し暑い部屋――に戻るか、言外の圧を掛け合う冷戦が始まる。そんな小さな押し付け合いも含めて、イズミと克仁は、真夏の夜の恒例行事を、互いに楽しんでいたと思う。

 だから、の電話が鳴った時。

 イズミは、夢からめたような気がした。

 密やかなの〝アソビ〟に誰かが気づき、ぱんと手拍子を打って目覚めさせた。更けゆく夜の甘やかな空気が霧散して、一足早い秋の気配に似た冷たさを、電話の呼び鈴は冴え冴えと含んでいた。

 通話に応じた克仁が此方こちらを振り返り、勉強に小休止を入れて文庫本を熟読していたイズミを呼ぶ。「イヴァンですよ」と告げられた時、ようやくイズミは顔を上げて、本を閉じる。電話が鳴った瞬間からまるで頭に入っていなかった活字の文字列を置き去りにして、イズミは克仁の元まで歩き、黒電話の受話器を受け取った。

 内容は、大よその見当がついていた。

 其の予想を、イズミは外さなかった。

「お父さん。離縁を決意されましたか」

 相手が言葉にするより先に、口にするイズミを克仁が笑う。本当なら全く笑い事ではないのだが、全員が事情に精通しているのだ。深刻味の薄さだって周知の事実だ。しかも全員が罪悪感を持っていない。るのは多少の、遠慮だけだ。

『……すまない』

「なぜ謝るのです」

 イズミの言葉を聞いた克仁が、再び忍び笑いを漏らしながら、ゆっくりとイズミから遠ざかる。イズミの喋り方が可笑おかしいのだ。だから克仁はイズミを笑う。

 だが、れに関してはたっぷりの不服があるので、イズミは受話器を耳に当てたまま、「克仁さん、笑い事ではありません。僕の喋り方は一から十まで貴方の模倣です。僕を笑うことは、貴方、自分を笑うことですよ」と、性急な調子で克仁の背中に文句を言った。の言い分は当然父にも聞こえてしまい、『克仁さんとは、上手くやっているようだな』と安堵の声が返ってきた。

「勿論です。克仁さんは僕の二人目の父上です。家族と仲良しでいる事は、僕にとっては当然の事ですよ。お父さん」

『その当然ができない人間もいるのだから、君はすごいと僕は思うよ』

「お父さんは、一体何を仰るのです」

 イズミは首を捻った。

「お父さんも、お母さんとは仲良しでしょう」

『……』

 受話器の向こうは、沈黙してしまった。

 イズミも失言に気づいたが、間違いを述べたとは思わなかった。イズミから離れた克仁がソファに腰かけ、本のページめくり始める。同居人のゆったりとした挙動を目で追いながら、イズミは優し過ぎる父親へ、そっと労わりの声を掛けた。

「お父さんとお母さんは、別れても愛し合っている。僕はそう思っています。長期休暇にはそちらに戻ろうと思っていますし、永遠の別れではありません。お父さんが気に病む必要や僕に詫びる必要なんて、何処どこにあるというのです?」

『イズミは優しい子だな』

「貴方の子供ですから」

 イズミが笑うと、父も笑った。電話を受けてから初めて聞こえた楽しげな声に、イズミは安心する。しかし、の雑談によって掛かるであろう国際電話の通話料金に思い至り、少しばかり焦った。父持ちだと分かっていても、やはり負担は気に掛かる。

「お父さん。来日の日取りは決まりましたか」

『ああ。イズミ、もうすぐ学校は夏休みだろう? 八月の頭頃になるように調整しているところだから、もう少し待ってほしい。手紙も出すよ』

「分かりました」

『あと』

「はい?」

『呉野神社を、覚えているかい?』

 一瞬、沈黙した。異国の言葉を聞いた気分だった。何を言われたのかすぐには判らなかったが、一拍遅れて思い出して「ああ」とイズミは声を漏らした。

 の神社の名前は、忘れるべくもないものだ。

「はい。もちろん覚えています。ですが、足が遠のいて随分になりますね。お父さんと一緒の時しか、あちらには参拝しませんでしたから。なので、たったの一度きりです。あちらにお嬢さんがお生まれになった時ですね。僕が小学生の、高学年の時でしょう?」

