4-13 出逢い

「お父さん」

 イズミは、石段を上がる父を見上げて、の痩躯に声を掛けた。

 頭上を振り仰いだ先には、丹色にいろの鳥居。青く澄み渡った空に付けられた朱色の目印を見ていると、己が今遍路へんろに来ていて、山を行脚あんぎゃする修行僧になった気分になる。袴塚こづか市の住宅街は灰色なので、御山の鳥居は目を引いた。血液のような鮮やかさは、透明な水を揺蕩う金魚のように涼しげで、暑さを刹那忘れられた。

 気づけば石段の途中で立ち止まっていたイズミを、父が振り返る。父は此方こちらの呼び掛けには気づかなかったらしく、魅入られたように空を仰ぐ学生服の青年を見下ろして、不思議そうに微笑んだ。

「イズミ、神社は見慣れないのかい」

「はい。それに此処ここへ来なければ、他に神社の当てもありませんし」

「君が知らないだけで、他にも神社はあるんだよ。呉野神社は小さな神社だから、むしろ此処を知らない人の方が多いような気がするよ」

「……そのようです」

 イズミは、石段の手すりの向こうに視線を投げる。青々と茂る雑草の中で、きらりと太陽光が瞬いた。硝子ビンの破片だろう。手すりの足元にも空き缶が転がっているので、イズミは嘆息した。

「境内にゴミ箱はありますか」

「どうだったかな。久しぶりだから、忘れてしまったよ」

「では、帰りに拾いましょう。ゴミを集めて捨てる所もないとなると、とんだ土産物になってしまいます。ただでさえ、僕は手ぶらですからね」

 イズミの言葉を聞いた父が、困惑気味に苦笑する。大方、イズミが藤崎邸へ逃げ帰る可能性が頭を過ったのだろう。思考が顔に出る父の反応を少し面白く思いながら、「逃げませんから」とイズミは笑った。実際に逃げるかどうかを決める程に、状況は動いていないのだ。

 一人息子の陽気な答えを聞いた父は、今度は露骨に安堵の溜息を吐いていた。余程、緊張しているらしかった。先程は気づかれなかったので、イズミはもう一度訊いてみる。

「お父さん。何故、こちらに伺おうと思ったのですか」

「何故も何も。イズミだって言っていたじゃないか」

 父はきょとんと目を瞬くと、先程のイズミのように空を仰いで、石段をゆっくり上がり始める。そして「父上に会いたくなったからだよ。もちろん、妹夫婦にもね」と穏やかな情愛のこもった声で、れでいて泰然たる口調で言った。

「……本当は、あまり寄り付かないようにしようとは思っているんだよ。イズミも電話で言っていたけれど、僕らは傍系だからね」

御爺様おじいさまが離縁をなさってロシアを去り、日本に戻ってから別の女性と家庭を持った事を、お父さんは責めているのですか?」

「そういうわけじゃないんだよ、イズミ」

 イズミがはっきりと訊いたからか、父はたじろいだ顔で振り返る。飴色の髪が、夏の乾いた風にさらさら揺れた。父の髪は、イズミの髪より少し長い。だからこそ、どこか中性的な雰囲気を纏うのかもしれない。

「まあ、全く恨まなかったと言えば嘘になるし、僕はイヴァン・クニノリヴィチ・クレノという自分の名前だって、あまり好きではなかったよ。ただ、そんなものは全て過ぎた話なんだ。それこそ、僕が今のイズミの歳より、もっと幼い頃までのね。今では、時々は顔を見たいと思う家族の一人として、きちんと捉えている心算つもりだよ」

「……以前にお会いした際に、お父さんは御爺様と和解ができていたのですね」

 イズミは神妙に頷きながら、石段を再び上がり始めた。父との距離は開いていたが、あっという間に追いついた。

「でも、気まずくはないのですか? 少なくとも僕は今、多少気まずい思いをしています」

「すまないね、イズミ」

 の期に及んで尚行き渋る姿勢を見せる息子を、父は困惑と興味が複雑に入り混じった笑みで見下ろした。克仁かつみ同様に父もまた、イズミの喋り方を笑っているのだろうか。もしうならば、誠に遺憾だと言わざるを得ない。少しばかり憮然としていると、「また逃げるなんて言わないでくれよ」と父が情けない声で言ったので、「逃げませんって」とイズミは呆れ笑いを返しながら、着々と石段を上がっていき、ついに最後の一段に立った。

