3-31 贈り物

 坂上拓海は、石段をゆっくりと上り始めていた。

 目指す場所は、御山の頂上。振り仰いだ青空に、丹色の鳥居が映えている。御山の中腹の木々は葉桜だが、境内は今が花盛りなのかもしれない。ちらちらと長閑のどかに舞う桜は、徐々に数を増している。

 一人で神社に向かった七瀬の熱が、実はまだ下がり切っていない事に、拓海は何となく気づいていた。出来ればこういった供養には万全の体調で臨んで欲しかったが、急ぎたい気持ちも分かるつもりだ。

 せめてもの思いで、途中まで同行させてもらったが――結局待ちきれずに、迎えに行こうとしている。

 まだお祓いの途中なら構わないが、もし境内で倒れていたらと思うと気が気でないのだ。神職の男がついているから大丈夫だと分かっていても、自分の目で確かめるまでは落ち着かない。

 緩い焦りを抱えながら、もう一度石段の終わりを振り仰ぐと――鳥居の真下から、七瀬がひょっこりと姿を現した。

「篠田さん」

 ほっと安堵した拓海は、片手を挙げて笑った。

 数日前に、初めてできた彼女。平凡な自分には不釣り合いかもしれないと、やっぱり今でも少し怖い。だがそれ以上に、姿が見えたのが嬉しかった。幸福な気持ちで、拓海は七瀬を見上げていたが――ふと違和感を覚えて、立ち止まった。

「……?」

 七瀬は、石段を一目散に駆け下りてきたのだ。そして七瀬の方も、石段の半ばで立ち止まる拓海に気づいた。驚きで目を瞠ってから、その表情を即座に引き締めて「坂上くん、行こう!」と鋭く叫んで走ってくる。

「どうしたんだ……?」

「早くっ」

 七瀬は拓海の元まで駆けつけると、拓海の腕をぐいと強く引っ張った。たたらを踏んだ拓海は「篠田さんっ?」と声を掛けたが、七瀬は答えず、雑草に浸食された石段を駆け下りる足も止めなかった。

 下界から吹き上げるぬるい風が、日向の草花の青い香りと、桜の花びらを運んでくる。たなびく七瀬の巻き髪が、陽光の煌めきを艶々と弾いた。

「あ……」

 拓海は、目を見開く。既視感と郷愁を覚えたからだ。

 ――この状況はまるで、『鏡』にいた時と同じだからだ。

 あの日の再現のように、拓海は七瀬と走っている。二人きりで、階段を駆け下りて、氷花の悪意から逃げる為に。

 ――逃げる、為に。その言葉がぴたりと嵌まり、拓海にもぴんと来た。

「篠田さん、もしかして」

「呉野さんがいるの!」

 当たりだった。御山を下り切って最初の鳥居前まで戻ると、七瀬は背後をばっと振り返る。そして、頂上にそびえるもう一つの鳥居を振り仰ぎ、睨みつけ、そこに誰の姿も見当たらない事を、きちんと確認してから――ふ、と溜息を吐いた。

「……はあ、最悪。呉野さんって、ほんと粘着質よね」

「大丈夫? 何か言われたりしなかった?」

「ううん、何も。お兄さんに逃がしてもらったから。……でも、私。狙われてるんだって。呉野さんに」

「えっ?」

 ――狙われている?

 不穏な言葉だった。その台詞を冗談だと受け取るには、もう拓海と七瀬の日常は壊れ過ぎている。明確な悪意の存在に、気づかないふりは出来なかった。

 柊吾がもたらした知識が、拓海達の世界を変えてしまった。

 これからの拓海達は、今までのままではいられない。今までと同じ日常は、多分だがもう歩めないのだ。

 ――少なくとも、氷花が同じ学校にいる間は、まだ。

「……ねえ、坂上くん。呉野さん、また何か言ってくるかもしれないね」

 七瀬が、ぽつりと言う。戸惑いと覚悟、先行きへの不安が入り混じったような声には、達観めいた爽やかさもあった。

「お兄さんに、さっき言われたんだ。詳しいことは、三浦くんと撫子ちゃんにも改めて話したいんだけど……『夏の盛り。貴女の友人と奇しくも同じ名の、葉月の頃に』……呉野さんの秘密を知りたいなら、会いに来ればいい、って」