『ああ。随分昔のことなのに、イズミはよく覚えているな』

「はい。変わった御方との出会いもありましたので、印象に残っていました」

『その呉野神社に、参拝しようと思っているんだ』

 の言葉には、流石さすがに驚かされた。

 イズミは、再び沈黙する。そして再び一拍の間を空けてから、「本気ですか」と訊いてみた。『ああ、本気だ』と、笑みを含んだ父の声が返ってくる。の言葉尻が微かに震えていた気がして、父の覚悟と緊張が、声から如実に伝わってきた。

 次に飛び出してくる言葉が読めて、イズミは身構える。

 案の定、受話器から聞こえてきたのは、予想通りの言葉だった。

『だから、イズミ。……僕と、一緒に来てくれないか』

「お父さんが行くのはかく。僕はついて行かない方がいい気がします」

『そんなことはないだろう』

 イズミが難色を示すのが意外だったのか、父の声が驚きで上ずる。『一緒に行こう。後ろめたいことは何もないから』と諭す声は、懇願のようにも聞こえた。あの神社へ詣でる事は、大人であっても勇気が必要になるのかもしれない。イズミが先程感じた父の緊張は、やはりまことのものなのだ。

「僕は構いませんよ。ですが、僕の存在は相手方を不快にさせるのではないかと、少しばかり気がかりです。傍系ぼうけいが出過ぎた真似をすれば、神主様やお嬢さん一家の方々も、いやな思いをされるのではないでしょうか。やはり、お父さんだけが参れば良いと思います」

『それは、僕にあんまり冷たいだろう』

「お父さんは、神主様の実の息子でしょう。堂々と行けば良いのです」

『それを言うなら、イズミだって実の孫じゃないか。自分の事を棚に上げて、そんなのは酷いじゃないか』

 弱り切った声を耳にして、イズミは少し笑ってしまった。父はやはり人が良すぎる。イズミは父をいじめるのはめにして、「承知しました。お供しますよ」と軽い調子で請け負った。

「ただ、相手方が僕らに煙たそうな顔を向けられた場合、僕はお父さんを残して藤崎邸に逃げ帰ります。それでも構わなければご一緒します。そういうことで、よろしくお願いします」

『イズミは、優しいんだか冷たいんだか分からないね』

「優しいと言ったばかりではないですか。優しいのですよ、僕は」

 言い終えるや否や、克仁が吹き出す声がした。イズミが其方そちらを見ると、ソファでくつろぐ克仁の手には、いつの間にやら御猪口おちょこが握られている。此方こちらの横暴を肴にして、晩酌を楽しんでいたらしい。いい性格をしていると思う。イズミは同居人の飄々たる態度を横目に呆れながら、父に優しくこう言った。

「お父さん。そちらはまだ明るいでしょうが、今日はゆっくり眠って下さい。……僕は、お父さんもお母さんも、二人とも愛していますよ」

『……有難う。イズミ。僕も君を愛しているから。もちろん、ジーナもね。おやすみ』

「はい。おやすみなさい」

 受話器を、置いた。チン、と軽い音がして、通話が切れる。

 遠く離れたロシアの地と、東洋の島国を繋ぐ糸は、れだけの動作で他愛なく切れてしまう。逆に繋がりを得る事も簡単だが、の呆気なさが毎度のことながら拍子抜けだった。

 大切なものを急に手放したような感覚は、いつも罪悪感にも似た小さな居心地の悪さとして、イズミの胸に空虚に残る。先に通話を切ったから、そんな風に思うのかもしれない。忘れ物をした気分だった。

