3-29 撫子
七瀬の退院一日目は、そんな風に怒涛の勢いで過ぎていった。
葉月は、拓海より先に一人で帰った。挨拶もせずに、リビング横の廊下をそそくさと抜けて帰っていった。
あれほど女子二人で騒ぎ合ったというのに、一階に下りてみれば拓海は弟の
修羅場の元凶がこれほどのほほんとしていると意地悪をしたくなったので、帰り際にキスをねだって困らせた。本当に嫌な奴だと、この時ばかりは自分でも少し思った。
自宅療養二日目になると、東袴塚学園からは拓海だけがプリントを持ってやって来たが、他にも同時刻に学校帰りの来客があった。
三浦柊吾と、雨宮撫子。あの日世話になった、袴塚西中学の二人組だ。
あの小柄で可愛らしい少女の名前を七瀬は毬からのメールで知っていたが、撫子が七瀬と連絡を取りたがっているというのは不意打ちだったので驚いていた。そして昨日、葉月との修羅場を終えた七瀬の携帯に、撫子からの着信が入った。
撫子とは、『鏡』の事件の日に会話がなかったことが嘘のように、きちんとしたやり取りを交わすことが出来た。本当に、何故あの日は口を利いてくれなかったのだろう。不思議に思ってやまないほど、撫子の話しぶりは七瀬にとって普通の少女そのものだった。
お見舞いに行っていいかと訊かれたので、恐縮した七瀬は一度断ったが、折角の厚意を無下にするのは勿体ないと思うほど、初めて話す撫子の声は綺麗だった。真夏に鳴る風鈴のような、透き通った涼やかさの声だった。結局、撫子への興味から七瀬は見舞いを了承し、少しだけ楽しみに翌日を待った。
そして翌日、驚くことになる。
見舞いに来てくれた撫子が、上り框の手前で開口一番「ごめんなさい」と告げて、深々と頭を下げてきたからだ。
「なんで謝るの?」
面食らった七瀬は、差し出しかけたスリッパを落っことした。撫子の両側では、拓海と柊吾が複雑そうな表情で、濃紺のブレザーに青と白のチェック柄のスカート姿の小さな身体を見下ろしている。
「雨宮、お前やっぱり謝んなくていいと思うぞ」と柊吾が囁いたが、顔を上げた撫子は
「……とりあえず、部屋に来てよ。話、聞かせて?」
「……篠田。俺らがあの時なんで調理室にいたかとか、全然話せてなかっただろ」
柊吾が部屋の隅っこでちんまりと座りながら、余所見をして言った。ガタイがいいので、小さく纏まっていてもかなり存在感がある。「三浦くん、そこのクッション使っていいよ」と声をかけると、「いい」とぶっきらぼうな声が返ってきた。女子の部屋は、相当に居心地が悪いらしい。
「坂上くんからも少しだけなら話を聞いてるけど、三浦くんからもっと詳しい話を聞かせてくれるの?」
「そのつもりだけど……その前に一つ、先に言っておきたいことがあるんだ」
柊吾が髪に手をやりながら、ちらと撫子に視線を投げた。
「お前ら、『学校』にいたって言ってたよな」
「うん」
七瀬は頷き、拓海を見る。拓海も七瀬を見ていたが、すぐに視線が撫子へ移った。クッションを勧めても座ろうとせず、立ったまま睫毛を伏せる色白の少女は無表情に近い顔つきだったが、少しだけしゅんとしている気がした。ハーフアップツインに結われた栗色の髪も、垂れた犬耳のように下を向いている。
もしかしたら、拓海は既に柊吾達から説明を受けているのかもしれない。撫子が何故、落ち込んでいるのか。
七瀬は柊吾を振り返り、会話の続行を促した。柊吾は気が進まないのか、短髪を掻き混ぜながら「あー」と呻いていた。
「……携帯、繋がってただろ。俺が、篠田に電話したから」
「え? ……あ、うん」
そういえば、と七瀬は思い出す。緊急事態だったので疑問を全て投げ出していたが、どうして通話ができたのだろう。首を傾げていると、「あれさ、ちょっとヤバいらしいんだ」と柊吾がぼそぼそと言ったので、七瀬はぽかんとしてしまった。
「ヤバい?」
「繋がったら、ヤバい電話」
「……は?」
わけが分からない。七瀬は眉根を寄せたが、柊吾も苦虫を噛み潰したような顔になっているので、この説明はなかなか骨が折れるものらしい。
「電話を掛けたら繋がるって言われたから、お前に掛けたけど。あの場所って『鏡』だろ? そういう異常な所に電話をするのって、何か知らないけど、ヤバいらしいんだ。だから、耐性みたいなものを持ってる人間でないと、電話はヤバいらしくてだな……」
「ちょっ、ちょっと待って。何の話をしてるのっ?」
「疑問は
「え、だから待ってってば。何言ってんのか分かんない」
「俺だって分かんねえ」
凄い返しが来た。昨日の葉月に続いて二人目だ。「篠田さん、つまり」と拓海が、説明の要約を買って出てくれた。
「あの場所って、外部と連絡を取らない方がいい場所だったらしくて。そこに無理にでも連絡を取ろうと思ったら、三浦しかそれをやっちゃ駄目だったらしいんだ」
すっきりとした説明に七瀬は頷きかけたが、「ちょっと待って!」と再び合いの手を入れた。
