4-8 霊感
蝉が、鳴いている。誰もが沈黙してしまうと、蝉の声ばかりが部屋に響く。窓の向こうの舗道からは、子供の歓声が聞こえてきた。真夏の昼下がりの沈黙に、藤崎の苦笑交じりの声が溶けた。
「君は、
「いやはや、それは失礼致しました」
「ホームステイ?」
拓海が目を瞬くと、二人の大人は揃って笑った。藤崎の目元には優しげな皺が寄り、何かを懐かしむように双眸が細められる。「ええ。イズミ君は私の家族です」と肯定した声には、温かな慈しみがこもっていた。
「イズミ君は幼少時、母国と日本を行ったり来たりしていましたから、私の所で預かる事が多かったのですよ。
「……呉野さんの母国は、どこなんですか」
この質問は、七瀬が一度探りを入れたものの、回答が得られなかった質問だ。今日なら答えてもらえる気がしたので訊いてみると、予感は果たして的中した。「和泉で構いませんよ、拓海君。氷花さんと同じ呼び名では言い辛いでしょう」と前置きした和泉は、拍子抜けするほどあっさりと、拓海の疑問に答えてくれた。
「ロシアです。僕の日本人としての血は、祖父に当たる
「い……いとこ?」
拓海は、目を軽く瞠った。ロシアは、まだ予想の範疇だった。柊吾や七瀬から和泉の容貌について聞いていたので、驚くには値しなかった。だが、この情報は予想外だった。脳内で描いていた呉野家の相関図がぐちゃぐちゃになり、混乱で少し眩暈がした。先程の撫子の、残虐な〝映像〟の所為だろうか。気分の悪さが、尾を引いていた。
「えっと……すみません、和泉さん。何から訊いたらいいのか、分からなくなったんですけど、少しだけこちらからも、質問をさせてもらっていいですか」
「もちろんです。何でも訊いて下さい」
和泉は、
何しろ、拓海はこれから、和泉を弾劾するようなものなのだ。なのに和泉は、拓海に優しい。今年の春に神社で和泉を責めた七瀬にさえ、それは同じだったという。喧嘩の経緯を拓海達に報告した七瀬は、思い返せば後ろめたそうにしていたが、今なら気持ちがよく分かる。
「あの。……さっきの、何ですか。手品とかじゃないですよね」
「ああ。これですか」
和泉は、部屋の中空に目を向けた。拓海が〝花〟の事を言ったのだと、すぐに悟ってくれたらしい。それともこちらの心を読んだのだろうか。拓海には判断できなかった。
「手品ではありませんよ。ですが、手品という表現で、僕にも少し茶目っ気が湧きました。一つ僕も、その〝手品〟とやらに乗っかってみましょうか」
「? 和泉さん?」
拓海はきょとんとしたが、和泉は面白がって返事をしなかった。代わりに、
瞬間――朝日を受けた花が開花するように、溢れんばかりの色彩が、盛夏の和室へ舞い広がった。
「あ……」
拓海は唖然と、また『見える』ようになった花々を振り仰ぐ。
ぴしぴしと、空気の凍てつく音がする。尖った冷気が、半袖から露出した腕を撫でた。極彩色の花々は、透き通る
ごとん、ごとん、と花が落ちる。あのナデシコの、花のように。あっという間に厚い氷に閉じ込められた花々が、重力に従って畳に落ちる。消えずに畳に積もった花の一つを、拓海はじっと見下ろした。
うっすらと薄桃の花びらを透かせた花は、一体何の花だろう。最も麗しい姿のまま、それ以外の何も持たないという欠陥を抱きしめたまま、残酷に時を止められた花。永遠を体現したような、氷漬けの花。
――氷花。
何だか、はっとした。拓海がその符号に勘付いた時、唄うような和泉の声が、凛とした響きで聞こえてきた。
「……『父の
「……やはり、ですか。イズミ君。薄々勘付いていましたよ」
藤崎が、拓海の隣の座布団へ腰を下ろした。そして、膝に乗せていた拓海の手を、
「!」
氷漬けの花から、氷が一斉に取り払われたのだ。
冷気が霧散し、代わりに蒸した熱気が戻ってくる。蝉の声が聞こえて初めて、そんな外界の音までもが聴覚から遠のいていた事実にようやく気づき、拓海は慄然として藤崎を見た。藤崎の目は、和泉を見つめたままだった。真剣な眼差しで、和泉だけを見つめていた。
