4-13 出逢い
「お父さん」
イズミは、石段を上がる父を見上げて、
頭上を振り仰いだ先には、
気づけば石段の途中で立ち止まっていたイズミを、父が振り返る。父は
「イズミ、神社は見慣れないのかい」
「はい。それに
「君が知らないだけで、他にも神社はあるんだよ。呉野神社は小さな神社だから、むしろ此処を知らない人の方が多いような気がするよ」
「……そのようです」
イズミは、石段の手すりの向こうに視線を投げる。青々と茂る雑草の中で、きらりと太陽光が瞬いた。硝子ビンの破片だろう。手すりの足元にも空き缶が転がっているので、イズミは嘆息した。
「境内にゴミ箱はありますか」
「どうだったかな。久しぶりだから、忘れてしまったよ」
「では、帰りに拾いましょう。ゴミを集めて捨てる所もないとなると、とんだ土産物になってしまいます。ただでさえ、僕は手ぶらですからね」
イズミの言葉を聞いた父が、困惑気味に苦笑する。大方、イズミが藤崎邸へ逃げ帰る可能性が頭を過ったのだろう。思考が顔に出る父の反応を少し面白く思いながら、「逃げませんから」とイズミは笑った。実際に逃げるかどうかを決める程に、状況は動いていないのだ。
一人息子の陽気な答えを聞いた父は、今度は露骨に安堵の溜息を吐いていた。余程、緊張しているらしかった。先程は気づかれなかったので、イズミはもう一度訊いてみる。
「お父さん。何故、こちらに伺おうと思ったのですか」
「何故も何も。イズミだって言っていたじゃないか」
父はきょとんと目を瞬くと、先程のイズミのように空を仰いで、石段をゆっくり上がり始める。そして「父上に会いたくなったからだよ。もちろん、妹夫婦にもね」と穏やかな情愛のこもった声で、
「……本当は、あまり寄り付かないようにしようとは思っているんだよ。イズミも電話で言っていたけれど、僕らは傍系だからね」
「
「そういうわけじゃないんだよ、イズミ」
イズミがはっきりと訊いたからか、父はたじろいだ顔で振り返る。飴色の髪が、夏の乾いた風にさらさら揺れた。父の髪は、イズミの髪より少し長い。だからこそ、どこか中性的な雰囲気を纏うのかもしれない。
「まあ、全く恨まなかったと言えば嘘になるし、僕はイヴァン・クニノリヴィチ・クレノという自分の名前だって、あまり好きではなかったよ。ただ、そんなものは全て過ぎた話なんだ。それこそ、僕が今のイズミの歳より、もっと幼い頃までのね。今では、時々は顔を見たいと思う家族の一人として、きちんと捉えている
「……以前にお会いした際に、お父さんは御爺様と和解ができていたのですね」
イズミは神妙に頷きながら、石段を再び上がり始めた。父との距離は開いていたが、あっという間に追いついた。
「でも、気まずくはないのですか? 少なくとも僕は今、多少気まずい思いをしています」
「すまないね、イズミ」
丹色の鳥居の前で、一礼する父に倣って
「あまりにも、以前と変わらないままですね。社務所がないところも、寂れたところも」
「それは言わない約束だよ。さあ、あれが拝殿だよ。まずは手を
曖昧に笑った父に促されて、イズミは
気もそぞろで参拝を済ませると、イズミはまだ拝殿の前で手を合わせている父よりも先に、紅白の
――見覚えが、あったのだ。
「懐かしいかい」
背後から聞こえる父の声に、イズミは「はい」と返事をする。
うらぶれた神社に吹き渡る風が、山の緑と花の匂いを運んでくる。
「……お父さん。神主様のお宅へ向かうには、この小道を真っ直ぐ進めば宜しかったでしょうか」
イズミは父を振り返ったが、父は無心に周囲を見渡していた。イズミの呼び掛けはまたしても耳に入っていない様子で、遊びに熱中する子供のように、深い森の緑の闇へ、じっと瞳を凝らしていた。
「……。先に行っています」
心持ち大きな声で告げると、はっと父が
鳥居と拝殿を繋ぐ石畳から少し逸れた場所に、山へと分け入る細い小道が見えている。雑木林に続く
小学生の、高学年の頃。
さく、さく、と小道を行く。ローファーが下草を踏む音は、微かな湿り気を帯びていた。光の雨に濡れた大地は潤沢な水の巡りを想起させ、頭上で枝葉を広げる
そんな侘び寂びを兼ね備えた襤褸屋の前には、大きな泉があったはずだ。水が湧き出しているのか、
何故、イズミは父を置いて、先に来ようと思ったのだろう。逃げる理由なら十二分にあったが、先に行く理由は欠片もない。直前まで父から逃亡の心配をされていた青年の取る行動としては、あまりに一貫性を欠いている。
不思議と
不意に――足が、何かを蹴った。
小石を意図せず蹴飛ばした感覚に似ていたが、
イズミは立ち止まり、視線を地面に落とす。
薄桃色の花だった。
よって、花の正体には見当がついたのだが――
「……?」
思わず屈んで、地に落ちていた一輪の花へ手を伸ばす。ただ、
拾い上げた花は、
――茎が、なかった。
花の、頭の部分だけ。
花が花である証のような、最も
