3-32 兄妹

 しんしんと、桜が降る。白皙の肌へ紅を差したような薄桃色の花びらが、御山にひらけた神域に、青空を薄く映した石畳に、雪のごとく積もっていく。

 木々のこずえが風を奏で、うぐいすが歌う境内で――呉野和泉は、鳥居と拝殿を繋ぐ石畳に佇んだまま、下界に通じる石段を眺めていた。

 先程まではもう一人、この境内には快活に笑う東袴塚ひがしこづか学園の少女がいた。

 そして、今はもういない。和泉が少女の見送りを終えた今、この敷地には二人の人間しか残っていない。家宅で過ごす老人を勘定に入れるなら、その人数は三人になる。

「……有難う、と。彼女は僕に〝言挙げ〟しました」

 祝詞のりとをあげるように、和泉は言う。独り言のように、それでいて、聞き手の存在を知る声で、凛と言葉を紡いでいく。

「嬉しいものですね。見返りを求めての行動ではありませんでしたが、礼をたまわるとは思いがけませんでした」

 朗々と流れる和泉の声に、唯一の〝聞き手〟は応えない。桜が散る境内で、美貌の男の独白だけが、静々とうららかに響いている。

「有ることが、難しい。有ることが難しいものが、そこにある――他者への感謝を示すこの言葉は、『滅多にないこと』、『大変に珍しく貴重なこと』を指す言葉であり、そんな奇跡を起こしてくれた神様へ、感謝を伝える〝言挙げ〟だったのです。この思想は仏教に基づくものですが、貴女は神社の娘でありながら、神道しんとうについてはほとんど何も知らないのでしょう?」

 白い着物へ、桜の花びらが掠めていく。瑞々しい白さを見つめた和泉は、鳥居に背を向けて歩き出す。

「何故、神社には鏡をまつる所が多いのか、貴女は御存知ですか? 神道しんとうの信仰対象は八百万。木々に、石に、草花に。自然の中に神が宿っていると考える依代よりしろ崇拝です。人は自然と共生し、己の内に神を見るという思想の神道と、鏡の結び付きについては、有名なたとえ話が一つあります。『鏡』をひらがなで書いてから、真ん中の『が』の字を抜いてみて下さい。『かがみ』から『が』……『』を抜けば、残った文字は『か』と『み』、すなわち『神』となります。鏡を通して向かい合った『我』を見て、自らの心の内に『神』を見る……清らかな心で神様と向かい合っているかを確認して、そっと襟を正す為に、人は鏡を見るのでしょうか。神社の娘である貴女の今回の〝言霊〟が、『鏡』にまつわるものだった事には、因縁にも似たごうを感じますね」

 和泉は鎮守の森の手前まで歩いてくると、一本の木立こだちの根元に立てかけていた塵取りの傍で屈み込む。そうして煙草の吸殻を塵取りに乗せると、背筋を伸ばして、茂みを振り返った。

「……立ち聞きに、覗き見。そして窃盗ですか。篠田七瀬さんは貴女をストーカーのように思っていたようですが、これでは言い訳の余地などありませんね。変態のようですよ、氷花さん」

 声が森に吸い込まれた直後、がさがさと下草を踏み分ける足音が、御山の静謐な空気を騒がせた。

「……覗きは、あんたの方でしょ」

 森から現れたのは、呉野氷花だった。長い黒髪を背に流し、薄手の春物コートに白い丸襟のブラウス、藤色のスカートを合わせている。その姿に目を留めた和泉の顔が、ふ、と笑みの形に柔らかくほぐれた。

「珍しいこともあるものですね。僕は貴女の私服姿を随分久しぶりに拝見しました。こちらに喧嘩を売りに来る時は、いつも制服姿でしょう? ですが、良いのですか? 養父の方がさぞ心配されると思いますよ? 学校で教師を突き飛ばして逃走した揚句、塩と砂糖のばら撒かれた調理室で大の字になっていた、謹慎中の氷花さん?」

