4-12 愛

 イズミが日本に心惹かれる時、いつしか母の目が気になるようになっていた。

 最初は、気の所為だと思っていた。母の好悪は熟知している心算つもりであり、実際にイズミは子供ゆえの敏感さで母の機嫌を察知して、周到に動き回っていたと思う。今にして思えば実に小憎らしい態度にも思えたが、ういった殊勝さをもってしてもイズミには当時の母のこだわりが見抜けなかったのだから、所詮子供といったところだろうか。

 ともあれ、イズミが十歳の頃だった。

 る夜、イズミは父母の言い争う声で目を覚ました。

 言い争うといっても、棘のある言葉は専ら母の声であり、対する父は消え入りそうな小声だった。妻を必死で宥めるあまり、覇気と意気込みを尻すぼみにさせたと判る、歯切れの悪い声だった。

 父母の諍いの声を聞いた時、イズミの心に過った感情は、何も無かった。

 吃驚びっくりしてしまう。だが、本当に何も無かった。寂しいはずなのに、の実感が掴めない。では寂しくないのだろうかと自問すれば、れは違うと頭を振る。混乱しているのだと気づくまでに相当の時間を要し、ベッドから起き上がって薄く光が漏れる扉の傍で両親の横顔を見つめる間、唯一まともに機能した聴覚だけは、父母の諍いを拾っていた。

 喧嘩の議題は、イズミの今後の教育方針だった。

 嗚呼ああ、と。落胆とも諦観とも判断の付かない溜息が、喉元までせり上がったのを覚えている。寸でのところで息を止めると、胸が詰まって苦しくなった。ようやく寂しさを知った気がした。

 父は、日本という国を愛していた。自室には伝統工芸品の扇子や皿が飾ってあり、日本語の書籍もたくさんあった。慎ましやかな佇まいの内にひと匙のあでやかさを包んだ文化に、父は関心を寄せていた。

 そんな父の東洋趣味を、母は時折うとんでいた。

 れは決して、日本憎しというわけではなかっただろう。母が父の嗜好を疎む理由は単純で、イズミが連れて行かれるからだ。父によって、異国の地へ。母はれを恐れている。恐れる故に、疎んだのだ。

 イズミは幼少時、父と共に何度か日本へ渡航していた。其の旅行の際には、父の友人である藤崎克仁の家へ厄介になっていた。

 時期は学校が長期休暇に入る夏ばかりで、イズミは日本を夏しか知らない。

 そんなイズミであっても、日本には馴染み深さを感じていた。地方都市の袴塚こづか市には表立った観光名所や如何いかにもといった日本的な景観はなかったが、克仁の家の縁側はイズミの想像通りの日本の趣を備えていて、風雅で淑やかな日本の夏を、克仁の庭からイズミは知った。

 美しかった。魅せられていた。風景だけに心奪われたわけではない。克仁との会話もまた、イズミを魅了してやまなかった。

 大人との会話を、れほど楽しいと思ったのは初めてだった。異邦人たる己の言葉が、日本の男に伝わっている。言葉が一つ行き交う度、心と感情も行き来する。植物が芽を伸ばすように、育まれていく絆と学び。全身全霊で他者へと向き合う感覚は、只の会話と切って捨てられるほど軽いものでは決してなかった。れ程の感動が、其処そこには在った。国を超えて、確かに在ったのだ。

 イズミは、当時から日本語を操れた。父がロシア人と日本人のハーフだという理由もあるが、学校でも日本語を習っていたからだ。イズミの通っていた学校は、日本語の授業に特化した学校だった。

 れさえもが、母の嫌厭の火種になっていた。

 イズミをロシアで育てるか、日本で育てるか。

 のままロシアの学校に在籍させるか、れとも一念発起して日本の中学校へ入学させるか。中学入学の年齢が近づいていた。ロシアの学校であれば十七歳まで一貫して同じ学校だが、日本ではうはいかない。