 丹色の鳥居の前で、一礼する父に倣って一揖いちゆうする。うして境内の風景を一望すると、イズミは拍子抜けの声を漏らした。

「あまりにも、以前と変わらないままですね。社務所がないところも、寂れたところも」

「それは言わない約束だよ。さあ、あれが拝殿だよ。まずは手をすすぎに行こう」

 曖昧に笑った父に促されて、イズミは手水舎ちょうずやで手と口を漱いだが、森を従えるように建つ拝殿まで歩き、檜皮ひわだ色の屋根の下で神社の参拝作法を父の見様見真似でこなしながら、周囲が気になって仕方がなかった。

 気もそぞろで参拝を済ませると、イズミはまだ拝殿の前で手を合わせている父よりも先に、紅白の鈴緒すずおがぶら下がる賽銭箱から背を向けて、辺りをふらふらと歩き回る。出鱈目に歩を進めたことで視点が幾らか変わったからか、微かな既視感が、今しがた鳴らした鈴の音のように、脳裏で凛と響き渡った。

 ――見覚えが、あったのだ。

「懐かしいかい」

 背後から聞こえる父の声に、イズミは「はい」と返事をする。

 うらぶれた神社に吹き渡る風が、山の緑と花の匂いを運んでくる。の神社を顧みる氏子がどれほどいるのかは不明だが、風化に抗うようにぽつんと存在している境内を照らす日差しの下で、イズミは名前も知らない誰かが此処ここで捧げた願いの残滓のような光を見た。あの日サンクトペテルブルクのアパートで見た、母の愛に似た光だ。

 此処ここは、神聖な場所だ。の実感が、五感に響いた瞬間だった。

「……お父さん。神主様のお宅へ向かうには、この小道を真っ直ぐ進めば宜しかったでしょうか」

 イズミは父を振り返ったが、父は無心に周囲を見渡していた。イズミの呼び掛けはまたしても耳に入っていない様子で、遊びに熱中する子供のように、深い森の緑の闇へ、じっと瞳を凝らしていた。

 屹度きっと、万感の想いが蘇ったに違いない。イズミはう結論付けた。

「……。先に行っています」

 心持ち大きな声で告げると、はっと父が此方こちらを振り返る。「ああ、僕もすぐに行くよ」と頷く姿を見届けると、イズミは微笑を返してから、鎮守の森へ歩き始めた。

 鳥居と拝殿を繋ぐ石畳から少し逸れた場所に、山へと分け入る細い小道が見えている。雑木林に続くの道が一本道であることを、イズミは思い出していた。

 小学生の、高学年の頃。従妹いとこの誕生を祝う為に、一度だけ来たからだ。

 さく、さく、と小道を行く。ローファーが下草を踏む音は、微かな湿り気を帯びていた。光の雨に濡れた大地は潤沢な水の巡りを想起させ、頭上で枝葉を広げる裏葉うらは色の連なりからは、木漏れ日が細く射していた。何処どこへ向かおうとも絶えず聞こえる蝉の声が、ほんの少し大きくなる。土と水と山の匂いが、鼻腔を清々しく抜けていった。

 の先には、一軒の木造家屋が待ち受けている。二階建ての古めかしい襤褸屋ぼろやで、お世辞にも小奇麗とは言い難い。掃除は行き届いているのだが、二階の床が僅かに傾いているのだ。倒壊を危ぶむほどの脆さを内包した家屋は、板張りの縁側も、苔むした瓦屋根も、黒くいぶされたような艶めきを帯びた柱も、何処どこを取っても日本的で、座敷童ざしきわらしでも住み着いているのではないかと邪推したくなる佇まいだ。日本髪の美しい女が、着物の裾をぞろりと引き摺り、襖の奥から滑り出てきたとしても、屹度きっとイズミは驚かないだろう。