 思い返せば幼い頃、克仁から赤い風車を貰った事がある。当時のイズミの宝物で、よく持ち歩いては吐息を吹きかけて遊んでいた。

 だが、そんな宝物の風車を、イズミは遊びに出かけた公園に置き忘れてしまった事がある。息せき切って公園に戻ると、赤い風車は依然として公園の砂場に落ちたままだったが、其の時の光景は、今でも鮮明に覚えている。

 暮れなずむ住宅街の一角に埋もれた公園に、ぽつんと灯る赤い色。置き去りと孤独の記憶、幼少の感傷が蘇り、イズミは小さく息をつく。

 父との繋がりが切れる時、の寂莫感が持つ色彩は、赤い風車の色をしている。

「イヴァンは、大きな決意をしたようですね」

 克仁から、声が掛かる。のんびりとした声音は、静かな夏の夜に相応しい穏やかさのものだった。「ええ」とイズミは頷いた。

「離縁は決定のようです。僕はこれから、どういう名前になるのでしょうね」

「どういう名前も何も、君は呉野和泉ですよ」

「そうですね。呉野和泉であり、イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです。思えば父も、親の離婚を経験して尚、呉野姓を放棄しない人でしたね。僕もまた、このままでいれば良いという事なのでしょうね」

「勿論ですよ。君が望むようにすればいい」

 長閑のどかに言った克仁は、御猪口の酒をくっと一息にあおると、立ち上がった。空の御猪口と酒瓶を持って、台所へ歩いていく。の頃合いを計るように、置時計がごうんと鳴った。

 時刻は既に、午後の九時。夜は、着々と更けていく。

「イズミ君。何か食べたいものはありますか。お夜食でも作りますよ」

「お気遣い有難う御座います。でも結構ですよ。太ってしまいます」

「何を年頃の少女のような事をっているのです。空腹なら空腹だと、素直にえば良いのですよ」

 克仁がくるりと振り返り、呆れまなこで和泉を笑う。イズミは観念して肩を竦めた。

「では、小腹が空きました。小一時間ほど経ったら、僕はきっと克仁さんの作るラーメンを食べたいと騒ぎ出すと思います」

「ラーメンはありませんので、何か他のものを用意しましょう。一時間後に、もう一度訊きますよ。可能な限り、我儘を聞いてあげます」

「有難う御座います」

 イズミは軽く頭を下げて、克仁が台所へ消えていくのを見送った。勉強道具を並べたテーブル前まで戻ってくると、座布団へ膝を崩して座り込む。

 のまま、ころりと寝そべってみた。頭を畳へじかにつけると、肌にちくりと藺草いぐさが刺さる。表面がささくれ立った畳からは、古い家屋の香りがした。何年も住み込んで肌に馴染んだ、藤崎克仁の家の匂い。

 普段なら、克仁に見られる場所で寝そべる事などしない。弛んでいるところを見られるのは一向に構わないのだが、怠ける場所は、二階の自室であるべきだ。れは居候の規律として、イズミが密かに決めている事だ。

 れなのに今、イズミは死体よろしく転がっている。イズミは倒れ伏したまま、弛緩した腕を眺めた。

 ほとんど日に焼けていない肌は、れこそ死人のように白い。蠟引きした人形めいた肌からは生気が全く感じられず、眺め続けていると一層死体に見えてくる。

 漠然と、イズミは思考する。自分は、疲れているのだろうか。しかし、今日という一日を振り返ってみても、別段体力を使った覚えはない。平凡な授業の工程が、極めて平凡に流れ過ぎていっただけだった。学校での記憶には、情動はおろか色や匂いも何もない。友人との雑談の記憶の存在は明らかなのに、其の実在すら疑わしい。

 だが、手抜きのイズミが疲労を覚えるとは、一体どういうことだろう。疲れる理由が見当たらないのに、何故かイズミは疲れている。克仁の言葉を思い出す。の気遣いを、嬉しいと感じた。れは一体、何故なのか。