「イズミ君。君が
「貴方にしては、珍しく詰問調ですね。
「氷花さんの、家族代理としての義務だからです」
克仁は、言う。声に初めて、もどかしさにも似た情動が、熱っぽく通った。
「イズミ君。私は氷花さんというお嬢さんの事を、とても良い子だと思っています。素直で聞き分けがよく、礼儀正しい良い子だと。だからこそ、氷花さんの春の問題行動について、言及は君と
一度言葉を切った藤崎の琥珀の目には、微かな立腹が覗いている。子を叱る親のような目つきだった。
「最近のイズミ君を見ていると、私のそんな対応は果たして正しいものなのか、疑問に思う事が増えてきました。
徐々にきな臭く張り詰めていく大人同士のやり取りに、拓海ははらはらと聞き入っていたが――この時にはさすがに、部外者の拓海でも気づいていた。
「あの……藤崎さん……〝言霊〟について、本当に何も知らないんですか?」
「……。知らないのは私だけのようですね、イズミ君。少し酷いのではありませんか? まるで仲間外れです」
「そんなことはありませんよ。――僕達は、〝同胞〟なのですから。疎外感を覚える事はありませんよ、克仁さん」
「同胞?」
謎の言葉を聞き取り、拓海は首を傾げる。藤崎が振り返り、何故だか悲しげに微笑むと、拓海の手から、手を外した。
ぴたりと、花が降り止む。正確には、止んではいないのだろう。拓海の目には見えていないが、花はおそらく、今も絶えず降っている。藤崎の目には、
「坂上君。私は個人的な趣味として、民俗学を
「え?」
突然の告白に、拓海は面食らう。藤崎は顔をつと上げると、天井を大きく振り仰いだ。拓海には見えない夢の花を、幻視しているのだろうか。
「私には、俗に言う〝霊感〟があるのでしょう。ですがね、坂上君。藤崎克仁という人間は元来、心霊や
「ですが、ある時から……具体的にいつ頃からなのかは判然としませんが、私はいつしか普通の人とは違うものが『見え』始めている事に、徐々に気づいていくのです」
藤崎の手が、虚空を再び掴む。そして、拓海には見えない何かを乗せた手の平を、寂しげに見下ろし、苦笑した。
「私の視界に入る人間に――〝怪我〟の痕が『見える』ようになったのですよ。ですが、頭では不思議と分かっています。誰も、怪我などしていない。目の前の人間が腹から血を流していようが、頭がかち割れていようが、片目が欠損していようが、彼等は平然と生きている。私は慌てましたが、やがて気づきました。――〝傷痕〟は、私にしか……『見えて』いないのだと」
「……」
「誰かに酷い言葉をぶつけられた時、あるいは惨い仕打ちを受けた時、心に傷を負う――と。そんな形容をする事があるでしょう。私が『見て』いるものは、ともすればそんな〝傷痕〟ではないかと考察した時期もありましたが、ともあれ。私の理性は、誰にも見えないはずの傷が『見える』という現実を
「え? ……勉強?」
「はい。勉強です。がむしゃらに知識を頭に詰め込みました。全ての超常現象に、科学的な理由付けを行う為にです」
「えっ」
藤崎が、温和に笑う。今語られている性急な若者と同一人物とは思えないほどに、緩やかで円い微笑だった。
「若い私は、あらゆる勉強を試みましたよ。当初は科学を極める為に知識を肥やしていきましたが、次第に自分が病魔に憑りつかれているのではないかという可能性に思い至り、精神病理についての本も大量に読み漁りました。其の頃にはもう鬼気迫るという言葉通り、半分狂人のような有様でしたね。結局、そんな私の様子がよほど不気味だったのか、家族に神社へ担ぎ込まれましてね。
――壮絶な話だった。七瀬から聞いた藤崎克仁像と、凄まじい隔たりがある。軽い笑い話のように昔を語った藤崎は、放心する拓海をあっけらかんと笑い飛ばして、ふ、と手の平に息を吹きかけた。まるで、花を散らすように。
「最終的に、私は神主さんとの会話の中で、平常心を取り戻し……焦燥から解放されて以降は、民俗学に没頭しました。
「怪談? アーキタイプ?」