「夏の盛り……葉月の頃? ということは、八月か」

「え? 分かるの?」

「うん。一ノ瀬さんの名前の『葉月』は、旧暦の八月を意味する言葉だから。最近読んだ小説で知ったんだ」

「あ……そういえば、葉月の誕生日、八月だ。……そっか。由来って、そこから来てたのかな。私達、親友って言い合ってたけど、お互いに知らないことが、まだまだいっぱいあるんだね」

 七瀬が、儚げに微笑わらった。一ノ瀬葉月との仲違いの名残を窺わせる憂いが寂しくなり、拓海は何とか励ませないかと己の中から言葉を探し、適当な言葉が見つからず、ただ不器用に、精一杯の言葉を紡いだ。

「……俺、一緒にいるから」

「うん」

「頼りないかも、しれないけど」

「そんなこと、ないよ。……でも、いいの? 危ないかもしれないのに」

「だったら、余計に駄目だ。一緒にいないと」

「……八月って、だいぶ先だよね。私達、それまでに何が出来るんだろ」

「出来ることなら、たくさんあるよ。例えば、勉強とか」

「勉強? どうして?」

「ほら、もう受験生だし。忙しく過ごしてたら、きっと夏休みまであっという間だ」

「そういう、現実的なところを忘れない坂上くんと一緒なら、絶対に大丈夫って気がする。私も、勉強がんばる。……でも、危なくなったら逃げてね」

「逃げなくても、大丈夫だと思う。……お守りもあるし」

「え?」

 不思議そうな顔をする七瀬へ、拓海は学ランのポケットに入れていた物を取り出して見せた。

「定期ケース?」

「うん。これ、見て」

 開いた定期ケースを、拓海は左手の上で逆さにした。ころん、と小さな物が手の平に落ちる。にび色の冷たい欠片は日の光を反射して、きらりと虹色の光彩を万華鏡のように煌めかせた。その輝きを瞳に映した七瀬が、瞠目する。

「鏡……? これ、もしかして私の?」

「うん」

 欠片は小さく、爪の先ほどの大きさしかない。落としてはいけないので、拓海は欠片を定期ケースへ戻した。それを学ランのポケットへ再びお守りのように収めると、いつかの時と同じように少しだけ泣きそうな顔をした七瀬へ、安心してほしくて笑いかけた。

「……あの時、俺が『所有』してた欠片。ポケットに入ってたんだ。割れた鏡を拾った時に、紛れたんだと思う。……俺が篠田さんと携帯で話しても無事だったのは、多分だけど、雨宮さんが言うような理由じゃないんだ。俺も、守ってもらえたんだと思う。……だからってわけじゃないけど、篠田さん。気にしなくていいから。俺が関わったら危ないとか、気にしてほしくないし、前みたいに、勝手に逃がされたりするのも、もう嫌だし。あと……せっかくお祓いに行ったのに、一欠片、黙って持っててごめん」

「ううん、謝らないで。……ありがとう」

 睫毛を伏せて微笑んだ七瀬が、唇を結んで俯いた。かと思えば、何かを恥じらうようにおずおずと、拓海の顔を見上げてきた。

「ねえ、坂上くん。私も、坂上くんに謝らないといけない事があるんだ」

「ん? 何?」

「あのね、割れた鏡を、ハンカチで包んでくれたでしょ? 今更だけど、ごめんね。破片まみれにしちゃって。新しいものを買って返すから……あのハンカチ、私がもらってもいい?」

