4-7 撫子
花が、降る。色とりどりの、花が降る。
蓮。桔梗。
いずれの花にも茎はなく、
見る者の魂を、奪い去るのではないか。そんな懸念を抱くほどに、幻想的な花が降りしきる、六畳一間の和室に――和装の男は、座っていた。
黒地の浴衣は白と灰の縞柄で、苔色の帯を締めている。くつろいだ様子で折り曲げられた足はすらりと長く、はっとするほど白い肌が、浴衣の裾から覗いていた。雲間から射す一条の光明のように、窓辺の光も、また白い。日差しの輝きを乗せた風に、男の灰茶の髪がさらりと靡いた。
襖に面した障子窓の手前には、長方形の
『遠野物語』
『罪と罰 上』
『江戸川乱歩傑作選』
『
男の骨ばった指先が、文庫本の天をなぞる。優雅に一冊の本が引き抜かれると、支えを失くして倒れ合う本が二冊、軽くぶつかり合って止まった。男の指は、年季の入った本の
表題は、『罪と罰 下』。
その栞の
「……意外でしたね。二度と読むことはないのだろうと思っていました。僕は兄でありながら、氷花さんの事を、まだまだ何も知らないのでしょうね……」
よく通る声だった。凪いだ海を髣髴とさせる、落ち着き払った声だった。
その声を聞く者全てに、均等な慈愛を振りまくような、異質な博愛を纏う男を囲み、花は降る。降り止まない。切り落とされた花の首は、男の坐する部屋一面を、男の所作に関係なく、粛々と彩り続けるのみだった。
何だか葬送のようだと思った時――男は拓海を振り返り、
「お待ちしておりました。坂上拓海君。……君は今、『見えて』いますね……?」
「……」
拓海は、返事ができなかった。藤崎によって開け放たれた襖の前で、ただただ気圧されて立ち尽くした。
室内に、調度はさほど多くない。目の前の文机の他には小さな本棚と和箪笥が一つずつ。壁には
「ようこそ。氷花さんの部屋へ。あるいは、かつての僕の部屋へ」
「……初めまして。……坂上拓海と、申します」
拓海は、何とか声を絞り出す。思うように口が利けない理由は、畏怖ではなく、感動でもなく、それ故の情動の麻痺でもなかった。
拓海には、どうしてか――この光景が、当たり前のものに思えたのだ。
そんな感性の異常には気づいているのに、夢と
ただ、妖物としての雰囲気は男にはなかった。西洋人形といった方が、印象としては近いだろう。陶器のように白い肌も、灰茶色に艶めく髪も、こちらを見つめる青色の目も、全てが作り物めいていて、見目麗しく纏まっていた。
完成された美しさに、明白な生の欠損――拓海が男の虚ろに気付いた時、違和感の正体が、急に分かった。
拓海には、男が空っぽに見えたのだ。それは例えるならば、雨宮撫子と出会ったばかりの頃に、拓海が抱いた印象と、通じるものがある気がした。
表情が薄いから、感情の所在が掴めない。『見えない』ものを探そうとすれば焦り、笑顔が覗けば安堵して、少しだけ嬉しくなる。拓海は男と撫子に、見た目では測れない魂の部分で、似通ったものを見た気がした。
「……成程。君は雨宮撫子さんに、とても優しい人のようです。友達を大切にする君の魂は、やはり清らかなのでしょうね……」
「! ……な、なんで……」
今、心を読まれた気がしたのだ。
そんな拓海の狼狽を、藤崎がちらと振り返る。そして目元に呆れの渋さを浮かべつつも、状況を
「イズミ君、坂上君が困っていますよ。大方、階下の七瀬さん達にも、同様の態度を取ってきたのでしょう。君、あらぬ嫌疑を掛けられていますよ。中学生だからと、あまり人をからかうものではありませんよ」
「御冗談を。僕はいつだって真剣です。
男は小気味良く笑ったが、藤崎は男ほど笑わなかった。愉快そうに笑う顔は、次第に無表情と大差ないほどの薄い笑みへと沈んでいく。拓海にはその顔がやはり泣き笑いのように思え、それが先程から少し気になっていた。
それに――気になる事なら、他にもある。
「……」
拓海は躊躇いながら、自分の左手を見下ろした。
――そこに伝わる、温かな温度。
中学生の拓海より、ずっと精悍で、それでいてどことなく線が
さっき、突然に握られたのだ。この部屋に、入る時から。かき氷とジュースの入った盆を畳に置いた藤崎が、何故か拓海の手を取った。
そして、その瞬間から――世界は、色彩を変えていった。
