3-30 呉野神社

「ありがとうございました」

 七瀬が頭を下げると、「こちらこそ、ご丁寧に有難う御座います」と淑やかな声が降ってきた。桜の花びらが積もる石畳に、恭しく一揖いちゆうする男の影が落ちている。頭上に広がる空色を含んだ蒼い影と、男のいたはかま浅葱あさぎ色が、境内のさやかな空気に華やかさを添えていた。七瀬は、顔を上げて向き合った。

 和装姿の異邦人――呉野和泉と、向き合った。

御玉串料おたまぐしりょうです。受け取って下さい」

 七瀬は通学鞄から熨斗袋のしぶくろを取り出すと、背の高い神職の男へ差し出した。

 表書きには、御玉串料おたまぐしりょうと書いてある。母に訊きながら、自分で書いた文字だ。

 御玉串料とは何なのか、七瀬が知ったのはつい昨日のことだ。さかきという植物の枝に紙垂しでを付けた物を玉串と呼び、祈祷や神事の際に神前へ奉納するのだが、祈願者がそのお供え物を用意できない代わりに支払うものが、御玉串料おたまぐしりょうだという。神社への謝礼金の意味合いもあるのだと、母は七瀬に教えてくれた。

 初めての作法を学ぶ中で、鏡が割れたことを打ち明けた時、母は怒ると思っていた。けれど供養したいと七瀬が話すと、声を殺して泣かれてしまった。病院で目を覚ました時から、母は涙もろくなった気がする。

 割れた鏡をテーブルに広げて、ぽつり、ぽつりと母子で話した内容は、他愛のない雑談ばかりだった。今日の夕飯の予定や、先程まで見ていたドラマの展開、近所に通う野良猫の話。七瀬の学校の事や、あの日の事も、少しだけ話した。日溜まりの匂いを蓄えたそよ風が、窓辺で観葉植物の葉に挨拶をして、次なる旅路を歩んでいくような自然さで、話題の一つとして流れていった。

 過去は、思い出に変わっていた。そんな日が、もう訪れていたから――割れた鏡と一緒にハンカチで包んでいた、葉月とお揃いの鏡も、お祓いして処分して欲しい……と。母にお願いされた時、七瀬の心に抵抗はなかったのだと思う。

 以前の七瀬なら、親友との絆の象徴を、簡単には手放せなかったかもしれない。だが、大切な物と決別する瞬間は、これからも必ず訪れる。見送る時を迎えたら、丁寧に送り出せる自分でいたい。それに、母が供養を気にするなら、言う通りにしよう……と。『鏡』から生還した七瀬は思うのだ。

御玉串料おたまぐしりょうですか。お若いのによく御存知ですね」

 呉野和泉は、青色の目を軽くみはって微笑んだ。名前の通り、泉のように澄んだ青さの瞳だった。つい見惚れた七瀬の手から、和泉は熨斗袋のしぶくろを受け取った。

「お電話を頂いた時は驚きましたよ。こんなにもお若い娘さんから、鏡のおはらいの相談を受けるとは思いませんでしたからね」

「普通の鏡だったら、そこまでしなかったと思います。でもあれは、大事にしていた物ですから。それより、いいんですか? お任せしてしまって。処分は自分でしないといけないのかなって思ってたんですけど……」

 神社で供養の儀を施しても、鏡の奉納は難しいと思っていた。持ち帰るつもりでいた七瀬にとって、和泉の申し出は意外だった。

 背後を振り返ると、藍鼠あいねずの屋根に檜皮ひわだの柱、紅白の鈴緒すずおが目に鮮やかな拝殿は、御山の木々に半ば埋もれるようにして、凛と静謐に佇んでいる。先ほど執り行われたお祓いを追想した七瀬の郷愁を察したのか、「良いのですよ」と鷹揚おうように繰り返す和泉の声は、殊更に穏やかなものだった。

