3-28 見舞い客

『鏡』の学校から帰還した後の事を、七瀬は途中までしか覚えていなかった。

 柊吾が七瀬の代わりに毬へ会いに行ってくれた事は覚えている。調理室で拓海と二度目のキスをした事も覚えている。

 ただ、信じられない事に、七瀬はその最中に気を失ったらしいのだ。

 拓海は七瀬が意識を失くしてすぐに尋常ではない熱に気づき、保健室まで七瀬を担いでいってくれたという。四十度の高熱に保健室の戸田とだも目を丸くしたそうで、七瀬は病院へ救急搬送される事になってしまった。そんな経緯があった所為で、七瀬には『鏡』の件がその後どのように収拾をつけたのか、ほとんど分からないままだった。

 目を覚ました時には病院のベッドに横たわっていて、傍らには何故か泣いている母と、狼狽える弟、そしてほっとした様子の拓海の姿があった。

 今までの事は全て夢だったのかと思いかけた瞬間だったが、夢ならここに拓海がいるわけがない。その日は拓海と何も話ができずに終わったが、翌日に退院して自宅療養に移ってからは、見舞いに来てくれた拓海から、大方の事情を聞かせてもらえた。

 しかし、真相を知るに至る道筋は、けして平坦なものではなかった。

 拓海は放課後になると、七瀬の家までわざわざ見舞いに来てくれた。

 ただし、一人ではなかった。

 連れがいたのだ。

「……葉月……」

 七瀬がパジャマの上にカーディガンを引っ掛けた格好で茫然と呼ぶと、あがかまちで小さくなっているショートボブの少女は、拓海の隣で俯いて、目を逸らした。

 そして、「七瀬ちゃんが、心配で、来たの」と、蚊の鳴くような声で言ったので――その襟首を、七瀬は鷲掴みにした。

「ひっ、えっ? えっ?」と泣きそうな声で葉月が叫び、「篠田さん、落ち着いて」と慌てて割って入ろうとする拓海をリビングの扉の向こうへ突き飛ばして弟の方へ放りながら、「葉月、来て!」と鋭く吐き捨てた七瀬は、葉月だけを二階に引っ立てた。「拓海兄ちゃん、怒ってる姉ちゃんなんか放っといて、俺とゲームしよーよ」と小学六年の航希こうきが拓海にじゃれつく声を階下に残して、七瀬は顔面蒼白の葉月を自室へ放り込み、扉を閉めた。

 床にへたり込む葉月が、「七瀬ちゃ……」と弱々しい声を吐き出して、恐れをなしたように七瀬を見上げている。『大人しい』友人相手に自分がどれだけ威圧的に接しているかは分かっていたが、ぶり返した感情の熱で、くらくらした。

 その時には、思い出していた。

 ――一年いちねんの時に、クラスが、同じ。

 分かったのだ。上り框で俯く横顔を、一目見ただけで、分かった。

 葉月が、誰を好きなのか。

「葉月」

 怒りで震える声を、七瀬は絞り出した。

「坂上くんが、好きなんでしょ」

 葉月の身体が、びくりと震えた。否定しない。当たりだった。七瀬は葉月の正面に屈み込むと、熱で潤んだ瞳と怯える瞳をかち合わせて、親友の顔を睨みつけた。

「……別に、それはいい。良くないけど、いい。でも、それじゃあ葉月、なんでうちに来たの? 私が心配だから? 違うよね。そういう顔じゃなかったよね。……私、ダシなの? 私のお見舞いをダシにして、坂上くんとここまで一緒に歩けて幸せだった? ……葉月、ねえ! どこまで私のことを馬鹿にしたら、気が済むのっ……!?」

「ば、馬鹿になんて、してないっ」

「じゃあダシにしたのは認めるわけっ?」

「……っ」

 葉月の目から、涙が零れ落ちた。「ちが……してない」と弁解して、首をふるふると横に振る。だが、七瀬の表情から怒りの色が引かないのを見て、気圧されたのか、諦めたのか、それとも開き直ったのか。否定の言葉を切れ切れに呟くのをやめて、首を振るのもやめて、葉月はすとんと俯き、やがて言った。

「……一年の時から、好きだったんだもん。誰にでも優しくて、控えめで、酷いことなんて言わなくて、他の男子と、全然、ちがくて……好きだったんだもん。七瀬ちゃんに、なんで、そんな風に、言われなきゃ」

「だって、私も好きだから。昨日、告白した。キスもした。付き合ってる」

 葉月が、黙った。顔を上げて、目を真ん丸に見開いている。

 どうやら拓海は、葉月に何も言っていないらしい。七瀬に学校での配布プリントを届けたいからとでも言って、自宅の場所を訊ねただけなのだろう。

 拓海が最低限のことしか葉月に話さなかったのは、当然と言えば当然かもしれなかった。拓海からすれば、葉月は他人なのだから。昨日までの、七瀬と拓海の関係のように。

 葉月は言葉もなく七瀬をじっと凝視してから、やがてくしゃりと、顔を歪めた。悲しみと怒りだけではなく、はっきりとした理不尽で、葉月の顔が歪んでいた。今日まで隠されてきた感情は、すぐさま火がついたような激しさで、葉月の声で破裂した。