 そんな侘び寂びを兼ね備えた襤褸屋の前には、大きな泉があったはずだ。水が湧き出しているのか、れとも窪地に水が溜まったのか、つぶさには思い出せないが、鏡のように森と空を映す冷たい水が、此方こちらとは異なる世界への通り道であるかのように湛えられていたのを覚えている。敬虔けいけんさを感じるほどに透明な泉のほとりを通って襤褸屋ぼろやへ向かったはずなので、干上がってさえいなければ、今も屹度きっとあるだろう。過去の記憶を手繰りながら、イズミは懐かしの家屋と泉を目指して、黙々とゆっくり進み続けた。

 何故、イズミは父を置いて、先に来ようと思ったのだろう。逃げる理由なら十二分にあったが、先に行く理由は欠片もない。直前まで父から逃亡の心配をされていた青年の取る行動としては、あまりに一貫性を欠いている。

 不思議と神懸かみがかったの行動は、運命と呼ぶべきものだったのだろうか。

 うでなければ。

 の出逢いは、屹度きっと、無かった。

 不意に――足が、何かを蹴った。

 小石を意図せず蹴飛ばした感覚に似ていたが、れよりもずっと軽く、柔らかく繊細な感触が、ローファーの爪先に伝わった。

 イズミは立ち止まり、視線を地面に落とす。

 其処そこには、一輪の花があった。

 薄桃色の花だった。まるい形は、椿に似ている。おそらくは、芙蓉ふようの花だろう。しくは、木槿むくげだろうか。克仁かつみの家の庭には色とりどりの花が咲き乱れ、四季を麗らかに彩っているので、イズミは日本に来てから植物の知識が増えていた。

 よって、花の正体には見当がついたのだが――の花は、普通の花では決してなかった。

「……?」

 思わず屈んで、地に落ちていた一輪の花へ手を伸ばす。ただ、の花を本当に一輪と数えて良いものか、イズミには判断が付かなかった。

 拾い上げた花は、うっすらと湿っていて瑞々しかった。大地から吸い上げた水を血のように通わせた花びらは、イズミの生白い手の平で、燦然たる輝きを放っている。ごくりと唾を呑み込んで、イズミはれを、凝視する。

 ――茎が、なかった。

 花の、頭の部分だけ。がくより下は、何処にもない。

 花が花である証のような、最も見目好みめよい部分だけ。天寿を全うして萼から落ちた椿のように、ころんと其処そこに花はる。手の平で転がすと、萼の下が露わになった。鋭利な刃物で切りつけたかのように、茎の断面が潰れている。

 じわじわと湧いた緊張感が、訳も無く加速した時――視界の端に、同じ薄桃色がちらついた。さやさやと風が吹き、羽衣を翻すように踊る花弁が、目を奪う。イズミの視線を、惹きつける。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ……と。小道の先に、花が幾つも落ちていた。

 茎はない。花しかない。れ以外の全てを失った花の遺骸が、ころり、ころりと落ちていた。揺れる花弁が、誘っていた。此方こちらへおいでと、誘っていた。

 ふらりと、イズミの足が動く。花に誘われ、足が動く。

 ――何故、父を置いて森に来たのか。

 イズミには、やはり判らなかった。そんなことをする理由は、己の心の何処どこを探しても見つからない。理由が判然としないままでも、足は前へと動いていた。一つを追えば、もう一つ。花を辿って、先を目指す。れでは本当に遍路のようだ。山へ分け入る修行僧のように、誘われるまま、導かれるまま、イズミは花の小道を歩いていく。

 の先で己を待ち受けるものを、イズミは予感していたのだろうか。れ故に、期待にも似た感情を、胸に一片ひとひら、認めたのだろうか。

 突然に、道がひらけた。天からの斜光を広葉樹が遮る森林に、光が白々と満ち溢れる。さあ――と、澄んだ山の香で潤う風が、腕を撫で、頬を撫で、東洋人離れした灰茶の髪をくしけずるように撫でていく。白シャツの裾が、微かな冷気で風船のように膨れて萎んだ。