見目好い花の雨が降る、幻想の世界に変わったのだ。
「あの……」
拓海は戸惑いながら、藤崎を見て、男を見る。藤崎はすぐに気づいてくれて、申し訳なさそうに拓海へ笑いかけたが、手は離されなかった。拓海と握り合っていない方の手が、すうと中空へ差し伸べられる。
紳士が貴婦人を舞踊に誘うような、恭しい手つきだった。そんな藤崎の手の中に、ひらりと小鳥が枝にとまるように、薄桃の羽が舞い降りた。
一つの小さな花だった。五つある花びらは先の方が割れていて、綿のようにふわふわしている。桜に似た花だった。
「あ……」
拓海は、思わず声を漏らした。
――つい先程、名前が挙がったばかりの花だった。
「私はあの子に出逢った時、とても驚きましたよ。……あの子の魂には、〝鋏〟が見えました。小学生の子供が持っているような、刃先が丸く、
「鋏? ……藤崎さん、それ……何の、話ですか」
「雨宮さんの話ですよ。坂上君。君も何か、事情を知っているのではありませんか?」
藤崎の物腰は柔らかかったが、もう笑ってはいなかった。痛ましげに細められた双眸は、風にそよぐナデシコの花びらへ落ちている。それ以外を、見ないように努めている。そんな頑なさが、眼差しにはあった。
「……鋏が、何なんですか」
声が、少し震えた。訊くのは、怖い。それに訊きたい事は他にも山ほどあった。だが、まずはそれを知らなければならない気がした。
藤崎が、拓海を見る。やがて
「……刺さっています。胸の、真ん中に。身体を、深く刺し貫かれています」
――茫然と、した。
言われた内容が突飛過ぎて、言葉が脳に届かない。近いところまで声は確かに響いているのに、あと一押しが足りていない。堰き止められて、伝わらない。感度が妙に鈍ったような、それでいて重い痛みを身体に覚えたような、ぐにゃぐにゃと柔らかな手応えだけが、意識を強く、叩いていった。
「……」
鋏。柄が青色の、子供が持つような、切れ味の悪そうな、鋏。それをもっと大きくしたような、この世に存在してはいけない、残忍な凶器。
それが刺さるところを、拓海は想像する。巨大な鋏が人体を貫くところを、藤崎の言葉通りに想像する。
丸みを帯びた鈍色の刃先が、白く整った
だが、鈍磨した刃先では、肌を傷つける事が叶わない。必然的に、強く刃先を押し込まざるを得なくなる。捩じ込むように。抉り込むように。突き刺されと呪詛を吐き、貫けと渾身の悪意で。ぐりぐりと執拗に、粘着質に、押し付けていく。刺さるまで。刺さるまで。刺さるまで。相手の身体に、刺さるまで。
雨宮撫子の身体に、刺さるまで。
ばちん、と強い照明をいきなり
燦然と輝く意識の只中に、撫子の面影が閃いた。想像の人体が、のっぺらぼうのはずの顔が、見知った顔にすり替わる。
半袖の白ブラウスを着た撫子の胸元で、リボンに留められた金色のボタンが光る。露出した細腕が、抜けるように白い。青と白のチェック柄のスカートと、肩に届かない長さの栗色の髪が、振り向く動きに合わせて翻った。
――驚いている。
感情をあまり露わにしない撫子が、目を見開いて驚いている。華奢な両手が、助けを請うように、前方へ伸ばされた時――青い閃光が、凄い速さで
短い悲鳴が、迸った。苦悶に喘ぐ友達が必死に押し殺し、押し殺せないで空気を裂いた、断末魔の悲鳴だった。
重い砂袋で力任せに殴りつけたような、耳を塞ぎたくなるほど鈍く湿った音がして、崩れ落ちる
その身体には――冗談のように、大きな、青い、鋏が。
「あ、……う、……うわああああああ!」
悲鳴が喉を食い破った。だが一度連想した〝映像〟は、拓海の頭から消えないどころか、惨状を克明に描いていく。微に入り細を
撫子の手が、空を掻く。色を失った唇が開き、誰かの名前を呼んでいる。身体が徐々に弛緩していき、胸に刺さった鋏にしなだれかかった両腕からも、力がゆっくり抜けていく。こんな〝映像〟は、間違いだ。そうでなければおかしいのだ。撫子は今、一階にいる。柊吾と七瀬と一緒に居る。撫子は、生きている。死んでいない。生きている。
拓海は焦り、恐怖し、堪らずきつく、目を瞑ったが――悪寒は、すうと唐突に薄れた。まるで、憑き物が落ちたように。
「……坂上君。坂上君。……大丈夫ですか?」