「……今日は、休日よ。謹慎は関係ないわ。うるさいのよ、変態兄貴」

「おや。ご機嫌が随分と斜めのようで。如何いかがなさいました?」

「如何なさいました? じゃないわよっ、エロ兄貴!」

 肩を怒らせた氷花が、声を荒げた。壊れた静けさに驚いた雀が、木々から慌ただしく飛び去っていく。

「篠田七瀬には会うなって言ったはずよ! 『見た』わね? あの『学校』での事、全部『見た』のね! 燃えた後の事まで『見た』のね! 変態! 覗き! 死ね!」

「貴女の下着姿になど、興味は露程も御座いません」

 和泉はにべもなく言い放ち、氷花の表情がびきりと固まる。

「それに、七瀬さんからもご指摘を頂戴したようですが、あの時の貴女、鳥の巣のような頭髪でしたからね。自意識過剰もここまで来ると凄絶ですね。面白いですよ、氷花さん」

 立て板に水の如く話した和泉は、ふとデリカシーの欠如に気づいたのか、「いえ、貴女に魅力がないというお話ではなく、僕の興味の問題です」と律義に付け加えて、火に油を注いでいた。顔を赤く火照らせた氷花は、それ以上罵倒の言葉が出て来ない様子でわなわなと握り拳を震わせていたが、和泉は「ところで」と仕切り直すように言って、にこりと笑った。

「氷花さん。貴女は調理室で七瀬さんと拓海君を待ち伏せする為に、何をりました? まだ学校を休んでいる七瀬さんは、自分の私物が幾つか盗まれている事に気づいていないと思います。人の物を盗るのは、犯罪ですよ?」

「知ぃらない。何のことだか」

「とぼけるのですね」

 和泉は、仕方ないとでも言うように嘆息した。

「貴女の調理室での待ち伏せ、奇妙ですよ。調理室に七瀬さんが帰ってくる事を、正確に見越していたとしか思えません。貴女、何か仕組みましたね? 六時間目の調理実習で、七瀬さん達が教室を空けている隙に。学生が所持する物で失くして困る物といえば、財布、学生証、定期券と言ったところでしょうが、一体何を盗ったのです? 気づかれるのは時間の問題ですよ?」

 氷花は切れ長の目でちらと和泉を見ただけで、何の返事も寄越さない。和泉は、再び嘆息した。

「言いたくないのであれば、構いませんよ。どうせ大したものは盗っていないでしょうからね。……ただ、こういった小さな犯罪が積もり積もって、貴女はいつか柊吾君に捕まるのでしょうね? 貴女の狸寝入り、七瀬さん以外の全員が気づいていたと思いますよ? 良かったですね、今回は見逃して頂いて。七瀬さんの安全確保で忙しかったおかげでしょうが、そうでなければ貴女、きっと袋叩きでしたよ?」

「……」

天網恢恢疎てんもうかいかいそにしてらさず、ということわざもあります。悪人を捕らえる為に、天が張り巡らした網は広大です。悪事には必ず下されるという天罰に、貴女がどう抗うのか、僕は楽しみでなりません」

「……兄さん。あんた、やっぱりむかつくわ」

 氷花が低い声で、悪態をつく。そして、「ノート。何冊か」と、つまらなそうに吐き捨てた。

「結局、無駄になったけどね。あの子達、調理室へ日誌を取りに戻ってきたみたいだから。ノートは適当に放り出したから、調理室に落ちてるはずよ。私にはどうでもいいことだわ」

「ほう。素直でよろしい」

 従順さを褒めるように和泉は笑ったが、氷花はしかめ面になった。兄からぷいと顔を背け、長い黒髪が帯のように大きくたわむ。

「別に貴方に弁解しているわけではないのよ、兄さん。勘違いしないで頂戴。私は自分のものではない罪まで、貴方になすりつけられるのが嫌なだけよ」

「盗ったのは事実でしょう。罪は罪です。認めるべきですよ」

 和泉が指摘すると、氷花は鼻を鳴らした。そんな妹の悪辣な態度を、和泉は普段通りの穏やかさで見下ろしていたが、ほんの少しだけ、顔色が曇った。

「氷花さん。貴女は僕を覗き魔扱いしていますが、人の事を言えた義理ではないのでは? 覗きの程度は、貴女の方が悪質でしょう?」

「何のことかしら。学校で形振り構わず喧嘩を売ってきた変態お兄様の御言葉なんて、私には何も分からないわ」

「それも誤解ですよ。何度言えば、分かって頂けるのですか」

 和泉は困った様子で、灰茶の髪をかき上げた。

「僕は、柊吾君と結託などしていません。貴女の元へ撫子さんを送り込んで、破滅させる気はありません。彼等が東袴塚学園にやって来たのは偶然です。貴女が妙な勘違いで被害妄想をたくましく膨らませたりしなければ、彼等は今後七瀬さんを襲うであろう怪事とは縁がないまま、人知れず学園を去ったでしょう。言うなれば、貴女が彼等を焚き付けたようなものですよ?」

「焚き付けたぁあ? ふざけないでよ、いい加減にしてよ! 死にかけたのよ、死ぬかと思ったのよ、火達磨になるかと思ったのよ! あの野蛮な女なら、三浦柊吾と結託していてもおかしくないわ!」

