3-26 告白
身体の左側から伝わる重みが、温かい。拓海の肩に寄り掛かった七瀬は、穏やかな寝顔をしていた。体温の高さは気になるが、確かな血の巡りを感じる顔色は、拓海に事件の終わりを予感させた。
七瀬は、本当に帰ってきてくれたのだ。このまま再び眠りについても、心配することはないのだろう。
しばらくじっと座っていた拓海は、やがて柊吾を振り返り、「三浦はもう行くのか?」と訊ねてみた。柊吾は少女の手を握り直して、拓海へ浅く頷いた。
「俺が行っても遅刻になるのは同じだけど、六時半まで突っ立たせるよりは早く着けると思う。ちゃんと分かるか、ちょっと心配だけどな」
「三浦は優しいな」
「優しいも何も、俺から首を突っ込んだんだ。最後まで面倒見るのは当然だ」
柊吾は渋面を作ったが、口で言うほど悪ぶっている感じはしなかった。やはり根は純朴で優しい少年なのだろう。拓海は笑ってから、視線をそろりと、調理室の隅へ転じた。
「……篠田さん、気づかなかったな」
「ああ。気づかないように隠したんだから当たり前だ。でも気づいても良さそうなもんだから、篠田が阿呆で助かった」
ちら、と今度は二人揃って視線を送る。整然と並ぶテーブルの陰に、紺色のソックスを履いた足が見えた。七瀬が倒れていた場所から、死角になる位置だった。
「三浦、引き摺るからびっくりした。容赦なかったな」
「本当は、今でも殺してやりたいくらい憎い。でも、そういうやり方じゃ最悪だって分かってるから、やらないだけだ」
柊吾がその一瞬だけ、強い怒りを目に浮かべる。その感情の露出があまりに鮮烈で、拓海は少し、気圧された。
「……職員室に、あいつの兄貴がいるんだ。その人に声だけかけてから、帰る。坂上、面倒押し付けて悪りぃけど。この惨状の説明、お前に任せた。……言い訳、全く思いつかねえ。あと、掃除を手伝う時間もなくてすまん」
柊吾が渋い表情で、塩と砂糖と鏡の破片だらけの床を見下ろしている。拓海も苦笑いで「……努力してみる」と一応請け負い、その時ふと、思い至った。
「三浦、帰る前にちょっとだけ待って」
拓海は、七瀬の肩に掛けていた学ランの胸ポケットからシャーペンを引き抜くと、「なんか紙持ってない?」と柊吾に訊いた。柊吾は不思議そうな目をしたが、何も言わずに通学鞄を開けて、ノートを一ページ破ってくれた。礼を述べて受け取った拓海は、床に置いた紙片にシャーペンをさらさらと走らせる。
「……メールアドレス?」
驚いた様子で、柊吾が言う。拓海は、紙片を差し出して笑った。
「俺もまだ携帯持ってないから、パソコンのだけど。なんか、これっきりっていうのも寂しいじゃん」
「……ん、さんきゅ。帰ったらメール送っとく」
口の端を少しだけ持ち上げた柊吾が、折り畳んだ紙片をポケットに収める。少女と握り合っていない方の拳が突き出されたので、拓海も応じて、拳をぶつけた。
「じゃあな、坂上」
柊吾が、調理室から出ていく。何故か一切の言葉を語らなくなった少女の手を引いて、振り返らずに歩いていく。
窓から射す太陽光はすっかり赤く熟していて、袴塚西中学の制服に身を包んだ二人の男女を、黄昏色に染めている。夕方の時間があと僅かで、これから夜が来ようとしているのだと、否応にも意識する。
灯りの落ちた薄暗い廊下を、外光の赤さのみを頼りに歩く男女は、美しかった。窓から桜の花吹雪が入り込み、柊吾と少女へ吹き付ける。
少女の栗色の髪に花びらが乗り、気づいた柊吾がそっと摘まんで、握り合う手を解いて差し出した。花びらを受け取る手の平へ、柊吾がさらに一枚、二枚と、花びらを追加してあげている。増えていく桜色を少女は不思議そうに眺めてから、タンポポの綿毛でも吹くように、ふ、と手の平に吐息をかけた。じゃれ合う二人を拓海は漫然と見送っていたが、「ぶ」と声が聞こえたので、何事かと注意深く見つめると、柊吾の鼻に花びらが一枚くっ付いていた。
そして、少女の「あ。見えた」という謎の言葉が聞こえ、それきり二人は仲良く手を繋ぎ、拓海の視界から消えていったのだった。
「……何だったんだろうな」
全てが、夢の中の出来事のようだった。
今朝、昇降口前で七瀬とぶつかりかけた時は、拓海と七瀬は他人同士だった。
それが、今は一緒にいる。他人の次には友達だと思い定め、その友達関係すら育まないまま、拓海と七瀬はこうなった。それが単純に不思議だったのだ。
「……」
唇を、指でそろりとなぞる。眠る七瀬の唇に目が吸い寄せられて、何となく気恥ずかしさと後ろめたさを覚えて、ぱっと顔を、逸らしかけた時。
「……もう一回、する?」
薄闇の中で、七瀬の声が聞こえた。
閉じていた瞼が、開いている。拓海と目が合うと、熱で赤みの差した顔に、す、と楽しそうな笑みが浮かんだ。
拓海は息を吸い込んで、何事かを言おうとして、何も言えずに狼狽える。そんな拓海を見上げる七瀬が、少しだけ不服そうに睨んできた。夕闇の中で、熱で潤んだ瞳が、淡い光を照り返す。
――何だか、敵わないと思ってしまった。
七瀬の表情は、やっぱり拓海が見た事のないものだったからだ。
知らない表情の一つ一つに、やっぱり惹きつけられてしまう。目で追ってしまっている。ああ、そうかと拓海は思った。こんなにも簡単なことに、どうして今まで気づけないでいたのだろう。
「……俺、篠田さんのこと、前から好きだったのかもしれない」
拓海は、言った。そして、驚く七瀬の肩に手を置いて、慣れないながらも顔を近づけて、それでも少し躊躇って――結局止まる。
「……坂上くん?」
「……その、ほんとに、俺でいいの?」
「いい加減にして」
ばちんと頬を
黙った代わりに肩の手を、そのまま背中に、おずおず回した。
七瀬は本当に、拓海でいいのだろうか。この期に及んでまだ自信がなかった。ただ、緊張しすぎて何にも考えられない。息もできない。七瀬の身体が熱くて、こちらまでぼうっと熱っぽくなってしまう。頭が、回らなくなっていく。
そんな風にして、拓海と七瀬の一日は終わったのだった。
鏡の外で、現実の中で、鏡を巡る一つの怪異が、人知れず幕を下ろしたのだった。
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