4-6 七瀬
篠田七瀬が
怖いものなんて何もないと、『鏡』の事件の渦中で思ったはずなのに――七瀬は拓海と出会ってから、少しだけ脆くなった気がする。
「撫子ちゃん。三浦くん。師範はいい人だよ。悪い人じゃない。何度も遊びにきたから知ってる。……でも、坂上くんが連れていかれるところを見たら、急に怖くなって……ねえ、帰ってくるよね。坂上くん、無事に帰ってくるよね?」
「うん。大丈夫」
撫子の声は落ち着いていて、お母さんのようだと七瀬は思う。七瀬の母とは、雰囲気が全然違うのに。不思議に思っていると、「篠田。大丈夫だ」と横合から声が掛かり、縁側から射す陽光を、大柄な体躯が遮った。
「イズミさんって得体が知れないところがあるけど、篠田が警戒するほど、悪い人ってわけでもないと思う」
「お兄さんの何を、三浦くんはそこまで信用できるの? やっぱり三浦くんは甘いよ。あの人、多分……私達に、嘘をついてる」
呉野和泉には、七瀬も一度助けられている。過剰な警戒だという指摘は分かるが、和泉が拓海を明確に巻き込むつもりだと分かってから、信頼よりも不審の方が
「……。イズミさん、変な大人だけど、呉野の犠牲者を増やさないように努力したいって気持ちは、本当だと思う。もし、他が……篠田の言うように、嘘でも。そこだけは信じられるって俺は思う」
朴訥とした声で、柊吾は言う。七瀬が顔を上げると、柊吾は少しだけ困った様子で、短髪に手をやっていた。
「……でも、心配だよ。ちょっと胡散臭いし……ねえ、撫子ちゃんはどう思う?」
七瀬は、撫子に水を向けてみた。撫子も『鏡』の事件中に、和泉とは顔を合わせている。会話はさほど交わしていないそうだが、撫子が和泉にどんな印象を持ったのか、一度訊いてみたかった。
撫子は、考え込むように沈黙し、やがて小声で言った。
「分からない。でも、少し嘘つきだと思う」
「撫子ちゃんも、そう思うの?」
七瀬は、撫子の身体をそっと離す。「うん」と答えた撫子は微笑んだが、少しだけ寂しげに睫毛を伏せた。
「でも、ひどい嘘じゃない気がするの。七瀬ちゃん、あの人はもしかしたら、過去に呉野さんと何かあったんじゃないかな」
「どうして、そう思うの?」
「調理室で初めて会った時に、ずっと笑ってたから。なんであんなに優しく笑うんだろうって、考えてたの」
撫子の語りに、柊吾もいつしか聞き入っている。二人分の視線に物怖じしない撫子の白いロングブラウスを、縁側から入る真夏の斜光が、より白く染めていた。
「あんなに優しく笑うのは、あの人が優しい人だからかなって思ってた。でも、もし違うなら……多分、辛いのを誤魔化してるから。私は、そんな気がする」
「……そっか」
短い相槌を打った七瀬は、もう一度撫子を抱きしめた。美しく
――撫子がかつて、氷花に何をされたのか。七瀬も、拓海も、既に知っている。
「……? 七瀬ちゃん?」
七瀬が撫子の背中を撫でていたからか、撫子が不思議そうに身じろぎした。「かわいいなあと思って」と誤魔化した途端に、柊吾から「篠田、その辺にしとけ。雨宮が潰れる」と失礼極まりない暴言が飛んできた。文句を言おうとしたところで、「七瀬ちゃん。浴衣、似合ってる」と撫子が出し抜けに言ったので、七瀬は面食らう。さっきから拓海の事で頭がいっぱいで、浴衣の事なんて忘れていた。
「……ありがと。門弟の子達が泊まる事も昔はあったみたいだから、師範の奥さんが浴衣をたくさん作ってたんだって。私も、毬と泊りに来た時に着させてもらったんだ。夏休みの宿題で、
話しながら、七瀬は浴衣の袖をひらひらと振って見せた。
藍色に白い朝顔と蔦の模様が拡がるこの浴衣を、七瀬が着るのは二度目だ。毬に似合うと褒められて、少し舞い上がっていた八月の夜を思い出す。数ある多彩な浴衣の中から、七瀬が大人しい色合いのものを選んだ事を、師範は意外がっていた。師範もあの日の事を覚えていたから、浴衣を用意してくれたのだろうか。じんわりと温かい嬉しさが、不安を少しだけ薄めてくれた。
師範が信頼できる人間だという事を、七瀬はここにいる誰よりも知っている。
――たとえ師範が、七瀬の仇と通じていたのだとしても。
――呉野氷花が、この家に住んでいるのだとしても。
――その兄、呉野和泉と、何らかの接点を持っていたのだとしても。
状況が怪しくとも、藤崎克仁は藤崎克仁だ。七瀬の知らない別の顔を、師範は幾つも持っているだろう。その顔の一つを、師範は明かしてくれるのだ。この会合の場で、拓海を介して。柊吾が「へえ、器用なもんだな」と呟いて卵色の帯を見ているので、「でしょ」と答えた七瀬は胸を張って、己の葛藤に蓋をした。
「七瀬ちゃん、一人で着たの?」
撫子が、しげしげと浴衣を見ている。さっき師範とともに居間を離れていた撫子は、七瀬が浴衣を着た経緯を知らないのだろう。
「すごいね。着付け、できるんだ」
「そんなに難しくないよ。今度撫子ちゃんも着せたげる。来年のお祭りは一緒に行こうよ。こないだ撫子ちゃんが会いに行ってくれた