 其処そこには――やはり泉があった。

 澄んだ水は、学校の教室よりも一回りほど広い空間に溜まっていて、深山の緑を映している。草花が青々と匂い立ち、揺れる木漏れ日がちらちらと視界を眩惑する。空色の水面へ射し込む壮麗な輝きは、舞台に立つ芸者を照らすように、惜しげもなく降り注いでいた。


 そんな天上の舞台の中央に――の女性は、立っていた。


 女性は和装で、すみれ色の浴衣ゆかたに黄色の帯を締めている。白抜きで描かれた朝顔のつたが、すっと正された背筋に沿って伸びていた。裾で咲いた円い花が、風に揺れて優雅に舞う。木漏れ日を照り返す黒髪は、美しい艶に御山の緑を織り交ぜて、絹糸のような滑らかさで靡いた。

 長い髪だった。腰ほどの長さの髪だった。風にもてあそばれて見え隠れするうなじの白さが、まばゆく光る。の山の中で、最も輝かしいのが白だった。女性の肌の色だった。

 浴衣の裾はたくし上げられ、左手一つで纏められている。ほっそりと心許なく伸びた足が、水面に映って揺れていた。女性は泉の真ん中で、視線を水面に落とし、透明な水に素足を浸して立っていた。

 の様は、艶美だった。そして同時に、驚くほど清くイズミの目には映った。

 やがて、女性の右手が水面に伸びる。白魚のような指先には、桃色の茎のない花があった。麗しくも残酷な小さな花を、女性の右手が掬い上げる。水が滴る花の遺骸を、泉から引き揚げて、背筋を伸ばし――たわむれに、落とした。

 水音が、跳ねた。波紋が揺らめき、泉を取り巻く躑躅つつじの葉から、露がぽつんと落ちていく。水面の静謐さを壊した花が、光の水飛沫を散らして沈む。の時になって、ようやくイズミは気がついた。

 泉に浮かぶ、首だけの花が――決して一つではなかったことを。

 朝顔。桔梗ききょう風船蔓ふうせんかずら

 芙蓉ふよう牡丹ぼたん百日紅さるすべり

 花が咲き乱れる山の奥、森に呑まれかけた木造家屋を臨む泉で、女性は手から花を落とす。まるで手毬をつくように。青い波紋が円く拡がり、水の輪が光り輝き、水面の花に打ち寄せては、光の円が崩れていく。女性の顔が、此方こちらへ僅かに傾いた。

 凛々しく引かれた眉が印象的な、瞳の大きい美女だった。赤い唇が形作った笑みに気づいたイズミは、女性の行為の意味を悟る。

 何ということはない。彼女は、遊んでいただけだったのだ。

 だが、イズミが得心した時――思いがけないことが起こった。

 女性の笑みが明瞭なものになり、いきなり此方こちらを振り向いたのだ。

「――杏花きょうか其処そこにいたのね?」

 ぱっ、と。まるで花を散らすように、黒髪を優雅にたわませて、女性がイズミの顔を見る。そして、秘密の花園への侵入者が〝キョウカ〟なる人物ではなく、異国の風貌を持つ学生だったと気づくや否や――怜悧なまでの美貌に、血が通ったような驚きがさっと浮かんだ。

 切れ長の目が軽く瞠られ、仰け反った身体がくらりと、危うげに揺らめいていって――はっと息を吸い込んだイズミは、我を忘れて叫んでいた。

「危ない!」

 弾けるような水音が、山の空へと響き渡った。

 蝉が、飛び立っていく。鳴き声が刹那ぴたりと止んで、こずえに静寂が訪れた。水面がさざめく音だけが、世界の音の全てだった。

 一時の静寂を経た後に――小さな笑い声が、イズミの耳に聞こえてきた。

「……ねえ、貴方あなた吃驚びっくりしたのでしょう?」

 今まさに泉へ踏み込まんとしていたイズミは、茫然と女性を見つめる。

 体勢を崩した所為か、女性の左手は浴衣を手放していた。重力に従ってすとんと落ちたすみれ色は、すっかり泉に浸かっている。水を吸ってみるみる変色していく浴衣を見たイズミは内心慌てたが、女性は特に気にした様子は見せなかった。