 父は母から詰め寄られていたが、意思を曲げようとはしなかった。イズミが日本行きを望むならば、母の反対を退けてでも行かせる。そんな熱意が伝わってきた。

 イズミに学力がなければ、父はこんな提案はしなかっただろう。

 だが、イズミは出来た。父と同じものに好意を示し、の興味のままに学び取った語学力は、国境を越えた先で通用するものになっていた。

 れに日本には、父の実父――イズミの祖父にあたる人もいる。

 父の思い入れの深さの正体は、郷愁と懐古、そして思慕の念だろうか。父の日本への執着は、滅多に会うことの叶わない生みの親への愛着だろうか。

 何にせよ、の時のイズミには、父の見せた思慕とも我儘とも判断の付かない拘りよりも、目の前の諍いをどうにかする方が重要だった。う気負う一方で、幼いイズミには何もできず、やはり感情が暈けていた。現実感が、薄かった。


 だが、の時――家庭不和のくらい夜に、一条の光がさっと射した。


 鮮やかな光だった。月光の青さを仄かに湛えた闇の中で、扉から射し込むの光は、御稜威みいつごとく輝かしく、凛とさやかに閃いた。

 嗚呼、と。瞠目と同時に、声が零れた。今度は落胆ではなく、諦観でもない。目の前で扉が開かれていき、溢れんばかりの光のうすぎぬの向こうには、イズミへ歩み寄る母が伸ばした、両の白いかいながあった。夫婦の紡いだ言の葉は、いつの間にか止んでいた。父よりも早くイズミに気づいた母は、驚いているようだった。次第に狼狽に取って代わった感情の色は、やがて年月を経て色褪せた写真のように、すうと母の顔から消えていった。一つの感情だけを、其処そこに残して。

 イズミは、息をするのも忘れていた。母はイズミを抱きしめると、澄んだ青色の瞳でイズミを見つめて、寂しそうに笑ってから、早く寝るようにと囁いた。の瞬間に、イズミは全てを悟り尽くしていた。

 母は、イズミを愛している。母の手の平と同じ温度の輝きからは、日向の風の匂いがした。もし神が存在するならば、屹度きっとこんな姿をしている。の気配と光の影を、の日確かにイズミは見たのだ。

 母は、日本的なものをいとう。父の異国への執着が、母から家族を奪うからだ。だから母は、れを疎む。イズミと父の愛するものを、敵視し続け疎んじる。

 れでも、母がイズミを愛するように、イズミも母を愛している。父もれは同じなのだ。愛は、何も変わっていない。何も変わってはいないのだ。

 結局の後、イズミは克仁宅へのホームステイを決意して来日し、そして高三の夏、父と母はついに離縁を決めてしまい、家族間の溝は致命的に広がったと、周囲の者は皆思うだろう。だが、うではない事を、イズミは知っているのだ。

 諦めたわけではない。強がっているわけでもなかった。ただ、愛の存在を認めただけだった。冴え冴えと青く美しい輝きを、母の瞳に見ただけだった。

 もし、あの日。ロシアのサンクトペテルブルクのアパートで、母の『愛』を見なければ。今のイズミの価値観は、存在しなかったかもしれない。父母の離婚に対して感情的になったかもしれないし、学業に対する姿勢も大いに変わった事だろう。小狡い手抜きに走るような事もなかったかもしれないと思うと、果たしてれは成長と呼んで良いものか微妙なところではあったが、現在の己の生き方はう捨てたものではないと、少なくともイズミ自身は思っている。

 だから、父が母と離縁して、父だけが来日すると聞いた時。イズミの心には克明な嬉しさがない代わりに、疼くような寂しさもなかったのだ。

 ――ただ、れでも一点においてのみ。イズミは、父の行動に疑問を呈さずにはいられなかった。

 突然の国際電話を受けたあの夜から、イズミはずっと訊きたかったのだ。れをの日まで我慢したのは、我慢というよりもの質問を面倒臭がる事へ比重が傾いていたからだが、の疑問は目的地に辿り着く前に、片付けておくべきものだろう。

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