「ご安心下さい。実はあの鏡は僕にとっても、ゆかりの深い物でして。貴女さえ宜しければ、僕にも別れを偲ぶ時間を頂きたいのです」

「え? 母の鏡のこと、何かご存知なんですか?」

 訊ねた七瀬へ、和泉は微笑みを見せて答えとした。こちらの投げかけた質問に、言葉で答える意思はないようだ。

 その態度を、少しずるいと思った。

「あの、呉野さん」

「はい。何でしょう」

「呉野氷花さんの兄ですよね」

 御山を形作る木々のこずえが、ざわりと一斉にさざめいた。青天へ吸い込まれる桜の花びら越しに見た男の笑みは、七瀬の指摘ひとつでは揺るがない。この展開を、最初から知っていたかのようだった。

 その不変が示した異常さを、七瀬はもう知っている。この神社へ赴く前に、人伝ひとづてに聞いて知っている。

 だとしても、臆することはないのだ。七瀬は泰然たいぜんとした態度を崩さずに、青空を映す鏡のような瞳と見つめ合った。

「三浦くんに聞いた時、信じられませんでした。ほんとに外人さんだなんて思わなかったから。どこの国の方ですか?」

「もちろん、日本ですよ」

 優雅な答えが返ってきたので、七瀬は少しむっとした。煙に巻く態度は好きではない。女子中学生からの剣呑けんのんな眼差しを受けた和泉は、少し困ったように柳眉りゅうびを下げて「ああ、すみません。からかっているわけではありませんよ」と慇懃いんぎんに返し、今度は国籍ではなく、きちんと質問に答えてくれた。

「外国人、あるいはハーフとよく言われる僕ですが、正確にはハーフではなくクオーターです。日本人の血は、四分の一だけです。て、篠田七瀬さん。残りの四分の三がどこの国に当たるのか、もし貴女が一発で当てられたら、特別に正解を明かしますよ」

「……。イギリス!」

「残念。不正解です」

「え、違うんですか? 正解だと思ったのに」

 立ち居振る舞いが英国紳士然としているので、不正解は意外だった。呆ける七瀬を見下ろして、和泉は朗らかに笑っていた。

 透明な笑みは、夏の盛りに森を流れる清水のように美しく、あまりに清らか過ぎて、不自然だ。他の誰がどう思おうと、少なくとも七瀬はそう思う。

 ――七瀬の知る少女とは、まるで繋がらないからだ。

「……似てません。呉野さんは……同級生の方の呉野さんは、あなたみたいに優しく笑いません。もっと冷たくて、嫌な笑い方をします」

「よく言われますよ。似ていないと。ただ、貴女ほどはっきり仰る方は珍しいですね。新鮮です」

 さらりと淀みなく、和泉は言う。厭味かと七瀬は疑ったが、どうやら本気のようだった。微かな驚きを瞳に灯した微笑みには、害意や悪意といった負の感情の欠如を思わせるほどに、澄み渡った善意が在った。……怖いくらいに。

「……呉野氷花さんの事、クラスメイトから聞きました。謹慎中だそうですね。今、どこにいるんですか?」

「勿論、家にいますよ」

「それは、この神社の事ですか? 違いますよね。ここにはいませんよね?」

「……ほう。貴女は、あの子の家庭の事情を御存知なのですね」

「いいえ。知りません。あと、どうして他人事みたいに言うんですか。あなた、家族なんでしょ?」

 きっぱりと否定すると、和泉が少し驚いたような顔をした。

 その顔を、七瀬は睨みつける。全てが己の予想通りになるとは思わないでほしい。この感情がたとえ読まれているのだとしても、些末なことなどどうでもいいと思うほどに、七瀬は今、和泉の言い様に腹を立てていた。

「私、呉野氷花さんの事なんて全然知りません。あの子に親がいない事と、神社を追い出されて別の所で暮らしてるって事しか知りません。それがどこかも知りません。でも、そんなことはどうでもいいんです。冷たい言い方だって分かってるけど、私にとってそれは本当に、どうでもいいことなんです」

 鏡を供養してくれた男を睨むのは、少しだけ胸が痛い。その後ろめたさを気の迷いとして振り切って、七瀬は慈悲深い神職の男を、別の人間として区別する。

 神社の者である以前に、この男は呉野だ。呉野和泉なのだ。

 氷花の数少ない肉親。家族。身内。兄。

 そして今、七瀬が戦うべき相手。

「呉野さん。鏡の事、本当にありがとうございました。ここからの話は、呉野氷花の兄として聞いて下さい。私はここに、あなたと喧嘩をしに来ました」

 ざざ……と風が強く唸り、舞い上がった桜の淡雪が、和泉のかおを隠していく。微かに見えた口元が、笑みの形に吊られた気がした。それは、七瀬の見間違いかもしれない。散りゆく桜が見せた、一瞬の幻影かもしれない。どちらにせよ、七瀬はかちんときた。笑いごとではないからだ。