じわじわと湧いた緊張感が、訳も無く加速した時――視界の端に、同じ薄桃色がちらついた。さやさやと風が吹き、羽衣を翻すように踊る花弁が、目を奪う。イズミの視線を、惹きつける。
ぽつ、ぽつ、ぽつ……と。小道の先に、花が幾つも落ちていた。
茎はない。花しかない。
ふらりと、イズミの足が動く。花に誘われ、足が動く。
――何故、父を置いて森に来たのか。
イズミには、やはり判らなかった。そんなことをする理由は、己の心の
突然に、道が
澄んだ水は、学校の教室よりも一回りほど広い空間に溜まっていて、深山の緑を映している。草花が青々と匂い立ち、揺れる木漏れ日がちらちらと視界を眩惑する。空色の水面へ射し込む壮麗な輝きは、舞台に立つ芸者を照らすように、惜しげもなく降り注いでいた。
そんな天上の舞台の中央に――
女性は和装で、
長い髪だった。腰ほどの長さの髪だった。風に
浴衣の裾はたくし上げられ、左手一つで纏められている。ほっそりと心許なく伸びた足が、水面に映って揺れていた。女性は泉の真ん中で、視線を水面に落とし、透明な水に素足を浸して立っていた。
やがて、女性の右手が水面に伸びる。白魚のような指先には、桃色の茎のない花があった。麗しくも残酷な小さな花を、女性の右手が掬い上げる。水が滴る花の遺骸を、泉から引き揚げて、背筋を伸ばし――
水音が、跳ねた。波紋が揺らめき、泉を取り巻く
泉に浮かぶ、首だけの花が――決して一つではなかったことを。
朝顔。
花が咲き乱れる山の奥、森に呑まれかけた木造家屋を臨む泉で、女性は手から花を落とす。まるで手毬をつくように。青い波紋が円く拡がり、水の輪が光り輝き、水面の花に打ち寄せては、光の円が崩れていく。女性の顔が、
凛々しく引かれた眉が印象的な、瞳の大きい美女だった。赤い唇が形作った笑みに気づいたイズミは、女性の行為の意味を悟る。
何ということはない。彼女は、遊んでいただけだったのだ。
だが、イズミが得心した時――思いがけないことが起こった。
女性の笑みが明瞭なものになり、いきなり
「――
ぱっ、と。まるで花を散らすように、黒髪を優雅に
切れ長の目が軽く瞠られ、仰け反った身体がくらりと、危うげに揺らめいていって――はっと息を吸い込んだイズミは、我を忘れて叫んでいた。
「危ない!」
弾けるような水音が、山の空へと響き渡った。
蝉が、飛び立っていく。鳴き声が刹那ぴたりと止んで、
一時の静寂を経た後に――小さな笑い声が、イズミの耳に聞こえてきた。
「……ねえ、
今まさに泉へ踏み込まんとしていたイズミは、茫然と女性を見つめる。
体勢を崩した所為か、女性の左手は浴衣を手放していた。重力に従ってすとんと落ちた
目を細めた顔は猫のようで、髪を掻き上げる様が奇妙に艶めかしく、イズミは少し狼狽える。かといって、露骨に目を逸らすのもまた躊躇われた。結局沈黙を選ぶ他なくなった青年を前にして、十は年上だろう
「でも、貴方がいけないのですよ? 覗き見なんてしているから。……いらっしゃい。和泉君。
「……どちらでも、お好きなように呼んで下さい。……
「あら」
女性は、目を瞬く。
そして、次の瞬間には――花のように微笑んだ。
「嬉しい。覚えていてくれたのね」
泉に浮かぶ花の一つを、女性がおもむろに掬い上げる。白い花だ。柔らかそうな花弁の半分が、酒に酔うように仄かな薄桃に色づいている。
水にしっとりと濡れた花を、イズミへ手向けながら――数年ぶりに顔を合わせた叔母は、成長した
「お待ちしておりました。和泉君。お久しぶりですね。……
「はい?」
イズミが訊き返した時、ととと……と駆けてくる足音が聞こえた。下草を踏み、背後から気配が迫ってくる。イズミは素早く振り返ったが、
「お兄様!」
――こんな歓待を受けるなど、予想だにしていなかった。
手毬が弾むように、飛び込んできた身体は小さかった。
イズミの足をしかと腕に抱き、頬をぴたりと腿に付けて、制服の黒いズボンに顔を埋めて擦り寄るのは、年端もいかない少女だった。
白い半袖のブラウスに、黒味がかった臙脂のスカート。黒い靴はぴかぴかしていて、お洒落をしているのだと判る。互いの服の布地越しに、互いの体温が行き来する。イズミよりも、少女の方が熱かった。
「……ああ」
一目で、判った。
「
「呉野、杏花です!」
肩口で切り揃えた髪を揺らした少女が、ぱっと顔を上げた。花の蕾を開くように、母と同じ唐突さで。
「きょうか?」
「はい! お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!」
成長すれば母にもっと似通うであろう、将来の美貌を窺わせるあどけない顔に、少女は溌剌と眩しい笑みを乗せる。
そして、六歳であろう
「遊んでくださいな、お兄様!」
――
異国の地で生まれ、
木漏れ日が射す森の中で、泉に足を浸す風変りな叔母と、
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