「何それ? 連絡取らない方がいいって何! って言うか、なんで三浦くんだけオッケーなのっ?」
「俺に訊かれても分からん。今度訊いてみる」
「とにかく、俺以外の奴が電話でお前と話すのは、まずいらしいんだ。もしかしたらヤバいかもしれないから、やめとけって言われてたんだけど……」
「……どう、まずいの?」
「……発狂、とか?」
言いにくそうに告げられて、「発狂っ?」と叫んだ七瀬はあんぐりと口を開けたが、大それた言葉にぎょっとしているのは七瀬だけで、他の三者は重い空気を漂わせた。そんな反応が返ってくるとは思わず、七瀬も雰囲気に呑まれて押し黙る。
「……じゃあ、何か問題あるの? 誰も発狂なんてしてないでしょ。なんで重い空気になるの?」
「篠田。お前、坂上と話しただろ。……電話で」
「え? ……あ」
思わず拓海を振り返ると、少し困ったような優しい微笑が返ってきた。
――電話なら、確かにした。七瀬が拓海に告白した、あの時に。
「俺ら、あの時には電話がヤバいっていうのを忘れてたんだ。だから、雨宮が坂上に携帯を渡した時に、俺も止められなかった」
「雨宮さんが?」
はっと気づいた七瀬は、撫子を見下ろす。七瀬の携帯に残されていた、着信履歴。あの番号は、撫子の携帯のものだった。
「だけど、イズミさんに後で訊いてみたら、坂上は絶対大丈夫だって分かったんだ。だから、雨宮には謝んなくてもいいって言ったんだけど」
「だめ」
首を横に振った撫子が、「ごめんなさい、篠田さん」とまた七瀬に謝ってきた。
「危ないって、知ってたのに。忘れてて、坂上くんに携帯を渡しちゃったの。ごめんなさい。あと、無事に帰って来られて、よかった」
「いいの、雨宮さん。頭を上げて」
七瀬は慌てて、立ったままの撫子へ近寄った。手を差し伸べかけたが、微熱で少しくらくらして、自分のこめかみを押さえる。そんな七瀬を見上げる撫子の目に、潤んだ憂いが浮かんだ。
「篠田さんがそんなに熱で辛いのは、私の所為もあるの」
「え?」
「携帯で、坂上くんと話をさせた所為で。坂上くんも、熱を出したかもしれないんだって。あの時、鏡が燃えてたから」
きょとんとする七瀬に、
「でも、あの場所は『鏡』だから。そこにいる篠田さんも、『鏡』のようなものだったから。鏡って、怖いことや不吉なことを、代わりに引き受けてくれるって話、聞いた事ある? だから、篠田さんが坂上くんの分まで、引き受けたのかもしれなくて……篠田さんが今、二人分の熱で苦しいのは、私の所為だと思う」
撫子は長い台詞を喋り終わると、ほうっと溜息を吐き出した。語り疲れたのかもしれない。人形のように白い頬は、ほんのりと上気して薄桃色になっていた。表情をあまり出さない子だと思っていたが、琥珀色の双眸は悲しそうに細められ、小さな手は胸の前でぎゅっと握りしめられている。
「篠田さん、帰って来られて、よかった」
重ねて撫子に言われた時、何だか胸がきゅっと締め付けられて、切ない気持ちになってしまった。撫子の言葉の意味は、実はあまりよく分からない。けれど、心遣いはひしひしと伝わってきた。それから、健気でいじらしい可愛いらしさも。
「雨宮さん、謝らないで。私、あの時坂上くんと電話できて、ほんとに良かったって思ってる。むしろ、渡してくれてありがと。熱くらい平気。顔上げて?」
七瀬が軽く屈んで撫子と目を合わせると、「でも」と申し訳なさそうに言われたので、「じゃあ、言うことを一つ聞いてくれる?」と訊いてみた。
「うん、なあに?」
「撫子ちゃんって呼んでもいい?」
「そんなことでいいの?」
「うん、私は七瀬でいいから」
「七瀬ちゃん」
「……ごめん。やっぱり、あともう一つ、言うことを聞いて」
「なあに、七瀬ちゃん」
「ぎゅーってしていい?」
「?」
目を白黒させている撫子を抱きしめていると、柊吾に白い目で見られた。「雨宮が潰れる。ほどほどにしとけ」と言われたが、柊吾にだけは言われたくない。いーっと顔を顰めていると、「まあまあ」と拓海がやんわり仲裁に入った。
「篠田さん、俺もまだそれくらいしか話を聞けてないんだ。篠田さんの熱の具合を見て、また皆で集まろうかって話してたんだけど……今、熱はどんな感じ?」
「ん……ちょっとぼーっとしてるけど、平気。眠くなったら眠いって言うから、それまでは私も話、聞きたいな」
そう七瀬が答えた時、「七瀬ちゃ、くるし」と、か細い声が胸元から聞こえてきて、背中をぺちぺち叩かれた。「ほら、離せって。潰れる」と渋い顔になる柊吾と二人で撫子を取り合っていると、しばらくは会話が進まないと判断したらしい拓海が苦笑いを浮かべて、麦茶をゆっくりと飲み始めた。
こうして、和やかな一日が終わり――自宅療養、三日目。
七瀬はこの日、ある所へ一本の電話を入れた。
そして、翌日に備えて来客は全て断り、体調を整えて、今に至る。
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