「あなた、家族なんですよね。どういう複雑な事情があるのかなんて、私は何も知りません。でもだからって、私は呉野さんみたいな人が許せません。ああいう子を家族が野放しにしているのも許せません。私は三浦くんほど優しくありませんから、お兄さんの事も許せないんです。呉野さんが私に何をしたか、あなたがもし何も知らないなら、それを含めてやっぱり許せません」

「存じております。貴女の身に、何が降りかかったのか」

 和泉が、粛々と答えた。七瀬は不意を打たれたが、結局続けた。まだ黙る気はないからだ。

「こんな言い方最悪だって、自分でも思いますけど……どういう教育、してるんですか、私は今回の事を、氷花さん一人の所為にする気はありません。私から見たら、あなただって同罪です。家族がほったらかした所為でああなったなら、家族だって悪いと思う。でも、あなたに謝られても嬉しくない。あの子に謝られても、多分それは同じです。……だから、訊きたいんです。お兄さん、一体どういうつもりなんですか。呉野氷花の家族としての、あなたの言葉を聞きたいです。とにかく、滅茶苦茶むかつくんです。言い訳でも何でもいいですから、何か言って下さい」

 七瀬は長い苦情を喋り終えると、目の前に立つ美貌の男を、挑むように睨め上げた。和泉はむかつくというストレートな罵倒に驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、やがておもむろに吹き出した。

「……面白い」

「はあっ? 面白いっ? それが呉野氷花の兄としての言葉だって、受け取っていいんですか?」

「ああ、違いますよ。失礼致しました。珍しいことだからですよ」

「珍しい?」

「ええ。あの子絡みの事で、ご学友からこういった抗議を受けることが珍しいのです。標的となった少年少女で、まともな抵抗の出来る人間がいなかった事も理由の一つに当たりますが、あの柊吾君でさえ僕にこれほどの啖呵たんかは切りませんでしたからね。貴女の魂はきっと炎の色をしているのでしょうね。赤く、気高く、孤高で、眩い。大変美しいと思いますよ」

 呆気に取られた七瀬は、怒りを刹那忘れた。

 ――炎?

「え……っと。それって、情熱的ってことですか?」

 苦し紛れの相槌を聞いた和泉は、品の良い小声で笑った。また面白いなどと思われたのだろうか。釈然としない七瀬がむくれていると、和泉はまだ笑っていたが――ふ、と。美貌に浮かぶ表情が、僅かに変わった。

 どう変わったのかは、よく分からない。太陽の端を雲が横切った所為かもしれない。燦々と降り注ぐ陽光がすっと途切れ、境内の景色が暗くなる。

 やがて雲が流れ、再び日が射した時――和泉は笑って、こう言った。

「情熱的。ええ、仰る通りですね。……ところで。七瀬さん、足元にお気をつけ下さい。拾いますので、少し離れて頂けませんか」

「え?」

 足元を見下ろした七瀬は、すぐに気づいた。

 七瀬のローファーの爪先、地面と石畳の境目で――小さな赤い光が、ちらちらと燃えている。

「……」

 そろりと背後へ退いて、そこに落ちた物から、距離を取る。

 ……煙草。

 先端にはまだ、小さな火がぽっと灯ったままだった。灰の粉が土に混ざり、そこだけ点々と白い。紫煙をたなびかせる煙草へ、和泉が悠然と近づいていく。浅沓あさぐつで踏みつけて火を消しながら、「ポイ捨てもいけませんが、火の不始末とは。不届きなやからがいるものです」と嘆かわしそうに肩を竦め、吸殻をひょいと拾い上げると、こちらへ笑いかけてきた。