目を開けると――藤崎が、拓海の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「あ……」
――我に、返った。
そうとしか形容できないこの感覚は、夢の目覚めそのものだ。
――帰って、きていた。
ここは、和室。撫子の姿は、どこにもない。花が降り続ける部屋に、恐慌の名残のような呼気の乱れが微かに響く。首筋を伝った汗が、窓からの風に冷やされてようやく、拓海は現実感を取り戻す。
――夢、だった。そう、思った。白昼夢は、終わっていた。
「藤崎、さん……」
放心した拓海は、藤崎と見つめ合う。藤崎は心なしか、すまなそうな顔つきになっていた。拓海が妙な妄想に憑りつかれた揚句、叫び声を上げたからだと気づき、羞恥と混乱が一息に押し寄せてくる。
「あ……え、と。……は、はい。平気です」
しどろもどろに弁解したが、本心からの言葉ではなかった。藤崎の言葉の不吉さは、依然として拓海の意識にこびりつき、それこそ鋏のように、胸に突き刺さったままだった。
「……。何なんだ。今の……」
拓海は、藤崎には聞こえないほど小さな声で、呟いた。
……ただの想像にしては、嫌なリアリティを帯びていた。そもそも拓海は、そこまではっきりと〝鋏〟を想像したわけではなかったのだ。藤崎の告げた〝鋏〟の意味を、拓海なりに考えようとしただけだった。
それが、いきなりこうなった。撫子が鋏によって惨殺される〝映像〟が、突如として頭に浮かんだのだ。疑問を覚えた瞬間、はっと拓海は気がついた。
何故こんな〝映像〟が急に見えたのかは分からないが、藤崎の言う〝鋏〟なら、拓海の記憶にあったのだ。
以前に、柊吾が言っていた。昨年の初夏に、撫子を襲った〝言霊〟の事件について、あらましを聞かせてもらった時に。同じく〝言霊〟の被害を受けたという柊吾の友人が語った思い出話に、その言葉は潜んでいた。
――『小五の時に、クラスで育てたナデシコの花が、何者かに鋏で切り取られて、ほとんど全滅……』
鋏で、切り取られて。
「藤崎さん……何で、鋏って……何か、知ってるんですか」
拓海は緊張の面持ちで、藤崎に問う。対する藤崎は平然としたもので、拓海の警戒を解くような緩やかさで、首を横に振った。
「いいえ。何も。私は『見える』ものを云っただけの事ですよ。……私と手を繋いだ所為で、君には違うモノが『見えた』ようですね。意図した
「……へ?」
何の話をされたのか、よく分からない。藤崎は拓海が落ち着きを取り戻してほっとしているようだったが、瞳には夕暮れ時の空のような淡い憂いが灯っていた。
「何度か抜けかけた事もあるようですが、根深いですね。まるで呪いのようです。可哀想に。あんなに酷いものは初めて見ました。
「え? 篠田さんっ?」
「火事にでも遭ったのでは? 火傷の痕が見えました。ほとんど治癒しているようなので、辛さは感じていないでしょうが、刺し傷のような痕も幾つか。喧嘩と一言で片づけるには、〝傷痕〟が
「な……ちょっと待って下さい、藤崎さん……それって篠田さん、大丈夫なんですか……!」
血の気が引いた拓海は、藤崎に詰め寄る。七瀬の名前まで、この場で挙がるとは思わなかったのだ。
それに、先程も思った事だが――何故、知っているのだろう。
撫子の事も、七瀬の事も、これらの指摘は明らかに、かつての事件を示している。拓海達の誰も、明かした覚えなどない。
拓海が薄らと浮かべた警戒の色に、藤崎は気づいているのかいないのか、やんわりと穏やかに笑った。大人の笑い方だった。藤崎は拓海の不審を払拭できる事に、自信と確信を持っている。拓海にはまだ背伸びしてもできないだろう、余裕と達観の笑みだった。
「……やんちゃな子ですから。君が
「……なんで、そんなに分かるんですか」
「簡単なことですよ」
藤崎は、笑う。微かな皮肉と、自嘲が織り交ざった声だった。
「
「霊感っ?」
拓海はぽかんと口を開けたが、そんな反応は
「イズミ君も先程
そう告げた藤崎は、おもむろに手の平をくるりと返し、花を手から零した。
ナデシコの花が、落ちていく。そして、降り行く
ナデシコの花は、消えていなかった。
消えずに、畳の上で――凍っていた。