「どうして、取っちゃうの! 七瀬ちゃん、ひどい!」

「ひどいのはどっちよ! 葉月、いい加減にして!」

 即座に七瀬は言い返した。非難や反駁はんばくに不慣れな葉月が、身体を縮こまらせて竦み上がる。階下でがたごとと物音がしたが、構っている暇はなかった。

「三年に上がった時のアレ、一体どういうつもり!? 私よりあっちの子達がいいなら、はっきり言葉でそう言いなよ! 中途半端で凄くむかつく! 葉月、あんた何がしたいの!」

「何もしたくない!」

 凄い返しが来た。七瀬が咄嗟に黙ると、「だって!」と涙声で叫んだ葉月が、ひくひくと肩を震わせた。

「私、七瀬ちゃんが好きなんだもん! 七瀬ちゃんと一緒にいたいのに、七瀬ちゃんは私が新しい友達を作ったら、どっか行っちゃったじゃない! 加藤かとうさんとか木田きださんとか、きつそうな子のところに行っちゃって、近寄れな」

「きつそうって言うなあぁぁ!」

 抑圧された怒りが爆発した。文句のせきが決壊して、七瀬は不満をぶちまけた。

「『きつそう』って目で先に見てきたのは、そっちの連れでしょ! 葉月は私の言葉に、何の返事もしてくれてない!」

「それを言うなら、七瀬ちゃんだって、私の言葉に返事をしてくれてない! なんで、なんで取っちゃうの! 知ってたんじゃないのっ? 知ってたくせになんで取っちゃうの!」

「訊いたって名前を教えなかったくせに、知ってたくせにって何!」

「だって恥ずかしかったんだもん!」

「じゃあ私に予知しろって言うのっ? できるかぁ! ちゃんと口で言いなさいよ!」

「じゃあ、言ったら協力してくれたの!?」

「絶対しない!」

「わあああん!」

 ……酷いなじり合いが始まった。これほどに盛大な口喧嘩をしたのは、小学校の調理実習以来かもしれない。

 坂上拓海は、女子が苦手だ。挙動不審はそれが理由なのだと七瀬に打ち明けて、照れ臭そうに笑っていた。

 だが、そんな拓海を取り巻く女子側の気持ちはどうだろう。七瀬が鏡で怪我をした時、拓海は歩くペースを落としてくれた。何となくモテそうな人だとは思っていたが、最初に抱いたその印象は当たっていた。おかげで友人関係のこじれに恋愛問題まで持ち込まれ、事態は完全に泥沼化していた。この面倒臭さの渦中にいるのが、自分だというのが信じられなかった。

 結局、七瀬と葉月は一時間にもわたってひたすらに相手を罵倒し続け、先に罵倒の言葉が尽きた葉月がぐずぐずと泣き、七瀬も疲労とやるせなさと悔しさで、顔が涙でぐちゃぐちゃになった。熱も上がった。何の為に来たのだと睨みつけたところで葉月がいよいよ大声で泣き始め、すっかり収拾がつかなくなってしまった。

「どうして七瀬ちゃんが、坂上君のこと、好きなの? いつ、そうなったの?」

「……。昨日」

「私の方が、長い、のに」

 葉月が、泣き腫らした目で七瀬を睨んだ。

「私の方が、絶対、知ってるのに。なんで、席が隣になっただけで、まだちょっとしか一緒じゃないはずの、七瀬ちゃんなの……なんで、取っちゃうの……なんで……!」

 葉月がそこまで言うとは思わず、七瀬は少し驚いた。

 それほどまでに、葉月が坂上拓海への好意にこだわるとは思わなかったからだ。それほどまでに、真っ直ぐな感情を七瀬にぶつけてくるとも思わなかった。

 ……今、少しだけ嬉しかった。

 変だと思う。失礼なことを、たくさん言われているのに。先程まで、殺意に近い怒りが湧いていたのに。ただ、何となく理由は分かっていた。

 ああ、と思う。こういう喧嘩が、したかったのだ。

「……私、もし葉月の気持ちを、知ってたとしても。告白したと思う。坂上くんのこと、好きだから。軽いって思われても仕方ないけど、本気だから。そういうところで誰かに気を遣いたくないし、自分がしたいように、したと思う。嫌な奴だって思うだろうけど、それが私だから。葉月……知ってるでしょ?」

「……。そう、だよね。七瀬ちゃんは、そうするよね」

「うん」

「七瀬ちゃん」

「うん」

「ごめんね」

「……うん」

 七瀬は、葉月を抱きしめた。葉月はまた声を上げて泣き始めたが、七瀬は葉月に謝らなかった。酷いことをたくさん言ったから謝るべきだと分かっていたが、今このタイミングで謝ってしまったら、それは拓海を葉月から取ったという言葉に対して、返事をしてしまう事になる気がした。

 そんな言葉には、どんな返事もしたくなかった。誰のものでもない一人の人間に好きだと言った事を、それを受け入れてもらえた事を、たとえ親友の言葉であっても汚されたくなかった。

 だから、ごめんねの代わりに、七瀬は言った。

「好き。葉月。……嫌じゃなかったら、これからも、一緒にいて」

 残酷な、台詞だったかもしれない。

 けれど、それがこの時の七瀬にできる精一杯だった。

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