「ええ、今となっては本当に結託しましたよ。貴女のおかげで。中学生諸君が学校の枠を超えた友情を育むのは素晴らしい事ですね。微笑ましい限りです」

「どこが素晴らしいのよ! どこが微笑ましいのよ! ふざけないで!」

 氷花は地団太を踏んだが、和泉は飄々としたものだった。余裕の笑みを悠然と浮かべて、なぜ氷花も同じように思わないのかとでも言わんばかりに、不思議そうな顔をする。そこには少しだけ、揶揄の色が含まれていた。

「微笑ましいではないですか。貴女のおかげで、坂上拓海君も七瀬さんへの好意をきちんと自覚したようです。それに、今回貴女が引っ掻き回した七瀬さんの家庭環境の事も。この一件で、家族の絆は深まったようですね。とはいえ、母親との間に生じていた軋轢あつれきなど、最初から引っ掻き傷程度の溝でしかありませんでしたが。……もう同じ〝言霊〟は通用しませんよ、氷花さん」

「そうかしら? やってみなければ分からないと思うわよ?」

「いいえ。実践するまでもないでしょう」

 おもむろに、和泉は着物のたもとへ手を入れた。

 氷花は不信感を露わに顔を歪めたが、和泉が袂から取り出した物を見て驚いたらしい。切れ長の目が、軽く瞠られた。

「……。どういう手品? 兄さん、私をからかっているの?」

「いいえ。からかってなどおりません。これは、僕の私物です。同じ人間が『所有』していた物の『片割れ』が、こちらになります」

「……」

 和泉は、氷花に近寄った。ぱきん、と浅沓あさぐつを履いた足が、小枝を踏み割る音がした。氷花は、逃げなかった。兄の行動の意図を考えているのか、じっと疑り深い目で睨んでいる。そんな妹の真正面に立った和泉は、手中の物を差し出した。

 ――正方形の、手鏡。

 朱塗り。繊細な光沢。豪奢な毬柄が、あしらわれている。

「……親の心子知らず、とはよく言ったものでして。七瀬さんのお母様は大層教育熱心な御方ですが、その教育方針は、何も行き過ぎというものではありません。厳しさは多少目立ちますが、少なくとも僕は、それを親として、そして人としての常識を超えるものではないと感じます。ただ、少林寺の道場を訪問された際の行動は、些か常軌を逸していたと人から糾弾されても致し方ないのやもしれません。それでも僕は、子供の教育に親が責任を持とうとする姿勢自体は、尊いものだと思いますよ。それを当の子供が、どのように受け取ったとしてもです」

「……ふぅん。兄さんは、篠田さんの母親の肩を持つのね? 鬼のような、あの母親の? つまらない大人になったものね」

「肩を持つ気はありませんよ。ですが、揺れ動いた感情の変遷へんせんを辿り、心の一端を理解して受け止めること、すなわち共感することなら出来ます。そういう大人にはなったつもりですよ」

 氷花の言葉に含まれた棘を、和泉は己の言葉通りに受け止めて、剣呑な眼差しすらも受け止めてから、鏡を愛おしげに見下ろした。

「実際のところ、あの日のお母様が七瀬さんに取った態度は、憶測に過ぎませんが、八つ当たりに近いものだったと思います。成績、気品、教育、将来。子供の未来を想えば、親の悩みは尽きないでしょうね。プレッシャーだと思いますよ、一人の人間の未来を背負うという事は。気負い過ぎたのかもしれません。一人で抱え込んだのかもしれません。思えば七瀬さんもそうでしたね。対人関係の悩み事を、誰にも打ち明けずに抱えていました。彼女達は、やはり親子なのですね。ただ、考えてみて下さい。七瀬さんの個性を。氷花さん、篠田七瀬さんがどういうお嬢さんか、貴女は既に、よく知っているのでしょう?」

「ええ。ちゃらちゃらしていて短気で野蛮。死ねばいいのに」

「悪意の塊ですね。それはさておき……よくグレなかった、と。貴女は思いませんでしたか?」

「……は? 兄さん、なんて?」

「では、もう一度言いましょう。よくグレなかった、と。よく非行に走らず礼儀正しく育った、と。貴女は一度も思いませんでしたか?」

 氷花が、ぽかんと口を開けた。学校では決して人には見せないであろう顔を向けられた和泉は、くつくつと可笑しそうに笑った。

「七瀬さんは、親からこれほどまでに圧を掛けられてきたのですよ? たとえ道を踏み外したとしても、理由としては十分だと思いませんか? それでも七瀬さんは非行に走らず、規律正しい少女へ成長しました。それが何故か、分かりませんか?」