分厚い氷に覆われた花が、ころり、と石のように転がる。花が触れた畳の周囲に、音もなく霜が降りた。足元からは冷気が立ち上り、息を詰めた拓海は、幻の移ろいを凝視した。
……本物に、見えた。虚構を疑う理性こそを否定せざるを得ないほどに、花は確固たる存在感でそこに在る。
直に触れたなら、もっときちんと、その実在を確かめられるだろうか。拓海の手は、誘われるように、畳の花へ伸びたが――繋がれた手が、軽く引かれた。
驚いて顔を上げると、拓海を止めた初老の男は、首をゆるゆると横に振って、柔和に笑うだけだった。
「克仁さん。僕は初めて貴方が発した〝言葉〟として、その事実を受け止めましたよ。貴方には彼女の〝言霊〟が、そんな形に『見えて』いるのですね。僕とはまた違った見え方です。実に面白い」
「面白がっている場合ですか。イズミ君」
藤崎が、男を振り返る。笑みは絶やさないままだったが、言葉には微かな棘が混じっていた。
「君も、あの子の窮状は判っているのでしょう。神社の神主代行らしく、御祓いでも御祈祷でも、何でもあの子の為にやってあげればいいでしょう。君はあの子を可愛いと思いながら、何故
糾弾された和装の男は、面目なさそうに微笑んだ。悪びれている風ではなく、純粋に、力になれない事を詫びている。そんな無力と諦観が、仄かに覗く笑みだった。
「残念ながら、僕も人ですので。撫子さんの為に尽くしたい気持ちは山々ですが、同時に〝アレ〟は、今の僕や御父様にどうにかできるものではありません。もちろん貴方にもです。克仁さん。ご家族の方や柊吾君に一任するのが、一番の治療なのですよ」
「……。『愛』ですか。
笑みを収めた藤崎は、会話についていけない拓海をよそに、きっ、と男へ厳しい眼差しを向けた。今まで拓海が見た中で、最も凛々しい表情だった。同時に、最も悲壮な表情だった。
「君はいつも、己を『鬼』だと蔑む。私に今、言質を取られた事を覚えておいて下さい。いくら非人間を装ったところで、君はやはり人間ですよ」
「一本取られましたね。克仁さんを前にすると、僕は子供に戻ってしまうようです。矛盾を掬い上げられるとは、お恥ずかしい限りです」
「全くですよ。……坂上君。どうぞ、こちらへ」
藤崎が、男の対面に用意された紫色の座布団を腕で示した。拓海が慌てて頭を下げると、手が、そっと離された。
さらりと、雪の入り混じった風が、最後に身体をひと撫でして――和室は、ただの和室に戻っていた。
みんみんみん……と、開いた障子窓の向こうで、蝉が盛んに鳴いている。短い夏を謳歌する声が響き渡る狭い部屋で、居住まいを正した和装の男が、拓海を見上げて笑っている。吸い込まれそうな青い目で、異国の男が、笑っている。
優しく、涼しげに、嫋やかに。そして、やはり、空っぽに。
「……」
拓海は、対面の座布団へ正座する。花が降り止んだ夏の部屋で、異国の風貌を持つ男と、真正面から向き合った。その間、三者は無言だった。不思議と儀式めいた雰囲気がぴんと張り詰め、花の残り香と蝉の声、盛夏の熱気と日陰の涼しさだけが、薄青い和室で囲われた世界の全てだった。
長いとも短いとも判断の付かない、絶妙な間合いの末に。
男が、ついに口を開いた。
「……本日は御足労頂き、誠に有難う御座います。御挨拶が遅れました。呉野和泉と申します」
流れるような動作で、男――呉野和泉が、頭を下げた。
灰茶色の頭髪が揺れて、白い外光を弾く。和泉の容貌は日本人離れしているはずなのに、そんな艶めきが何故だかひどく浴衣と調和して見えた。
「……いえ、お招き頂き、ありがとうございます」
拓海は狼狽えながら、頭を下げる。拙いお辞儀が面白かったのか、顔を上げた和泉にくすりと上品に笑われた。
「七瀬さんから既に聞かれているとは思いますが、僕は呉野神社の神主代行を務めている者です。もちろん、閑古鳥の鳴く呉野神社での務めだけでは生活が立ちゆきませんので、外国語教室の教師として働く事もありますが、ともあれ――ご存知の通り、僕は氷花さんの兄ですよ」
「……」
「そして」
「え?」
続きがあるとは思わず、拓海は慌てた。和泉は拓海の動揺を全く気に留めず、自分のペースで、こう続けた。
「僕は、藤崎克仁さんの家族です」
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