「ええ。アーキタイプとは、原型という意味です。『遠野物語』を読まれた事はありますか? 例えば、ある人攫いの話が所収されていて、里の人間が、妖怪だか天狗だか、正体の判らない赤ら顔の異形によって、山へと攫われたそうですよ。幸いにして私はまだ、異人さんにはお目にかかった事はありませんが――
「期待、ですか?」
「
藤崎は、優しい口調を終始崩さないまま、昔話を締め括った。
「結局、私が民俗学という
「……」
「ただ、私の〝霊感〟は極めて弱いものです。若かりし頃、取り乱したのが恥ずかしいほどです。少しばかり幻想的で狂おしい景色が見える他は、〝傷〟や魂の色、風合い。
「魂……」
拓海は茫然と、藤崎の言葉を拾って、呟く。
作り話には思えなかった。現に七瀬と撫子の〝傷痕〟が言い当てられているのだ。藤崎は本気で、己が『見た』ものを言葉に変えて、拓海へ打ち明けてくれている。拓海は刹那逡巡し、別の切り口から会話を続けた。
「藤崎さんの言い方で言うのなら、三浦の魂は、どういう風に見えていますか」
「彼の魂ですか」
藤崎は意表を
「……〝お守り〟が見えましたよ。身体の周りを、ヒイラギの葉で編んだような光の輪が、美しく嫋やかに巡っています。彼は愛されて生まれてきたのですね。子供は誰しも
「……そうですか」
謎めいた言葉だったが、拓海はほっと胸を撫でおろした。撫子の〝鋏〟に、七瀬の〝火傷〟。この上柊吾まで何かあったらと思うと気が気でなかったので、その保険は心強いものだった。
「……三浦は、大丈夫なんですね」
「ええ。大丈夫です」
藤崎が拓海へ微笑ましげに答えた時、横合いから「それでは、〝同胞〟の話に戻りましょうか」と声が聞こえて、はっとした。藤崎に発言を譲っていた和装姿の異邦人は、拓海と目が合うと
「克仁さんの言葉を借りるなら、僕もまた〝霊感持ち〟という事になります。拓海君は柊吾君と七瀬さんから話を聞いているようなので、どうやら気づいているようですね。僕はそんなに怪しいですか?」
「えっと……」
返答に窮する拓海を見て、和泉が吹き出す。気を悪くしたわけではないようで、和泉はひとしきり笑った後で、手に持ったままだった『罪と罰 下』を机に置くと、蝉の音に耳を傾けてから、穏やかに言った。
「良いのですよ。実際に僕は、変人だの狂人だのと、数々の罵倒を氷花さんから受けてきましたから。とはいえ、〝同胞〟に変人呼ばわりされるのは、
「同胞……?」
また、同胞。何度も耳にする言葉だった。
固唾を呑んで、次の言葉を待つ拓海へ――和泉が、また笑った。
そして、核心を突く言葉を、唐突に言ってのけたのだった。
「僕、呉野和泉。それから、呉野氷花。呉野國徳。藤崎克仁。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。――この五名は、〝同胞〟。すなわち、〝霊感持ち〟です」
「……え?」
拓海は、和泉を見る。流れるように言葉を操る、美貌の男の顔を見る。
だが、そうやって和泉の顔を見つめても、にこりと笑い返されるだけだった。
こちらが訊かなければ、教えてくれないのだろうか。拓海は茫然としながら「……もう一度、言ってもらえますか」と和泉に訊ねた。和泉は「ええ」と律儀に頷き、拓海の為にもう一度、同じ〝言挙げ〟を繰り返した。
「〝同胞〟――克仁さんが先程仰った〝霊感〟を持った人間は、呉野和泉。呉野氷花。呉野國徳。藤崎克仁。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ」
「ま、待って下さい! ……最後のっ、誰ですか!」
拓海は、思わず和泉に叫んでしまった。
藤崎が隣で、小さな溜息を吐く。相変わらずの和泉の態度に呆れているのだろう。救いを求めて藤崎を見ると、藤崎は苦笑しながら「イズミ君の父上ですよ。ロシア人と日本人のハーフです」と拓海の疑問に答えてくれた。
「イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。イヴァンが名前で、クニノリヴィチがミドルネーム。クレノが姓に当たります。奇妙な名前に思うかもしれませんが、ロシアではミドルネームに、父上の名を頂くのです」
「……そう、なんですか……」
呆ける拓海に、藤崎が鷹揚に頷く。
「イヴァンの父上は、呉野國徳さんです。イヴァンは『クニノリ』という名前を頂いて、イヴァン・クニノリヴィチ・クレノになります。ざっくばらんに言えば、男性であれば『ヴィチ』、女性であれば『ヴナ』が父上の名前に付き、
「……はい。何となく」
拓海は頷いたが、軽い驚きで力が抜けたままだった。国が異なるだけで、名前にはそんな常識が加味される。それが単純に不思議だったのだ。
だが、突然の外人名に気を取られている場合ではなかった。理解が及んだ拓海は、おそるおそる訊ねた。
「和泉さんのお父さんも、その……〝霊感持ち〟なんですか?」
「ええ。……そうですね。そうでした。父だけは、もうどうだか判りませんが……父もまた、『分かる』人でしたよ」
和泉は、淡く笑った。
意味深な、言葉だった。意味深な、笑みだった。
微かな引っ掛かりを覚えたが、和泉は拓海に質問の隙を与えなかった。すっと居住まいを正した和装姿の異邦人は、拓海と真っ直ぐ向き合った。
――雰囲気が、少し変わった気がした。
「拓海君。僕は今から、九年前の話をします。夏の盛りの出来事です。……『
「青年? ……少女?」
「ええ。高校三年生の青年です。青年は実に生真面目な性格でして、遊びも知りませんでした。同年代の友人はそこそこの数いましたが、丁寧な物腰を煙たがられたのか、深く付き合う間柄の友人は一人もおらず、大人とばかり深く心を通わせていました。それでも彼が周囲と調和できたのは、彼が異邦人だったからです。日本人離れした髪の色と瞳の色。異国の人間への興味と関心。それらが周囲の人間との絆となって、彼を学園に繋ぎ止めていました。そんないつ千切れるとも分からない危うい絆の正体に気づいていながら、己が呼吸し易くなるものには都合よく乗っかろうという、少し怠けたところもありますね。小狡いところもある青年ですが、根は純情です。融通の利かない若者らしい情熱と、己の信義を持っています。同年代の少年少女との接触をいい加減にしたことで生まれた、偏った人間関係と、人付き合いの希薄さが……そんな
「……」
何となくだが、分かった気がする。
和泉が今、誰の話をしているのか。
拓海が「和泉さん」と口を挟みかけると、腕が引かれた。一瞬、視界に花が躍る。硬い手の平はすぐに離され、花は幻に
「……さて、これよりお話させて頂きますのは、九年前の夏の惨劇です。消えていく妹、止まらない狂気、次々と死にゆく家族の姿――そして。僕が呉野和泉として、この世に生まれ直すまで。その誕生秘話を、今ここに
青色の瞳に、外光の澄んだ輝きが
「坂上拓海君。先に君の疑問を、この場で全て片付けてしまいましょうか。君は僕に、幾つか質問を用意してきましたね? さあ。答えましょう。もう一度言いますよ。――何でも、訊いて下さい」
呼吸が、
分かってしまったのだ。拓海の質問が終わった時、何かが始まり、変わってしまう。もう後戻りは出来ないのだ。この知識は劇薬で、破滅を孕んだ
七瀬の顔が、脳裏を掠めた。声を、思い出そうとする。拓海を呼んで、拗ねて、怒って、甘えて、笑って、少しだけ泣き出しそうな顔をした七瀬の様々な声を、拓海は思い出そうとする。
拓海が無事に帰らなければ、もう二度と聞けなくなる声。
拓海が役目を放棄すれば、いずれ聞けなくなるかもしれない声。
そこまで、思い詰めた時――最初の質問は、自ずと決まった。
すっと、息を吸い込む。拳を握り、手の震えを殺し、覚悟を決めて、顔を上げて――拓海は一つ目の質問を、和装の男に向けて叩き出した。
「呉野氷花さんは、篠田七瀬さんを狙っていると聞きました。それは、今もですか?」
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