「分からないわよ。あんな野蛮でがさつな女の事なんか」

「野蛮でもがさつでもありません。繊細ですよ。人の事を思い遣れる、心優しい少女です。――善意や優しさから自分に接してくる人間の事を、人はなかなか、無下にはできないものでしょう?」

「……? 何よ、突然。……それ、誰のことを言っているの?」

「坂上拓海君ですよ」

 和泉が、さらりと言う。「はあ?」と氷花は、口をへの字に曲げた。

「ちょっと、兄さんは篠田七瀬の母親の話をしてたんじゃなかったの? どうしてここで、あの優男が出てくるのよ」

「同じ話だからですよ。七瀬さんの事が好きなのは、お母様も拓海君も同じです。ただ、好きと一口に言っても種類は様々ですが、根幹は同じです」

「回りくどいわ。一体貴方、何の話をしているのよ」

 氷花は投げやりに吐き捨てた。和泉は笑って肩を竦め、鳥居の方角に目を向けた。そこに今しがた別れたばかりの篠田七瀬の姿を幻視したかのように、端整な顔に浮かぶ慈愛の色が深くなる。

「七瀬さんは、どこかで分かっていたのだと思いますよ。お母様の厳しさは、ひとえに『愛』故だと。自分の事が大好きで、大切だという大前提の元に、成り立っている厳しさだと。そんな愛情を受け入れる事に対して、彼女には抵抗がありませんでした。それだけのパーソナリティを、彼女が既に確立していたからでしょうね。それはやはり、彼女の親御さんの教育の賜物だと僕は思います。こんなにも早く成長されてしまっては、少女が大人になるのは、きっと、あっという間のことでしょうね……」

 和泉の手が、氷花の片腕をそっと掴んで持ち上げた。

 氷花は、抵抗しなかった。不機嫌そうな顔は変わらなかったが、和泉に触れられるがままに、腕が緩やかに持ち上がる。幽鬼のような白さの手に、和泉は正方形の鏡を乗せた。

 篠田七瀬が、愛着を持って『所有』していた鏡。

 その鏡と、瓜二うりふたつの鏡を――呉野氷花の、手に乗せた。

「――あの日。七瀬さんの道場通いを辞めさせたお母様は、彼女が育んできた友情を、本当に理解しなかったのでしょうか。綱田毬さんの〝言挙げ〟は、彼女の心を全く動かさなかったのでしょうか。道場の師範との面談の中で、愛娘の勤勉な授業態度を、それでも嘘だと決めてかかったのでしょうか。……そんなことは、ないでしょう。きっと気づいたはずです。あの日ばかりは、非が自分にあるのだと。だからといって、それを素直に認めて道場を続けさせてあげるには、少しばかり目立ち過ぎてしまいました」

 青色の瞳に、憐憫にも似た情愛が灯る。温かな憂いを帯びた微笑みが、美貌に茫漠と浮かんだ。

「見栄。体裁。羞恥。そんな感情が生み出した、母子の小さなすれ違い。僕は、たったそれだけのことに過ぎないのだと思いますよ。……素直な言葉の代わりに、愛する娘へ謝罪と愛情を伝える為に、できること。それを機嫌取りと言ってしまえばそこまでですが、僕はやはり『愛』だと思いますよ」

「……それが、この鏡と何の関係があるというの」

「おや、気づいていないのですか? ……同じ家に住んでいながら、貴女はあの御方の事を、本当に何も知らないのですね。七瀬さんの覗き見ばかりしているから、身内に目が届かないのですよ」

 優しげに語る、和泉の口調が、少しだけ――厳かなものへと、質が変わった。

 氷花の表情も、僅かだが変わった。兄の台詞の意味を、ようやく悟ったかのように。

「……僕と貴女の生き方が決定づけられた、あの日。御父様おとうさまの『所有』する二つの鏡が、二人の人間へ授けられました。一つは、僕。呉野和泉の元へ。そしてもう一つは、貴女の養父の元へ。それぞれ『お守り』として授けられたのです。……ああ、今更ながら、白々しく『養父』と呼ぶのも可笑おかしな話ですね。……旧知の間柄、なのですから……」

 和泉が、氷花の目をひたと見る。

 そして、表情を硬くする妹へ、淡々と告げた。


「もう一つの鏡の行先は、藤崎克仁ふじさきかつみさん。――七瀬さんの、師範です」

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