 目を細めた顔は猫のようで、髪を掻き上げる様が奇妙に艶めかしく、イズミは少し狼狽える。かといって、露骨に目を逸らすのもまた躊躇われた。結局沈黙を選ぶ他なくなった青年を前にして、十は年上だろうの女性は、さも可笑しそうに笑っていた。

「でも、貴方がいけないのですよ? 覗き見なんてしているから。……いらっしゃい。和泉君。れとも、イズミ・イヴァーノヴィチと呼んだ方がいいのかしら?」

「……どちらでも、お好きなように呼んで下さい。……貞枝さだえさん」

「あら」

 女性は、目を瞬く。れを言ったイズミの反応が、余程意外であるかのように。

 そして、次の瞬間には――花のように微笑んだ。

「嬉しい。覚えていてくれたのね」

 泉に浮かぶ花の一つを、女性がおもむろに掬い上げる。白い花だ。柔らかそうな花弁の半分が、酒に酔うように仄かな薄桃に色づいている。

 水にしっとりと濡れた花を、イズミへ手向けながら――数年ぶりに顔を合わせた叔母は、成長した異母兄いぼけいの子を見つめて、嫣然えんぜんと微笑んだ。

「お待ちしておりました。和泉君。お久しぶりですね。……杏花きょうか、やっと見つけた。和泉お兄ちゃんが来ましたよ」

「はい?」

 イズミが訊き返した時、ととと……と駆けてくる足音が聞こえた。下草を踏み、背後から気配が迫ってくる。イズミは素早く振り返ったが、の時には既に背後の存在は、目前までやって来ていて――どんっ、とイズミの片足にぶつかった。


「お兄様!」


 ――こんな歓待を受けるなど、予想だにしていなかった。

 手毬が弾むように、飛び込んできた身体は小さかった。れでも勢いに圧され、イズミはたたらを踏む。そして己の足に絡む華奢な両腕と、光の輪を映す黒髪とが見えた時、驚愕のあまり声を失った。

 イズミの足をしかと腕に抱き、頬をぴたりと腿に付けて、制服の黒いズボンに顔を埋めて擦り寄るのは、年端もいかない少女だった。

 白い半袖のブラウスに、黒味がかった臙脂のスカート。黒い靴はぴかぴかしていて、お洒落をしているのだと判る。互いの服の布地越しに、互いの体温が行き来する。イズミよりも、少女の方が熱かった。れは子供の体温だった。

「……ああ」

 一目で、判った。の娘の母親の顔を、先に見た。よって、一目瞭然だった。

 の少女と、イズミとは――数年前に、面識がある。

貴女あなたは」

「呉野、杏花です!」

 肩口で切り揃えた髪を揺らした少女が、ぱっと顔を上げた。花の蕾を開くように、母と同じ唐突さで。

「きょうか?」

「はい! お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!」

 成長すれば母にもっと似通うであろう、将来の美貌を窺わせるあどけない顔に、少女は溌剌と眩しい笑みを乗せる。

 そして、六歳であろうの少女は――イズミが生涯忘れることのない〝言挙ことあげ〟を、の時確かに、口にしたのだ。


「遊んでくださいな、お兄様!」


 ――れが、出逢いだった。

 異国の地で生まれ、の後生活の拠点を日本へ移しながらも、己の血にゆかりのある場所へ寄りつかなかった青年、イズミ・イヴァーノヴィチ。

 のイズミが、十八の歳にしてようやく得た、呉野母子との出逢いの瞬間だった。

 木漏れ日が射す森の中で、泉に足を浸す風変りな叔母と、の愛娘――呉野氷花ひょうかとの出逢いは、夏の盛りに、こうして訪れたのだった。

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