「毬ちゃん、元気にしてる?」
「元気だよ。お祭りも、学校の友達と楽しんでくるんだって。前に話した、道場が一緒だった
七瀬は話しながら、毬と和音の友人だという〝もう一人〟の名前を思い出せず、首を捻る。毬から何度か名前を聞いたはずなのに、ど忘れしたようだ。唇に指を当てて考えていると、撫子も小首を傾げた。
「七瀬ちゃん。坂上くんには見てもらったの?」
「え? ……うん」
思わず口ごもると、「なんだ、ちゃっかり間に合ってたのか」と、かき氷を食べ終えた柊吾にどうでもよさそうな顔で言われた。少しばかり悔しいので、「この話はストップ! 三浦くん、約束忘れてないよね」と七瀬は話題を強引に変えた。
「約束? ……ああ、あれか」
柊吾は嘆息して、床から鞄を手繰り寄せる。七瀬もソファからバッグを引き寄せると、中から折り畳んだ紙片を取り出した。
「じゃあ、せーの、で見せて」
「……せーの」
柊吾のぞんざいな掛け声で、ぱっと互いに開いた紙片を突き出した。
「……あ、くそ。負けた」
柊吾は悔しそうに眉根を寄せた。七瀬は「やった!」と叫んで拳を握り、きょとんとする撫子へ「先月の模試の結果。成績勝負してたんだ」と打ち明けて、細長い紙片を差し出した。
二か月前から通い始めた塾では、定期的に模試を行っている。料金を払えば塾生でなくても受験は可能なので、柊吾も先月やって来たのだ。
「あ、七瀬ちゃんの志望校、東袴塚の普通科なんだ」
「そうだよ」
力強く答えて、七瀬は笑った。七瀬の第一志望は、東袴塚学園高等部の普通科だ。県内ではそこそこ高い学力を誇る学校で、柊吾と同じ志望校だったりする。もちろん拓海も一緒なので、七瀬は現在かつてないほど熱心に勉強に取り組んでいて、柊吾も日夜猛勉強に追われているという。互いに勉強は苦手だからだ。
「高等部にエスカレーター式で行けたらいいけど、そういう学校じゃないし。でも、図書室とかは中等部でも利用できるから、何回か入ったことがあるんだ。校舎は綺麗だし、学食も美味しいらしいし、制服もかわいいよ」
「セーラー服?」
「うん! うちの中等部の制服を、紺色に変えた感じかな」
「篠田。お前のそれ、もっかい見せろ」
柊吾が女子組の会話に割って入り、撫子の手から成績表を取り上げた。
「何度見たって同じだよ。三浦くんてば、負けず嫌い」
「あ。やっぱりか。英語と国語は、俺の勝ちだ」
柊吾は毒気を抜かれたような顔をしてから、微かな笑みを返してきた。七瀬に勝てて嬉しいのだろうが、こちらも闘争心を焚きつけられた。二枚の成績表をひょいと覗き込んだ七瀬は、「なあんだ」と言って笑った。
「数学と理科は私の方が上じゃない。ぎりぎりで社会も。やっぱり私の勝ち」
「じゃあ、次は社会で勝負しろ。来月の模試も受けにいくからな」
「オッケー。次も負けないからね。坂上くんって、社会も得意だったかな」
「おい、他の教科もだいぶ坂上に面倒見てもらってるんだろ。責任取って、ちゃんと合格しろよ。お前だけ落ちたら、皆受かっても喜べないだろ」
「何よ、撫子ちゃんと伯父さんに英語と国語の面倒すごく見てもらってる人に言われたくない。っていうか、落ちるって言うなあ!」
仲間と取り留めのないことを話して笑い合いながら、こうやって自然体で待てばいい。拓海は、無事に帰ってくる。
今日という会合の場を電話で決めるうちに、呉野和泉から師範と氷花の繋がりを示唆された時、七瀬が感じたのは砂のようにざらついた不安と恐怖だった。
もっと早く、ここに来たかった。歪な三者の関係を、師範に問い質したかった。
七瀬がそれを、我慢したのは――拓海に、止められていたからだ。
『行かないでほしい』
勢い勇んで道場へ向かおうとする七瀬を、拓海は懇々と説き伏せた。約束の日まで、どうか耐えてほしい、と。
勝手知ったる、師範の家。同時に、氷花の仮住まい。そんな場所へ七瀬が一人で踏み込む事の危険性を、拓海は真剣に考えてくれていたのだ。七瀬が拓海の要求を呑んだのは、
――早く、帰ってきてくれたらいいのに。
早々に置時計を気にしてしまい、そんな仕草に七瀬は自分を笑ったが、柊吾も撫子も笑わなかった。表情の作り方が分からなくなり、七瀬は緩やかに焦る。
「七瀬ちゃん。髪、結わないの? お団子にしたら似合うと思う」
「うん……時間あるもんね。結ってみようかな」
意識して笑うと、柊吾がちらりと視線を寄越してきた。「別に強がんなくてもいいと思うぞ」と言われたので、文句の言葉が喉で閊えた。
「……。そんな風に、言わないでよ」
とん、と撫子の肩に寄り掛かる。雑談で気を紛らわそうとしても、今日は駄目だ。七瀬はやっぱり恋をしてから、少し脆くなっている。そんな風に自分が変わるなんて、拓海に出会う前は想像もしていなかった。
拓海に、今すぐ会いたい。それだけを、七瀬は思った。
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