 畳に片頬を付けながら、イズミは黙考する。蛍光灯の白い光だけが、微動だにしない青年の寝姿を照らし出し、ちかりと一度、またたいた。思考を続けたイズミは、一つの解答に辿り着く。

 おそらくは――原因は、イズミの母にあった。

「風邪を引きますよ、イズミ君」

 克仁の声が、遠くから聞こえた。

「……克仁さん。母の話を、少しだけしようと思います。聞いていただけますか」

 イズミが寝そべったまま声を掛けると、克仁の気配が、するすると近づいてくる。ソファが軋む音がして、背後にあるもう一つのテーブル側に克仁が着席するのが分かった。イズミは振り返らないまま、語り始めた。

「お母さんは、僕をロシアに連れ帰りたいのだと思います」

うでしょうね。れが親というものです」

「ですが僕は、よく分かりません。僕が学ぶことを覚えた時、父と母は、上手くいかなくなってしまいました」

「ロシアの、日本語学校ですね」

「ええ、そうです」

 イズミは、テーブルの上に置きっぱなしにしていた文庫本へ、手を伸ばす。触れて持ち上げたの本は、厚みがある所為で重かった。

 表題は、『罪と罰 下』

 舞台は、酷暑のロシア。サンクトペテルブルク。

 奇しくも、イズミと、父――イヴァンの故郷だ。

「僕は、ロシアが好きです。ですから、いつか日本を離れることになったとしても、それはそれで構わないとは思っています。どちらの国も好きだからです」

 イズミは、言葉を切る。すぐに、吐き出したい言葉の存在を胸に認めて、躊躇うことなく口にした。

「僕は、今も母が好きなのです。母の料理は父の作るものよりずっと美味しかったですし、僕はきっと愛されていました。全員が全員、互いを想い合っているのです。それでも世間一般で言うところの『家族』が成り立たないのなら、僕はそれを仕方のない事だと思いました。克仁さんは、どう思いますか」

 抽象的な問いかけだった。れに要領も得ていない。克仁に何を求めているのかさえ、よく判らない問いだった。イズミ自身、こんな虫食いだらけの言葉ではいけないと判っている。だが、克仁の返答は早かった。

「ええ、私もう思いますよ」

 あっさりと、イズミの言葉を肯定した。

「君もっていましたが、永遠の別れではありませんから。会いたくなったら、いつでも会いに行けばいいのですよ。形は変われど、家族ですからね」

「……今ので、判りました」

 イズミは寝返りを打ち、克仁を振り返る。文庫本をテーブルの上へぽんと置くと、屈託なく笑って見せた。

「僕は、自分の考えが本当に正しいものなのか、常人から逸脱したものではないだろうかと、それが不安だったようです。だから克仁さんに肯定してもらうまで、疲れを感じていたようですね」

「君、そんな風に己を客観視ばかりしているから疲れるのですよ。そもそも、受験生ですから疲れるのは当然です。君は少しガス抜きを覚えた方がいいですよ」

 克仁は呆れ笑いを浮かべると、立ち上がってイズミに近寄り、髪をわしゃわしゃと撫でてきた。柔らかな髪が出鱈目な方向に散らばって跳ねたので、「僕が妙な頭をしていると学校で陰口を叩かれるようになれば、全部克仁さんの所為です」とイズミはしかつめらしく呟いた。

「あとは、もう一つ。イズミ君。君も夜食を食べたらさっさとお風呂に入って眠りなさい。睡眠不足は集中力低下に繋がりますよ。其れに、此処ここで寝そべるのは結構ですが、熟睡は禁物です。風邪を引いては辛いですからね」

「……。家族って、いいですね」

 イズミが思わず呟くと、「うですよ」と克仁が笑った。

 溌剌とした笑みだった。れこそが自明の理だと、親が子へと諭すように。

「家族は、幸せであるべきです。幸せでさえあれば、形式的な繋がりなど、どうでもいいのだと私は思いますよ」

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