 今の台詞の、同意を求めるように。

「……」

 何となく、威圧された気がした。

 被害妄想かもしれない。だが、状況が怪しかった。何かが、確かに不穏だった。

 七瀬は、胡乱うろんな目つきで和泉を見る。

 猜疑さいぎの視線を受け止めた和泉は、先程までと同じく飄々ひょうひょうと笑った。

 そして、七瀬の懸念を肯定する言葉を、淡々と言ってのけたのだった。


「……火は、危ないですよ。七瀬さん」


 七瀬は、黙り続けた。和泉は、まだ笑っていた。清らかな笑みの内側に、犇々ひしひしとした凄みを感じた。

「『火』とは元来、生命力の象徴として考えられてきました。暗がりを照らし出し、燃料としての代謝を髣髴させ、燃え続ける様は生命の連続性を窺わせます。……その一方で、『火』は死の象徴でもあるのです。炎が燃え尽きた後を想像してみれば、明白でしょう。熱く燃えている間が『生』。そして燃え尽きた時に訪れる、冷たい『死』。……取扱いには、ゆめゆめご注意を」

「……。何者なんですか。あなた」

「僕はただの、呉野和泉ですよ。……怖がらせてしまって、すみません。これでも僕は、貴女が心配なだけなのですよ」

 和泉はそう言って、七瀬の警戒を残念がるように笑った。驚くほど綺麗な笑みだ。整った容貌も相まって、心からそう思う。見つめ続けていれば絆されてしまいそうなので、七瀬は覚悟を新たにかぶりを振ると、きっ、と和泉を睨んだ。

「……答えて下さい。呉野氷花の保護者として、私に掛ける言葉は何もないって受け取ればいいんですか?」

「では、二つほど」

 丁寧に述べた和泉は、七瀬の正面に立った。どことなく畏まった態度に、七瀬は毒気を抜かれてしまう。

「一つ目は、貴女への謝罪です。僕の不肖の妹が、とんだご迷惑をおかけして、大変申し訳ありません」

 灰茶色の頭が、深々と目の前に下げられた。七瀬はぎょっとしてしまい、「頭、上げて下さい!」と状況を忘れて叫んでしまった。顔を上げた和泉は「それでは、二つ目」と囁いて、どことなく悲しげな微笑を見せた。

「僕は現在、氷花さんとは同居しておりません。僕の住まいは、この御山にあります。この石畳の一本道の半ばから、左手の方に鎮守の森が見えるでしょう。あの森に分け入る小道を進んだ所に自宅がありますので、そこで父と共に静かな生活を営んでおります。先程も少しお話させて頂きましたが、神主である呉野國徳くれのくにのりが高齢の為、祭事を執り行う事が難しく、僕が代行させて頂く機会が増えて参りました。いずれは僕が、正式にここを継ぐ事になるのでしょう」

「……。どうして氷花さんが、ここであなたと住まないのか、訊いてもいいですか?」

「それを、どうしても知りたいですか?」

「……」

「……もし、数か月経っても、まだ僕の話の続きが気になるのであれば。僕もその日までに、覚悟を固めておきましょう。――夏の盛り。貴女の友人と奇しくも同じ名の、葉月の頃に。藤崎克仁ふじさきかつみ氏の自宅二階にて、貴女をお待ちします。今は、それで妥協して頂けませんか?」

「え……? ふじさき……かつみ……っ?」

「ご存知でしょう。貴女なら。……では、お別れの時間です。篠田七瀬さん」

「待って。どうしてその名前が、ここで出て来るの」

「貴女への返答は二つ、と僕は言いましたね。ですが、もう一つ。三つ目を述べましょう。僕は先程、貴女に一つ嘘をきました。それを白状させて頂きます」

「……え、嘘っ? 何を?」

「氷花さんの、現在の居場所です」

 和泉が、すっと距離を詰めてくる。七瀬は一瞬身を引きかけたが、結局その場から動けなくなった。軽く屈んだ和泉に耳打ちされた内容が、到底聞き流せるものではなかったからだ。

「七瀬さん、お引き取りを。……氷花さんが今、僕達のすぐ傍に潜んでいます」

「! なんで……!」

「七瀬さん。貴女は、危険です。狙われています」

 七瀬は辺りを見回しかけたが、和泉の手が嫋やかに動き、七瀬の左頬に触れた。警戒を制した男の顔は、不思議なほどに穏やかで、父性にも近い優しさで視界の左側を塞がれた七瀬は、息を詰める。