「? それは別にいいけど……そんな、新しいのとか、気にしなくていいから」

 恐縮した拓海は辞退したが、ぱっと瞳を輝かせた七瀬は「もらっていいの?」と華やいだ声を上げた。

「ありがと、坂上くん」

 嬉しそうな笑顔を見て、拓海は軽く放心する。

 こんなにも簡単なことで、笑ってくれるのだ。自分には笑わないと思っていたあの頃が、本当に嘘のようだった。

「……あの、さ。俺からも、もう一つ。篠田さんに謝りたい事があるんだけど」

「え?」

 渡すなら、今だろう。一度は緩んだ緊張感が、再び張り詰めていくのを感じた。通学鞄を開けた拓海は、昨夜からそこに入れていた物を取り出した。

 手の平サイズの包みは、薄茶色の包装紙と、赤いリボンで飾られている。目を丸くしている七瀬へそれを差し出すと、拓海は懸命に言った。

「……あの日の朝に、俺、篠田さんにぶつかりかけて、転ばせちゃったじゃん。篠田さんの鏡は、呉野さんに関わるうちに三回割れたけど、一回目だけはいつ割れたか分からないって話だったよな。……それ、もしかしたら俺の所為かもしれないって、後になって気づいたんだ。一回目は、あの時に割れたんじゃないか、って。それに篠田さんは、一ノ瀬さんとお揃いの鏡も処分したんだよな? だから……今は、鏡を持ってないんじゃないかって、思って……その、ごめんな……? 驚かせて、転ばせて、大事な鏡を、割ったかもしれなくて。どんなのがいいとか、可愛いのがどれとか、ちゃんと選べたか自信ないんだけど……受け取って、くれる……?」

「……開けても、いい?」

 拓海は、こくりと頷く。本音を言えば、家で開けて欲しかった。気に入ってもらえなかった時の反応を間近で見るのは恐ろしい。

 緊張が極まって俯く拓海の手から、七瀬が包みを受け取った。包帯が取れて絆創膏だけになった右手の指が、少しだけ震えていた。そろりと様子を窺うと、七瀬は頬をほんのりと赤く染めて、拓海からの贈り物を見つめている。

 七瀬も、緊張しているのだろうか。意外だったが、そんな顔を可愛いと拓海は思った。ごく自然にそう思った自分に、拓海はとてもびっくりした。

 七瀬の指が、赤いリボンを解いていく。艶やかなサテン地のリボンを指に絡めて、包装紙を開いていく。そして、中に収められた薄い鏡を、そっと取り出して――きょとんと、目を瞬いた。

「……ウサギ型?」

「いや、その……篠田さん、雨宮さんの絆創膏、可愛いって言ってたから……」

 桜色をしたウサギ型の鏡を見下ろす七瀬へ、拓海は慌てて釈明し、すぐに耐え切れなくなって、白状した。

「……一昨日、三浦たちと篠田さんのお見舞いに行った帰りに、雨宮さんに頼んで雑貨屋さんに連れてってもらって……二人に意見を訊きながら選んだんだけど……ごめん……一人で選べなくて……」

 プラスチック製の耳が生えた鏡は、ウサギの口の部分が円形の鏡になっていた。鏡の上にはゴマのような黒い目が、ちょんと二つ付いている。「あーん」と大口を開けている顔が可愛らしいが、子供っぽ過ぎたのかもしれない。撫子は大真面目な顔で「かわいい」と太鼓判を押してくれたが、思い返せば柊吾はもの言いたげな目をしていた気がする。

 肩を落として項垂れていると、くすりと笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、七瀬が声を殺して笑っていた。ぱっとこちらに向けられた顔は、とびきり明るい笑顔だった。

「ありがと。すごく嬉しい。……大事にする」

 そう言って、七瀬はスカートのポケットから携帯を取り出した。それを通学鞄に仕舞い直しているので「何してるんだ?」と拓海が思わず訊くと、七瀬は「だって」と得意げに答えた。

「ポケットに入れて持ち歩くんだもん。携帯なんて一緒に入れてたら、鏡を傷つけちゃうでしょ?」

 七瀬は通学鞄を肩に提げ直すと、拓海への距離を不意打ちで詰めてきた。とん、と寄り掛かられて、ふわりと石鹸の香りがした。

 どきりとした拓海が受け止めると、急に、七瀬の身体がぐったりと沈んだ。驚いた拓海は、腕に力を込める。今の七瀬の動きは、拓海に抱きついたわけではなかったのだ。両肩を支えて顔を覗き込むと、心配した通りだった。

「篠田さん、熱。まだ下がってないよな? 今日はもう帰ろう」

「やだ。駅前に、桜を見に行くって、言ったのに」

「じゃあ明日、熱が下がってたら行こう」

「……散ってたら、どうするの?」

「その時は……来年、一緒に行こう」

「……うん。それなら、いいよ」

 新しい鏡を手に持ったまま、七瀬が拓海の首に腕を回した。拓海が抱きしめ返した身体は、温かくて柔らかかった。気持ちがふわふわと浮き立つのは、気候が暖かいからかもしれない。

 大切にしよう、と。熱に浮かされかけた頭で、拓海は思った。

 季節は、春。新学期は、まだ始まったばかりだった。

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