「篠田七瀬さん。貴女は三浦柊吾君から、知識を分けてもらいましたね? あの子に何が出来るのか、貴女は既に知っているのでしょう? ――貴女、しっかり恨まれましたよ。髪をからかったのはまずかったですね。僕も携帯電話の一件で地雷を踏み抜きましたが、貴女もなかなか、彼女を怒らせるのがお上手です。……七瀬さん、さあ早く。今日のところは、お引き取りを。坂上拓海君を、もう巻き込みたくはないのでしょう? たとえそれが、もう逃れられない運命さだめでも」

「……。最後に、もう一つ」

 今度は、七瀬から和泉へ近寄った。睨むことは、もうしない。結局睨むような顔をしているだろうが、意識して敵意を向けるには、相手の真意が不明過ぎた。だから、率直にぶつかることを七瀬は選んだ。

「呉野和泉さん。三浦くんはあなたを、一応だけど味方だと思っているみたいです。でも私は、よく分かりません。会って判断しようと思ったけど、やっぱりあなた、怪しいです。あなたは私の敵なのか、味方なのか。どっちですか。あと、呉野氷花さんの敵なのか、味方なのか。それにも答えて下さい」

「一つではありませんね。その質問」

 おっとりと指摘されてから七瀬も気づき、ぐっと呻く。和泉はそんな七瀬を微笑ましげに見下ろしてから、落ち着いた声で答えた。

「僕は貴女の敵か、味方か。実は、僕自身よく分かりません。けれど僕は、僕の妹の〝言霊〟によって人が壊れていく事を、可能な限り全て食い止めたいと思っています。同時に、氷花さんは僕の妹です。敵でもなければ味方でもない。家族です。そして、人間です。貴女と、同じ。ただ、家族である以上、周囲の方々とは多少異なる付き合い方をしている、と。少なくとも僕の方では、そう思っているつもりですよ」

 七瀬は、その言葉を吟味する。自分の耳で確かに聞いた言葉の意味を捉え、考え、受け止めて――ふっと緊張感を緩めて、肩から力を抜いた。

 一応、自分なりの手応えを掴めたからだ。

「……腑に落ちないことも多いけど、一応納得しました。三浦くんが、なんであなたみたいな人を信頼したのか」

 とん、とローファーの靴音が石畳を叩き、七瀬は和泉から距離を取る。相手を警戒しての行為ではない。ただ、帰ろうと思ったからだ。

「お兄さん。ひどい言い方だって自分でも思うけど、あなたやっぱり胡散臭いです。でも、今の言葉は一応信じます。……夏に、会いに行けばいいんですよね? 何人かで行ってもいいですか?」

「どうぞ。お待ちしていますよ、篠田七瀬さん。夏にお会いしましょう」

「はい、お兄さん。鏡の供養、ありがとうございました」

 声の形にしたお礼の言葉を、世界へ送り出した時――不思議な清涼感が身体を包み、この数日間晴れなかった悲哀や鬱屈の最後の欠片が、ころんと剥がれて消えていった。まるで、あの日の鏡のように。七瀬は深く一礼し、顔を上げて会釈をすると、くるりと踵を返して、歩き出した。

「……ようやく、笑ってくれましたね。それでこそ、貴女です」

 そんな台詞が聞こえた気がして、七瀬は背後を振り返った。

 降りしきる桜の雨と日差しにけぶる境内で、異邦の男が笑っていた。敵でも味方でもないと述べた、得体の知れない男が笑っていた。七瀬は春の陽気を胸いっぱいに吸い込んで、清々しい空気へ声を乗せた。

「――鏡のこと、だけじゃなくてっ。学校でっ、三浦くんと協力して助けてくれたの、お兄さんなんですよね!」

 和泉が、少しきょとんとする。最後にそんな顔を見られたのが嬉しくて、七瀬は八重歯を見せて、にっと笑った。

「助けてくれて、ありがとうございました!」

 言いたいことだけを一方的に告げて、ぱっと身を翻して駆け出した。

 背後は、一度も振り返らなかった。七瀬は鳥居に向かって、下界に続く石段に向かって、胸がすくような爽快感だけを抱きしめて、走った。

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